シン・アナキズム 第5章 グレーバー (その11)
「もっときちんとできる」の追求
ブルシット・ジョブが大量発生する現代資本主義の仕組みについて知るには、『官僚制のユートピア』(2013)というグレーバーのもう一冊の本を併せ読まなければならない。『ブルシット・ジョブ』と『官僚制のユートピア』は、グレーバーの著作の中では、『価値論』と『負債論』のように2冊でひとまとまりのテーマを扱っている。その意味で合わせ鏡のような2冊の本を往復しながら読み考えることで、現代社会のブルシットさがどこに起因し、そのなかで人はどのように苦しんでいるのかが、改めて浮き彫りになる。
官僚制は「鉄の檻」のような存在で、プロテスタント的ながんじがらめの規則で人を窒息させる制度としてよく知られている。官僚制といえば全体主義、たとえばジョージ・オーウェルの『1984』や『動物農場』、それにインスパイアされた映画「未来世紀ブラジル」やついでに「リベリオン」のような支配と管理の世界だ[※1]。そして誰より早くこの病理に気づいた人として、私たちにはカフカがいる。官僚制の時代には、みなが規則によって縛られ、追いつめられて身動きが取れないが、誰ひとりとしてその規則の正体も全体像も知らない。20世紀のはじめに、「労働者災害保険協会」という保険屋と役所がブレンドされた強烈に官僚制的な組織の末端で働いたカフカは、この装置に恐れおののいて、『城』や『審判』などの要約不能で規則が時空を超えて飛び出してきそうな小説を書き残した。
実は、官僚制がどんどん細かく精緻になり、規則が無際限に増えていくさまは、私たちの多くが日常的に目にしている。私は同じ大学で25年働いているが、以前は入試も授業も研究費の使途も、こんなに細かく決められてはいなかった。ところが、人間というものが生来持っている「もっときちんとできる」を追求してしまう性質から、たとえば入試当日のマニュアルは、いまでは信じがたいほどの精密さだ。そしてマニュアルにも誰向けかによって細かさに多くの段階がある。どんなマニュアルが誰用にいくつ存在するかの全体像は、それを所轄している部署の事務職員以外知らないはずだ。そして、とくに「高度な」段階のマニュアルでは、誰が、いつ、どこでどのように動くかが詳細に記された書割に沿って、1分刻みで業務が進められていく。さらに毎年、「ここはもう少しこうした方がいい」といった改善点が出され、マニュアルに新しい数行が書き加えられる。
このような、人間の完成可能性perfectionabilitéという本性[※2]からなる規則の増殖に加えて、授業については文部科学省から、半期15回分のシラバスを(ゼミを除く)あらゆる授業について提出することが義務づけられている。それも締め切りがバカ早い(shitに早い)ので、前の年度の終わりごろに考えついた新しいテーマを思い切って授業でやってみて次の著書のネタにするといった、以前やっていたようなことは不可能だ。もう歳だからそれでもいいのだが、授業に「旬」は要らないということのようで、それだけで4月からすっかりやる気が萎えてしまう。
ともかく、そうやって規則はどんどん増えていき、締切りはどんどん早まっていく。二重三重のチェックのための時間を取っておくためだ。放っておいても増えていく規則と肥大化する官僚制。だがそこに、ネオリベラリズムというまやかしの自由主義が入り込んだことで、さらに事態がどうにもならないところに行き着いたというのが、グレーバーの理解である。そう、彼にとっては、ネオリベラリズムという民営化と自由な経済のイメージを世界中に売りつけてきた制度あるいはスローガンは、実は全く真逆のもの、つまり「官僚制のユートピア」(原題のメインタイトルは「規則のユートピア」。副題に「官僚制の密かな喜び」とある)を作り出したのだった。
政府介入を減らすと官僚は増える
ではこの官僚制の増殖は、ブルシット・ジョブと何の関係があるのだろう。簡潔にいうと、現代の官僚制を維持し増殖させている仕事こそ、まさにブルシット・ジョブなのだ。官僚制がブルシットな仕事を生み出し、増殖させる。そして今度はブルシットな仕事の側が、官僚制を支え、それをさらに強固にし浸透させる。私たちはなんという恐ろしい時代に生きているのだろう。
現代は官僚制が増殖する時代だと言われても、え? このグルーバル化の中で国際競争に勝つために、民営化と規制緩和を散々やってきた時代のどこがそうなの、と思う人は多いだろう。たしかにネオリベラリズムが、これまで国家や行政官僚制が行ってきた事柄を民間に委譲し、国家や政府を小さく効率的にしてきたと信じている人がいるとしたら、めでたい話ではある。だがそういう「市場礼賛派」でなくとも、市場と官僚制を対立的に捉える人は多い。そうすると、現代は官僚制のユートピア的増殖の時代だと言われても、さっぱり理解できないはずだ。官僚制とはむしろ、福祉国家におけるように公費で国民生活を保障したり、ニューディールのような政府による需要喚起型の経済政策を行う場合に蔓延るもの、ということになるだろうから。
ここでは、「経済的な自由」対「政府による強制」、「市場主導型経済」対「政府主導型経済」といった、ネオリベラリズムが席巻した時代に現実に起きたこととは何の関係もない対立が自明視されている。こういう見方をする人にとって、官僚制とは社会主義や社会保障、国有化政策と結びつくものであって、市場とは対立するものなのだ。
ところが、実際にネオリベラリズムなるものが権勢をふるった時代、官僚制もまたかつてない増殖を見せていたのである。これがどういうことなのか、グレーバーを参照しながら説明していこう。
『官僚制のユートピア』冒頭でグレーバーは、官僚制ということばがすっかり前世紀の異物のように扱われ、研究対象としての魅力を失ってしまっていることを指摘する。だが、「もし官僚制が単なる遺物であるならば、なぜいたるところで……年々、官僚たちが増殖をつづけているように見えるのか」[※3]。この問いに答えを与えることが、この本のメインテーマとなる。
グレーバーは、この現象を例外どころかむしろ「リベラリズムの鉄則」であるとする。彼によると、「政府による経済への介入の縮減を意図する政策が、実際には、より多くの規制、官僚、警察官を生み出す結果に至るという逆説は、実に頻繁に観察できる」[※4]からだ。
このことは、アメリカの官僚制の特質によく目を凝らすなら、とくに理解しがたいことではない。アメリカでは、官僚制は私的なセクターに介入する公的セクター、たとえば産業の国有化や行政によるさまざまな事業の直接の運営として展開してきたわけではない。それはむしろ、たとえばニューディール時代において、公務員としての官僚と大企業に所属する「企業官僚」との協力関係を通じて発展してきた。だが、こうした企業の人間は官僚と見なされることはなかった。
ところが金融資本主義の展開が、アメリカで名目的に存在した、官僚と民間企業の中間管理職との線引きを無効にした。ここで起こったことは、日本では1989年の日米構造協議以降に本格化した、「規制緩和」「民営化」の時代動向において、同じような帰結を生んでいる。
「規制緩和」と「民営化」が結局何をもたらしたかについて、グレーバーの話は、金融業界と巨大金融機関によるアメリカおよび世界経済の支配という帰結に焦点化している。そのため日本に当てはめるとやや分かりにくい。そこでここでは、このプロセスが金融業以外の多くの領域を巻き込んで進展したことを示すため、日本の人材派遣業における規制緩和を例に説明してみよう。
民営化して役所の仕事が増えた
日本で人材派遣業という業態が成立したのは、1986年の「労働者派遣法」制定以降のことである。ご多聞にもれずこの業態をはじめたのはアメリカで、戦後すぐの1948年には、マンパワー社という嫌がらせみたいな名前の会社が設立されている。これに対して日本では、1986年までは労働者を派遣する側がそれを商売にすることは禁じられていた。そのため、たとえばそれ以前から存在したテンプスタッフの場合には、「業務請負」の形で派遣業を行っていた。労働者派遣法の制定で人材派遣会社は増えたが、当初派遣可能な業種は専門的な技能を用いる職業に限定されていた。それが1999年以降、あらかじめリスト化された「派遣対象とならない」もの以外のすべての業種で、労働者の派遣が可能となった。その後も派遣対象業種がさらに増えるなどの「規制緩和」がつづいた。
これによって、たとえば公共職業安定所の役割の一部を民間の人材派遣会社が担うようになったという意味で、これは民営化でもある。規制緩和による民営化の進展。このようにいうと、政府が直接関与する範囲が減り、民間企業の「自由な」領域が増えたと思われるかもしれない。だがこれは、あくまで表面だけをざっと見た場合の話だ。実際には、人材派遣会社ができれば、それを監督する役所が必要になる。派遣先との関係、また派遣労働者保護のためのさまざまな法規制が必要になり、トラブルが起きた際に対応する部署も設けなければならない。そう考えると、はたして役所の仕事は民間に「移管」されて減ったのだろうか。それとも人材派遣業をめぐる膨大な新しい法的スキームが必要となり、それに割かれる資源、また必要とされる書類や事務仕事が増えたのだろうか。この最後の問いには、ブルシット・ジョブ増大のにおいがプンプンしている。
これは、規制緩和と一口に言っても、それが官僚制的な業務を増やすのか減らすのかは簡単には分からないことの例である。グレーバーは、「規制緩和」という目くらましを用いた、自由と競争の拡大と公共部門の無駄減らしの詐欺的喧伝の背後で、実は企業の経営側が労働者との関係よりも投資家(株主)との関係を重視するという、資本主義の大転換が同時代に起きていたとする。この間、「企業経営がますます金融化」すると同時に、「個人投資家に取って代わった投資銀行やヘッジファンドなどなどによって、金融セクターも企業化していった」[※5]。こうして、政治と経済を牛耳る1%が形づくられたのだ。
この1%は、「企業界や金融世界で発展してきた官僚制的技術」を社会全域に浸透させることになった。現在しばしば目にする、「ヴィジョン、クオリティ、ステイクホルダー、リーダーシップ、エクセレンス、イノベーション、ストラテジックゴールズ、ベストプラクティスといったような、空しくキラキラした用語」[※6]は、金融界やそれと結びついた大企業から出てきて、世の中に広まったものだという。
その結果、一見市場や競争とは無関係な領域の多くが、偽ものの競争と官僚制的技術の餌食となった。この過程で、たとえば教育もまた著しく「民営化」された。1990年代以降、教育の世界に突如として企業経営の用語が入ってきたことは、大学関係者ならずともよく知っているだろう。国立大学は国立大学法人となり、そこでは学外委員が半数以上を占める「経営評議会」が大きな権限を持つ。学外委員は学長の選出にも関わり、学長選考会議のメンバーに必ず入れなければならない。企業経営のノウハウがある実務経験者を念頭に置いた学外委員が重要な役割を果たす、この新しい国立大学において、教育機関の運営とは「経営」に他ならないからだ。
ここでは新たな「教育の競争秩序」の名の下に、文部科学省が疑似的な競争を大学間に行わせるため、競争空間に見せかけた規制空間が作られた。そのなかで、競争の勝ち負けの判定を文部科学省自身が行うという、まさに疑似競争、疑似市場の自家撞着的な場を作り出し運営している。
市場の一番いいところの一つは、ルールの作り手が競争の勝ち負けを判定しないところだ。価格や品質のよしあしによる商品の売れ行きを決めるのは、一人一人の買い手なのだ。ところが大学間の疑似競争においては、ルールを設定し補助金を握った文部科学省自身が、「競争的資金」がどの大学に配られるべきかを決めている。大学側が何をさせられているかというと、役所と官僚と審査員に気に入られる競争にすぎない。
そしてこうした「経営」と疑似競争が、競争的資金への応募や大学のランクづけ、それに伴う褒賞と懲罰のシステムを通じて、大学教職員のブルシット・ジョブを増やしてきた。これについてはすでに別の場所で書いたので、このへんに留めておく[※7]。それにこのことは、いままで何度もいろいろな人が実感を伴って語ってきたことでもある。
そしてグレーバーによると、グローバル化自体が「地球規模の行政官僚システムの世界初の実質的な完成」[※8]に他ならない。これを推し進めたのは、NAFTA、EU、IMF、世界銀行、WTO、G8などであり、これらの機関はすべて巨大な官僚組織を備えている。その下に、ゴールドマン・サックス、リーマンブラザーズ、AIGのようなグローバル金融会社、S&Pのような格付会社がある。さらにその下に、いわゆる多国籍企業、つまりシェル(石油)やファイザー(製薬)などの古典的業態だけでなく、アップルやアマゾンといった巨大IT企業が連なる。それとは別に、国連のような国際組織の実質的な業務の多くを請け負う国際NGOがあり、さらにそこにそれぞれの国や地域の現地NGOがぶら下がっている。これらすべての場所で、官僚制的に編成された組織や下部組織がこぞって、莫大なブルシット事務仕事を生み出しつづけているというわけだ。
書類地獄への道を敷き詰めるもの
組織の観点からの資本主義の再編と、規制緩和と民営化による自由と競争が見せかけでありまやかしであったことについては以上だ。グレーバーはさらにこれを、過去50年ほどの科学技術の進歩のあり方という観点から考察している。
若者にはなかなか分からないかもしれないが、私が子どものころには、SFがとても流行っていた。小説だけでなくアニメや映画など、さまざまな媒体でSFに触れる機会があった。そこでの近未来は、輝かしいものもあれば陰鬱なものもあったが、たとえば原子力エネルギーで動く子どものロボットが大活躍する「鉄腕アトム」など、今後数十年の技術の進歩が飛躍的なものになるだろうという予測は、概ね共有されていた。
たとえばフィリップ・K・ディックのSFは最悪のディストピアを描いているともいえる。だが、ディックの近未来の人類は、火星に住んでいたり、空飛ぶ自動車でアンドロイドを追いかけたり、動物そっくりのロボットを愛玩用に飼っていたりする。つまり1960年代の人々は、宇宙開発と輸送技術、そしてロボット工学の目覚ましい発展を予想していたことが分かる。
ところが実際には、まだ空飛ぶ自動車は広範な実用化には至っていない。アポロの有人着陸も1972年を最後に行われなくなった。グレーバーはそれについて、技術進歩の停滞によるものというより、科学技術の向かう先に関して社会的な方針転換があったことが理由だと考えている。言い換えると、1970年代以降、宇宙開発は軍事技術へと場所を譲り、経済的有用性や未来の技術の可能性よりも、軍事的なヘゲモニーと支配という政治的目標が優先されるようになった。これとは別に、労働運動や社会運動による「治安の撹乱」を恐れた1%の支配者たちは、テクノロジーを空飛ぶ自動車のような便利なものに注ぎ込むのではなく、人々の際限のない監視へと役立てるとともに、モノでなく金が金を無限に生む新しい金儲けの場(金融資本の世界)を作ることへと振り向けた。
たしかにこの数十年で、世界で一番大きな市場となったIT技術による情報関連産業は、人々の監視と取引の電子化による金融市場の飛躍的な拡大をもたらしてきた。他方でいまや労働者は、政治化できないようにバラバラにされ監視されている。労働の非正規化とは、効率的にクビを切れるように生身の労働者から抽出した労働を細切れにして抽象化するだけではないのだ。非正規になることで、職場における労働者同士の結びつき、労働者独自の世界を解体するという、経営側にとっては直接の効率性以上に大きな意味を持つ変革を意味しているわけだ。
いまでは労働者はもはや労働者とは呼ばれない。彼らは消費者であるだけでなく、小さな投資家になるように毎日煽られている。21世紀の世界には、労働の対価として賃金を得る労働者など存在しないのだ。いるのは自己投資をつづけて自らの市場価値を高め、報酬や配当を得る「企業家=起業家」(アントレプレナー)だけである。誰だって小さいながらも投資家であり、自己をプロデュースする企業家なのだ。これは「人的資本論」が数十年にわたって吹聴してきた新しい人間像である[※9]。
疑似競争、監視のテクノロジーの進展、労働者を政治的に無力にし、小さな企業家へと変えようとするネオリベラリズムの大衆宣伝。こうしたことを通じて何が起こっているのか。その帰結こそが、書類地獄のブルシット・ジョブの蔓延なのだ。
こうした理解をもとに、グレーバーは市場主義者にとっては驚くべき結論に至る。「市場競争は、実は、資本主義の特性にとって本質的なものではなかった」。代わりに実現したのは、「競争の大多数が、疑似独占大企業の官僚制的機構内部での内部取引という形を取るように見える現代資本主義」[※10]だった。この結論は、かつてないほどの書類の山を前にする、というより正確にはそれをパソコン内に保管しているブルシット・ジョバーからすると、疑問の余地がないものに思える。
現代日本のブルシット・ジョブ被害者たち
おわりにひとつ、私自身の最近の経験を話しておこう。
2月が誕生月なので、運転免許の書き換えの「お知らせ」ハガキが家に来た。誕生日のあと1カ月猶予があるのだが、更新を忘れたら大変なので、2月の終わりに免許センターに向かうことにした。ハガキをよく読むと「令和6年2月1日から、運転免許の更新は予約制になりました」と書いてある。たまたま空いた日の朝にこれに気づいたので、それでは予約してから行こうと思ってサイトを開いたら、一週間後まで予約でいっぱいだ。一週間後には東京におらず、戻ってからでは更新がギリギリになってしまう。これは困ったと思い、X(Twitter)で調べたところ、予約制は今月はじまったばかりで周知もされていないから、当日行っても待てば更新できたと報告がされている。そこで予約なしで免許センターに行ってみた。
ピカピカの吹き抜けだらけで全体主義の中心地のような都庁の建物の中にある窓口の入口には、「予約済みの方」「免許更新以外の方」「予約なしの方」の三つの列が作られていた。そこで「予約なし」のところに並んだところ、案内をしている役所の人(高齢者再雇用ではないかと推察した)から、「予約なしなんですか」とわざとらしく驚かれた。さらに、「予約をしなかった理由はなんですか」と大声の𠮟責調で問いつめてくる。私の後ろの人も同じように尋ねられており、全員に威圧的な言動をするよう、あらかじめ命じられているのかもしれない。あるいはブルシットなマニュアル通りか。
列にはほとんど人がおらず、中も空いているようだった。ところが、予約なしの人だけは、免許更新以外の来訪者、つまり国際免許や高齢者免許更新の人たちと同じ機械(2台しかない)を使って、免許更新の際に書き込む、定型化された申込用紙をプリントアウトしないと中に入れない仕組みが作られていた。つまり、免許更新とは関係のない人たちの不慣れな受付作業の列を待って、そこが完全に空いた時にしか入れない仕組みなのだ。
その紙はあらかじめプリントして配ればすぐに記入できるもので、現に予約ありの人は中で備え付けの同じ紙に記入していた。つまりこれは、予約もしない不届き者へのただの懲罰なのだ。中に入るとほぼ列はなく、10分くらいで全ての手続きが終わり、あとは講習ビデオを見るだけとなった。いったいあの並ばせ処罰は何だったのだろう。しかもそのおじさんは絶対に通さないという態度を崩さず、私と後ろに並んだお兄さんを睨みつけてくるので、その人がトイレに行った隙に、別の気の弱そうな係員と交渉して二人とも中に入れてもらった。お兄さんのガッツポーズに笑ってしまったが。
あのおじさんの敵意と意地悪は、いったい誰に命じられた、何のためのものなのだろう。官僚制的な観点から、免許更新に来た人たちを効率的に捌くという目的があるとすれば、このおじさんのやっていたことは全くの無駄である。自分自身と非予約来訪者の間に無意味な対立を作り出し、誰の何の得にもならない嫌がらせの妨害行為を一生懸命やっている。おじさんは今日も明日も、「予約をしていない理由は何ですか」と来訪者を大声で威圧していることだろう。何のために?
これは、ネット予約システムが生み出した新しい官僚制のブルシット・ジョブだ。もっとも、似たようなことに私たちはしばしば出くわす。そしてそのせいで迷惑しているのは、𠮟責を受ける利用者だけではない。人に意地悪をすることを作業効率無視で貫徹することで、人間性を歪めている受付のおじさんもまた、幸福ではないはずだ。何よりこの人の仕事には世の中にとって意味がない、というよりむしろいない方がいいのだから。
だがこの人よりかわいそうなのは、大学でなら図書館の職員、研究費を管理する窓口の受付の人、駅の係員や薬局の店員だ。この人たちは職業柄、「杓子定規な対応しかせず利用者のことを考えない」と何もする前から思い込んだ喧嘩腰の利用者のターゲットになりやすい。大学にもとんでもなく威圧的なパワハラ教員がいて、担当の職員を震え上がらせている。図書館や研究費の窓口では、要注意人物となっている教員が各学部に数名ずついるようだ。ところが当の教員は、自分はつねに官僚制の被害者だと思っており、受付窓口の従業員はすべて敵なのだ。自分に特別な便宜を提供してくれる人以外は。自分はカフカで、やつらは城の手先の小役人だとでも思っているのだろうか。
こうして、官僚制の増殖とそこで嫌な目にあった(あるいはそうだと思い込んだ)利用者の増加は、小さな敵意と悪意と対立をそこらじゅうに生み出し、現代をディストピアにしてしまっている。それが何より絶望的なのは、どっちでもいいことで人々がいがみ合い疲弊し、重要なことは何ひとつ改善されず解決にも向かわないことだ。私だって免許センターのおじさんの意地悪に憤っている暇があったら、温暖化の深刻さをどうやったら緩和できるかについて考えた方がいいことは分かっている。この連載でも取り上げてきた、アニマル・ウェルフェアや農業の工場化について、あるいはウクライナ戦争でアメリカの弾薬供与が12月から途切れたために、いよいよウクライナの劣勢が加速していることについて、調べたり発信したりする方がよほどいい。
だが現実には、ブルジット・ジョブに囲まれて書類と交渉に追われ、何がくだらなくて何が重要かについて考える余裕もないまま、メールの添付ファイルに記入して「遅くなって申し訳ありません」と言い添えて返送する毎日を送っている。ときどき返送漏れがあって注意され、また慌ててメールをチェックする。
こういう毎日を作っているのは、くだらない規則とそれが伝達される便利なITツールのせいでもある。だがそれ自体が、もっと長期的で深いところでの資本主義の展開と変容によってもたらされたものでもあるのだ。『ブルシット・ジョブ』と『官僚制のユートピア』は、そのことに気づかせてくれる対をなす二著である。そしてそれが、いかにアナキズム的な心性、つまりは別の社会への想像力を削いで、人々から反抗する気力をすっかり失わせているかにも気づかせてくれる。
* * * * *
[※1]「未来世紀ブラジル」(1985)は、テリー・ギリアムがオーウェルの全体主義社会とカフカの書類地獄の官僚制をコミカルかつ不条理に描いた映画。「リベリオン」(2002)は、「マトリックス」と「華氏451」を混ぜたけど予算不足でぱちもんになったような映画。だが、自宅の裏庭で監督が発明したガンカタ(ガンアクションと接近格闘技を合わせたもの)はかっこいい。
[※2]ルソーが『エミール』において描いた人間特有の能力。
[※3]デヴィッド・グレーバー、酒井隆史訳『官僚制のユートピア――テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』以文社、2017、p.10.
[※4]同書、p.12.
[※5]同書、p.27.
[※6]同書、p.29.
[※7]この点については、重田園江「大学改革における統治性――官僚制と市場のレトリックをめぐって」(『隔たりと政治――統治と連帯の思想』青土社、2018、第4章)を参照。この論考の元になったシンポジウムでの報告は2016年のもので、そのとき私はまだ『官僚制のユートピア』の存在を知らなかった。しかし目下自分の周囲で起こっている大学改革をめぐる奇妙な事態が、官僚制によって作られる疑似市場空間であると考えざるを得なかった。
[※8]同書、p.41.
[※9]人的資本論については、重田園江『ホモ・エコノミクス――「利己的人間」の思想史』(ちくま新書、2022)第III部で取り上げた。
[※10]『官僚制のユートピア』p.204.