連載 シン・アナキズム 第5章 グレーバー (その1)
本を書いていた
みなさまおひさしぶりです。たいがいにせい、というくらい間が空いてしまった。「連載どうなるんですか」「グレーバー篇が楽しみです」などと、半年くらい前まではときどき言われていたが、最近はそれすらなくなって読者も忘れているらしい。まことに月日は百代の過客ってとこですな。
さっき確認したところ、前回「第4章 ポランニーとグレーバー(その7)」が2022年5月公開だから、これを書いている2023年3月からすると、10カ月も前だ。何をしていたかというと、実はウクライナ戦争がはじまって気が気じゃなくなり、どうしても書きたいことができてしまった。映画と動画とネット記事を漁り回って、昨年11月にやっとこの戦争に関する本は出た。他社だけど宣伝すると『真理の語り手――アーレントとウクライナ戦争』(白水社)というタイトルの本だ。今まで書いた中で一番文学的で、カッコよく書いてある。
で、書き終わったら体に全く力が入らず、数カ月茫然自失状態になってしまった。山王戦後の湘北高校みたいな感じで、とてもグレーバーに取り組める気力も体力もなく、気がついたら翌年の3月だ。担当の名前も忘れるくらい連載時のことを忘却してしまい、思い出すのにかなり時間がかかった(ちなみに「NHK」でメールに検索をかけてやっと担当を思い出す始末。白水社の担当とどちらも「ゾノ」が付く上に、私の名前も「園」が付くのでとても混乱した)。連載の方はやりたきゃ勝手にまたはじめると思われているのか、あっちからも数カ月何も言ってこない。病気になったんじゃなかろうか出前館倉園。
グレーバーを正面から論じよう
なぜ第4章のタイトルを「ポランニーとグレーバー」にしたのだろう。そう思って連載をさかのぼってみたところ、グレーバーの『負債論』[※1] を読んでポランニーとのつながりを意識したようだ。だがこれについては両者を思想的に比較検討してみないことにはなんとも言えないので、「経済人類学入門」を兼ねて二人を並列して論じようとしたらしい。
どちらの思想家も深く入り込むと大変そうだから、さらっと比較して一章分にしようという魂胆も見え隠れする。だいたい、似ている感じがする二人の比較というテーマ設定にセンスがない。ところが先にポランニーに取りかかったところ、思いのほか長くなってしまった。そしてグレーバーとの比較なんかそっちのけで、ポランニーの機能的社会主義論が、いかにアナキスト的な未来構想になっているかを力説している。中途半端な比較より真っ向勝負のとてもいいポランニー論になったので、ぜひ読んでほしい。
というわけで、初発の腰が引けた構想からずいぶん経ったこともあり、これはもう、ポランニーとは独立に堂々とグレーバー論にした方がいいに決まっている。そこで、章を改めて第5章とし、グレーバーとアナキズムについて論じていくことにしよう。
本論冒頭でグレーバーの生涯をふり返ることにするが、その前に「世界がどういう意味でいま相当やばいことになっているのか」を押さえておきたい。それによって、この待ったなしの末法的時代状況から脱するために、グレーバーの人類学的想像力がなぜ必要なのかをはっきりさせておこう。
なぜこんなに残酷なことが放置されているのか
いきなり話が飛ぶようだが、最近「アニマルウェルフェア」に興味を持っている。日本では、「動物愛護」ということばは昔から知られている。動物愛護は、家庭のペットや動物園・水族館の生き物、また実験動物など、主に愛玩や観賞用、あるいは実験用に飼育する動物の扱いに注目してきた。犬猫の殺処分に対する批判、保護犬・保護猫の引き取りや里親探しボランティア、また野良猫の避妊手術の推進を含む地域猫活動などが、すぐに思い浮かぶだろう。
ではアニマルウェルフェアはというと、歴史的には家畜産業の工場化に反発して出てきた。つまり、あまりにも動物の生を軽視した「命の商品化」への批判から出発した思想・運動だ[※2] 。このテーマがとても重要なのは、連載の第2章「ヴァンダナ ・シヴァ」篇でも取り上げたように、人の営みが地球環境や人間以外の動植物・自然にどのように関わるかという、エコシステムと「社会的生」の全体を含む問題だからだ。
シヴァのところを読み直してもらえると思い出すはずだが、彼女は、森、木、水、農業、タネそして牛について、それらを人間と環境との間の大きな循環システムの一部として捉えていた。そしてそれらの一部分だけを切り取って、「効率性」や「最大利潤」の観点だけから事業を推進する量産型の農業システムが、いかに生の全体性を破壊し、自然と人々の生活に回復不可能なダメージを与えてきたかを鋭く指摘した。
アニマルウェルフェアは、まさにこのことに関係している。私たちが食べている牛・豚・鶏の肉、そして鶏卵の生産において、どんなことが起きているのか。これについては言い出すときりがないのだが、養鶏場について少しだけ触れておこう。アニマルウェルフェアは、今年3月で卒業するゼミ生が卒論テーマにしており、それがきっかけで私も新聞の連載記事で取り上げた[※3] 。これにはけっこう反響があって、チャボや名古屋コーチンを庭で計10羽飼っている大分県の女性や、日本消費者連盟の方から手紙がきた。さらに、採卵養鶏会社で働いていた読者からもメールをもらった。このメールのなかに書かれていたことが予想以上に衝撃的だったので、それも交えて紹介する。
鶏卵採取が目的の鶏の多くは、「バタリーケージ」という金網の中で飼われる。これに対して、地面に降りることができる状態で飼われるのが「平飼い」だ。平飼い卵は高価(ケージ飼いの2倍から3倍の値段)で、日本ではこの問題への関心が薄いせいか、スーパーでも半数程度の店舗にしか売られていない[※4] 。
バタリーケージというのはとても恐ろしい場所だ。フンの始末のしやすさのため床も金網になっており、鶏にとっては足元がおぼつかず、ストレスが大きい。また、産んだ卵が転がっていくように床が少し斜めになっている(養鶏場の風景を撮った写真を見ると、鶏が餌台に向かって前のめりにせり出しているのが分かる)。少し斜めになったはしごの上で不安定な態勢でギューギュー詰めにされて、一生餌食って卵産んでろって言われたらどうだろう。こうした鶏の年間の産卵数は約300個だそうだ。農林水産省のHPに書いてある。とくに閉鎖型鶏舎で太陽を浴びずに一生を終える鶏たちは羽毛も抜け落ちてしまい、土の上を歩かないので爪も伸びきってしまう。猫が爪研ぎできなかったらどうなるか想像するといい。
また、生産性を上げる育種などの工夫によって多くの卵を産むようになっているため、骨粗しょう症や卵巣癌にかかる鶏が多い。卵の産みすぎで卵管も急速に太くなっていく。そのため病気で苦しんだり死んでしまう個体が大量発生する。だが、個別の治療は行われず、また安楽死もさせてもらえないケースが多いようだ。そして、鳥インフルエンザが流行すると、何万羽単位で一斉に殺処分だ[※5] 。
なんでこんな残酷なことができるんだろうと思う。でもそれは、工場型畜産がその「論理」を追求した結果起こったことで、少しも驚くべきではない。鶏卵も牛豚鶏肉も、工業社会の理屈では商品の一つである。それは自動車やパソコンなどの工業製品と同じで、できるだけ効率的な生産方式によって、安価で安定的に供給されることが望ましいのだ。鶏の生のサイクルや健康、個々の寿命などに左右されることなく、生産側の都合に合わせて命を管理し、不要となれば殺してしまうのが最も「生産性」が高い。
労働環境も劣悪
ここで忘れてならないのは、これが「鶏がかわいそう」だけでは済まない問題を含んでいることだ。こういった鶏舎で働いている人たちの労働環境を想像してみてほしい。背を伸ばせない金網に詰め込まれて首を餌台に突き出した無数の鶏たち。病気になり、死んでいくのを放置され、長く苦しむ鶏の姿。死んだ鶏(また、場合によっては死にそうだがまだ生きている鶏)が折り重ねられて処分されるのを目にすること。
閉鎖型鶏舎の空気はとても悪く、粉塵で息がつまり、喉を痛める。こうした職場で、死んだ鶏をケージから出そうとすると、伸び切った爪が網に絡まって取るのに苦労するらしい。こんな状態の鶏たちを万羽単位で世話する毎日を過ごすのが、労働環境としてよいとはとても言えないだろう。
このことを考えていると、新型コロナウイルスが流行したときの、アメリカの食肉工場の労働者を思い出す。サウスダコタ州にある、豚肉生産大手スミスフィールドの加工施設で、2020年4月に数百人の従業員が新型コロナに集団感染した。他にも、全米の食肉加工場で新型コロナが広がり死者も出て、工場閉鎖が相次ぐことになった。そうしたなか、食肉サプライチェーンの破綻に危機感を持ったトランプ大統領は、古い工場令を持ち出して操業継続を命じた。大規模食肉工場では工場内の人員配置上、従業員が接近して働かざるをえないため、集団感染が起きやすい。こうした食肉加工業は、低賃金で働く移民を集めることで成り立っている[※6] 。工場自体が閉鎖となれば彼らにも補償が与えられるが、操業しているのに出勤しなければ、怠業となり賃金は得られない。
ホワイトカラーや富裕層はリモートワークや休業しているのに、彼らの食べ物を作る人たちは集団感染の危険を冒してでも、大統領命令により働かなければならない。人が「食べる」ことに関わるエッセンシャルワーカーの労働環境について、彼らがいなければ食べ物にありつけない私たちは、あまりに無関心だ。そしてまた、食肉に加工される牛や豚や鶏がどんな育ち方をしたのか、一年で300個の卵を産む鶏たちの苦しみはいかばかりかにも関心がない。工場畜産の成果であるパック詰の肉や卵を買うだけの都市住民には、想像力を持つきっかけすらないのだ。でも、食べているものが命だということは誰にでもわかるし、卵がなぜずっと安価なのかに疑問を持たないのはおかしい。
工場畜産は、自分たちが日々生きるために不可欠な食べ物を与えてくれる家畜たちの非人道的な扱いと、そこで働く人々の劣悪な労働環境という二つの問題、自然環境と人間労働という二大課題が緊密に結びついていることを示している。私たちが現在のような環境でいまの食生活をつづけることに疑問を抱かなければ、苦しみばかりで儚く残酷な鶏の一生も、工場型鶏卵養鶏場で働く人たちの労働環境も、なに一つ変わらないだろう。
こうした問題は、畜産の現場でそれぞれ固有の残酷さと苦しみを生みつづけている。そしてそれらは単に、食べなければ生きられない生物としての人間に不可避の「業」として片づけられるべきではない。食べ方、殺し方、命の尊重のしかたは無数にあり、工場型畜産や工場型養殖(これは魚の場合)の手法はそのなかで最悪のものだ。なぜならそれは、命が命であることをできるかぎり無視して、無生物商品と同じように最小費用で最大利潤を得ようとするからだ。そのことが、命を殺す現場に立ち合う人たちの労働条件にも影響を及ぼす。人は憐憫pitiéを失っては生きていけないが、生き物への憐憫とは両立しがたい作業は、都市から遠く離れた養鶏場や外国の養豚工場に押しつけられている。
ジャンル分けできないすごい本
近代において、人間がその生を維持し人口を膨張させる上で、生命の商品化を徹底して利用してきたことは間違いない。農村は都市に食物を供給する手段とされ、こうした目的-手段関係は都市と近郊農村だけでなく国全体に及び、さらにはグローバル資本主義なるものを通じて世界規模に拡大している。私たちはタイのCP社産の鶏肉、スミスフィールド社のメキシコ工場産の豚肉を食べる。穀物・飼料から食肉に至るアグリビジネスは世界をまたぐ巨大産業となっているのだ。
こういった産業のあり方は、動物たちとそこに直接関わる労働者にとって問題があるだけではない。地球環境と生命の危機的状況全体に関わってもいる。実はこのことは19世紀にすでに、当時の工業都市の荒廃や自然資源の濫用への危機感として表明されていた。鋭く賢明な人たちはどの時代にも存在し、ことが起こるとすぐにその深刻さに気づいてそれを訴える。だが彼らはたいてい時代の大勢に無視され、奇人扱いされたりスルーされつづける。恐ろしいほどの未来予測能力をもった彼らの思想は、いまこそふり返ってその声に耳を傾けるべきものばかりだ。
こうした「炭鉱のカナリア」のような思想家たちの声を集めた本が、最近日本で出版された。桑田学『人新世の経済思想史-生・自然・環境をめぐるポリティカルエコノミー』(青土社、2022)だ。これはもう、とてもすごい研究書で、褒めことばが出てこずボキャ貧に陥るほどだ。本当にいい本というのは書店でどのジャンルに置くべきか分からない本だと、少し前に「折々のことば」に書いてあった。この本はまさにそういう類のもので、桑田さんの研究自体ジャンル分けが難しく、これほど重要な研究なのに知名度がそれに見合わないのが歯がゆい [※7]。
とにかくこの本を読むと、ここまで述べてきた気の毒な鶏ちゃんたちの話が、より大きな近代の過ちのプロセスの一部であることが分かってくる。細部がすごいので短い紙幅での紹介には向いていないから、興味を持った人はぜひ同書を読んでみてほしい。事態の推移への驚きと現状への憤慨と視界が広がることの連続で、読み終わるころにはヘトヘト、長距離走の後のような充実感がある。
自然の有限性に気づいた思想家ゲデス
この本で主に取り上げられるのは、ラスキン(1819―1900)、ゲデス(1854―1932)、ソディ(1877―1956)という、19世紀後半から20世紀前半の三世代にわたるイギリスの科学者・思想家・運動家である。ラスキンは最も知られており、これまでいくつか紹介もあるのでここでは取り上げないことにする [※8]。そのかわり、ゲデスとソディというあまり聞いたことがない人たちの考えの一端を紹介しておく。まずゲデスについて。パトリック・ゲデスは生態学者、都市学者、地理学者、動植物学者で、重要な社会運動にも関わった人だ。桑田さんの本がジャンルに入らないのと同様、ゲデスは学者としても運動家としてもジャンル分けが困難な生涯を過ごした。
そもそも時代の課題というのは、既存の学問や社会領域の分類に沿って起こることはありえない。既存の学問分類を揺るがすような現実こそが、困難の正体だからだ。そのため時代に先駆けてその問題点を指し示す人たちは、いつも苦労する。必然的につねにジャンルをまたぐので、何をやっている人かよく分からないし、学者として職を得るのは難しい。社会変革のための運動だって、一から自分で組織しなければならない。
ゲデスはイギリスの社会運動やインド・エルサレム・パレスチナでの都市計画に携わったが、研究者としては「経済学批判」の観点から捉えるのが分かりやすい。当時主流だった経済学は、人間の生にも自然の生態にも全く寄り添っていなかった(いまもメジャーな経済学はそう)[※9] 。経済学は机上の空論によって当時の破壊的経済活動を科学の名の下に擁護し、産業化は人々の生活や自然、そして生き物の命を蝕みつづけていた。それを変えること、言い換えれば経済=エコノミーということばの理解を変えることをつうじて、生態系全体の循環とバランスを見据えた新たな経済学を打ち立てること。これがゲデスのやろうとしたことだった。
下手な要約より桑田さんの文章を引用した方がよほど説得的なので、多少長くなるが引用する。
子どものころ社会の授業で、「地球人口が増えているのは人類の文明が進歩し、多くの人が安全に生きていけるだけの豊かさを得られるようになったからだ」と教えられた。だが、増えた人口は、大規模工場や工場式農場、あるいは自然資源の採掘のために雇われる労働力=金持ちの道具にすぎないとしたらどうだろう。あるいは世界の工場化が、そういった職すらも得られず、スラムの地下経済で再生産限界以下の労働をする人たちを増やしてきたとしたらどうだろう。いまの地球人口全体を、たとえば日本人の平均的栄養水準で養うことはできない。実際、2022年に発表された食料不足人口は世界の約3割の23億人、飢餓人口は約8億人とされる [※11]。
これは、昨年亡くなった都市社会学者マイク・デイヴィスが『スラムの惑星』で書いていたこととつながっている。都市化は必ずといっていいほどスラム化を伴い、スラム人口は増加の一途をたどっている[※12] 。21世紀の諸問題を独特の感覚で嗅ぎ当てたデイヴィスは、畜産の現場を鳥インフルエンザの恐怖を題材に描き出す『感染爆発』も書いている[※13] 。自然の有限性を無視して、あるいはその問題は「科学」で解決できるとする根拠のない楽観論に寄りかかって、膨張に次ぐ膨張を重ねてきた「文明」世界は、いよいよ速度を増して破局に向かっている。
そして、エネルギーが枯渇し(ゲデスの時代には石炭の枯渇が問題となっていた)、農地や畜産の場がもはやなくなるほどに地球が人と農地でいっぱいになってしまったら、次はどうなるのだろう。あるいは、燃料や肥料が枯渇してしまったら。そのとき、人間たちはそれ以上生き延びることができない。土地という豊かさの源と地球上の多くの生物たちを道連れに、人類は破局に向かうしかなくなるだろう。だがそれは、「誤った功利主義」に取り憑かれた科学者たちからすると、自分たちの時代に起こることではない。どうやら彼らにとっては、「わが後に洪水よ来たれ」[※14] ということのようだ。
こうした言い方には既視感を覚える。2006年にアル・ゴアが、映画「不都合な真実」で地球温暖化について衝撃的な告発を行い、世界中で多くの人がこの問題について知るようになった。だがそのあとも、「地球はむしろ寒冷化している」「温暖化の証拠はない」と言いつづける自称科学者・専門家が多数いる[※15] 。温暖化対策の国際パネルを見ていても、なかなか合意が得られず、ここにいる政治家たちは、どうせ自分たちの死んだ後のことなど知ったこっちゃないんだろうな、と思わされる。「わが後に洪水よ来たれ」とはよく言ったものだ。
科学を脅威ととらえた科学者ソディ
現在まで加速しつづける危機を警告したもう一人の科学者は、ソディだ。フレデリック・ソディはもともと当時最先端分野であった放射能の研究者で、「アイソトープ」概念の確立によって1921年にノーベル化学賞を受賞した。当時は、原子力エネルギーが持つ力に科学技術の無限大の可能性を見出した科学者も多かったはずだ。しかし、まさにその中心にいて世界に先駆ける発見を行ったソディは、このエネルギーの巨大さに恐怖するだけのまともな感性を持ち合わせた稀有な科学者だった。核エネルギーは、とても人間の手に負える代物ではないことを、ソディは徐々に理解するようになった。
もっとも彼自身も、当初は原子エネルギーを人間が利用することに大きな可能性と期待を持っていた。だが時代は20世紀初頭、ヨーロッパは世界を巻き込む戦争へと突き進んでいた。第一次大戦において、武器弾薬に最先端の科学技術が用いられ、それが未曾有の規模での人殺しを可能にする現実を見せられ、ソディは科学技術への楽観的な信頼をだんだんと捨てたようである。そうならない科学者が多かったことの方が不思議なのだが、このあと科学者たちは原子爆弾の開発にまで手を染めることになる。大多数の科学者とは対照的に、ソディは第二次大戦時には誰の目にも明らかになる科学そのものがもたらす脅威に、第一次大戦ですでに気づいていた。
こう書くと、他の科学者はどうなんだと思う。彼らの多くは自分がやっていることは文明と技術の進歩に手を貸すことに過ぎないと、無邪気にも信じていたのだろう。もちろん、その帰結が恐ろしい殺人爆弾や戦闘機や戦車、また技術の粋を集めた毒ガス兵器、さらには核兵器に結びつくことは分かっていたはずだ。それでも自分がやっていることの「全体性」に想像を巡らす科学者は少ない。想像力を欠き、見て見ぬふりでいられるような専門分化と目的合理的な知のあり方(手近な目的にとっての手段の部分だけに注目する知)を、理系学問は巧妙に作り上げてきた。いまも先端技術に携わる研究者の多くが、それが社会にもたらす負の影響には、驚くほど無頓着だ。
ソディの文章を、桑田さんの本から引用する。
ゲデスは植物学、地理学、生態学、都市学、社会学の知見をもとに、ソディはエネルギーと最先端科学の知識に基づいて、いずれも世紀転換期から20世紀前半の世界が、加速度的に破局に向かっていることに気づいていた。そして二人とも、それが人間社会の荒廃や衰退に止まらず、地球環境や動植物、自然界を巻き込んだ後戻りできない汚染と破壊を伴うことを警告していた。
アナキズム的なコミュニティ構想の先駆
したがってこの二人は、現在の環境問題の根がどこにあるかをかなり早い時期に理解し、いますぐ破壊を止めなければ手遅れになるという危機意識を持った人たちということになる。そうだとして、じゃあこの人たちはグレーバーとなんの関係があるのだろう。
それが大いにあるように思えるから、わざわざこんなお先真っ暗だが真実を突いた思想家たちを取り上げたのだ。実は彼らは二人とも、地球資源を無駄にし、人間がコントロールできないエネルギーの解放によって汚染と破壊を広げる経済システムと、それを支える国家に抗して、アナキズム的な自治とコミュニティ形成を対置しているのだ。
ゲデスは、地球の生態系が複雑な共生の様式を有していることを強調している。彼は植物や菌、藻類などへの注目を通じて、一方的な寄生とは異なる「共生」の世界を見出していく。ここから人間世界へと視点を移し、人間が生きるマクロレベルの世界にも、都市圏や河川の流域圏といった、政治的事情で人工的に引かれた国境とは異なる、生活に根ざした圏域があることを発見する。こうした独特の社会認識は、そこに生きる人間たちが生の営みの中で生み出すアソシエーション(自発的結社)の擁護と結びついていた。そのため彼は、当時の協同組合運動に期待を寄せていた。
他方のソディは、時代への強い危機感から物理化学の最先端研究をきっぱりとやめてしまった。そして、地球環境と生物と人間を救うための新たな経済学を構想するようになる。しかもそれを、貨幣論の構築を通じて行おうとしたのだ。ソディは貨幣を交換手段ではなく信用創造の側面に注目して捉える。それは言い換えると、負債から貨幣を見るということになる。ここでグレーバーの問題意識と直接的につながってくる。
ソディは当時の産業資本主義と戦争国家を批判するために、独自の経済学を打ち立てようとした。そこで注目したのが、信用-負債としての貨幣だったのである。負債と信用は、もともと物質的なものとのつながりを断つことが困難な富を、完全に抽象化することができるようにするための道具だった。富が具体的なモノからどんどん離れていくことによって、負債と信用の世界、つまり貨幣と金融の世界はいくらでも膨張することができる。信用が原理的には無際限に拡大可能であるならば、負債もまた際限なく肥大化していく。
こうして生まれてくるのが、「他者の労働を徴用し続けることのできる少数のグローバルなレント〔土地代あるいは金利〕階級と、富の生産と再生産のために土地や労働に縛りつけられた多くのグローバルな債務者である」[※17] 。これはまさに、グレーバーがいう1%の富者と99%の貧困者という現実そのものだ。さらにソディは言う。「こうした道徳的な〔債務者は返済のために労働すべしという道徳的義務を負うという意味〕「富」の観念にもとづく科学(経済学)において、つねに問題とされるのは、「債権者」ではなく「債務者(貧者)のモラル」なのである」 [※18]。
外部の視点から見える破壊性
ここまでくると、もうこれはグレーバーにそっくりである。なぜ借りたものを返せと言われるのか。債務者はいつも、全てを投げ打って返済を強いられるが、負債の背後に不正義はないのか。債権者にモラルは不要なのか。ソディは当時の経済学が疑問視することのなかった貨幣と金融のあり方を、もっと共同的なものに変革することを考えていた。それを果たすために、協同組合的、あるいは当時のイギリスでいうならギルド社会主義のような社会組織と共同性のあり方に、希望を見出していた。
ゲデスやソディに見られる協同組合的な発想が、いかにアナキズムに親和的かは、この連載、とくにポランニーについて論じてきた内容から明らかだろう。人類学という全く別の出発点から思考を開始したグレーバーは、オルタナティヴな社会構想としてはゲデスやソディと非常に近いところにいる。また、その資本主義批判の着眼点も実はよく似た面がある。
なぜそうなったかというと、人類学というのが、そもそも近代文明や近代経済学とは異なる文明・文化圏における「秩序」を主題としてきたことが関係している。人類学者であるグレーバー、生態学者であるゲデス、化学者から異端の経済学者に転じたソディは三人とも、欧米が作り出した近代の外部にある別の何かに依拠して、現在私たちが置かれている社会状況の奇妙さと危険、破壊性を理解しようとした。そして彼らはいずれも、協同組合的な実践、あるいはアナキズム的な共同と組織化に、未来の可能性を見出していたのだ。
(次回「グレーバー」(その2)に続く)
* * * * *
※1 デヴィッド・グレーバー、酒井隆史監訳、高祖岩三郎・佐々木夏子訳『負債論――貨幣と暴力の5000年』以文社、2016.
※2 アニマルフェルウェアの概要と歴史、そして文化的背景も含めた日本の課題を概観した著書として、佐藤衆介『アニマルウェルフェア――動物の幸せについての科学と倫理』東京大学出版会、2005を参照。
※3 重田「アニマルウェルフェア 動物の命の商品化、直視すべきだ」朝日新聞、2023年2月16日https://www.asahi.com/articles/ASR2H5H0ZR28USPT00D.html
※4 2019年アニマルライツセンター調査。https://animalwelfare.asia/lying-hen/supermarket-animal-welfare-2019/
※5 「まつもとたまご」というケージと平飼い併用のたまご会社のHPに、鶏の一生について書かれている。鶏の寿命は10年と言われているが、年をとると卵の味が落ちる。そうなると殺されて加工される(廃鶏)。生まれて数ヶ月から卵を産みはじめた鶏は、5カ月くらいすると卵の品質が落ちる。そこで2週間ほど絶食させて羽を強制的に生えかわらせる(強制換毛)と、またおいしい卵を産むようになる。3カ月ほどすると再び味が落ち、今度は廃鶏になる。この養鶏場では焼鳥屋に卸しているそうだ。産めなくなっても天寿を全うさせるには、卵の価格が一個100~200円(おそらくケージ飼いの場合)になるので無理らしい。https://matsumototamago.com/egg-stories/1239/
ちなみに採卵用の鶏のオスは、孵卵場で生まれてすぐ殺処分される。ふわふわの羽毛の生まれたての雛鳥が、集められてシュレッダーにかけられたり、生きたままコンテナに放り込まれて圧死させられる。ヨーロッパとアメリカでは生まれる前に性別判定して卵として出荷する方策が推進されているが、日本では窒息死や圧死など費用を節約する残酷な方法での殺処分が多いとされる。「オスは処分――卵の犠牲」アニマルライツセンターHP、2022年7 月6日https://www.hopeforanimals.org/eggs/427/
※6 「肉が手に入らなくなる?従業員の新型コロナ感染で、アメリカでは食肉加工施設の閉鎖が相次いでいる」Business Insider, 2020年4月17日https://www.businessinsider.jp/post-211156 米国の感染者数、100万人を突破 トランプ氏は食肉工場に継続命令」BBC NEWS JAPAN, 2020年4月29日https://www.bbc.com/japanese/52466795
※7 桑田さんの問題関心は、重田園江・桑田学「エコノミーとエコロジーの思想史――経済学が不可視化したものを掘りおこす」『現代思想』第50巻2号(2022年2月号)p.155―173で簡潔に説明されている。
※8 たとえば、伊藤邦武『経済学の哲学――19世紀経済思想とラスキン』中公新書、2011.
※9 19世紀経済学の数学を取り入れた精緻化と、現実と遊離した理論化のプロセスについては、重田『ホモ・エコノミクス――「利己的人間」の思想史』ちくま新書、2022を参照。
※10 「 」内は、Patrick Geddes, ‘On the Conditions of Progress of the Capitalist and of the Labourer’ in The Claims of Labour, Edinburgh, 1886, p.74—111, Co-operation versus Socialism, The Cooperation Wholesale Socialist Ltd. Annual of 1888, Manchester, 1888, p.285―308.
※11 「記録的飢餓が拡大:世界の食料安全保障と栄養の現状」国連WFP HP https://ja.wfp.org/stories/sofi-report-record-hunger-rise-un-study-says
※12 ‘Number of people living in slums from 2000 to 2020,’ in Statista https://www.statista.com/statistics/267714/urban-population-in-slums/
※13 マイク・デイヴィス、村山敏勝・日比野啓訳『要塞都市LA』(増補新版)青土社、2008、柴田裕之・斉藤隆央訳『感染爆発――鳥インフルエンザの脅威』紀伊國屋書店、2006.
※14 桑田『人新世の経済思想史』p.185(前掲Geddes 1886, p.103からの引用)。
※15 世論を誘導する「プロ」を用いた30年にわたる反温暖化キャンペーンを描いたドキュメンタリーとして、The Campaign against the Climate(デンマーク、ベルギー、ノルウェー、スイス、フィンランド2020)がある。
※16 桑田『人新世の経済思想史』p.238(Frederick Soddy, Wealth, Virtual Wealth and Debt: The Solution of the Economic Paradox, London, 1926, p.23より引用、強調原文)。
※17 同書、p.278.
※18 同書、p.279(「 」内はSoddy, The Wrecking of a Scientific Age, London, 1927, p.10より引用).
プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)
明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。
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