シン・アナキズム――連載「アナキスト思想家列伝」by ディオゲネ子(重田園江)
デイヴィッド・グレーバーの著作をはじめ、いまあらためて注目されているアナキズム思想について、その繊細さと多様性を保持しながら魅力を伝えていく「列伝」形式の連載。今回は2人目「ヴァンダナ・シヴァ」の第1回です。※前回までの「ジェイン・ジェイコブズ編」を読む方はこちら。
ヴァンダナ・シヴァ1
タネとアリストテレス
アリストテレスの世界観というのはとても不思議だ。その不思議の一つは、「可能態(デュナミス)」と「現実態(エネルゲイア)」の区別、そして時間軸に逆らうようなその目的論にある。サンデル教授の白熱教室を見たことがある人なら、プーさんとハチミツについての話と、それを聞いたハーバード大生のしらじらしくもエリートっぽい反応が印象に残っているはずだ。もっとも、プーさんとハチミツの話が、アリストテレスの目的論をどれほどよく説明しているかは一考に値する。
ある日プーさんは散歩に出かけ、森の真ん中の開けた場所に出ました。そのまた真ん中に大きな樫の木があって、そこからブンブン唸る音が聞こえました。
プーさんは木の根元に座って、両手でほおづえをついて考えました。
はじめに言いました。「このブンブン音は ‘何か’ だな。こんなブンブンいう音が、ブンブンブンブン、何でもないのにするはずないから。だからブンブン音がするわけは、誰かがブンブン音を立ててるってことだ。ぼくが知ってるかぎり、ブンブン音を立てるのは、君がハチだからだ」。
それから長いこと、プーさんは考えていました。そして言ったのです。「ぼくが知ってるかぎり、ハチであることのわけは、ハチミツを作ることだ」。
とうとう立ち上がって、プーさんは言いました。「それでハチミツを作るたったひとつのわけは、ぼくがハチミツを食べることだ」。そして木に登りはじめたのです[※1]。
これがサンデル教授によるアリストテレスの目的論の例だ。プーさんは、ハチミツを食べるという最後の目的を、最初に聞こえたブンブン音の根拠にしている。この推論のあり方を目的論と呼んでいるわけだ。近代に流行する因果論では、時間を順行的にたどって原因から結果への連鎖によって推論を行う。だがプーさんは、さすが100エーカーの森に住んでいるだけあって、古代人の知恵にも劣らぬ時間の逆行を、木の根元に腰かけての瞑想的思考によって成し遂げ、最終目的(終わり)から物事の存在理由(はじまり)を推し量るのだ。まるでクリストファー・ノーランのようだ。『テネット』万歳。もしかしたらノーランはプーさんの生まれ変わりかもしれない(クリストファーだけあって)。そして、サンデル教授すごい。
さて、アリストテレス自身の話に戻ろう。この哲学者(中世から近世にかけて、「哲学者」と固有名なしに文中に登場した場合、それはアリストテレスのことを指す。そのくらい偉大な哲学者だ)は、「成長」の例を説明によく使う。この部分はとてもおもしろく、しかもなんとなくアリストテレスの性格の良さとかわいらしさが出ているので、ぜひ注目して読んでほしい。そして成長の例の中でも最も印象深いのは、種子とその成育の話だ。
タネには葉も茎も根もない。当たり前だ。だが、芽が出て膨らんで花が咲いて実を結ぶのはタネからである。そうすると、「現実態」としての成木の姿は、タネの中に「可能態」として含まれているということになる。これは植物だけでなく生物全般に当てはまる。人間だって受精卵が分割してだんだんとその形をとって胎児となり、やがて出産によってこの世の中に出てくる。そして成長して成人となり、やがて老いて死ぬ。成長した姿が赤ちゃんに可能態として含まれていると言われれば、それを否定することは難しい。
アリストテレスの目的論もまた、こうした成長モデルと深い関係にある。タネはどこからくるのか。成体からである。「成人は子供よりも、人間はそのたね(スペルマ)〔精子〕よりも先である、……また、およそ生成するものは、すべて、或る原理にむかって、すなわちその終り(テロス)にむかって、進行する」[※2]。タネから成長するはずの成体がタネをもたらすので、順序としては成体が先である。スペルマは成人がいないと存在できない。ついでにエッグもね、とフェミニストなら言いたくなるが、エッグといえば卵だ。つまりこれは、鶏と卵はどちらが先かという大変な問題につながっている。だがアリストテレスはこれを、「卵の目的は鶏である」という目的論で片づける。つまり、タネは成体を目的とし、成体はタネをもたらし、やがて枯れ、個体としては死ぬ。目的ははじまりとつながっており、どちらが先とも言えないのだ。そもそも時間軸の先後関係は循環構造においてはさして問題にならない。このようにして、偉大なる哲学者のコスモロジーにおいては、生命の悠久の循環には何の矛盾もないというわけだ。
いじくりまわすか、保管するか
ではこの循環の要をなすタネ、現実態としての成体の姿を可能態としてその内部に湛えるタネをいじくりまわしたらどうなるだろう。アリストテレス哲学のもう一つの特徴は、多様性である。生物の世界を類と種に分類したのもアリストテレスだ。それぞれの種は、自らに即した目的を持つ。生物多様性は、種の目的として、世界の多様性を担保する最も重要な可能性であり、また現実性である。タネをいじくりまわすことでこれが失われたら、アリストテレスの目的論的多元的宇宙論とその調和世界は瓦解する。
「遺伝子組み換えタネ」によってもたらされるのは、こうした意味でのコスモロジーの崩壊である。それは、世界を動かす起点となる「不動なる動者」から生まれ出た、タネという現実の多様性の源泉を、人間のわざ、技巧によって改変し、断ち切ることである。遺伝子組み換えが神の領域に手を伸ばしたと言われるのは、このことと関係している。「バイオ」分野で新しい功績を競い、それが病気を治療したり人間の繁栄に役立つと素朴に信じている研究者たちは、自分たちがしていることの意味をもう少し広い視点から見直してほしい。目の前の人を救いたい、世の中の役に立ちたいと純粋な動機で研究している人もたくさんいるだろう。だが、あなたたちがしていることは地球と人間文明にとってどういう意味を持った行為なのか。高校までの間に、それについて真面目な教育もなされず、専門分化した研究の中で、バイオ技術の権威が再生産される構図はおそろしいかぎりだ。
生命科学が遺伝子に手をつけはじめてから、それはたしかに神の領域、あるいは可能態と現実態の調和の世界を侵犯しはじめている。これがどれほど深刻な結果をもたらすかは今後の進展次第だが、すでに明らかになっているとびきりグロテスクな例がある。それがタネである。アリストテレスが可能態の例として完璧だと考えた、タネである。
政治闘争のど真ん中で
ヴァンダナ・シヴァは、インドでタネの多様性を守るために活動している。彼女は、タネを貯蔵し生物多様性を次世代につなぐための、いわばタネの図書館を作った。これは英語では「シードバンク(種子銀行)」と呼ばれるが、日本語ではちょっと味気ない金融資本主義みたいなので、図書館という私が思いついた比喩で説明する。図書館とは、古い書物を保管し、決して後から復元することなどできない知を貯蔵する場所である。『薔薇の名前』の世界だ。大きな図書館の蔵書に囲まれたときに気圧(けお)されるのは、そこにある知の際限なさがもたらす、物質的な圧によるのだろう。
古い知という点では、タネも同じだ。タネの中には、その植物の生の歴史がすべて含まれている。アリストテレスが言うとおり、究極の可能態だ。タネが内に含む多様な可能性がいったん失われたら、二度とそれを復元することなどできない。タネの中に含まれる可能態としての成体と、それが成育する場所の記憶とを、シヴァはその目的をはっきりと意識して守りつづけている。
【写真】ヴァンダナ・シヴァ。2010年、ミラノで開催されたFestival dei sensiにて(Photo/Getty Images)
シヴァについては先に言っておくべきことがある。彼女はタネの多様性と伝統農業の守り手であると同時に、水ビジネスへの批判者であり、また自由貿易体制を維持する国際経済政策と欧米の多国籍企業が結託した、インドをはじめとする国々の従属的な国際貿易への組み込みの容赦ない批判者でもある。また、環境問題と女性問題を結びつける「エコフェミニズム」の担い手でもある。
よく知られていることかもしれないが、環境と農業は、政策の評価に関して議論が紛糾しやすい。背景を考えると見えてくるのは、それがきわめて政治的な色彩を帯びた分野であるということだ。そのため彼女に対しては批判も多い。また、多作なのもシヴァの特徴である。講演やドキュメンタリー映像への出演にも精力的で、これらの議論の中には重複もあれば、彼女が読んだ本からの紹介もある。それは必ずしも学者的な精緻さや慎重さを伴ってはいない(ただし初期の業績にはこれは当てはまらない)。そしてその主張内容は、環境アクティヴィストという立ち位置からして、きわめて批判にさらされやすい(グレタ・トゥーンベリへのあらゆる方面からの批判を思い浮かべると分かるはずだ)。
海外での講演旅行の依頼に対し、飛行機のビジネスクラスを条件にしたといった下世話な批判は、環境アクティヴィストへの反対者がよく使う手で、取り上げるまでもないことだろう。グレタ・トゥーンベリも、電車に乗ってもヨットに乗っても「プロパガンダ」と批判されてきた。なぜ「セレブ」がファーストクラスを使うのは当然なのに、地球環境や貧困者や弱者のために発言する人には、自らも困窮者や「庶民」のような生活を送ることを全面的に要求するのか。金持ち代表と庶民代表(?)とで、要求される倫理の水準がかけ離れているのは不思議なことだ。
こういう子どもの喧嘩みたいな話は措くとしても、もう少し根本的な点について考えなければならない。たとえば、「いま」飢えた人々に何かを食べさせることと、長期的に見て土壌を破壊し環境を汚染する農業を止めることとが、二者択一に陥っているように見える局面がある。この場合、アクティヴィストは政治的に非難されやすい。特徴的なこととして、アグリビジネスはいつも善意の仮面をかぶって支配の足がかりを得る。それは特定企業や特定の国の経済的利益という動機を隠して、飢えの改善や生活の向上を掲げてやってくるのだ。その善意の顔は、反対者を攻撃するために用いられてきた。
たとえば後で取り上げる「緑の革命」に関連して、現に食糧供給が増えて人々が飢えなくなった、人口増加に見合った食糧が供給されなかったらどうなっていたかというのは、科学的農業推進の最も通りのいい理由でありつづけている。シヴァへの主たる批判は、科学的農業が代償とするものについての事実の誇張や、特定の点だけを取り上げて環境破壊や紛争の原因を単純化すること、またそれに代わる伝統農法が与えてくれるものへの楽観的な展望などである。それは裏を返せば、欧米から輸入された科学的農業によって達成された事柄を、シヴァが無視しているという批判となる。
これに関しては、現に、いま、飢えている人を助けることを認めるか認めないかという問題設定そのものが、多分にフィクショナルで現実を単純化しているとまずは言えるだろう。たとえば、イラク戦争のあと、イラクの土地は荒廃した。アメリカに散々な目に遭わされたのだから当たり前だ。そのイラクに駐留し、現地の状況を見たアメリカ人が考えたことは、イラク農業の「近代化」だった。そして導入されたのが、アメリカ発の多国籍企業が売る、遺伝子組み換えタネと除草剤のセットだ。この話は堤未果『㈱貧困大国アメリカ』[※3]にも書いてあるくらいだから、わりと有名なのだろう。
ここには特許の扱いが絡んでおり、日本の種苗法改正にも大いに関係した論点が提起される。だがその話は後にしよう。シヴァのような環境アクティヴィストは、こうした場合に、「飢えたイラクの人々を前にして、アメリカの善意で無償提供される遺伝子組み換えタネを使わない」ことを支持するために、命を犠牲にしていると批判されるのだ。目の前に飢えた人々がいて、その人たちを救わない悪魔の選択をするということだろう。だが、考えてみてほしい。タネの多様性の保護を世界に訴えつづけ、実践している人物が、この場合は遺伝子組み換えの使用やむなしと言えるだろうか。もちろん、実際に現地でこういった究極の選択に立たされたときの実存的倫理についての話は別である。だが彼女の立場では、遺伝子組み換え作物の大々的な導入を公に認めることはできないはずだ。それが一時の農業支援ではなく、一旦それを受け入れた地域の農業のあり方、土壌、人々と自然とのつながり、そして生物多様性のすべてを変えてしまい、取り返しのつかない状態にする技術だからだ。
もちろん環境問題をめぐる論争の詳細なデータや論拠について、私には一つ一つ検証していく力がない。ただ、読者にもこの点を念頭に置いてほしいということだ。シヴァが置かれている場所は、政治闘争のど真ん中である。そこで、多国籍アグリビジネスと世界銀行―WTO体制を敵に回しているのだから、どんな手を使ってでも、死力を尽くして、というより金と権力を尽くして、彼女を黙らせたがっている人たちが世界中に大勢いる。そうした分かりきった劣勢の中での反撃とオルタナティヴ提示の政治闘争を、彼女はアナキズム的なスタイルで戦っている。そのことを以下に見ていこう。
科学哲学者としてのシヴァ
シヴァについては、伝記的な詳細を見つけるのが意外に難しい。彼女の著書は単著だけでおそらく8冊が日本語に訳されている(ブックレットを除く)。そのうちの7冊が手元にある。これに、著書の中のいろいろな場面で例として挙げられるシヴァ自身の経験と、日本で作られたDVDブック『いのちの種を抱きしめて』[※4]を参考にしながら、彼女の来歴と思想を紹介することにしよう。
ヴァンダナ・シヴァは、1952年にインドのデヘラードゥーンで生まれた。この場所は、インド北部、ヒマラヤ山脈の麓にあり、世界でも有数の降水量の多い地域である。それなのに水不足に陥っている。この事実は、『ウォーター・ウォーズ』によると、シヴァが生態学を志した動機の一つである。
インド東北部のチェラプンジは年間降雨量11メートルという地球上で最も湿度の高い地方である。今日、ここの森は姿を消し、チェラプンジは飲料水問題を抱えている。私が物理学から生態学に転向したのも子供の頃に遊んだヒマラヤの川が姿を消したことが刺激となったからである。チプコ運動もヒマラヤの森林伐採による水源の破壊を阻止するために始められた[※5]。
チェラプンジはバングラディシュの北側に張り出したインド領地域にあるので、シヴァの故郷デヘラードゥーンとはかなり離れている。しかし森林の乱伐と植生の変化による保水力の低下が、渇水、氾濫、環境危機を引き起こすという点では、ヒマラヤ地方全体で同じ問題が起こっている。これは彼女にとって、幼少期からつながる関心の一つとなっている。
シヴァはパンジャーブ大学で物理学を学んだあと、カナダに留学し、ゲルフ大学で科学哲学修士号、ウェスタン・オンタリオ大学で1978年に物理学の哲学の博士号を取得した。科学哲学的な観点から物理学を研究していたが、その後は生態学を総合的な視点から捉え、環境学やフェミニズムと連動した思想を展開している。博士号取得後はインドに戻り、インド経営研究所を経て、1982年には故郷に「科学・技術・自然資源政策研究財団」(その後「科学・技術・エコロジー研究財団」に改称)を立ち上げた。それを発展させる形で、1987年から「ナヴダーニャ農場」という、タネの図書館(種子銀行)と有機農業を組み合わせた、農業とタネの教育・実践機関を運営している。「ナヴダーニャ」は「タネの学校」を併設し、インド各地の種子銀行設立と農家の自立教育、フェアトレード推進を手助けしてきた。
植民地主義はなぜ残虐になるのか
シヴァの著作は、彼女の専攻によると思われるが、科学哲学的な観点から書かれており、その意味で非常に射程の広い近代科学批判となっている。一方で科学が中立性を装ってグロテスクな政治と結びつき、また国境をまたいだ金儲けという、強欲が最も赤裸々に発揮されやすい活動と結びついていく権力の諸相を捉えている。つまり、知-権力の批判ということになる。その思想内容に立ち入る前に、先ほどの引用に出てきた「チプコ運動」について簡単に紹介しておこう。
私が自然の経済の価値をはじめて教えられたのは、チプコ運動の女性たちからでした。森林の地元に住むその女性たちにとって、森林とは生命の持続に必要なあらゆるニーズ、すなわち水、食糧、燃料、飼料、薬をまかなってくれる母なる存在でした。そんな女たちが抗議に立ち上がった一番大きなきっかけは、森林伐採によって地滑りが発生したことでした。伐採事業はしかしそれにとどまらず、水の流れを消滅させ、ひどい洪水と渇水の両方を引き起こし、燃料や飼料の不足という結果を招いたのです。……かつて森林は、地元のニーズを基準に管理され利用されていた共有地でしたが、それが植民地政策によって、帝国に原料を供給する木材の補給庫のようになってしまい、そのときから伐採事業がはじまりました。大地の共同体の生命中心の経済が、生命を滅ぼす市場経済に直面したのです。女たちは伐採企業に自分たちの森林を破壊させないように、村々からやって来ては木々に抱きつき、木を伐らせまいとしました。「チプコ」とは抱きつくという意味なのです。……1978年に大規模な洪水が発生し、政府もやっとその女たちが言っていること、つまり森林は木材の補給庫ではなく生態環境による安全保障の源なのだということの正しさに気づきました。1981年、政府はヒマラヤ高地での伐採事業を禁止したのです[※6]。
シヴァの進路を方向転換させたこの運動は、さまざまなことを教えてくれる。森とは資材としての木がある場所ではなく、何より水資源を貯蔵することができ、さまざまな動植物がともに生きることができる唯一の場所であるということ。それが周辺住民にもたらす価値は、そこにある資材としての木の交換価値では決して計ることができないこと。森を守るために、木に抱きつくという直接行動を、村々の女性たちが入れ替わり立ち替わり行ったこと。森がなければ水害の多発と水資源の枯渇、つまり水の過剰と過小が劇的なやり方で起こること。これは最近の地球温暖化による気候の激烈化で体験されていることと同じである。
そして森林の破壊が、植民地主義による自由主義経済学的な「富のストック」としての森林資源という見方によってはじまったこと。自然を、資材として、利益を得るための単なる手段として捉えることへの批判は、シヴァの文章の中にくり返し現れる。それは水や大地、森や川、そして家畜や農作物に至るまで、すべてを一つの尺度で測れるとする、おそろしい考えだからだ。そしてそう考えるだけでなく、実際にそのようなものとして自然を扱い取引することで、グローバル資本主義が加速してきたのである。
自然の意味は一つではなく、人がそれをどのように捉え利用するかによって、人間―自然関係は異なってくる。つまり自然を保護し環境を保全するとは、世界の解釈の問題であり、世界という書物をどう読み、コスモロジーをどう構築するかに関わるのだ。そのなかで、この上なく浅薄でグロテスクな世界と自然の解釈に基づくのが、自由主義経済学の前提を取り込んだグローバル資本主義なのだ。
また、植民地政策が残虐なものになりやすいのは、それが本国から隠されていることと大いに関係している。これは植民地行政全般について、ハンナ・アーレントが言ったことだ。本国の人たちは植民地の事情には概ね無関心で、そのリアリティを理解できない。だからひどい破壊や残虐な仕打ちにも鈍感になりやすい[※7]。イギリス人は森が好きなので、自分たちの近くの森で同じことが起きたらナショナル・トラスト運動などを通じて強硬に反対するだろう。だが、インドで起きていることには気づきにくい。たとえ知っても自分たちからは遠い世界の話だ。物理的距離はグローバル化がもたらす暴力を隠すのに大いに役立っている。
身近な例で言うなら、遠い国から輸入される食べ物がどういう来歴を持つかは、通常私たちには隠されている。Netflixのドキュメンタリー『食品産業に潜む腐敗』を観るまで、アボカドがメキシコで麻薬カルテルの抗争を生んでいるとは知らなかった。アボカド農家の村は重武装した警官だらけで、農地は重罪刑務所のように高い柵で囲われている。健康志向によって日本でもさかんに食べられるようになっているアボカドのために、多くの人々の血が流れているとは。また、アフリカのキリマンジャロの麓では、アボカド用の農地開発でゾウが大ピンチになっている。絶滅の危機らしい。ゾウの生息地と同時にマサイ族の生活地を奪いながら、アグリビジネス企業は開墾に邁進しているそうだ。
こうした場面で起きていることを、自分に関係あることとして理解できるのは地元住民だけだ。つまり、ゾウを守るのも土地の多様性に顧慮するのも、結局は地元住民しかいないのだ。地元住民だけが環境に持続的な利害を持ち、それについて発言することができるのだから。ゾウは人間のことばを喋らず、政治活動を行えない。残念なことだが。そして現在、マサイ族もまたアグリビジネス企業とその進出によって利益を得ようとやってくる部外者によって生活圏を奪われつつある。彼らが政治的発言権を持てないままだと、森は死に絶え、数十年後には荒廃した「元アボカド畑」だけが残るのは目に見えている。
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※1 A. A. Milne, ´Winnie-the-Pooh and Some Bees,’ in The Childhood Collection, London: Dean, 2000, p.49-50.
※2 アリストテレス、出隆訳『形而上学』(下)岩波文庫、1961、p.41
※3 堤未果『㈱貧困大国アメリカ』岩波新書、2013、第3章
※4 『ヴァンダナ・シヴァのいのちの種を抱きしめてwith辻信一』(ナマケモノDVDブック)素敬 SOKEIパブリッシング、2014
※5 ヴァンダナ・シヴァ、神尾賢二訳『ウォーター・ウォーズ――水の私有化、汚染そして収益をめぐって』緑風出版、2003、p.25
※6 ヴァンダナ・シヴァ、山本規雄訳『アース・デモクラシー――地球と生命の多様性に根ざした民主主義』明石書店、2007、p.125
チプコ運動が最初に行われたのは1973年とされる。発端はテニスラケットを作るために大規模伐採が許可されたことだった。イギリス人の好きなテニスだ。しかしチプコ運動自体、18世紀に聖なる木が切られるのを防ごうと木に抱きついて離れなかったケージャリのヒンドゥー教徒ビシュノイたちの行動にヒントを得たものとされる。アムリタ・デヴィ・ビシュノイという女性が1730年に、聖木の伐採に反対して3人の娘とともに封建領主に殺されたのがはじまりという。
※7 ハンナ・アーレント、大島通義・大島かおり訳『新版 全体主義の起原2 帝国主義』みすず書房、2017
プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)
明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。