シン・アナキズム――連載「アナキスト思想家列伝」by ディオゲネ子(重田園江)
デイヴィッド・グレーバーの著作をはじめ、いまあらためて注目されているアナキズム思想について、その繊細さと多様性を保持しながら魅力を伝えていく「列伝」形式の連載。今回は1人目「ジェイン・ジェイコブズ」の1回目です。※前回を読む方はこちらです。
ジェイン・ジェイコブズ1
俯瞰するモンテスキュー、徒歩で行くルソー
「アナキスト思想家列伝はじめます」宣言をしておきながら、ちっともはじまらないじゃないかと思っていたあなた、お待たせして大変すみません。大学教員は秋が忙しく(おそらくとても暇な仕事と思われているでしょうけどそうでもないんです。でもとても暇な人もいると思う)、2カ月近く体調を崩しておりました。そのうえ一人目はミシェル・フーコーなどと前回思いつきで言ってしまってすいません。実際には『アメリカ大都市の死と生』(1961)で知られるジェイン・ジェイコブズを取り上げます。その理由をくどくど説明するよりは、まずは以下の文章を読んでみてください。読み終わったらきっと「ジェイコブズこそアナキスト」と思うと同時に、彼女を最初に持ってくること自体が、この連載でアナキズムをどのように捉えるかの宣言にもなっているとわかるはずです(と願う)。ということで、はじめます。
モンテスキューが残した旅行記に次のくだりがある。
どの街でも、着いたらすぐに一番高い鐘楼(しょうろう)か一番高い塔に登ることにしている。そうすればすべてを一望に見渡せるからだ[※1]。
これはジャン・スタロバンスキーというとってもセンスのある批評家が、『彼自身によるモンテスキュー』という、ミヒャエル・ハネケかロベール・ブレッソンかと見まがうタイトルの本で[※2]取り上げて有名になった部分だ。これと対比したくなるのはルソーだ。またまた冒頭に登場してよほど好きだと思われそうだが、実際私はルソーの素っ頓狂なところが大好きだ。『エミール』第V篇に以下の一節がある。
馬で旅行するよりもっとよい方法は一つしか知らない。徒歩で行くことだ。歩きなら、好きなときに出かけて、気の向くままに立ち止まり、動き回ることもあまり動かないことも意のままにできる。土地のすべてを見て回れるし、右でも左でもどっちにも曲がれる。面白そうなものがあれば全部調べられるし、見どころならどこでも立ち止まっていい。川が流れているのに気づいたとしよう。それに沿って歩く。森の茂みがある。木陰の下に入る。洞窟を探検する。石切場があれば、そこの鉱物を吟味する。気に入ったらどこでもそこにとどまる。退屈になったら立ち去ればいい。馬にも御者にも頼らない。整えられた道や便利なルートを通りたくはない。人が通れそうなところならどこでも通る。人が見られるものなら全部見る。自分にしか頼らず、人が享受できるかぎりの自由を楽しむ[※3]。
フランスの旧い家柄の貴族でぶどう園主、またボルドー高等法院長を務めたモンテスキューは、空高くそびえる人工物である塔や鐘楼に立って、街全体を高いところから一望しようとした。俯瞰することは全貌をつかむことだからだ。「瞬時の眼差しはおのずから全体を見渡す眼差しであろうとし、一切を捉えようとする。モンテスキューの大部分の作品と企図はこの野心からでてくる」[※4]。
ジュネーブの時計職人の息子で放浪を生の一部としたルソーは、歩く人の目の位置で、ときに寝そべったりかがみ込んだりして風景を描写した。もちろんルソーも村や街を遠くから眺める。だがそれは、丘に登ったり街を離れた高台からふり返ったりするときだった。
アナキズムの視点は、ルソー的なものだ。これはアナキズムの最大の特徴の一つと言ってよい。だが、地に足のついた、あるいは生活のリアリティに即した、といった退屈なことばでは、この内実はつかみきれない。というのは、アナキズムは明確かつ意識的に、モンテスキュー的俯瞰を拒み、それに対抗して、徒歩と身体性の視角を導入するからだ。アナキズムには、はじめから闘争の契機がはらまれている。対抗すべき巨大な支配の存在が、人にアナキスト的生き方を選ばせるのだ。
一方、歩く人々の思索、歩くことが生み出すイマジネーションについては、レベッカ・ソルニット『ウォークス』[※5]が多くを教えてくれる。歩きのリズムと人間の身体、それが否応なく与える限界の知覚は、人が見るもの、感じ取るものが視点の位置や移動のスピード、そして場所との関わり方にどれほど左右されるかを示している。高みからの俯瞰の拒絶と歩く視線の高さでものを考えること、それが示す「アナキズム性」の模範的な例として、私はジェイン・ジェイコブズを選んだ。
若きジェイコブズ
ジェイン・ジェイコブズ Jane Jacobs(1916―2006)(旧姓ビュッツナー)は、ペンシルヴァニア州スクラントンに生まれ、高校を卒業するとニューヨークに住む姉のベティとブルックリンで同居をはじめた。姉とは子どもの頃「世界を股にかけた空想伝言ゲーム」をして遊んだと『アメリカ大都市の死と生』に書いてある。ニューヨークに移った1934年、大恐慌後の生活は厳しかったが、彼女は事務仕事を見つけて生活の糧を得ながら街の観察を行った。それを文章にしてさまざまな雑誌に投稿しはじめ、やがて『ヴォーグ』誌や他の雑誌に採用されるようになる。
アンソニー・フリントの『ジェイコブズ対モーゼス』によると、彼女は学校で反抗的な態度をとり、高校の成績は悪かった。それが原因で、ニューヨークに来てしばらくして入学した大学の単位取得で面倒なことが起こり、卒業しないで辞めてしまった。その後も「名誉学位」の申し出を断りつづけたということで、とても親近感が湧く。前回書いたとおり私もかつて教師が嫌いで(いまではそんなに嫌わなくてもよかったと思うが)、自慢じゃないが博士号も持っていない。彼女は自ら選んで我が道を進み、男だらけのジャーナリズムの世界で、実力一本で食べていこうとした。これはコネもなく金もない当時の地方出身女性にとって、あっぱれだがなかなか無謀な選択だ。6年後にようやく業界誌の秘書の仕事を得たが、その後も自由にものを書ける環境を求めて転職をつづけ、著述活動の充実のためにがんばった。好きなことをして生きる道を模索途上の1944年、のちに夫となる建築技師のボブ・ジェイコブズと姉のパーティで出会っている。
すぐに意気投合した二人が結婚後の新居に選んだのは、マンハッタン島のダウンタウン、グリニッジ・ヴィレッジのハドソン通りにある、通りに面した3階建ての細長い建物だった。1階は元店舗で、表に「カナダドライ」の広告が貼られたままになっている写真がある[※6]。このときすでに長男らしき子どもが歩いているので、二人はしばらくの間元店舗の見た目のままの建物に住んでいたことになる。古びた建物が並ぶ下町地域で、隣はコインランドリー兼2・3階は住居となっていた[※7]。
彼らは建物を少しずつ改修し、快適な住まいを自分たちで作り上げていった。小さな商店街の一角を買い入れて自宅に改装するようなものだが、それを地方都市の寂れた駅前ではなく、マンハッタンのような場所でイメージするとなると、日本では似た例を探すのが難しい。あえていえば『谷根千』の森まゆみだろうか。
郊外という恐ろしい場所
こうしたやり方は当時の流行に反するものだったようだ。というのも、戦後のアメリカは中流家庭の郊外居住を推進中だったからだ。郊外のニュータウン開発は日本でも戦後にあらゆる場所で行われたのでイメージしやすいだろう。日本の場合には山の斜面にへばりつく庭付き一戸建てから地獄の通勤電車、老後は小金持ちは駅からの坂道が登れなくなって駅近マンションに買い替え、残された家は空き家となって街の廃墟化が進行中である。
高度成長期以降の日本は、中流の持ち家志向を誘導する偏った住宅政策(それは都市部の公的住居への予算配分をみすぼらしいものにした)をつづけたが[※8]、アメリカでも高速道路建設と郊外開発によって、芝生の広い庭が家の前についた住居が延々とつづく街並みを大都市郊外に作り上げた。こうした郊外住宅のもとになった考えの一つに、ジェイコブズも『アメリカ大都市の死と生』で取り上げている(こき下ろしている)、エベネザー・ハワードの田園都市構想がある。ハワードのイギリス田園都市は、産業化で荒廃した大都市生活を改良するためのもので、産業招致と土地のある種の公有、そして不動産賃貸によって、職住近接の街づくり、つまり都市と田舎のいいとこ取りをするというものだった。
そもそもこの構想自体、たとえば19世紀の民衆運動の文脈の中に置いてみると、都市に集住する労働者階級の政治的な危険に恐れをなした支配層が、彼らを田園都市のマイホームと小さな畑に押し込めて別の夢を見させる方策ともいえる。都市の入り組んだ街路が民衆運動にとってどれほど自然でアドホックな「要塞」となりうるかは、パリコミューンをはじめ多くの例がある。後で取り上げるジェイコブズたちの再開発反対運動も、都市に居住しそこに愛着を持ち誰よりもその街を知る多くの人々がいなければ、成り立たないようなものだった。
だが少なくとも、ハワードの田園都市は産業と職場を自前で抱え、また土地の私有を禁ずることで公共空間を共同管理する方向性を持っていた。ところがアメリカ、そして日本でも同様に実現したのは、単なる都市のベッドタウンとしての郊外だった。これが招来したのは、アメリカでは高速道路の渋滞と都心の駐車場不足、そして道路建設による地域分離と大気汚染の連鎖で、都市中心部は居住が減り虫食い状態となって荒廃した。こうした郊外化に伴う中心部の衰退と「スラム」地域の一斉取り壊し、大規模再開発による団地建設と都心を貫通する高速道路網の拡充が、ジェイコブズがマンハッタンのダウンタウンに古びた建物を大枚叩いて購入した、まさにその時代に進行していたことだった。
では郊外の夢はどんなだったかというと、1961年の小説『家族の終わりに』を元にした映画「レボリューショナリー・ロード」(2008)から想像すると、これもキラキラした見た目に反して中身は相当に荒廃している。映画のラストのディカプリオの放心した表情には、空疎な郊外を恨むことすらできない悲哀が漂っている。
他にも1957年のコネティカット郊外を舞台にした「エデンより彼方に」(2002)や、こうした映画の先駆けともいえる「普通の人々」(1980)から「アメリカンビューティ」(1999)に至る一連の映画を思い出すと、郊外一戸建てとは相互監視と自己崩壊を強いる実に恐ろしい場所らしい。アメリカの郊外住宅地は、とにかく隣の人と不倫したり筋トレの覗きをやったり、ストーカーばりの不動産屋に理想の夫婦を押しつけられたり、しらじらしいホームパーティでいつも近所と自分たちを比較したり、自殺未遂したり殺人を犯したりゲイを恥じたり大変なところだ。
ジェイコブズは『アメリカ大都市の死と生』で郊外生活を推奨するハワード流の田園都市構想に疑いの目を向けたが、そのときの着眼点も彼女らしい。それは主婦のドライブに注目したものだったからだ。郊外の主婦はとにかく一日中車を運転している。朝は夫を駅まで送り、子どもを学校に送り、買い物に行くにも用事を済ませるにもすべて車がなければ生活は何一つ成り立たない。朝から晩まで運転して家族を送迎し、その間に物を運んで行ったり来たり。これが職住近接のハワード流田園都市の一部だけを切り取って作り上げられた、アメリカの郊外生活だった。
まあとにかくこんなにおいを嗅ぎとって、ジェイコブズは自動車メーカーや道路建設業者と結託した当時の政策である、郊外一戸建ての金太郎飴のような暮らしを嫌い、衰退の最中にある都市に陣取って自分たちの住居を少しずつリフォームすることを選んだ。彼女は何よりも、家の窓の外にくり広げられる都市生活を眺めるのが大好きだった。郊外なんて昼間は誰も通らない。雑誌の記事に書くような店もなければ偶然の出会いもない。ジェイコブズがダウンタウンを颯爽と自転車に乗っている写真が残っているが、彼女は徒歩と自転車を好んだ。とりわけ徒歩での移動は、街の観察、生きた街を知るのにぴったりだった。ジェイコブズは20世紀のマンハッタンに現れたルソー的人物というわけだ[※9]。
【写真】1963年、ウェスト・ヴィレッジを自転車で走るジェイン・ジェイコブズ(ボブ・ゴメル撮影)(Photo/Getty Images)
俯瞰の都市計画――ル・コルビュジエ
そもそもこの郊外一戸建てと都市の高層化・高速道路網の整備というセットは、スイス生まれの建築家ル・コルビュジエの「輝く都市」[※10]から影響を受けている。鉄筋コンクリートを未来都市を実現する素材として選んだこの建築家は、低層過密の都市の現状を批判し、高層化によって空き地を増やす都市イメージを生み出した。また、車道と歩道を分離して車道は高架、歩道は地上か地下とし、高速道路網によってすばやい移動を実現しようとした。
ル・コルビュジエは自動車の未来に期待を寄せただけでなく、飛行機が大好きだった。『飛行機』というタイトルの写真集も残している[※11]。彼の都市構想は、上空の飛行機から見たときに、美しく機能的であることを目指していたとされる。これは現代であればドローンの視点で都市を設計することに当たるだろうし、冒頭に掲げたモンテスキューの鐘楼の視点と同じものである。この俯瞰の発想を、ジェイコブズはとても恐ろしくグロテスクだと感じていた。『アメリカ大都市の死と生』の中で、「輝く都市」をル・コルビュジエ自身のことばを用いて「垂直の田園都市」と表現し、それをハワードの「田園都市の直系の子孫」と捉えている[※12]。
【写真】ル・コルビュジエがパリ万博(1925)のレスプリ・ヌーヴォー館に展示したパリ改造構想「ヴォアザン計画」の模型(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Plan_Voisin_model.jpg)
しかしこの連載の読者の中にも、都市計画には俯瞰の視点が必要なはずだという考えを持つ人もいるだろう。どんな都市計画にも設計図があり、そもそもある程度高いところから俯瞰する構想がなければ、都市計画自体何が何だか分からないはずだ。そこでここでは、俯瞰の視点を再度拒否する代わりに、その恐ろしさについて書き留めておく。次の引用は、大傑作映画『第三の男』の有名な観覧車のシーンで、小さな黒い点のように動く人々を上から俯瞰しながら、オーソン・ウェルズがジョセフ・コットンに言うセリフだ。
下を見て言ってみろ。あの小さい点のどれかが全く動かなくなったとして、憐れみを感じるか。俺があの点を一つ消せば2万ポンド渡すと言っても、本当にその金はいらないと言えるか。それとも残りの点を消せばどれだけ稼げるか計算するか。どっちだ。
この後二人は観覧車を降り、これまた有名なボルジア家とスイスの鳩時計のセリフがつづく。この映画のオーソン・ウェルズに惚れない人はいないと思うが、俯瞰の視点からすると、人間はただの点(dot)にすぎない。これはウェルズが非人間的な役を演じているからではなく、高いところから街を見渡せば誰でも感じることだ。私はかつて「国営ひたち海浜公園」という茨城の大きな公園で、ロック・イン・ジャパンの最中に観覧車に乗ったことがある。このときの人出は、『第三の男』で描かれた戦後占領期の荒廃したウィーンの比ではなく、黒く蠢く人の流れが本物のアリに見えた。それが人間だと思って何度見直しても、アリの行列にしか見えないのだ。それをゾッとすると考えるか、アリたちの動きを変えたり好きなように整えたりするのが面白いと思うかの違いは大きい。
再開発の帝王モーゼスと対峙する
ジェイコブズに戻ろう。いまなら下町で古い建物を改装して暮らすのは最先端のおしゃれかもしれないが、新しくてピカピカなものに消費者を飛びつかせる当時の主流とは異なっていた。とりわけ都市政策に関わる当局者や業者は、古いものの再生や小さな修繕と再利用に価値を見出していなかった。それどころか、彼女が魅力を感じた都市の要素をことごとく踏みにじり、破壊し尽くすような計画が、アメリカ中で実行されていたのだ。
ニューヨークでは「マスター・ビルダー」ロバート・モーゼスが、ジェイコブズがやってくる前の1920年代から都市の再開発を手がけていた。イェール大卒で大金持ちのモーゼスは、マンハッタンに公園、プール、運動場などを作っただけでなく、高速道路や橋で地域をつなぎ、言ってみれば典型的な近代主義の開発屋の仕事に邁進していた。渋滞を緩和するには街に新しい道路を貫通させればいい。橋を増やせば交通は分散して快適になる。街に駐車場が足りないなら作ればいい。ビーチを新設して庶民の娯楽の場を増やすなら、どこかから砂を持ってきて埋め立てればいい。だが、便利な道路は都心部に入ってくる車を増やし、渋滞は緩和するどころかひどくなる。駐車場ができれば人は車でやってくる。そしてこれは重要なことだが、砂州であったロングアイランド島南部のジョーンズビーチを埋め立てて海水浴場にするには大量の砂が必要で、砂は決してタダではないのだ[※13]。
道路を作ることで通過する車が増えるというのはパラドクスでもなんでもなく、現在ではよく知られている。しかしそれでも、先日陥没で問題になった圏央道のように、新しい道路はいまも作られつづけている。それがどのくらい必要なものかを「査定」するのがいかに困難かは無視され、とにかく道路を作ると便利になるという主張がまかりとおり、一旦決まった計画は覆されない。私たちはジェイコブズが生きた時代の趨勢と変わらぬ価値観と、砂を大量消費する土建屋コンクリート政治の只中に、モーゼスがニューヨーク再開発に着手した100年近く後、グレタ・トゥーンベリの世紀にも相変わらず生きているのだ。まったく嘆かわしいことだ。
道路や橋やモニュメント的な区画づくりでマンハッタンをいじくり回してきたモーゼスは、1940年代にはいよいよ住宅開発に手を伸ばしてきた。彼のやり方はこうだ。まず開発業者にあらかじめ事業請負の打診を内々にしておく。次に行政に圧力をかけてある地域を「スラム認定」させる。そして当時の土地収用法に基づき、市が接収した土地を民間会社のプロジェクトで再開発する。そのための資金の大半は、地域再生のために気前よく支給される連邦補助金から引き出す。彼はこの手法でニューヨークの景観を文字どおり変えてしまう開発を行ってきた。
その権力の絶頂期にあった1955年、ジェイコブズの家の近くのワシントンスクエア公園を突っ切る道路を建設するという計画にモーゼスが着手したことで、ジェイコブズはモーゼスと直接対峙することになる。だがジェイコブズはそれ以前に、自身が住むグリニッジ・ヴィレッジに隣接するイースト・ハーレム地区で歴史ある建物が壊されて近隣のつながりが失われ、代わりに建てられた巨大で均質な高層住宅が荒廃を加速させつつあることを知っていた。地元に再開発の手が伸びようとしていることを、察知せずにはいられない状況だったのだ。
ワシントンスクエア公園を道路が縦断したら、公園の一体感は失われ、そこに集う人たちはいなくなると地元の人たちは危惧した。ジェイコブズは、いまでいうサブカルチャーに開かれ、多くの芸術家や未来の文化を担う人々が愛した歴史ある公園が、何度も潰されそうになりながらその都度反対運動で生きながらえてきたことを知った。そしてこの公園を守ることを決意する。
* * * * *
※1 Charles-Louis de Montesquieu,Voyage de Gratz à la Haye, in Œuvres complètes I, R. Caillois ed., Paris: Gallimard, 1949, p.671. つづく一文は「部分を見る前に全体を見るのである。街を離れるときにも同じことをする。自分の考えを固めるためだ」となっている。
※2 ジャン・スタロバンスキー、古賀英三郎・高橋誠訳『モンテスキュー――その生涯と思想』法政大学出版局、1993、p.41(原著は Montesquieu par lui-même, Paris: Seuil, 1953)(ロベール・ブレッソン、角井誠訳『彼自身によるロベール・ブレッソン――インタビュー 1943―1983』法政大学出版局、2019、ミヒャエル・ハネケ他、福島勲訳『ミヒャエル・ハネケの映画術――彼自身によるハネケ』水声社、2015)
※3 Jean-Jacques Rousseau, Émile ou de l’éducation, Paris: Flammarion, 2009, p.596(今野一雄訳『エミール(下)』岩波文庫、1964、p.158―159)
※4 スタロバンスキー、前掲書、p.41
※5 レベッカ・ソルニット、東辻賢治郎訳『ウォークス――歩くことの精神史』左右社、2017(原著2001)
※6 アンソニー・フリント、渡邉泰彦訳『ジェイコブズ対モーゼス――ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』鹿島出版社、2011、p.37(原著2009)
※7 反対隣はやはり1階店舗の6階建てアパート。コインランドリー側は3―4階建ての店舗兼住宅がつづく。彼らが住んだハドソン通り555番地を含む部分は、2009年に別名Jane Jacob’s Wayを与えられた。この建物はジェイコブズが住んだことで有名になり、年代が異なる多くの写真が撮られているが、いくつもの店舗が入っては改装をくり返してきた歴史がうかがえる。これこそジェインが望んだ建物の使い方である。
※8 平山洋介『マイホームの彼方に――住宅政策の戦後史をどう読むか』筑摩書房、2020を参照。
※9 ただしルソーは、その揺るぎない価値観から都会を徹底的に嫌い、自足的田園生活をつねに称賛した。田舎のすばらしさは、とくに『エミール』と『ヌーヴェル・エロイーズ』にたっぷり描写されている。
※10 1931年に発表された都市構想。Le Corbusier, La ville radieuse, Boulogne: Éditions de l’Architecture D’aujuord’hui, 1935. ジェイコブズが主に参照しているのは『ユルバニズム』(樋口清訳、鹿島出版会、1967、原著1925)である。
※11 Le Corbusier, Aircraft, London, New York: The Studio, 1935.
※12 『アメリカ大都市の死と生』p.39
※13 砂はタダ同然の資源であると思われてきたのではないだろうか。私も最近まで資源としての砂に注目したことはなかった。ところが、世界中で砂の「乱獲」が起きており、インドを中心に砂マフィアが暗躍しているらしい。シンガポールとドバイという悪名高い二国をはじめとして、埋め立てとビーチ造成のために砂の闇取引が行われ、東南アジアやインド、アフリカの海岸や陸地、そして世界の海底の砂が採掘されている。つい最近読んだゼミ生の卒業論文(河合駿太朗「砂が消える?――砂資源の使用による地球の軟弱化」)にこのことが取り上げられていた。このテーマについては、石弘之『砂戦争――知られざる資源争奪戦』角川新書、2020を参照。
プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)
明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。