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連載 シン・アナキズム 第5章 グレーバー (その2)

政治思想史家・重田園江さんの好評連載「アナキスト思想家列伝」第18回! 今回は(3年前に)急死の報が世界を駆けめぐったデイヴィッド・グレーバーの回の2回目です。人類学者であり、かつ、活動家であったグレーバーの生い立ちから!
※これまでの各シリーズは下記よりお読みいただけます。
 「序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」へ
 「ジェイン・ジェイコブズ編」の第1回へ
 「ヴァンダナ・シヴァ編」の第1回へ
 「ねこと森政稔」の第1回へ
 「ポランニーとグレーバー」の第1回へ

「アナキズム的な創造性」の特徴

 とても遠くにいそうな、生態学者で植物学者で地理学者で都市学者でもあるゲデスや、元化学者でノーベル化学賞を取ったのに異端の経済学者となったソディと、人類学者のグレーバーが、いずれもアナキズム的な社会構想に活路を見出したのは、いったいなぜなのだろう。

 すでに述べたとおり、私は彼らの政治的方向性の一致は決して偶然ではないと考えている。現在の世界がどれほど破滅的な状況にあるのか、そして何より破局に向けて猛スピードで突き進んでいるのかを理解すればするほど、それに代わるべき社会像も自ずと定まってくると思われるからだ。

 何につけても速いこと、目まぐるしいこと、最初であることが、グローバル資本主義で天下を取るには必須のようだ。そういう価値観に対抗するには、遅いこと、目まぐるしくないこと、最初でなくてもいいこと、地道であること、巨大化しないこと、天下を取らないこと、身の回りにあることから考え行動しはじめ、決してそこから離れずに緩やかに遠くの賛同者とつながることが重要である。

 そしてこれこそ、アナキズム的創造性がいつも備えてきた特徴なのだ。ではここで、グレーバーの人と生涯を紹介することにしよう。

グレーバーは母親の経歴を先に書いた

 デイヴィッド・グレーバーは、1961年にニューヨークで生まれた。両親は労働者で、母方はユダヤ系だった。グレーバーは、両親の生き方が自分自身のアナキズムの根幹にあることを、『アナーキスト人類学のための断章』の「まだ見ぬ日本の読者へ——自伝風序文」で書いている。

 軍隊や刑務所や富と力の不平等に満ちた世界に利を得ている者たちが、そのような世界〔警官やボスのいない非軍事的世界〕が可能だと信じている輩は気違いだと、熱心に説いてまわっている。
 アナーキズムが気違いでないと信ずる理由があると感じる者はアナーキストになることが多い。私にはアナーキズムが気違いでないと信ずる理由があった。
 その第一は、私が育った政治的環境だった。父は「印刷工」だった。母は若い頃針子だったが、後に主婦になった。二人とも青年時代から、熱心な活動家(ラディカル)だった。母、ルース・ルービンスタインは、十歳の時ポーランドからニューヨークに移民した。彼女は十六歳ですでに大学に入学したが、大恐慌時のため、じきに退校し家族を支えるために下着工場に職をえた。そこで間もなく国際婦人服労働組合(ILGWU)に加盟した。……父、ケネス・グレーバーは、カンザス州ローレンスで学生だった時、運動にかかわった。そして全カンザス州で二人の参加者の一人として、1936年にスペインへ行き「国際旅団」[※1] に加わった。……彼はアナーキスト民兵の戦略は、近代装備の軍隊に太刀打ちできるものでないと感じていたが、同時に革命的自主管理に対する共和国政府の弾圧は、狂気の沙汰で自殺行為だと信じていた 。

デヴィッド・グレーバー、高祖岩三郎訳『アナーキスト人類学のための断章』以文社、2006, p.3-4.

 この叙述で私がとてもグレーバーを好きなのは、母について先に言及していることだ。私はあらゆる申込用紙に男/女の順でどちらかに◯をつけるようになっていることにうんざりしている。そんなこと男女どっちが先でもいいじゃないかと言うなら、全部女を前にしてもいいだろう。あるいは半々に。そして性別欄は答えを任意にするか、「その他」を設けてほしい。これからは全部、女/男/無回答にすればいい。でも現実はそうなっていない。現実にどうなっているかが社会的に重要なのであって、男が先の現状でどっちが先でもいいと気前よく思っている人は、その欺瞞に気づいてほしい。

ポランニー→サーリンズ→グレーバーという系譜

 さて、グレーバーはとりわけ、父親がスペイン労働者の自主管理を間近に見て、それが可能であり、もっと大きな上層部組織からの管理なしに十分やっていけることを経験的に知っていたと強調している。これはアナキズム的統治にとって非常に重要なポイントだ。やってみたら、案外自分たちでできるじゃないかという経験。こうしたことは、19世紀にジャン・ジョレスやシャルル・ジッドがアルビのガラス工場の労働者自主管理に見出したことであり[※2] 、グレーバーがマダガスカルの人類学調査の中で見つけたことでもある [※3]。それは声高に語られることはないが、現にそこにあったのだ。

 グレーバーは、奨学金と引き換えに自分の前に敷かれたレールに乗ることに抵抗し、ニューヨーク州立大学パーチェイス・カレッジを経て、シカゴ大学大学院に進学した。人類学者になることを決意したグレーバーは、あのマーシャル・サーリンズ(1930−2021)を指導教授に選んだのだ。

 サーリンズはコロンビア大学時代のカール・ポランニーに教えを受け、経済人類学というジャンルを確立した人類学者の一人である。とりわけサーリンズの「合理的経済人」批判は、ポランニー仕込みの徹底したもので、これはグレーバーが人類学を語り出す際の根本的な立ち位置に影響を与えている[※4] 。またサーリンズは、人間と社会の多様性や変化における「文化」の役割に注目していた。狭い意味での「経済」を超えた社会の動態的な変化に注目するグレーバーの興味も、その意味でサーリンズ的と言える。

イエール大をクビになった理由は?

 グレーバーはフルブライト奨学金を得て行ったマダガスカルでのフィールドワークを元に、博士論文『1987年の破滅的な神判儀礼——マダガスカル農村の記憶と暴力』(1988)を書いた。その後イエール大学で助教(のちに准教授)となるが、2005年に契約延長打ち切りを大学から通告される。この理由についてはさまざまに取り沙汰されてきた。彼がシアトルやワシントン、ニューヨークでの反グローバル集会を主導したことや、イエールの学生たちの組合結成を支援したことなど。表向きは「個人的な事柄」(要するに彼の「素行」)が理由であるとして、大学当局が詳細の開示を拒んだため明確な理由は分からない。だが、グレーバーの契約打ち切りはその政治行動のためであると、彼自身や周囲から捉えられた[※5] 。そして、イエール大学をはじめとするアメリカだけでなく、世界中の研究者や支持者から、再任用を求めるオンライン署名が4500筆以上集められた[※6] 。

 結局グレーバーのイエールでの任期は延長されず、彼はまずアメリカで次の職を探したが、どの大学からもポストも提供されなかった。彼がクビになりそうということで外国からは多くのオファーがあり、結局グレーバーはイギリスに渡り、ロンドン大学ゴールドスミスカレッジを経て、LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)の教授となった。この顛末については、イエールのような金持ち大学にいたのが悪かったのか、アイビーリーグ全体が当時置かれていた経営上あるいはイデオロギー上の問題のせいなのかなど、いくつもの憶測が成り立つ。もちろん、テニュアを持たない教員にとっての政治活動の難しさというのは、日本も含めどこでもある話だ。だが、社会運動と知識人との関係という点では、アメリカとヨーロッパではどうやら空気が違うようだ。

59歳で亡くなる

 グレーバーには、『価値論』『アナーキスト人類学のための断章』『負債論』『官僚制のユートピア』『ブルシット・ジョブ』など、日本でもよく知られる多くの著書がある。彼はイギリスに渡ってからも政治社会運動への参加を精力的につづけた。とりわけ彼の名が一部のファンを超えて広く知られるようになったのは、2011年のオキュパイ・ウォール・ストリート運動でグレーバーが果たした役割がきっかけだった。誰もがおかしいと思っていながら、それを抵抗運動の形にするのが難しい「反グローバル化」というテーマで、多くの人々に運動への共感と参加の輪を広げていった構想力と行動力はすごいものだ。

 惜しい人ほど早く死んでしまうものなのだろう。グレーバーは2020年9月、滞在先のイタリアで59歳でなくなった。訃報は唐突なもので、日本でも多くの人が驚きとともにSNSに追悼メッセージを書き込んでいた。ちょうど私がこの連載をはじめたばかりのころで、これから本格的にアナキズムとグレーバーについて考え、論じたいと思っていた矢先だったので、とても残念に思った。

作品群は3つに大別できる

 グレーバーの作品は、大きく三種類に分けると理解しやすいだろう。一つ目はアクチュアルな関心に動かされて書かれたもの、あるいは現状を変えるために、彫琢途上のアイデアを含めて素描した作品である。このなかには、『アナーキスト人類学のための断章』(2004)『資本主義後の世界のために』(2009、日本語オリジナル)『デモクラシー・プロジェクト』(2013) などが入るだろう。
 次に、現在の世の中(グローバル資本主義真っ只中の世界)がかなりおかしいということを、「国家」と「経済」を中心に論じた作品がある。ここには『官僚制のユートピア』(2015)や『ブルシット・ジョブ』(2018)などが入る。

 三番目に、彼の人類学的な仕事と、現在の世界をそうではないものに変えていくための想像力が融合した作品がある。西洋近代が作り出した「常識」の外部として、非西洋世界と古い時代の二つの方向で外へ飛び出すことを志向する作品群である。つまり、未来を志向するために過去に問いかけ、また、いまここにはないものを人類学的着想で読者の眼前に示す試みである。このなかに、『価値論』(2001)『負債論』(2011) The Dawn of Everything (2021)などが入る。『民主主義の非西洋起源について』(日本語版2020)もここに含めてよいだろう。

 グレーバー自身、社会運動家としての行動と人類学者としての仕事とは分けて考えていると話していた。たしかに、人類学者としての仕事である、価値論、貨幣論(それと表裏の関係にある負債論)はダイレクトに運動へとつながっていくものではない。しかし、現に通用している貨幣や負債についての道徳的価値、たとえば借りた金は返す義務がある、貸した方には何の義務もないという考えは、この社会の不正義や理不尽と結びついている。したがって、そうした道徳が自明でもなければ普遍でもないと人類学的考察によって示すことは、現在通用している価値や道徳を揺さぶる効果がある。

 そのため、グレーバーがその人類学的知見から示してくれる「いまとは違う社会」についてのイマジネーション溢れる叙述は、現状のクソ社会への批判やそれを変えるための可能性を描く際の原動力となっている。そこで以下では、まず『民主主義の非西洋起源について』を取り上げ、彼が西欧中心主義や民主主義の教条的理解をいかに批判したかを検討する。次に、The Dawn of Everythingを取り上げる。この本では、近代欧米発とされる社会組織や理念が他の時代や場所にも存在し、逆に非西欧近代とされてきた社会が従来のイメージと異なる多様性を持つことが、豊富な具体例で示されている。

 次に、『価値論』『負債論』という、分厚くて読むのにハードルが高い、理論的あるいは思想的といえる著作群を取り上げる。なかなか読む気が起きないほど分厚いこれらの著作に何が書かれているのか、それがどのような企図を持っているのかを示すことにする。その上で、現状のクソ社会の仕組みを、皮肉を込めて描いた作品である『ブルシット・ジョブ』『官僚制のユートピア』などを取り上げる。最後にそうした歴史的・人類学的な知見や現状認識を元に描かれた、来るべき社会に向けたアナキズム的想像力による運動の力と未来像を紹介することにしよう。

*この連載とは直接関係ないが、5月10日に科学史家のイアン・ハッキングが死去した。
 ハッキングは、学者たちの小さなサークルではじまった思考の「革命」であっても、それが社会の編成を変えていくダイナミックな力を持つところまで歴史を追いかける、稀有な研究者であった。その執拗なオタク性は追及の手を緩めることなく、ただの物好きの詮索と、認識の転換をかぎ分ける鋭いセンス、広大な視野での読み物的な面白さがいつも同居していた。
 ミシェル・フーコーを「正しく」英語圏に知らしめたことも含めて、ハッキングの死で一つの時代が本当に終わってしまったという気がしてならない。ご冥福を祈る。

(次回「グレーバー」(その3)に続く)

*   *   *   *   *

※1 「国際旅団」とは、1936年から39年までつづいたスペイン内戦で、人民戦線を支持した外国人義勇軍。人民戦線は反乱軍の軍事力の前に屈し、フランコ独裁が成立した。この戦いには多くの外国人義勇兵が参加し、ジョージ・オーウェルの全体主義への恐怖というテーマには、このときの経験が影響している。ロバート・キャパとゲルダ・タローの「崩れ落ちる兵士」の写真でも有名である。
 人民戦線派の中でアナキストは勇敢で人気があったが、次第に内部対立が激化し、共産党・コミンテルン派によって迫害、粛清された。
※2 アルビのガラス工場については、懐かしい二つの論考でかつて言及した。重田『連帯の哲学I——フランス社会連帯主義』勁草書房、2010、p.168、注(12)、重田「モース/ナシオン/ナショナリザシオン——産業デモクラシーをめぐって」金森修編『合理性の考古学——フランスの科学思想史』東京大学出版会、2012、p.473-476.
※3 『アナーキスト人類学のための断章』p.15-18.
※4 マーシャル・サーリンズ、山内昶訳『石器時代の経済学』法政大学出版局、1984.
※5 グレーバー自身による2017年の述懐は以下。‘It Wasn’t a Tenure Case – A Personal Testimony, with Reflections,’ in David Graeber HP.
https://davidgraeber.org/articles/it-wasnt-a-tenure-case-a-personal-testimony-with-reflections/
これによると、2001-2002年のサバティカルに彼が反グローバリズムと反ネオリベラル国際秩序の運動に参加した後、2002年に大学に戻ったら、それまで親しかったはずの教授陣の何人かが、突然口をきいてくれなくなったという。
 彼自身、テニュアが取れるとは思っていなかったが、准教授としての契約は更新されると考えていたようだ。
※6 詳細は、Karen W. Arenson, ‘When Scholarship and Politics Collided at Yale,’ in New York Times, 2005年12月28日を参照。
https://www.nytimes.com/2005/12/28/nyregion/when-scholarship-and-politics-collided-at-yale.html

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プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)

明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)、『真理の語り手――アーレントとウクライナ戦争』(白水社、2022年)など。

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