連載 シン・アナキズム 第5章 グレーバー (その7)
この連載でも取り上げ、日本語訳が出ていないと文句を言っていた、グレーバーとウェングロウの『万物の黎明』が、酒井隆史訳で光文社から9月30日に出版されます。さっそく見本をいただきました。酒井さん、毎度毎度ありえない長さの翻訳をありがとう! ちなみに日本語訳は本文だけで二段組で593ページあります。
価値はモノではなく「関係」にある
またしても長い前置きのようだが、ここまでの話を念頭に置くと、『価値論』でグレーバーが価値とは何かについて考察している部分に納得がいく。『価値論』第3章で彼はテレンス・ターナーの議論を取り上げて、「なんらかの全体性の観念なしには、価値への意味あるアプローチをすることは不可能だ」と述べている。「人間にとって意味とは比較の問題」である以上、「それぞれの部分は相互の関係を通じてその意味を持ち、そして、その過程は必ず、なんらかの全体を参照することを伴っている」からである[※1]。
グレーバーは注意深く、このことは実際の社会に「全体性」が存在するかどうかとは別の事柄だと留保を付けている。そうではなく、その社会に生きる人々が価値について考える際、何らかの「全体的なもの」をそれぞれが想像しているという事実に注目しているのだ。
だが、すでに述べたように、こうした全体性の表象だけでは不十分である。というのも、価値についてのソシュール的と言えるこうした理解においては、「発話(パロール)が時間の只中にあって、つねに変化しているのに対し、言語(ラング)、ないし「コード」は、「共時的」に、あたかもそれが、時間の外の、超越的な瞬間の中に存在しているように扱わなければならない」からだ。そのため「とぎれない変化や転換の過程を説明することが困難になる」。その結果、「ソシュール派は、いかなる行為もうまく扱えない」[※2]という事態に陥る。
これに対してグレーバーが提起するのは、「行為の、隠された、生成的な力から始める」アプローチである。人々が何かの価値を推し量る際には、つねに比較が伴っており、その背後には何らかの全体性の想定がある。その一方で、価値は行為によって絶え間ない変容を余儀なくされ、作り替えられ続けるものでもある。
さらに、グレーバーによるこうしたアプローチは、価値についてのもう一つの主要な考え方、つまり市場の交換をモデルとして価値を捉える経済学的な発想の批判にもなっている。これが彼の最終的な標的であることは冒頭で指摘したとおりだ。もっとも、アナキストなんだから経済学批判は基本中の基本だ。これについてグレーバーは次のように述べている。
市場と交換の経済学においては、人と人との関係を、他から切り離された個人がモノを欲し、所有することへと還元するという「物象化」のプロセスが徹底されている。それによって価値は、個人の欲望の対象である(とされる)モノを尺度として測定されることになる。グレーバーは縦横無尽に織り成される社会関係を、個人によるモノへの欲求と所有に還元して固着させてしまう(動態的な社会関係を、動きのない静的な対象=モノに帰着させる)たえざる物象化が、市場の経済学の中心的な所作であると捉えている[※4]。彼はこのやり方を徹底批判し、「評価されているのは、究極的には、モノではなく行為である、という前提から始めて価値の理論を作る」[※5]ことによって、ダイナミックな相互行為の理論を構想する。
したがってグレーバーの試みは、物象化の謎を解いて経済活動を人と人との関係様式として描きなおしたマルクスを踏襲している。あるいは、変化を描けないソシュールの構造主義にヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を導入して構造を動態化するのと似たアプローチだとも言える。
「互酬」の不思議
さて、ではこうした方法意識を念頭に置いた上で、グレーバーは価値について何を語っているだろうか。『価値論』は長いのでいろいろな話が出てくるが(後で考えるとなぜ出てきたのかよく分からない話題もある)、ここではそのなかでも最も重要な主題の一つ、モース『贈与論』の評価を取り上げることにする。
『贈与論』ははじめ論文の形で、1925年に『社会学年報』に掲載された。この著作が人類学にとっていまも重要な出発点でありつづけるのは、それが「贈与」という、市場における売買とは異質な社会関係を描いているからだ。モースは、当時マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』などで知られるようになった西太平洋の島々の「クラ交易」や、北アメリカ大陸大西洋岸北西部の「ポトラッチ」を例に挙げ、近代ヨーロッパ人が慣れ親しんだのとは異なる交易や「モノ」のやりとりを描いた。そこではモノの移動と人間や社会の関係構築が渾然一体となっており、経済的な取引が、儀礼や宗教、そして社会のモラル上の行為と切り離すことのできない形で展開されていた[※6]。
モースは取引が同時に一瞬でなされる交換とは異なり、時間と社会をまたいだ義務を伴うこうしたやりとりを、「互酬」の関係として描いた[※7]。グレーバーが注目するのは、互酬の不思議な性格である。
十年後の『負債論』ではやや異なった帰結が述べられることになるが、グレーバーはモースが互酬を論じる際、「返礼の義務」を強調している点に注目している。互酬の関係は、近代経済学が考えるような「利己心に導かれて交換を行う」社会関係とはほど遠い。というのも、互酬において先に与える側は「自由に気前よく」贈与するふりをするが、それは返礼を当然の義務として相手を長期にわたる交流へと巻き込む、強制的な関係構築だからだ。さらにそこにモースは、「ハウ」というモノに人格が宿る話を付け加えることで、人とモノとが混じり合う不思議な交歓関係を描写する。
ある人が別の人にモノを贈ると、そのモノには贈与した人の一部が宿ったままになる。そのため贈与された側は贈り物を受け取ることによって、贈り主との関係へと巻き込まれ、そこから逃れることができなくなる。モースはこのように、モノを人格と切り離して所有の対象とすることで成り立つ、古代ローマ法以来の所有権の世界とは別の世界を描出した。つまり、モノと人が渾然一体となった贈与と混交の世界を描いたのである。
欲望はどこから来るか?
資本主義社会においては、個人がモノを所有するという擬制が、そのモノの交換を成り立たせる。そして交換によってモノの所有権は別の個人へと移り、前の持ち主とモノとの関係は消滅する。贈与の世界における「ハウ」では、モノの移動が関係を作り継続させるが、資本主義の市場交換では、モノの移動は関係の終わりをもたらす。
ここで、所有権とその移転という法的擬制が商品交換経済の成立にとって不可欠であることはよく分かる。所有権が保障されなければ、市場での取引から一切の確実性が失われるからだ。売ったはずのものの代金を返せと言われたり、八百屋で買ったきゅうりを食べてしまった後に店主が弁償しろと金を要求してくる社会を想像してみてほしい。そこでは売買は成立しなくなるだろう。
モースが行ったのは、たとえば所有権批判を通じて、資本主義の不正義や搾取のメカニズムを直接的に暴くことではなかった。そうではなく、別様の社会関係、あるいは別様の価値の体系を描き出すことで、商品経済と市場における交換をモデルとする社会が、いかに特異な前提によって成り立っているのか、そしてそれが一つの擬制に他ならないことを示すことだった。
「価値とは、行為が、現実あるいは想像上の、より大きな社会的全体の中に位置づけられることによって、行為者たちにとって意味あるものになる仕方」[※8]である。人間がことばをしゃべり他者とともに生きる以上、その欲望もまた社会化されている。たとえ経済学において想定されるように個人があるモノを欲するとしても、その欲望自体、「現実と想像上の社会的全体性の開かれた重層性」によって規定されている。人は文脈を欠いた無時間的な場で、自分自身のうちから湧き出てきた衝動によってモノを欲することなどない。その意味で、欲望に関する個人主義は誤った想定だ。その想定に基づく市場の経済学も誤りだ。
市場の経済学の背後には、「物々交換の神話」が控えている。これまでこの連載でも何度か取り上げてきたが、この神話は以下のようなものだ。まず、不要なモノを手に持って一人で森を徘徊する未開人が、突然開けた場所に出る。すると、なんと幸運なことに、とっても魅力的なモノを持った、同じく一人で徘徊する別の未開人に遭遇するのだ。彼らは無言で互いが持っているものを交換する。これはスミスによると「交換性向」に基づく行為で、貨幣と商品との交換がなされる近代的な市場に至る、長い長い道のりの出発点だ。だが、交換性向とは何だろう。そんなものがあるのかどうか、いまとなっては分からない。
そこで、なぜ原初の交換が実現するかをさらに考えてみる。すると、交換の起点には、突如として湧いてくる「コレとソレを交換したい!」という欲望を想定する以外にないことが分かる。つまり、それ以上何にも遡ることができないという意味で、アリストテレスの「第一原因」に当たるような、根源的な欲望の力を想定する以外ないのだ。
これがおかしな想定であることは分かるだろう。『価値論』で何度も強調されてきたことだが、人間はいつも社会の中に在るのだ。そしてこれまた人類学がずっと主張してきたことだが、「ひとりぼっちの未開人」は18世紀ヨーロッパの空想の産物にすぎない。人の欲望は社会的に規定されているのに、未開人が一人でウロウロして他の人が持っているものを欲しがったり交換したがったりするというのだから。だが、たとえどんな社会を想定するにしても、人が何をどのような理由で欲するかを考えてみれば、その人の欲望が「ちいかわ 」の「湧きドコロ」のごとく突如として湧いてくるなど、考えられないことだ。なぜ欲するのか、何をどれだけ強く欲するのか。これら全ては社会関係の中にある。
言語と欲望は似ている
そう、そして慧眼な読者はすでに気づいているかもしれないが、これは言語に似ている。ある単語の意味は、隣り合う単語たちとの小さな差異の集積として在る。つまり意味は、言語(ラング)という構造全体をつねに参照することによってのみ成立する。モノの価値もそれと同じだ。言語における単語をモノに置き換えてみるなら、あるモノの価値は隣り合うさまざまなモノ、市場においては隣り合う商品との小さな差異の集積としてある。言い換えると、それは市場における商品がその中に置かれている、社会的な構造全体を参照しているのだ。参照すべき全体がなければ、個々の要素の意味や価値は存立しようがない。だから、人は個別のモノに欲望しているのではなく、それが社会関係の中で担う文脈、つまりはそのものの価値に欲望しているのだ。
その意味で、市場の経済学の想定は誤っている。だがここでさらに問題がある。市場の経済学が間違った主張をしていると触れ回って、その誤りを正せばすむわけではないのだ。というのは、その誤った像をもとに現実の社会が編成され、大変な搾取と暴力が振るわれているのが現状だからだ。頭の中にある思い込みさえ取り除けばいいのではなく、その考えに支えられて存続してきた社会システムという、巨大な対象を変えなければならないのだから大変なことだ。
現実をあるやり方で表象させる、そのやり方を「イデオロギー」という。イデオロギーが厄介なのは、それが単なる空想ではない点だ。人間は行為に際して、たいてい何か考えている。あるいはそう行為すべきだと思ってする、と言ってもよい。その意味での行為の妥当性や何をするかを選ぶ前提として、イデオロギーは役に立っている。目の前にあるモノ(商品)に価値があるとするイデオロギーが、そのモノへの欲望を駆り立てる。それによって、イデオロギーは単なる脳内の想像物ではなく、現に人々に働きかけ、その行為を律し、ある人の行為を通じて別の人に影響を与え、人々の社会的交流、あるいはマルクスの用語でなら「交通Verkehr」を規定するようになるのだ。そうやって作り維持されてきた社会、そして現実を見れば分かるとおり暴力と搾取が蔓延する社会の、どこにどうやって亀裂を入れることができるか。これがアナキスト・グレーバーの問いであり、その答えを探す長旅が、『価値論』であり『負債論』なのだ。
モースはモノと人が混濁する贈与と義務の複合的交わりを描くことで、経済活動とは個人によるモノの所有やその交換ではないことを示そうとした。グレーバーはモースの想像力を引き継いで、モースが示した贈与における「返礼の義務」を再考しようとする。『価値論』ですでに、経済活動という人間の営みについて、多様な社会、多種の文化や共同体を対象とすることで、市場の交換モデルから離れて考えるという基本的な視座が定められている。この視座自体は『負債論』へと受け継がれた。そしてもちろん、人間の経済的・社会的な営みを考察する際、人々の行為のあり方、そうした行為が参照する価値やモラル、価値の生成と変容と価値が作動する仕組み(構造)の全体に注意が払われるべきことが、つねに念頭に置かれている。
人々が価値を想像する際、必ず何らかの「全体(=構造)」が参照されること。価値や欲望はモノからではなく社会関係からくること。社会関係は人々の相互行為によって構成されていること。さらに、個々の行為はすべて、社会的なルールや規範、社会的な価値体系全体を参照して行われること(「反社会的」行為など、社会的ルールに従わない場合も含めて)。『価値論』ではこのようなポイントが議論されている。
これらを押さえたところで、そろそろ『負債論』を論じる準備が整った。それは「借りたものは返さなければいけない」というモラルを検討の俎上に載せるという、実に根本的な問いから出発する著作である。そして、モースの贈与の体系における「返礼の義務」の描写が、「借りたものは返さなければいけない」というモラルの一部をなしているのではないかという疑念が、『価値論』執筆後に徐々に頭をもたげるようになったこともあり、グレーバーは500ページ超えの『負債論』を書くことになった。結果として『負債論』は、モースが描いた贈与の世界をその一部として含み込みつつ贈与を再定義するような、多種多様な人間の経済と社会の営みをさまざまな角度から描写する作品となった。
(次回「グレーバー」(その8)に続く)
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※1 グレーバー、藤倉達郎訳『価値論』以文社、2022、p.144―145.
※2 同書p.85.
※3 同書p.84.
※4 「物象化Versachlichung/Verdinglichung」はマルクスの用語。詳しくは廣松渉の一連の著作、とくに『物象化論の構図』岩波現代文庫、2001を参照。
ちなみに物象化論とソシュールの言語理論をつなぐ私の理解は、廣松および彼と丸山圭三郎との対話(たとえば、廣松、丸山『記号的世界と物象化』情況出版、1993)から影響を受けている。それは1980-90年代に広く流行した考え方である。そこでは、マルクスと言えば「経哲草稿」(「経済学・哲学草稿」または1844年の「パリ手稿」。ここでマルクスは「疎外された労働」概念を展開した)ではなく、「ド・イデ」(「ドイツ・イデオロギー」。ここでマルクスは「物象化」「交通形態」などの概念を駆使して、観念の次元に留まり人間の唯物論的な生存様式へと下降しない当時のドイツの思想、つまり「ドイツ・イデオロギー」を批判した)一択なのだ。
さらに当時は、疎外論はもう古い、いまは物象化論だ、言語のフェティシズムと商品のフェティシズムはそっくりだ、などと言われた。こうしたマルクスの記号論的解釈は、資本主義の「幻想」である「人によるモノの支配」が、実は人と人との関係をモノという実体へとわかりやすく固着させた(=人間関係をモノへと物象化した)にすぎないことを示した点で、一定の意味があった。言い換えると、人は一見するとモノを欲望しそれを支配=所有しようとしているようだが、実際には他者との関係の中で欲望を抱き抱かされているということだ。だから資本主義における所有欲の狂乱(当時のバブル状況)を変えようとするなら、資本主義的生産様式における他者関係(=物象化された他者関係)を変革することが必要になるのだ。
だが、廣松の物象化の強調と疎外ディスりは度を越していた。元来物象化と疎外とは相容れない概念ではない。私たちはモノの所有に執着すると同時に、労働において疎外されていることを実感している。世の中には、何のために、何に役立っているのか分からない労働が溢れ、人は次々に心を病み、死を選ぶ人も後を絶たない。生きるための労働のはずなのに、なぜ労働のせいで死ななければならないのか。この本末顛倒状態こそ、まさに疎外である(ちなみに、疎外された労働の現代的形態は、この連載で次に取り上げる『ブルシット・ジョブ』のテーマでもある)。
また、資本主義における物象化の記号論的理解は、マルクスの主眼であった資本主義の生産様式への着目(唯物論)の重要性を看過するものだという批判を受ける可能性もある。言語と経済は似ているかもしれないが、言語には生産様式の問題は出てこないからだ。たしかに言語も経済も、人間行為の集積によって成り立っている。とはいえ、言語が記号であり表象であるのに対して、経済における生産・交換・消費は、自然を含む人間と世界との物質的な代謝や循環を含んでいる。それを欠いた単なる記号性だけだと、たとえばマルクスから環境問題(資本主義特有の人間ー自然関係、つまり人間による自然資源の際限ない無駄遣いによって引き起こされる問題)を論じるという理路は生まれようがない。この壮大な無駄遣いの一例が、前回冒頭に挙げた下北沢の似非サステイナブルである。
※5 『価値論』p.88.
※6 モースはこうした人間と社会の関係を「全体的給付の体系」と呼んだ。
社会的全体から経済活動を切り離すことができないというモースの発見は、ポランニーとも共通している。ポランニーはこれを「人間の経済」と名づけ、経済取引が社会から「脱埋め込みdisembedded」されている商品市場経済と区別した。『大転換』後に経済人類学的興味を強めたポランニーは、人間の経済の多様なあり方について書き残した。ポランニー、玉野井芳郎他訳『人間の経済』I・II、岩波モダンクラシックス、2005, 栗本慎一郎他訳『経済と文明――ダホメの経済人類学的分析』サイマル出版会、1975などを参照。
※7 モースによる互酬への注目の後、ポランニーは『大転換』で、人間の経済関係のあり方として「互酬」「再分配」「市場」の三つを区別している。これについては『負債論』のところで再度取り上げる。
※8 『価値論』p.398.