シン・アナキズム 終章「マッドマックス 怒りのデス・ロード」
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は、「行って帰ってくる」物語だ。そしてこの映画は、アナキスト的価値観が脈打つ作品である。アナキズムとフェミニズムの融合という稀にみるテーマを扱った映画といってもよい。
この連載も今回で一区切りとなるので、締めくくりにこの映画について話しておきたい。実は連載をはじめたときからずっと、「最終回はデス・ロードで」と構想を温めてきたのだ。
ところが、5年越しでアナキズムと格闘している間に、なんとジョージ・ミラーの新作「マッドマックス フュリオサ」が公開されてしまった。そしてどうしても我慢できず、5月31日の公開初日にフュリオサ大隊長のゴーグル(偽物)を首からぶら下げて観てきた。これは新たな「行って帰ってくる物語」でもなく、アナキズムの共同性もテーマではないことが分かった。だから今回の連載には直接関係ないのだが、フュリオサの映画なのに「女たちの物語」がなくて残念だった。そしてマイティ・ソーがソーにしか見えなくて集中できなかったので、そのキャラが出ていないシーンはとてもよかった。
ジョージ・ミラー執念の4作目
ジョージ・ミラー監督は、今回の「フュリオサ」を含めるとこれまで5本の「マッドマックス」シリーズを撮った。第一作の「マッドマックス」(1979)は低予算で、ひと気のない道路などを利用して撮影された映画だが、ミラーと主演のメル・ギブソン、そしてオーストラリア映画を世界的に有名にした記念すべき作品だ。近未来を殺伐とした無法地帯として描くというスタイルは、この作品以来貫かれるマッドマックスの世界観である。
「マッドマックス2」(1981)では、まさに「ポストアポカリプス」(終末後)が描かれている。核を用いた世界戦争で緑が失われ砂漠と化した世界で、石油争奪のための戦いがくり広げられる。この映画は、砂漠の石油精製所のセットやギャングたちのファッション、使われる武器、そして車両やバイクの造形が、その後の多くの作品に影響を与えた。日本で最も知られているのは、「モヒカン、ムキムキ、砂漠、ひでぶ」のマッドマックス的世界が展開する「北斗の拳」(1983―1988)であろう。
第三作「マッドマックス/サンダードーム」(1985)は、半球型のリング「サンダードーム」での戦いを仕切るティナ・ターナーが印象的な映画だ。全体のテイストは昔のジャングルアクション映画を彷彿させ、どことなく「ターザン」を思い出させる。
ミラーはさらなる続編の構想を温めていたが、ようやくはじまった新作の撮影準備中に9.11テロが起こったり、前3作に主演したメル・ギブソンがハリウッドで問題を起こしたりと災難つづきで、何度も制作が止まってしまった。その間に子豚ちゃんが主演の「ベイブ/都会へ行く」やペンギンくんが踊る「ハッピー フィート」1・2などでお金を貯めて、マッドマックスシリーズの新作に執念を燃やしつづけていた。
そして、2010年からようやく新たに撮影を始めたのだが、今度は豪雨が続いた後に砂漠が一面の花畑になってしまい、ロケ先をオーストラリアからナミビアに移して再開された。とうとう2015年、ミラー監督70歳にして「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が公開された。主演はシャーリーズ・セロンとトム・ハーディ[※1]。この作品はシリーズ最高傑作とも言われる完成度とビジュアル、ストーリーの素晴らしさで絶賛されている[※2]。
「約束の地」への逃避行
この映画の舞台はウェイストランド(荒野)とされるが、マッドマックス2の設定を引き継いでおり、世界全体が核戦争によって汚染され、砂漠となっている。そのなかに築かれたシタデル=砦では、「イモータン・ジョー」とその一味が支配する独裁体制が敷かれている[※3]。彼らは砦の上で貴重な水を独占し(地下に豊富に存在する「アクア・コーラ」を汲み上げている)、下に暮らす民衆を抑圧している。住民の数は不明だが、数千人はいると思われる。彼らが日常的に何を食べ、どんな生活をしているのかは分からないが、暴力と恐怖と偶像崇拝が支配する世界であることはたしかだ。
この映画の中で、反乱を起こすのは虐げられた下層民ではない。イモータン・ジョーが男の子を産ませるために選んだ5人の「ワイヴズ」(花嫁)=子産み女たちが、あまりにひどい性奴隷としての生活から逃れようと脱出を試みるのだ[※4]。それを助けるのはイモータンの部下のフュリオサ大隊長である。この人も女性で、つまり女性6人が「ウォー・リグ」という巨大タンクローリーに乗って逃避行するという話だ。これまでシリーズでずっと主役として活躍してきたマックスは、今回はたまたま彼女たちを助けることになった異邦人といった役回りになる。
この作品では、男と女の価値観や生き方の違いが鮮明に描かれている。イモータン・ジョーを頂点とする絶対的な同族支配体制において、男たちはマシーンの改造やメカいじりと、イモータンへの個人崇拝の宗教にはまっている。イモータンには息子や直属の手下がおり、彼らは上級将校のような立ち位置なのだが、揃いも揃って戦闘マニアか殺人マニアである。図体だけはでかいが言動が子どものような怪力リクタス、カツラの代わりに弾薬の束を頭にかぶっている「武器将軍」、そして殺した人間の肉を食っているという噂の「人喰い男爵」(終始自分の乳首をいじっている)など、砦-弾薬畑-石油庫(ガスタウン)という暴力と支配のための拠点を掌握する男たちは、わずかに残された貴重な資源を食い潰すばかりだ。
こうしたまさに終末後の絶望的な世界を、ますます救いのないものにしている男たちにとっては、支配者のために戦うことと命を落とすこと、そして砂漠を駆ける改造車に磨きをかけること以外に価値を見出せない。戦場で命を落とせばあの世で救いが待っている。死後に「英雄の館」(ヴァルハラ)へと連れて行ってくれるジハードのほかに、生きる意味はどこからも得られないのだ。
イモータンの下で戦うウォーボーイズたちは、環境汚染のために血液の病気にかかっており、輸血がないと生きられず、寿命はとても短い。坊主頭に白塗りで山海塾か佐清さんのようだが、紫外線に当たってがんになるのを防ぐための日焼け止めらしい。戦場で特攻をかけて死ぬ前に歯と口に銀色のスプレーを吹きかける様子が有名になったが、これはあの世で輝ける英雄の世界に行くための儀式だという[※5]。つまり、若い男性の多くは戦士で、破滅的な戦争による大地の汚染で寿命が短く、死に様に意味を見出す以外に生きる目的を持つことができない存在として描かれている。
こうした劣悪な環境の下で、水と石油という命をつなぐ二つのものを、支配者が完全掌握し、独占している。ここでミラー監督は、暴力的な男性支配者による富と権力の独占を、荒々しく単純化して描いている。
以上のような、ある種寓意的な舞台で物語が展開するため、人物関係もまた単純で暴力的である。人々は「いまここ」の刹那に、生きる意味や存在を賭けており、それはつねに死と隣り合わせとなっている。つまり、現実の文明社会におけるような、蓄財や細分化されたステイタスなどからくる複雑な社会関係は存在しない。
他方で、映画に登場する女性たちはそうした男性の価値観を心の底から軽蔑している。彼女たちは暴力によって徹底的に支配されてきたことで、男たちが崇拝する世界がいかに独善的で他者の犠牲の上に成り立つものかを知り尽くしているのだ。だがこの支配は絶大で、うまく立ち回って暴力をかわすことなど到底できない。そのためフュリオサと5人の花嫁たちは、そこから逃れるには「約束の地」への逃避行以外の道はないと決断するのだ。
つまりこの映画は、モノのように扱われることを命がけで拒否する、花嫁という名の性奴隷女性たちの逃亡を、異様なほどの物理的・精神的強靭さを持つ一人の女性戦士が助ける話なのだ。マックスは支配者側の男性たちから追われる立場だが、自らも男性であり、なおかつ砦の部外者である。このようにどの立場とも異なる視点から事態を眺めていたマックスは、途中からは彼女たちのよき理解者となり、逃避行の手助けをすることになる。
「地獄」に戻るという選択
この映画のプロットは、第一部と第二部に分かれている。いずれもカーチェイス場面が中心だ。カーチェイスとは言っても、「フレンチ・コネクション」(1971)や「ミニミニ大作戦」(1969)のような街中での逃亡劇とは全く違っている。何もない砂漠で謎のメカ軍団がエキセントリックな出立ちで激しいバイオレンスをくり広げるので、武闘映画のようでもある。
第一部はすでに述べたシタデルという地獄からの脱出を描き、彼女たちがフュリオサの故郷の女たちと再会するまでを描いている。普通の映画ならここでハッピーエンドとなるのだが、世界は終末後なので、この地も枯れ果て砂漠と化している。そしてかつてあった約束の緑の地が、逃避行の途中で通ってきた幽霊族しか住めないような沼地になっていたことを知り、フュリオサは旅の目的であった楽園自体が失われていることに打ちのめされる。またしてもここで普通の映画なら、追っ手を逃れたわけなので新しい場所への旅立ちとなるだろう。実際フュリオサも、出てきた砦とは逆方向に新たな目的地を設定しようとする。
ところがここで、マックスは別の提案をする。それがこの映画の第二部のはじまりになる。およそ考えられないことだが、それは彼女たちが逃げ出してきた地獄に戻ることなのだ。理由は、荒廃し汚染されつくした世界で、未知の場所への旅をいくらつづけてもユートピアにはたどり着けず、どこまで行っても枯れ果てた砂漠がつづくことを、流浪の旅人マックスが知悉しているからだ。フュリオサと花嫁たちはマックスの説得に覚悟を決め、砦に戻ることを決意する。約束の場所はどこか遠くにあるのではなく、もともと暮らしてきた場所にある資源を用いて生きていかざるをえないことを、彼女たちは理解し選びとるのだ。つまり、自分たちが暮らしてきた場所以外のどこか遠いところにユートピアがあるという希望を捨てるところから、第二部がはじまる。
そして、フュリオサの故郷の「鉄馬の女たち」、女性だけの集団で砂漠を生き残ってきた彼女たちもまた、砦に一緒に行くことを選択する。鉄馬の女たちの長老は汚染されていないタネを大切に保管してきた。無事砦に戻り、地下水の独占を解除することができたら、そのタネを植え食べ物を育て、皆で自給自足の生活をしようと提案する。
そして予想通りだが、帰途にはまたイモータンとその部下の追っ手が立ちはだかることになる。彼らは弱々しい女であるはずの獲物に逃げられたことに怒っており、彼女たちが戻ってきたことに興奮し、殺気立っている。元の場所に戻るには、逃げるときよりもっと過酷な戦闘に再び飛び込まなければならないのだ。
花嫁=子産み女たちの逃亡を助けた女戦士フュリオサは、激しい戦いの末にとうとう支配者たるイモータンを打ち倒す。砦に戻った女たちを出迎えた民衆は暴力的支配者の死に歓喜し、亡きイモータンの部下たちは、彼ら民衆と、砦の上にいる静かなる反逆者たる「乳母たち」(花嫁が産んだ子を育てる女性たち)を抑えられないことを悟る。絶対者の支配に慣らされてきた男たちは、悪のカリスマが命を落とした途端、あっさり降伏するか仲間割れして殺し合うかしかない存在なのだ。こうしてフュリオサたちは砦に迎え入れられる。高所からの一方的支配は終わりを告げ、民衆に水が分け与えられる。
手持ちの場所と資源をつかうこと
ミラー監督は、女性たちを連れ出す戦士が女性でなければならない理由を次のように説明している。男が逃亡を助けたら、それはある男が別の男から女を奪う話になってしまう。奪うのではなく助けるには、戦士は女性でなければならない。男が暴力的な男から女を奪ったら、女はつねに奪われ、庇護され、所有者が変わるだけのモノと同じになってしまうからだ。
たしかに考えてみると、これまで多くの映画で描かれてきた男による救出譚は、誰かから女を奪うか、または盗られた女を奪い返すか、場合によっては女を殺された男の復讐劇であった。女が不屈の闘志で立ち上がるのは、女か子どもを救おうとする場合に限られてきた[※6]。そして女は、女や子どもを救うことを通じて信じがたいほど強くなり、救うことを通じて自らも救われることになる。「グロリア」(1980)も「テルマ&ルイーズ」(1991)も「ターミネーター2」(1991)も「エイリアン2」(1986)も同じだ。これらの映画で男は、奪い、勝ち取り、打ち負かすために闘いを挑む。女は守るために戦い、結果として打ち負かす。これがいまの社会を映す鏡になっている。支配と結びつく形の暴力と、ケアと結びつく形の対抗暴力とでは、そのふるわれ方も決着がついた後の勝者のふるまい方も全く異なるのだ。
流浪の旅人マックスは、フュリオサが新しい指導者として民衆から承認を受ける様子を見届け、砦を去る。マックス・ロカタンスキーは世界の崩壊前にすでに最も大切な存在を失っており、孤独な旅をつづけるしかないのだ。こうして女性たちは、思い出したくもない暴力が刻まれた場所に、新しい共同性を作り上げていくことになるだろう。
この映画は、暴力による独裁を終わらせ、新しい社会を作るには、行って帰ってくる者の存在が必要であることを示している。彼女たちは、そこから逃れることができるという可能性と、戻ってくることができるという現実性の両方を告げ知らせる者である。その者たちは、一人のための全員の支配を終わらせ、戦闘の無意味さを悟らせ、水の独占をやめさせ、暴力ではなく協働を社会組織の原理とするだろう。すでにある場所、すでにあるもの、すでにいる人々の中から、上と下を分けて一人を頂点とする偶像崇拝の秩序とは異なる、人々の紐帯が築かれなければならない。
タネを植え育てること、きれいな水を皆が得られること、暴力と戦闘以外の日常を中心とした社会秩序を作り上げること。そしてそれを、どこか遠くのユートピアではなく、自分たちがすでにそこに生きてきた手持ちの場所と資源を使って試みること。こうした未来を示唆している点で、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は、アナキズム的な実践のコアにある価値観を示している。
そしてとうとう、「マッドマックス」は5作目にして、フュリオサの物語として帰ってくることになった。第1作では「美人の」奥さんとわが子を殺されて復讐に立ち上がった警官マックスのバイオレンス映画だった作品が、暴力的支配者に囚われたものの戦闘大隊長にまで上りつめ、囚われの地から自力で脱出したあとに復讐を遂げ、新しい故郷を創り出す女性を描く作品へと変わるまで、25年かかった。この25年間、一人の女性としてまた仕事を持つ母親として生きてきた身として、「マッドマックス」はとりわけ感慨深い映画なのだ[※7]。
連載終わり
* * * * *
[※1] セロンは髪を丸刈りにして撮影に臨んだ。長身のため男性相手のアクションシーンにも不自然さはない(その点「フュリオサ」のアニャ=テイラー・ジョイには全く力強さが感じられない。これは「女性の映画」として観る場合には、きわめて残念な点である)。マックス役にはハーディの前にオーストラリア出身のヒース・レジャーが想定されていたという。ところが「ダークナイト」の直後に亡くなってしまった。レジャーがマックス役なら、マックスはフュリオサの補佐役とは異なった役割になったかもしれない。
登場する四輪・二輪の造形はどれもすばらしい。ハンドルやバックミラーの装飾、立体エンブレムなど、マッドマックスオタクたちによって細かい部分まで作り込まれている。なかでもギターを大音量で奏でるギターマン用の車両は、後ろに太鼓隊を従えた奇想天外かつ有用性を超越した盛り上げメカだ。タツノコプロのタイムボカンシリーズの楽しさがある。どうせならミニメカが親メカの口から出てきたりしてほしいが、あの戦場ではすぐに吹っ飛ばされるだろう。
また、登場人物のコンセプトデザインには、アニメ監督の前田真宏が参加している(月刊ニュータイプ公式サイト:「マッドマックス」奇想天外なデザイン誕生の瞬間 2015.9.15 https://webnewtype.com/report/staff/64724.html)。
[※2] アメリカのアカデミー賞はバイオレンス映画には冷淡だが、この作品は6部門で受賞した。ただし、受賞は美術・衣装・音響・メイクなどにとどまった。作品賞と監督賞にはノミネートされたが、作品賞が「スポットライト」、監督賞が「レヴェナント」だったことを考えると、両方とも「怒りのデスロード」が受賞しても不思議はなかった。やはりアカデミー賞はバイオレンス映画が嫌いなのだろう。
[※3] イモータン・ジョーはよくある名前フラグのせいか、劇中でイモータンではないことが発覚する。つまりイモータンは「可死の神」でしかなかったのだ。演じたヒュー・キース・バーンは、初代「マッドマックス」では暴走族の憎たらしいリーダー、トーカッター役を演じていたミラー監督お気に入りの俳優だが、2020年に死去した。
[※4] ミラー監督は『ヴァギナ・モノローグ』(岸本佐知子訳、白水社、2002)のイヴ・エンスラーの助言を受け、女性を話を面白くするための単なる道具として扱わないよう気を配ったという。また、花嫁役の5人の俳優は、エンスラーのワークショップに参加して、性的暴行を受けた女性の心理や疵について学んだ。
[※5] この儀式は、ミラー監督がベトナム・カンボジア戦争のドキュメンタリーを見て、そのなかに出てきたカンボジアの兵士がお守りを口に入れるシーンから着想したそうだ。
[※6] または死んでしまった家族の復讐。「修羅雪姫」「キル・ビル」など。
[※7] 「怒りのデスロード」の映画制作をめぐるエピソードについては、とくに以下の二つを参考にした。
映画ライター高橋ヨシキによるジョージ・ミラー監督インタヴューhttps://www.tbsradio.jp/utamaru/2015/06/post_897.html
映画評論・情報サイトBanger 2020.8.17
https://www.banger.jp/news/40932/