連載 シン・アナキズム 第5章 グレーバー (その3)
「欧米とそれ以外」という世界像を批判する
西欧/欧米とそれ以外の地域や文化の区分を自明とする世界像の批判と、グレーバーにおけるアナキズム観には深い関係がある。つまり、人類学者としての仕事と社会運動の実践家としての活動とは結びついているのだ。では両者の関係はどのようなものなのか。これを明らかにするために、はじめに『民主主義の非西洋起源について』を取り上げる。この翻訳書は、2014年に刊行されたフランス語版を元にいくつかの論考を加えた日本語オリジナルである。ただしフランス語版・日本語版いずれも、2005年にRevue de MAUSSというフランス語の評論誌に掲載された論考が元になっている[※1]。
Revue de MAUSSというのは、アラン・カイエを中心とするフランスの知識人集団が、その知的運動を展開する場としてきた定期刊行誌だ。1981年創刊なので、かなりの歴史がある。MAUSSは、カイエらがインスピレーションを得た中心的思想家であるマルセル・モースの名字と、「社会科学における反功利主義運動 Mouvement Anti-Utilitariste en Sciences Sociales」の略称をかけたもので、彼らの立場をよく表現している。この思想家集団については日本でも紹介があり、カイエの代表作『功利的理性批判』も翻訳されている[※2]。
このように、グレーバー、カイエ、フランスにおける功利主義批判(ひいてはグローバル資本主義批判)、そしてモース、ポランニーは緩やかにつながっている。こうした知的水脈を押さえておくことは、グレーバーの思想的な傾向と背景を知る上で重要だ。
さて、話を『民主主義の非西洋起源について』に戻そう。この論考でグレーバーは、民主主義という理念が「西欧的」であるという根強い見解を修正しようとする。このことをつうじて、民主主義のイメージそのものを新たにしようという、なかなかに野心的な試みを行っている。
ここでグレーバーが最初に批判するのは、サミュエル・ハンティントン「文明の衝突」の世界像である。主にハンティントンが1993年にForeign Affairsに寄稿した論考、そしてこの論考のテーマを拡充した、1996年の著書『文明の衝突』が俎上に載せられる。『文明の衝突』の日本語訳は1998年で、当時は一大ブームとなった[※3]。若い人は全く知らないでしょうけど。そのころの日本の知的空間では何を論じるにも、「文明の衝突が言われる現在、、、」などと話の枕になっていた記憶がある。もっともその10年前は「ベルリンの壁が崩壊し歴史の終わりと言われる現在、、、」だったし、10年後には「リーマンショック以後を生きるわれわれは、、、」で、さらに最近は「チャットGPTの登場で、、、」かもしれない。ともかくその程度には流行していた。
当時から私は、ハンティントンの文明実体主義に呆れつつ、この流行を苦々しく眺めていた(子どもが0歳で論争に参加するどころではなかったので、遠くから睨んでいただけ)。だがグレーバーの批判は、そのころの多くのハンティントン批判とはかなり異なるもののように思われる。というのも、ハンティントンは民主主義のような「西欧的 Western」[※4]な理念を、非西欧世界に広げるのは諦めた方がいいと主張していた。これに反対した人たちの多くは、ハンティントンに抗して民主主義の価値とその世界への普及の重要性を熱心に説いていた。
フクヤマとハンティントンの関係
ハンティントンの議論は、その約10年前にフランシス・フクヤマという、これまた保守的で、独特の搦手 論法を採る政治学者が唱えた、「歴史の終わり」テーゼへの一つの応答でもあった。フクヤマは当時、ソ連東欧圏の社会主義が終焉したことで、「自由民主主義」陣営に対抗する存在が理念的にも物理的にもなくなったと考えた。こうして、諸価値の戦い、神々の闘争としての歴史は終焉を迎えたと主張したのだ。自由と民主主義の勝利によって、今後は諸価値の葛藤を欠いた変化のない時間(つまり歴史なき時間)のみが過ぎていくことになる。これはヘーゲル『精神現象学』における精神の旅の終わりの後の世界のようなものだ。
ちなみに私はこの時も、いったいこの人は何を言ってるんだろうと思っていた。ヘーゲル主義者の考えることは全く恐ろしいが、歴史が終わるわけないだろう。歴史は精神の旅ではなく無数の人間たちの生活の苦闘から成るのであり、観念の完成など見通せない夾雑物の山でできているのだから。そしてその後の歴史を見ればわかるとおり、諸価値の戦いは終わりどころではなかった。中東の不安定化をあらわにした湾岸戦争(1990)、ヨーロッパを震撼させたボスニア内戦(1992―1995)、イスラム圏の台頭、宗教・民族対立。こうした紛争と分断を目の当たりにして、冷戦構造に代わる新たな価値の対立軸でこれを理解しようとしたのが、『文明の衝突』だったと言える。
かつてのフクヤマの図式は、19世紀以降に出現するという意味では比較的新しい、資本主義対社会主義、あるいは民主主義対全体主義という対立構図に依拠していた。これに対してハンティントンは、欧米対それ以外を文明対野蛮と密かに重ねる18世紀的な文明史観に立ち戻っているともいえる。その上で、欧米以外にも独自の文明があり、欧米の価値観をそうした諸地域に押しつけることはできないとした。これは一見すると多元主義のようだ。だが実のところ、多元主義を装った欧米中心主義の立場から、敵対する諸陣営が和解するなどありえず、下剋上の闘争が永遠につづくという、ニヒリスティックな世界像を示したものである。
奇妙な常識
こうした隠れた欧米中心主義に反発するグレーバーは、そもそも西欧文明なるものが民主主義を発明しただとか民主主義の故郷だとか、ハンティントンが自明視している考えにはあまり根拠がないという。つまり、ハンティントンがその主張の前提として「事実」だとする事柄自体が、怪しげな根拠しか持たないといっているのだ。
私はこれを読んで、極東の一政治思想研究者である自分の出自を振り返った。そして大学教員に落ち着くまでに、とりわけ大学院入試という恐怖に満ちた規律訓練の場面を通じて、「民主主義の起源は古代ギリシアにある」という物語を学ばされてきたことを思い出した。さらに、民主主義は近代に至るまで逆境に耐えてヨーロッパでひっそりと育まれ、アメリカとフランスという大西洋をはさんだ二つの革命以降、政治の表舞台に返り咲くと教えられたことも。
グレーバーはこうした見方を、奇特な歴史観を持っていなければ維持できない考えだとしている。というのも、紀元前5世紀のアテネが西欧民主主義の起源であると見なすためには、「この時から1215年〔マグナ・カルタ〕まで、あるいは1776年〔アメリカ独立宣言〕までに起こった事柄の、ほとんどすべてを無視するか、軽く一瞥するにとどめておくという心の構えが必要」[※5]になるからだ。
グレーバーは、ハンティントンを批判した人たちの多くが、民主主義なるものが西欧において芽生え、その起源は古代ギリシアにあるという非常に奇妙な「常識」を疑っておらず、この点ではハンティントンに賛同していることに注目する。彼らは、西欧的なものが存在し、それが「古代ギリシアに起源をもつ学的伝統としても、今日の西ヨーロッパと北アメリカの住民たちの共通感覚をなす文化としても」[※6]扱うことができると思ってきたと、半ば軽蔑をもって指摘している。
こうしてグレーバーは、『民主主義の非西洋起源について』の第二章に「民主主義はアテネで発明されたのではない」という表題を掲げるに至る。ここで彼は、カール・シュミットばりの狡猾さで、そもそも民主主義が採決や投票を必要とするという考えが「西欧」に特異なのではないかという問題提起をする。というのも、意見の相違がどこにでも存在するものだとして、少数派が反発をつづけず、彼らが多数派に従うなんらかの仕組みがある社会なら、投票や採決といった個々のメンバーの意思表示は不要だからだ。
個人の意思の表現とその数え上げが民主主義であるという観念への批判は、実はしばしばなされてきた。近代民主主義の典型のように扱われるルソーの一般意志論も、多数決への疑念という点では、こうした民主主義観への批判の一つである。先ほど挙げたカール・シュミットは、喝采民主主義というこれまた恐ろしい伝統を古ゲルマンの森から引っ張り出してきて、代議制民主主義をこれでもかとこき下ろしている。もっともそれに代わる彼らの民主主義イメージは、グレーバーのものとはかなり異なっているのだが[※7]。
なぜ「西側」と「民主主義」が結びついたか
グレーバーが取り上げる民主主義のイメージは、日本でなら「村の寄合」の意思決定様式を想定すると分かりやすい。これは、宮本常一が『忘れられた日本人』(1960)で紹介したことで有名になった[※8]。日本全国を聞き取りして歩いた民俗学者の宮本は、対馬のある村で古文書を見たいと申し出る。村の人々は村外の者に見せていいものかどうかすぐに結論を出さず、寄合を開いて話し合いが行われた。ここで村人たちがさまざまな意見を出し合う様子を、宮本は丁寧に描写している。村人からの話を交えて宮本が記述するところでは、寄合は深夜に及ぶこともあれば、数日かけて意見が交わされることもある。
ただし、寄合では多数決を取るようなことはしない。しかもいくつもの議題が次から次へと現れ、一つの話題が終わって結論を出してから別の話題に移るという発想がない。そのなかであれこれの話題に関して皆が思い出したように先例をいろいろと出してくる。どの話題についても、皆が出したいだけ意見を出し合う。注意すべきは、ここではディベート的な議論は行われないということだ。急に別の話題が持ち出され、前の意見に賛成か反対かがあからさまに主張されることはなく、話題がうつり変わる。そのため外から見ると、話が噛み合っていないようにも見えるし、議論が進んだのかどうかもよく分からない。
そうこうしているうちに、意見が出尽くしてくる。頃合いを見計らってまとめ役が、「こうしたらどうだろう」と村人たちが出してきた先例やあれこれの見解を踏まえて提案をする。誰も何も言わなければ、そこで村の意見は決まったことになる。ここにあるのは、まさにグレーバーがいう「妥協と総合のプロセス」[※9]である。何かが決まったのか決まっていないのか、誰が決めたのかも曖昧だが、最後には誰も反対しない方針が得られる。
これに対して、グレーバーによるなら、古代のアテネやローマに見られたのは、根底に暴力を含むような競争的な体制である。二つの古代社会はいずれも、貴族と平民、異なる出自や利害を持つ人々が互いに対立し、競合するような社会であった。そこでは、プラトンやその後のエリートたちが嫌ったように、民主主義とは「デモス」の支配であり、民衆の暴力的エネルギーの表明、しばしば暴動として表れる直接行動を意味してきた。
では、こうしたデモス支配としての民主主義の悪いイメージが変わるのは、いつのことだろう。グレーバーによると、ヨーロッパ世界の一部の人々が「欧米」という自己意識を持ち、自らを「西側」と考えるようになるのは、19世紀末にすぎない。それ以前、ヨーロッパで「西 West」とは南北アメリカを指していた[※10]。そしてまた19世紀は、労働者への選挙権付与によって、数で優る彼らの意見を政治に反映せざるをえなくなった時代でもある。つまり時代の趨勢により、民主主義こそが欧米のよき政治体制とされるようになったのだ。
ネイティブ・アメリカンの制度が起源
ここから先、グレーバーはきわめて人類学者的な知識と観点から話を進めるので、私にはその議論の当否を判断できない。彼は、アメリカの「合衆国」体制、あるいは連邦的な体制は、当時北米の東海岸に存在した、ネイティヴ・アメリカンのいくつかの部族の制度の影響を受けたものだという説を紹介している[※11]。
そしてつづけて、次のように主張する。ネイティヴ・アメリカンとその模倣に見られるような民主主義の実践は、『フェデラリスト』や著名な建国の父たちの頭の中から出てきたものではない。むしろフロンティア期の港に集ったさまざまな出自の船乗りや海賊たち、そしてまさにフロンティアに住みついた開拓者たちが、平等主義的で民主主義的な共同生活を、ネイティヴ・アメリカンの見よう見まねで実践しはじめたのだ。「近代人種主義の発生に先立つ時期、北大西洋世界の港町に発展をみたこうした集合体の中からこそ、アメリカやそのほかの地域の革命を促した民主主義的衝動の多くは最初に生じたものと思われる」[※12]。
ここでグレーバーは、かなり突拍子もないことを言っているように見えるかもしれない。だが気をつけなければならないのは、民主主義が西欧起源であることや、直接民主主義は投票や挙手による意思表示を伴うといった、私たちが過去の教育によって刷り込まれてきた基準に則って、グレーバーの議論を判断してはならないという点だ。彼は「別の起源」を示唆することをつうじて、民主主義のイメージそのものを変えようとしているのだから。
もちろんグレーバーの問題提起は、民主主義の「定義」のような堅苦しく教条的なものではない。むしろ、「民主主義をこんなふうに理解してみたら、これまでとは全然違う世界史の側面が見えてくるんじゃないか」という一つの提案だ。グレーバーはいつも、慣れ親しんだ退屈で抑圧的な見方の外に出ること、ありきたりの概念をもっと自由に捉え返すことを誘いかけてくる。それによって民主主義のような、教科書に頻出するかしこまって少しうんざりさせられる理念が、生き生きした実践として息を吹き返し、魅力を回復するのだ。
彼は「民主主義とは何か」などと、したり顔で教えを垂れたりしない。古典を引用して箔をつけることもない。そうではなく、既存の民主主義観に対抗する別の例、異なる民主主義像を次々と繰り出してくるのだ。その先に言いたいのは次のようなことだ。「実践としての民主主義が発生するのは……おおむね、何らかのコミュニティが、国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するときのことだ」[※13]。
エリートは何を恐れるか
グレーバーによるなら、アメリカを作ったと神話化されている、気取った建国の父たちと同様、現在でもエリートたちは民主主義の特定の側面が大嫌いなままだ。それはたとえば、「誰かが強制の装置の何らかの側面を民主化するよう提案する瞬間」[※14]に明らかになる。彼らは広場での討論が嫌いなのだ。広場はデモスが暴動を起こしかねない場所であり、そこに集うことは、偶然で制御不能の事態を生みかねない。それは理性と秩序へのデモスによる暴力的な介入と見なされている。
グレーバーがここで挙げる例が興味深い。アメリカで、陪審員は証拠だけでなく法律問題についても決定を下すことが憲法にかなっていると考える人たちは、モブ(暴徒)の叛乱を容認しているとして告発されてきたそうだ。エリートの考えでは、大衆は愚かなので法律的判断などできない。信頼すべきはマントを着て木槌を振り下ろす専門家だけというわけだ。
グレーバーが想像する民主主義は、このようにエリートたちに目の敵にされ、できるかぎりその役割を違法化するよう注意を払われてきたものの側にある。だがそれはほんとうのところ、暴力による言論と秩序の無視ではない。秩序と称するものが抑圧と強制の装置として作用することへの反発であり、自己統治の原則に基づくコミュニティの創造なのである。エリートたちが最も恐れるのは、民衆が勝手に何かやりはじめ、自分たちのことを自ら決めることだ。そんなことを認めれば、彼らは支配層の言うことを聞かなくなってしまうだろう。
なぜ「アナキズムと民主主義は同じもの」か
グレーバーのいう「民主主義的即興の空間」[※15]とは、あちこちに現れる自治と自決の瞬間であり、支配と暴力への直接行動によるプロテストなのだ。それは誰かによって、何らかの制度によって「所有」されるようなものではない。むしろ人々の間に、「あいだの空間」[※16]に現れるのだ。それはまた、「自律的コミュニティの自己組織化を通して民主主義を基礎づけなおそうという提案」[※17]でもある。その意味でグレーバーにとって、「アナキズムと民主主義はおおむね同じもの」[※18]なのだ。
この連載をいくつか読んだことがある人なら、私がアナキズムとして描いてきた思想や運動もまた、グレーバーがここで描き出した民主主義とほぼ同義であることに気づくだろう。テロリズムや暴力や秘密結社のイメージをまとわされてきたアナキズムを、即興による合意形成と変形可能な組織化としての民主主義に引きつけて理解すること。多数の意見への少数者の従属を制度化する原理であるかのように扱われてきた民主主義を、その場その場で人々のあいだに創造される共同性として捉え返すこと。こうして、アナキズムは非言語的暴力のイメージから解放され、民主主義は作られたルールを従順に守ることではなく、ルールそのものを作り出し、作りかえる所作となる。
これこそグレーバーが、『民主主義の非西洋起源について』をはじめ、全ての著作を通じて追求したアナキズム的なものであり、民主主義的実践なのである。
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[※1]デヴィッド・グレーバー、片岡大右訳『民主主義の非西洋起源について-「あいだ」の空間の民主主義』以文社、2020. フランス語版はLa Démocratie aux marges, Le bord de l’eux, 2014. 英語では、Possibilities: Essays on Hierarchy, Rebellion, and Desire, A K Press Distribution, 2007で読むことができる。
[※2]アラン・カイエ、藤岡利博訳『功利的理性批判-民主主義・贈与・共同体』以文社、2011. 2010年にはカイエが来日し、各地で講演を行った。このときのシンポジウムの一部が、西谷修、金子勝、アラン・カイエ『“経済”を審問する-人間社会は“経済的”なのか』せりか書房、2011に収録されている。またカイエには、かなり好意的で力の入ったカール・ポランニーに関する共著論文もある。Allain Caille, Jean-Louis Laville, ‘Actualité de Karl Polanyi,’ in Revue de MAUSS, No.29 (2007/1) p.80-109.
[※3]Sammuel P. Huntington, ‘The Clash of Civilizaions?,’ in Foreign Affairs, Vol.72, No.3 (Summer 1993), p.22-49, The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, Simon and Schuster, 1996(鈴木主税訳『文明の衝突』集英社、1998).
[※4]『文明の衝突』では、Western civilizationの訳語は「西欧文明」となっている。『民主主義の非西洋起源について』では「西洋」の訳語が採用されている。グレーバーには「西洋」「東洋」を対比する箇所があるが、ハンティントンの趣旨に照らすと「西欧」あるいは「欧米」が適切だろう。西ヨーロッパに発した近代文明が、入植によって北アメリカに移入されたという理解である。ハンティントンは論文の中でさかんにthe WestやWesternを用いている。彼にとっては、西欧/欧米以外に、アフリカ、中国、ヒンドゥー、イスラム、日本、ラテンアメリカ、東方正教会という八つの主要文明圏が存在する。
[※5]『民主主義の非西洋起源について』p.19-20.
[※6]同書p.32.
[※7]ルソーについては『社会契約論』、シュミットについては『現代議会主義の精神史的地位』を参照。ここには彼らの民主主義観が相当変わっているということだけを申し添えておく。
[※8]宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫、1984(初版は未来社、1960、本文で取り上げた宮本による調査は、1950年に対馬で行われたもの)
[※9]同書p.46.
[※10]同書p.60.
[※11]ネイティヴ・アメリカンの社会制度が当時のヨーロッパ人に与えたインパクトという着想は、遺著となったThe Dawn of Everythingにも引き継がれた。ここでは、ルソーに見られるような18世紀の不平等への批判(『人間不平等起源論』など)が、ネイティヴ・アメリカンによるヨーロッパの従属的政治体制へのクレームから影響を受けたものだという仮説が展開されている。
[※12]同書p.84.
[※13]同書p.87.
[※14]同書p.118.
[※15]同書p.109.
[※16]同書p.123.
[※17]同上
[※18]同書p.10.
プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)
明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)、『真理の語り手――アーレントとウクライナ戦争』(白水社、2022年)など。