オリジナルでなければ研究者とはいえない――「マイナーノートで」 #08〔師匠のDNA〕」上野千鶴子
各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
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師匠のDNA
学校がキライだった。不登校にこそならなかったが、学校では寝てばかりいた。放課後だけが生き甲斐だった。
大学には行ったが、女子学生には公務員になるか教師になるかしか選択肢がなかった時代に、「でもしか教師」になる退路を断つために、教員免許はとらなかった。本当をいえば、教職課程の単位をとることや教育実習に行くのがめんどうなだけのナマケモノだったのだけれど。
そのわたしが大学の教師になった。大学の教員には教員免許がなくてもなれる。学歴がなくてもなれる。建築家の安藤忠雄さんは、高卒の東大教授として有名だ。
20代半ばのある日、食えない大学院生だったわたしは、地元新聞の求人欄を見ていた。見開き両面の5分の4は「男子のみ」求人、のこりわずかに「男女とも」と「女子」向け求人。男女雇用機会均等法の10年以上前、男女別の求人が堂々とまかりとおっていた頃のことだ。「男女とも」には「パチンコ店、夫婦住み込み可」、「女子」には「女子事務員、珠算3級以上、簿記経験者」とあった。珠算も簿記もできないわたしは対象外。他には「ホステス募集」が並んでいたが、こちらは「容姿端麗」という条件と年齢制限があり、その当時のわたしの年齢では、すでに薹(とう)が立っていた。
無芸無能……と、開いた新聞を前にして、自分をふかく認識した。職はなかったが、だからといって天をも地をも恨まなかった。わたしは世のため人のためにお役に立っていないのだもの、世間からお呼びがかからないのは当然だ、と思った。それどころか、こちらだって世間サマをお呼びじゃないのだからおあいこだと考えていた、傲岸不遜な若者だった。
なのに、ちょっと周りを見渡してみれば、わたしと同じ程度に「無芸無能」のご学友が、男だからというだけの理由で、大学に就職していた(当時は修士課程修了で大学に職があった)。そっか、もしかしたらわたしに職がないのはわたしが女だからかもしれない……と遅まきながら気がついた。性差別についてそれほどうとい、うかつな娘だったのだ。
それからお尻に火がついた。そうか、もしかしたらわたしが今在籍している大学院というところは、職業訓練の場かもしれない。それなら大学院生の就職の選択肢は限られている。大学教師ぐらいしかないなら、四の五の言わずに職探しに乗り出そうと。男子院生には就職の斡旋をしてくれた指導教官は、わたしには目もくれなかったから、自力で公募に応じるしかなかった。履歴書を書きまくり、「残念ながら貴殿の御希望にはそえません」という返事を何通も受け取り、23通めでようやくゲットしたのが短大教師の口だった。
学校ぎらいのわたしが、教師になることを自分自身に対して弁解できたのは、大学というところは、学校のなかで唯一、学生が教師を選べるところだからだ。学生といえばもうオトナ、イヤなら選ばなくてもすむ。それでもあえてわたしを教師として選んでくれた学生さんには、ちゃんとつきあおう、と思った。
私学を転々として東京大学に異動した。ウエノさん、どうやって東大教授の口をゲットしたの?と訊かれるが、自分で応募したわけではない。東大からのオファーは、青天の霹靂だった。東京大学の研究室人事の多くは、いまでも密室人事である。なぜ東大教授になったの?という質問は、選ばれたほうにではなく、選んだほうに訊いてほしい。貧乏私学の教員から、日本一倒産しそうにない巨大な総合大学の教員になってみたら、同僚の先生方に「教育サービス業者」としての自覚がないことに驚いた。経営基盤の弱い弱小私学に勤めていた頃は、この子たちに授業料分のもとはとらせなきゃ、と教師としての使命感に燃えたものだ。
大学院生は研究者になるための教育は受けるが、教育者になるための教育はほとんど受けない。将来、自分が教壇に立つことがおまんまのタネになるとも、あまり考えていない。教育と研究の一致というが、それは恵まれたほんの一部のブランド大学での話。それにすぐれた研究者がすぐれた教師とはかぎらないし、その逆もまた真である。教師としてのノウハウは、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)で、水の中に叩き落とされた犬のように、必死で身に付けた。学生さんはお客さまだから、勉強する気のない子どもたちを、こちらにふりむかせよう、とがんばった。たったひとつ、自分に課したのは、自分がおもしろいと思えないことを伝えても、学生たちがおもしろいと思えるはずがない、ということだ。結果、わたしの授業を受けた学生たちは、こんな感想を口にした。
「せんせがいちばん授業をおもしろがってはる〜」
そうか、そうだったか。思い当たることがあった。
師のDNAとはおそろしい。わたしが生涯にただひとり師匠と呼べるひとは、社会学者の吉田民人(たみと)さんである。わたしが京大在籍中、吉田さんは阪大で教えていたので、大学院は阪大に進もうかと思ったぐらいだ。その相談をすると、翌年京大へ異動する予定と聞き、そのまま京大の大学院に進学して、吉田ゼミにもぐりこんだ。吉田さんは教養課程の助教授で、そこに出入りすることは、在籍する学部の先生方から干されることを意味したが、そんなことはどうでもよかった。それがあっというまに東大へ移籍して逃げられた。阪大 → 京大 → 東大のホップ・ステップ・ジャンプと呼ばれた人事である。後年、京大出身のわたしが東大に移籍したとき、吉田さんの後任か、とささやかれたが、そんな事実はない。東大には、退職教員が次の人事に一切介入しないといううるわしい慣習があるからだ。
吉田さんはノートもメモも持たずに手ブラで教室に現れて、90分間爆撃のようにしゃべりまくった。学生はついていくのに必死だが、本人は楽しくてしかたがないという顔つきをしていた。学生が質問すると、言い負かした。抽象度の高い理論を説明するときには、かならず卑近な例を挙げた。
吉田さんが教室で何をしゃべったか、何があれほど刺激的だったのか、記憶力の悪いわたしはほとんど何も覚えていない。吉田さんの専門だった理論社会学、それも構造機能主義については、弟子のわたしはこれっぽっちも受け継いでいない。なのに吉田さんが語ったメッセージではなく、語り方のほう、メタメッセージだけはしっかり刻み込まれた。「理論は博打だ」という、カラダを張った博徒のような姿勢からも学んだ。風貌は学者というより、中小企業のオヤッサンのようだった。
楽しくなくては学問ではない。オリジナルでなくては研究者とはいえない。経験を説明できなければ理論とはいえない……ことだけはしっかり叩き込まれた、と思う。
東大を退職してから、長年にわたって蓄積した上野ゼミのノウハウを公開した『情報生産者になる』(ちくま新書)を出した。だが、本人が自分はこうだと自己申告することと、実際にやっていることとのあいだにはかならずギャップがあるし、だいたい粉飾がある。だとしたらそれをサービス受益者(にして被害者)の側から検証してもらわなくてはならない。上野ゼミ卒業生たちが企画を持ち寄って、近く『情報生産者になってみた』(ちくま新書)という本が出る。ゲラを読んで笑ってしまった。上野ゼミのDNAって、さかのぼれば、そのまた師匠のDNAが受け継がれていることに気がついたからだ。
そのひとつに、吉田さんと同じく京大教養課程の社会心理学助教授(当時)だった木下冨雄さんのDNAがある。理解者がいなくて鬱々としていた院生時代。あるとき、自分の研究を指導してくれる先生がいない、とこぼしたときのことだ。木下さんはこう一喝したのだ。
「自分の研究を指導してくれるような教師はこの世の中にいないものと思え。もしいたら、その研究はする値打ちのないものと思え」
どうやらこのせりふを、わたしは自分の学生に何度も繰り返したらしい。かれらのアタマのなかにもしっかり刻みこまれていた。後年、木下さんに告げたら、ご本人は記憶がないそう。だがこうやって師のDNAはしっかり弟子や孫弟子の世代に継承されている。
了
(タイトルビジュアル撮影・筆者)
プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)
1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。