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「右も左もまっくらやみ」だった学生時代――「マイナーノートで」 #09〔任侠映画とMy Way〕」上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。

任侠映画とMy Way

 前回、若い頃のことを書いたら、まっくらだった大学院生時代を思い出した。大学には18歳から30歳まで、12年間在籍した。学んだこともよいこともほとんどなかったから、青春を返せ!と言いたい思いだが、自業自得だからしかたがない。

 学園闘争(学園紛争とは、わたしは呼ばない)が敗北に終わって、行き場を失った。旧に復したキャンパスに戻る気はせず、必修単位をとりはぐれて1年留年した。卒業を目の前にした学友たちは、急に詰め襟の学生服を着て、就活にいそしんだ(当時はスーツでなく、学生服が大学生の正装だった)。そういう姿の学友と京都の街中で出くわすと、相手はばつが悪そうに、そそくさと姿を消した。わたしは就活をする気力もなく、先のあてのない人生を送っていた。
 このままいけば……仕送りは打ち切られ、郷里の親元に呼び戻される。それだけはイヤだった。そう思うと、目の前に大学院があった。「もう少し勉強を続けたいから、大学院へ進学したい」……そう言って親をだますのはかんたんだった。
 向上心も向学心もなかった。ただただ就職から逃げたいだけの「モラトリアム入院」だった。

 京大の大学院は競争率が高そうだったので、どうしてもどこかに合格しなくては困ると、東京大学の大学院も受験した。合格したが辞退した。京大の大学院に合格したからだ。京都を移りたくなかった。あとで師匠の吉田民人さんに「なぜ東大を受けたの?」と訊かれたから、「すべりどめです」と答えたら、爆笑して「ボクにはいいけど、東大の先生方には言わない方がいいよ」と忠告された。
 当時大学院生は、大学院進学を「入院生活」と呼んでいた。そして入院生活が長くなると社会復帰が困難になる、とも。とりあえず修士課程に進学した。合格を報告しにお世話になった先生を訪ねたら、「キミ、修士課程を修了したらどうするの?」と訊かれた。「それがね、先生、わたし、なあーんにも考えていないんです」と正直に答えたら、「それがいい、女の子はそれがいい」という反応が返ってきた。「女の子はクリスマスケーキ」、24歳までは売れるが25を過ぎたら値崩れすると言われていた頃である。大学院に進学した女性の先輩を見ても、就職できるとは限らないことは知れた。

 大学院在学中に3度、中退しようかと思ったことがある。在籍していることに何の意味も感じられなかったからだ。だがそのつど思いとどまったのは、奨学金がついていたから。当時の大学院は狭き門、大学教員養成コースの観を呈していたから、過半の大学院生には奨学金がついていた。その奨学金は大学教員として奉職すれば返還を免除された。進学率が向上し、大学学部の新設が相次ぎ、ご学友は順調に就職していった。ただし男性に限る、が。
 退学すれば奨学金が切れる。親の金はひもつきの金だ。奨学金はひものつかないありがたい金だった。もちろんそれだけではじゅうぶんではないから、家庭教師や塾の講師のほか、売り子やウェイトレスなど、ありとあらゆるバイトをした。

 そのなかにシンクタンクの研究員のアルバイトがある。京都にはCDI(Communication Design Institute)という京都学派の先生方が株仲間になってつくった、知るひとぞ知る小さな民間のシンクタンクがある。70年代、高度成長はいったん頓挫したが、「文化産業」の時代がやってきて、企業は付加価値を求めていた。そのシンクタンクには毎年京大の社会学教室から口コミで院生がリクルートされており、わたしがそのひとりだったのだ。
 株仲間のひとりに『発想法』の川喜田二郎さんや、『知的生産の技術』の梅棹忠夫さんらがいた。研究員のレポートを発表する場に、これらの学者や、小松左京さん、川添登さんなど錚々たるメンバーが並んだ。思えばこの場が、わたしの大学だったのだと思う。川喜田二郎さんが発案したKJ法を徹底的に叩き込まれた。梅棹忠夫さんが発明した京大式カードも使い倒した。今日わたしが研究者としてやっていけるノウハウを身に付けたのは、このシンクタンクでの経験のおかげである。だから自分が大学教師になっても、京大式の情報処理術やKJ法を学生に仕込んだ。

 学園闘争が終わってキャンパスに静謐が戻った時代。大学闘争からより多く学んだのは学生ではなく、大学側だった。管理はきびしくなり、なにごともなかったかのように大学は旧に復した。ほんとうに行き場がなかった。展望もなく、食い詰めてもいた。元活動家の学生のなかには就職せずに塾を経営する者もいたし、大学を中退してトラックの運転手になる者もいた。まっくらだった。
 あの頃……高倉健が主演する任侠映画を、精液の匂いのする3本立ての映画館で見た。立ち回りの最中に観客が「健さん、後ろがやばい!」と声をかけたという伝説のある時代だ。女は? 女は任侠映画のなかでも居場所がなかった。藤純子演じる女は、死地へ赴く主人公を引き留めるすべもなく、柱の陰で袂をくわえてじっと待つのが役割だった。活動家仲間のあいだでは、任侠映画のせりふにならって「右も左もまっくらやみでござんす」と言うのがならわしだった。

 バイト仲間に都市工学の先輩がいた。かれもまた大学闘争の敗者だった。お昼を一緒に食べながらよもやま話をしていた。ちりぢりに散っていった友人たちの動向を話した。ある友人はこう言った。「1日1日はやりすごせるんだよ、でも1年はやりすごせないんだよ」……そう言ってかれは地方大学の医学部へ再入学した。その後どんな医者になっただろうか。

 先の展望はなかった。見通すこともできなかった。男と同棲していたが、1年後に同じ男といっしょにいるかどうか、何の確証もなかった。3ヶ月先も見えなかった。
「その日その日をしのぐのに、せいいっぱいですねえ」
「ほんとうにそうですねえ」
 と、かれとわたしが同調したときのことだ。
 同席していた若い男性がいきなり怒り出した。
「あなたたち、そんなことでいいんですか!」と。
 ボクはね、何歳になったときにはこうなっていたいと目標を立てて、それから逆算していまはこれをしようと計画して動いていますよ、そういうもんでしょう、人生ってのは……と。
 わたしはその先輩と呆然と顔を見合わせた。このひとには何を言っても通じない、と。

 思いがけないところで、フランク・シナトラの歌う「マイ・ウェイ」を聴いた。英語の歌詞だった。そういえば「マイ・ウェイ」は日本語でしか聴いたことがなかったので、英語の歌詞に耳を傾けた。

 Regrets, I've had a few

 これが最初、Regrets, I've had fewと聞こえた。「後悔はほとんどない」と。よくそんなことが言えるね、と思ってあとで歌詞を点検したらfewではなくa fewだった。大違いだ。
「後悔は少しはある」……だが、わたしにはmany(たくさんある)だ。
 その後

 I planned each charted course
 Each careful step along the byway

 と続く。そして

 I did what I had to do

 と来る。
 しかるべき道を計画し、注意深くステップを踏み、そしてなすべきことをなした……と高らかに歌い上げる。
 もうだめだ。ついていけない。こんな歌だったとは。この歌に自己陶酔して涙を浮かべ、拍手喝采する聴衆たちもいる。
 どういう人種の違いなのだろう、この人たちとわたしとは。
 人生を終わりから数える方が早い年齢になって、再び思う、「恥と後悔の多い人生でした」……これも任侠映画のせりふだったか。

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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