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苦痛から逃れる手段はある――「不安を味方にして生きる」清水研 #05[「死」に対する不安をどう考えるか①]

不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
第1回からお読みになる方はこちらです



#05  「死」に対する不安をどう考えるか①

現代人の心配事はほとんどが安全なもの

 前回、私たちが感じる不安には過剰な傾向があるという話をしました。私たちの脳の構造は、基本的に石器時代と変わりません。石器時代には、ちょっとした油断がすぐに自らの死に結びつくような状況がありました。その時代に適応して人類が生き残るために、強い警告を発する不安という感情は不可欠だったのでしょう。

 石器時代の危険に比べればですが、現代人が向き合う心配事は安全なものがほとんどです。今恐れていることが現実になっても、こころは向き合えることばかりなので、安心して不安や恐れを手放していいのです。

 しかし、次のような疑問が聞こえてきます。死に対する恐怖はどうなのか? 死んでしまったら、元も子もない。そのことに対する不安をどう考えたらよいのか、と。

 今回は、死ぬことへの不安・恐怖との向き合い方について見ていきます。

「死」にまつわる3つの不安

 多くの人は自らが死ぬことを恐れ、不安を感じます。その理由は心理学の研究でくわしく調べられていて、大別すると3つに分類されています。

 1つめは、死そのものではなく、「死にいたるまでの肉体的な苦しみに対する不安」です。
 たとえば、がんの場合、患者さんの多くは、病気が進行したときの肉体的な苦痛を心配します。「死」にまつわる3つの不安のなかで、肉体的な苦しみに対する不安が最も多いということは、さまざまな研究で示されています[※1]。

 2つめは、「自らが死ぬことで生じるさまざまな不都合への不安」です。
残される家族のことを心配される方もいますし、大切な人との別れにやりきれないぐらいの寂しさや悲しさを感じる方もいます。責任をもって行っている仕事を託せる人が見つからず、中途半端になってしまうことを案じる方もいます。

 そして3つめが、「自分が消滅することに対する不安」です。これについては「死のパラドックス」という表現で説明されています[※2]。
「死のパラドックス」とは、以下のものです。

 人間の脳は、死を予感させるものを認識したときに、強い恐怖を感じるようにできています。
 たとえば、手すりも何もない断崖絶壁に立ったとしたら、私なら恐怖でその場にへたり込んでしまうのではないかと思います。このような脳の認識能力は、危険を避けさせ、人類が生き残っていくために大いに役立ってきたと考えられています。

 一方で、人間の脳は学習能力を発展させてきたため、すべての動物が死にいたることを理解しており、自分自身にも必ず死がやってくることも理解しています。
 死を避けられないと理解していても、強い恐怖の対象である死が、いずれは必ず自分に生じるというパラドックスがあり、人間に大いなる葛藤をもたらすのです。

死にいたるまでの苦痛への対処

 死に関する話題は、あまりしたくないという医療者も多く、「そんなことを心配する段階ではないですよ」と、はぐらかしてしまうこともあるのですが、あいまいにしておくほうが患者さんの不安が強くなります。また、3つの不安それぞれに対処法があります。
 そのため私は、患者さんから「死ぬのが怖いのです」という話題が出た場合は、「○○さんは死に関してどのようなことを恐れているのですか?」と尋ね、対話をするように心がけています。

 これから、「死」にまつわる3つの不安、それぞれへの対応について説明しますが、最初に、「死にいたるまでの肉体的な苦しみに対する不安」についてお話ししましょう。今健康だとしても、将来病気になって苦しむのではないかという不安が、頭をよぎる人は多いでしょう。そのような心配に対する心構えにもなります。

 私の外来(腫瘍精神科)に通っておられる吉田信二さん(仮名・58歳男性)は、胃がんの化学療法を定期的に受けています。ある日の診察で、吉田さんは穏やかな表情で、「今体調は安定して仕事や趣味の時間ももつことができ、元気に過ごしています」と話されました。しかし、その後少し表情が曇り、「死にいたるまでに痛みで苦しむのではないか? このことを考えると夜も眠れないぐらい不安になることがあります」と話されました。

 がんによる療養生活というと、みなさんはどのようなものを想像するでしょうか? 今でも「壮絶な闘病生活」などと報道されることもあり、苦しみに満ちたイメージをもつ方は少なくないでしょう。

 報道は、受け取る側のインパクトを求めるあまり、過激な表現を使いたがる傾向があるのではないかと感じます。病気とは無縁なものと思い込んでいる人にとっては気にならないかもしれませんが、病気になって自分のこととして向き合うようになると強い不安を感じるようになるので、報道の在り方として困ったものだと私は思います。
 私が実際の診察現場で感じるものは、報道される過激なイメージとは異なり、もっと穏やかなものです。患者さんと、ご家族や友人、医療者とのあいだには温かい人間的な交流があり、病棟では笑顔が見られ、笑い声が聞こえることもあります。さまざまな苦悩はもちろんありますが、必ずしも暗いものばかりではないのです。

苦痛から逃れる手段はある

 私は吉田さんの感じている肉体的な苦痛に対する不安について、ご本人に次のように伝えました。
 昔はがんの終末期において、たしかに死にいたるまで苦しむことがしばしばありましたが、今はだいぶ状況が違ってきました。怖いというイメージは付きまとってしまうかもしれませんが、がんに伴う苦痛の内容やその程度、対処法を正しく理解し、恐れすぎずにいることが大切でしょう。
 
 具体的なデータもあります。がんで亡くなった方をかたわらで見ていたご遺族を対象として2019年と2020年に行われた研究では[※3]、亡くなる前に「ひどい」「とてもひどい」という強い痛みを感じていたと回答した割合は、 28.7%でした。28.7%というのは、それなりに起こりうる確率だと思いますので、この数字を見たからといって安心はできないでしょう。
 ただ、この強い痛みを感じている28.7%にあたる人のなかには、痛くても痛いと訴えられなかった人や、対応してもらえる医療につながっていなかったケースもあると考えられます。つらいときに、体の苦痛を和らげてくれる信頼できる医師(緩和ケアの専門医)と連携をとっておくと、苦しむ可能性をかなり低くできると思います。
 実際、全国の緩和ケア病棟に入院した患者さんを対象とした調査では[※4]、中程度から強い痛みを感じている患者さんの割合は、非小細胞肺がんで34%→7%、大腸がんで39%→19%、胃がんで38%→16%と、入院時より亡くなる前のほうが減っているという結果が得られています。
 
 耐えがたい痛みも、専門家が対応すれば半数以上のケースに改善が認められるわけです。ただ、この調査結果をどうとらえるかは人それぞれでしょう。対策をとればまず大丈夫だと思える人がいる一方で、痛みを感じている方の割合は0ではないので、安心はできないと感じる人もいるでしょう。
 
 では、専門家でも和らげることが難しい痛みが、もし自分に生じた場合、どうすればいいのか? もちろんそれにも対策はあります。「苦痛緩和のための鎮静」といいますが、麻酔薬を使用して眠る状態を作り、苦しみを感じなくする方法をとることができます。
 吉田さんが対応が難しい強い痛みを感じた場合に、「苦痛緩和のための鎮静」を行うかどうかはご希望しだいですが、少なくとも、「耐えがたい体の苦痛から逃れる何らかの手段はある」、ということはお伝えできます。
 
 吉田さんは、真剣に私の話に聞き入っていました。そして、「具体的な説明を聞いて少し安心できました。絶対に大丈夫とは言えないけれど、体の苦痛を和らげる医療をきちんと受けられるように考えていきます」とおっしゃいました。
 
 ここまでがん医療の例をあげました。がん医療に限らず、最近は苦痛緩和の考えがほかの疾患にも広まり、心疾患や脳血管障害などでも積極的に苦しみを和らげるという視点がもたれるようになりました。
 
 以前の医療は、救命や延命にのみ力点をおいていて、現代からするとバランスを欠いていたこともたしかにありました。しかし、今はそうではなく、病気と向き合いながら豊かに過ごしていただくために、生活の質を重視するようになったのです。
 
 このように、がんの苦痛を和らげる医療の実際を知っていただき、耐えがたい苦痛から逃れる手段があることを読者の皆様にも理解していただけたらうれしい限りです。
 第1回でご紹介した「ニーバーの祈り」のように、死にいたる過程についても漠然とした不安は手放し、もし苦痛が生じた場合は専門家に相談するなどの具体的な対策をとっていただければ大丈夫だと思います。

 次回は、死にいたる過程と密接に関連する安楽死の議論について少しふれるとともに、「死」にまつわる3つの不安についてさらに見ていきましょう。


[※1]Death anxiety among advanced cancer patients: a cross‑sectional survey(Supportive Care in Cancer (2022) 30:3531–3539)
[※2]スティーヴン・ケイヴ『ケンブリッジ大学・人気哲学者の「死」の講義』(柴田裕之訳、日経BP社)
[※3]患者さまが受けられた医療に関するご遺族の方への調査(2018-2019年度調査)/国立がん研究センター がん対策研究所 (https://www.ncc.go.jp/jp/icc/qual-assur-programs/project/040/digitalbook/index.html#page=1)
[※4]緩和ケア病棟に入院された患者さんに関する調査結果/国立がん研究センター 東病院 (https://www.ncc.go.jp/jp/ncce/clinic/palliative_care/060/index.html)

第4回を読む 第6回に続く 

清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。

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