残される人を信頼して備える――「不安を味方にして生きる」清水研 #06[「死」に対する不安をどう考えるか②]
不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
*第1回からお読みになる方はこちらです。
#06 「死」に対する不安をどう考えるか②
安楽死の議論
前回、「死にいたるまでの肉体的な苦しみに対する不安」にふれましたので、このことと密接に関連する安楽死の議論についても少しお話ししておきましょう。
さまざまな疾患で苦痛緩和の方法が進歩し、生活の質を保つことを現代の医療は目指すようになりました。それでも死にいたる過程における苦しみへの不安は完全に払拭されないかもしれません。「あの人はとてもつらい思いをしたのちに亡くなった」という体験談を、耳にすることもあるでしょう。
この不安に対して、さらにより積極的に、人間が苦痛をコントロールするために考え出した手段が、安楽死や自殺幇助です。医師が患者に致死薬を投与する行為が安楽死、医療従事者が処方した致死薬を患者が自ら摂取する行為が自殺幇助にあたります。
安楽死や自殺幇助は、オランダやスイスなど、本人の自己決定を尊重する国で行われる傾向があります。スイスには、安楽死が行われていない国から外国人がやってきて、自殺幇助を受けることもあります。
一方で、「命の終わりを人間が決めるのはよくないこと」という道徳観が強い国では、安楽死や自殺幇助が禁止される傾向にあります。
日本は、安楽死に関する問題にまだ十分に向き合っていないように感じますが、タブーとせずに議論をする必要があると私は思います。
合法となることで、ほかの方法でも救われる人に対して、安易に安楽死や自殺幇助が行われる恐れがあります。かたや、もし安楽死や自殺幇助が選びうる手段となれば、死にいたるまでの苦しみから逃れるたしかな方法として、安心を感じる人も多いでしょう。
目をそむけたくなる課題をうやむやにすれば、後ろめたさや不安がしらずしらず、皆のこころに募ります。心配なこと全般に言えるでしょうけれど、向き合うこと自体は痛みを伴いますが、疑心暗鬼にならず、正しく対処するために必要なのです。
残される人への備え
さて、「死」にまつわる3つの不安のうち、2つめの「自らが死ぬことで生じるさまざまな不都合への不安」について、お話しします。「自分が死ぬと家族が経済的に困るのではないか?」「恩人から責任をもって引き継いだ仕事を、完成しないままに死ぬことになっててしまうがどうしようか?」など、さまざまな問題と向き合う必要が出てきます。
この不安についてはとくに、残される家族のことを心配する人が多くいます。いざというときにうろたえないように、普段から自分がいなくなったあとのことを考えて、身のまわりのものを整理したり、大事なものを誰に残すかを考えたりなど、備えを怠らないことも大切でしょう。
死後に自分にとって大事な人が困らないようにする。それは、あなたたちのことをこれほど大切に思っていたんだよ、というメッセージでもあるわけです。
しかし、なかには何らかの事情で備えが間に合わず、その時点では対応しようもないこともあるでしょう。悔しくてしょうがないが、あきらめなければならないこともあるでしょう。このような問題については、家族や職場の信頼できる人と相談しながら、その現実を受け止める準備をする必要があります。
死を意識することで、自らが抱えている問題に直面することは、必ずしも負の側面だけではなく、先送りにしていた課題に取り組むようになる、という正の側面もあります。
通常のカウンセリングではなかなか進展しないような問題が、死を意識したがん患者さんの場合は、わずか数回でその問題に対する結論を自身の中で出されていくことを、私はしばしば体験します。
たとえば、過去仲たがいしてその後ずっと連絡を絶っていた家族や友人との和解に取り組むなど、長年こころに刺さっていたとげを、やっと抜こうとする方もいらっしゃいます。
不安への対処のために、できる準備はして、解決できることは急いでしておく。しかし、自分の力が及ばないことについては、残された人を信頼していく以外の方法はないのです。
子供を信頼する
先日、卵巣がん末期の荒井真由美さん(仮名・50歳女性)と話をしました。主治医の紹介でときどき対話をしていましたが、今まではあまりご自身のことを語りたがらず、「少し無理に明るく振る舞っていらっしゃるなあ」という印象を私はもっていました。何気ない世間話をして面談を終えることが多かったのですが、その日は少し深刻そうな表情をされていました。
いつもと様子が違ったので、「どうされたんですか?」と尋ねると、「じつは心にひっかかっていることがあるんです」と言い、次のようなことを話しだされました。
「私には50歳の夫とのあいだに、12歳の長男と8歳の次男がいます。次男は不妊治療の結果生まれた子で、ダウン症候群がありました。私はずっと〝二人目の子供を望んだのは私のわがままだったのではないか?〞という思いが拭い去れないんです。それで、次男は将来にわたって自分が世話をしなければならないと思っていました。しかし、自分はがんになってしまい、次男の世話をすることはかなわなそうです。兄には重荷を背負わせ、弟は茨の道を歩むことになってしまいました」と、最後は涙ぐみながら語られました。
不妊治療を始めたときのことを、私がさらに尋ねると、当時親しく付き合っていた家族には仲の良いきょうだいがいて、長男もひとりでは寂しいだろうからという思いもあったとのことでした。そこで夫婦で話し合って、いろいろと悩んだ結果不妊治療を始めたという、当時の事情をくわしく語ってくれました。
私は荒井さんに、「不妊治療に通っている方は、みなさんさまざまな思いをもって治療を受けておられますよね。きょうだいを作ってあげようと思って、不妊治療を始める母親は、わがままなのでしょうか?」と尋ねました。
荒井さんは涙を浮かべ、「先生の言うことはわかります。それでも、自分を責めてしまうんです」とおっしゃいました。
私は荒井さんの気持ちに思いを馳せながら、「それで、お二人のお子さんはお母さんの病気のことをどう思われているのですか?」と尋ねました。荒井さんは、「自分のやせた姿を子供に見せたらびっくりするのではないかと思い、最近は病院に来させていないんです」と答えました。
荒井さんが子供たちときちんと別れを言えないままお亡くなりになってしまうのではないかという懸念が、私の頭をよぎりました。
そこで、「このままお子さんたちとは会わないつもりなのですか?」と尋ねると、少し考え込んでおられるようでした。
その後夫婦でお子さんのことを相談されたのか、数日後にご主人が二人の子供を連れて荒井さんとの面会に訪れました。病室を訪れた子供たちからは、兄はそれとなく弟を気遣い、弟は兄を頼りにしている様子が見てとれ、荒井さんは「しばらく会わないうちにこの子たちも成長した」と感じながら、やせた体で二人を抱きしめたそうです。
そのときに二人の男の子は母親との別れを直感的に悟ったのか、いつになく激しく泣きました。また、帰り道には何度も何度も病院のほうを振り返り、父親が声をかけても、なかなかその場を動こうとしなかったそうです。
その後何日かして、私が荒井さんのもとを訪れたとき、こんなことを語られました。「あの子たち、これからつらいこともあるでしょうけど、彼らなりに生きていくでしょう。私は彼らが弱いと思い込んでいましたが、それは勘違いでした」と。
どういうわけで荒井さんの心境が変わられたのか、私にはうまく説明できないところもあります。しかし、長年できなかった2つのこと、つまり、子供たちを信じることと、自分を許すことに、荒井さんは亡くなられる前に取り組んだのです。
荒井さんに限らず、人のこころには当初受け入れがたいと感じたことから立ち直る力(レジリエンス)が備わっていると考えられています。レジリエンスを発揮するプロセスについては、また別の機会にお話ししたいと思います。
死にまつわる不安のうち3つめの、「自分が消滅することに対する不安」については、次回お話しします。
人は自らの存在の危機とどう向き合ったらよいのか、くわしくお伝えしましょう。
第5回を読む 第7回に続く
清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。