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普通の生活は、よく見ないと見落としてしまうくらい小さな喜びと楽しさで満ち満ちている。「忘れたくない家、街」――料理に心が動いたあの瞬間の記録《自炊の風景》山口祐加

 自炊料理家として多方面で活躍中の山口祐加さんが、日々疑問に思っていることや、料理や他者との関わりの中でふと気づいたことや発見したことなどを、飾らず、そのままに綴った風景の記録。山口さんが自炊の片鱗に触れ、「料理に心が動いた時」はどんな瞬間か。3年間過ごした家と街を離れることになった山口さん。そこで過ごした時間に思いを馳せる一篇です。
※第1回から読む方はこちらです。


#8 忘れたくない家、街

 「自分にとって心地よい自炊ができるキッチンがほしい」
 そう思って引っ越したのが茅ヶ崎ちがさきの築40年のアパートでした。それまで住んでいた実家のキッチンは「自炊」の旗印を掲げるにはちょっと広すぎて、もっと普通の、なんてことないアパートを探し求めてたどり着いたのがこの家です。

 駅から徒歩10分、階段を上った2階の45平米の1LDK。家賃は7.8万円とお手頃。しかものちの夫と二人で暮らすので家賃は半分。都内とは比べ物にならない安さでした。部屋に入ると和室だった場所をぶち抜いて左側に広いリビングがあり、右側の空間の壁には窓があるキッチンがあります。キッチンは料理家にしては狭いけど、30代前後の生活者としてはとても馴染みがある感じの広さでなんともちょうどいい。キッチンの窓を開けると、冬の冷たい風と共に窓の外の立派な木が目に飛び込んできて、春になればいい景色が見られそうだなと思いました。

 不動産屋さんに「7割方、ここに住むつもりです!」と言うと、彼がぼそっと「僕の決定権は3割なんだね……」と言いました。ガチガチに主導権を握っていて、ごめん。

 2021年の2月、この家に引っ越し、2024年の3月末まで丸3年間暮らしました。この家には思い出がぎゅうぎゅうに詰まっていて、それを忘れないために友人でありカメラマンの土田凌くんを家に招いて、夫と二人で暮らしている様子を改めて写真に収めてもらいました(その時に土田くんと話したことは連載第一回にてご紹介しています)。

陽の光が入る場所で料理するのは気持ちがいい。写真:土田凌

 何もなかったキッチンに、自分が好きな調理道具や食器が少しずつ増えていきました。料理がスムーズにできる動線を考え、狭いキッチンの中で調味料やこまごまとした道具の置き場所を工夫し、だんだんと自分の居場所になっていく様子はしみじみと嬉しいものでした。

 忙しい日でも作れるシンプルなレシピを考えたり、心地よいキッチンのあり方を提案したりする身として、これ以上ないくらいに程よく、身の丈にあったキッチン。この家でなければ思いつかなかった工夫やレシピがたくさん生まれ、世に出すことができました。

 そのほかにも、数えきれないほどの思い出がこの家に詰まっています。

窓を開けるとすーっと風が通る。写真:土田凌

 キッチンの窓から見える木の成長を見守っていたら、それが柿の木だったと判明したこと。
 引っ越してきた冬は枝だけだったのが少しずつ芽吹き、新緑の季節から柿が実るまで成長を見守るのが小さな楽しみだったこと。
 その柿がほしくてお隣さんにご挨拶したら、「まんが日本昔ばなし」に出てきそうなくらいめっちゃかわいいおじいちゃんとおばあちゃんだったこと。
 我が家で作りすぎたおから煮をおばあちゃんに差し入れしたら、代わりに「私の畑でとれたの」とブロッコリーをわざわざ家まで持ってきてくれたこと。
 そのご夫婦にヨーロッパ滞在で1ヶ月不在にする時、家の観葉植物を持っていってお世話をお願いしたらえらく元気になって帰ってきたこと(ここのおじいちゃんは本当に植物のお世話が上手)。

新鮮さはお金を出しても手に入らない。

 近所にオーガニックの貸し畑を見つけて、一年間野菜を育て、自分の畑でとれた野菜を味わったこと。
 裏にある小学校の子どもたちの声が元気で、子どもの声って聞いているだけで元気が出るなと思ったこと。
 3人のお子さんを育てる近所のマッサージ店のお兄さんに食べきれない量の試作をたくさん食べてもらったこと。
 JAの直売所のおばちゃんたちにおいしい野菜の食べ方をたくさん教えてもらったこと。
 魚卯之商店のおじちゃんに魚の旬や食べ方について教えてもらったこと。
 中丸屋のおばちゃんたちに2kg入る米びつを持っていって、詰め替えてもらってお米を買ったこと。
 そのおばちゃんたちに、我が家に来るお客さんがくれた手土産をお裾分けしたこと。
 長谷川書店で自分の本を見つけて、嬉しかった日のこと。

 何人もの友達を家に呼んで、季節の食材を使って料理し、お酒とともに味わったこと。
 何より、夫と一緒に住んで、よく笑ってたまに泣いて、一緒に暮らす人がいることのゆたかさを知れたこと。

ご飯とみそ汁とおかず。きほんのごはん。写真:土田凌

 朝起きて、みそ汁を飲んで、着替えて、仕事して、お昼を料理して、食べる。買い出しをして、試作して、コーヒーを淹れて、夜ごはんを作って一緒に食べる。風呂に入って、本を読んで、寝て、また起きる。その間に夫は掃除して、片付けて、風呂を沸かす。普通の生活は、よく見ないと見落としてしまうくらい小さな喜びと楽しさで満ち満ちていて、それをしっかり見よう、感じようと精いっぱい過ごした3年間でした。

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※本連載は毎月1日・15日更新予定です。

プロフィール
山口祐加(やまぐち・ゆか)

1992年生まれ、東京出身。共働きで多忙な母に代わって、7歳の頃から料理に親しむ。出版社、食のPR会社を経てフリーランスに。料理初心者に向けた対面レッスン「自炊レッスン」や、セミナー、出張社食、執筆業、動画配信などを通し、自炊する人を増やすために幅広く活躍中。著書に『自分のために料理を作る 自炊からはじまる「ケア」の話』(紀伊國屋じんぶん大賞2024入賞)、『軽めし 今日はなんだか軽く食べたい気分』、『週3レシピ 家ごはんはこれくらいがちょうどいい。』など多数。
*山口祐加さんのHPはこちら。

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