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連載 シン・アナキズム 「ねこと森政稔」第2回

政治思想史家の重田園江さんによる好評連載「アナキスト思想家列伝」第9回! いま大注目のアナキズム思想とはいったいどんなものか? そして現代的な可能性はあるのか? こうした疑問に答えながらアナキズムの新しい魅力をビシバシと伝えていく連載です。今回は3人目にして日本の現役の思想家を取り上げた話題の回「ねこと森政稔」の後半です!
※「ねこと森政稔」の前半を読む方はこちらです。
※これまでの各シリーズは下記よりお読みいただけます。
 「序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」へ
 「ジェイン・ジェイコブズ編」の第1回へ
 「ヴァンダナ・シヴァ編」の第1回へ

破壊しないアナキズム

 森政稔の研究のもう一つの重要性は、私たちがアナキズムに対して抱くイメージ、そしてそれを覆すことに関わる。すでにロックのところで引用したが、アナキズムの歴史とその描き方によって作られてきたイメージを払拭する、新たなアナキズム像の必要性を説いた「アナーキズム的モーメント」は、森政稔のこれまでのアナキズム関連論考の中でも、最も重要なものの一つである[※1]。そこに描かれているアナキズムの一般的なイメージは、なるほどと思わされるものだ。
 アナキズムは、「世間の一般的な理解としては……テロリズムや暗殺などの暴力的手段、あるいはそこまで直接暴力的ではなくても、ゼネストのような暴力を伴うこともある過激な手段によって、現存政治体制の即時崩壊を狙う思想や運動」[※2]として捉えられている。私も漠然とそのように理解しており、これまで抱いていたアナキズムのイメージと、森政稔が語るプルードンのアナキズムとの落差に驚いた記憶がある。では、こうした「世間の一般的な理解」はどこからきたのか。
 私がすぐに思い浮かべるのは、ソレルの『暴力論』(1908)[※3]だ。これがアナキズムの代表的著作として強い印象をもたらしているのではないかと推測している。アナキズム=アナルコ・サンディカリズム=ソレル=暴力=ファシズムやレーニン主義へとなだれ込む思想、という連想である。もう一つは、日本の場合には大杉栄と伊藤野枝だ。大杉と伊藤の生涯は、聞いているだけでこっちがぐったりしてしまう。女にだらしなくて次々子どもを産ませ(た挙句刺され)たり、「村に火をつけ、白痴になれ」なんて無理ですよ、と全然共感できなかった。つまり、破壊と衝動としてのアナキズムは、私の中では男性性やホモソーシャリティ、そして女性に対する暴力的関係やファナティシズムと結びつくものとしてイメージされていた。
 しかし、森政稔によると、そもそもゴドウィン、シュティルナー(おでこちゃん)、プルードンの時代には、アナキズムということばは政治的立場の表現としては用いられていなかった(プルードンには自身を「アナキスト」と呼んでいる箇所があるが、これは他のさまざまなismを否定する中で、あくまで「サタイア」[※4]として用いているらしい)。アナキズムが一つの「主義」として自覚的に選び取られ、名乗られるのは、19世紀末から20世紀はじめのことである。「マルクスたちに対抗して第一インターで組織的な活動を展開したバクーニンあたりに社会運動としての「アナーキズム」が成立する転機があった」[※5]というのが、森政稔の見立てだ。
 つまり、これまで抱かれてきたアナキズムのイメージに抗して、それ以前のいわば「初期アナキズム」の中にあった、破壊衝動やテロリズムとは異なった考え方を救い出すこと、これが森政稔の企てなのである。だいたい何かを破壊してスッキリするなんて、政治思想としてはとんでもなく無責任な話だ。私は以前から、闘争だとか友と敵だとか、暴力だとかをやたらと喧伝する思想がとても嫌いだ。新書にも、カール・シュミットがちょっと厨二病みたいなところがあるというニュアンスのことを書いたら、ネットで批判された。だが、政治とは友と敵との闘争だなんてちゃんちゃらおかしいといまでも思っている[※6]。シュミットに気に入られムッソリーニも信奉したソレルや、ファシズムに心酔しヴィシー政権で労働大臣となったユベール・ラガルデルなど、アナルコ・サンディカリズムは信用ならないと思っていた。これとは違って、破壊のあとには秩序が必要だということ、というより破壊ではなく再組織化こそが重要であると主張することは、カッコ悪いことでも日和見でもブルジョアの犬でもなんでもない。むしろアナーキーのねこが考えるべきことはそこなのだが、どうやらプルードンにはそのためのヒントが大いに含まれているらしい。
 明治大学に就職が決まって森政稔と離れたあとしばらくして、なぜか私はフランス19世紀末の社会連帯主義について調べることになった。そのとき1848年の二月革命や、1870年のパリコミューンについてもいろいろ読み漁った。その機会に、パリコミューンにおいてプルードンがいかに思想的支柱となっていたかを知ることができた。またこれとは別に、コミューン運動から出てきたさまざまな労働者の組織活動の中に、フェルナン・ペルティエの職業取引所(bourses du travail)があり、それがフランスにおけるアナルコ・サンディカリズムの拠点であったことを知った。労働者の組織化に根ざしたこの運動は、たしかにゼネストによる革命を標榜し、議会内左翼とは一線を画したという意味ではアナキズムであった(議会内での足場の確保を通じた政治改革ではなく、労働者の直接行動によって政治的要求を認めさせようとする点で、既存の社会秩序=主権の機関としての議会に信頼を寄せないという意味)。
 しかし、職業取引所の成立と展開は多分に労働者によるアソシエーションの流れを汲んでおり、暴力革命による「神話」の実現といった妙な思想とはあまり関係がないように思えた。ペルティエは明確にテロリズム路線を批判し、むしろ労働者の組織の拡充を選択していた。その運動は、同時期のもっとずっと「右寄り」とされる社会連帯主義や協同組合運動、また相互扶助組織(mutualité)の系譜とも関わりが深く、独立派社会主義者の国民議会議員であるジャン・ジョレスの政治的立場とも、十分に対話可能なもののように見えた。
 つまり、アナキズム=暴力=テロリズム=破壊衝動=ホモソーシャルな過激思想というイメージは覆されるべきなのだ。そしてそれを覆したところにこそ、格好つけた暴力主義の勘違いとは全然別の、アナキズムの味わい深い世界が広がっているということになる。これがプルードン思想の場所であり、森政稔を読むとたっぷり書いてあることなのだ。

人類学的アナキズムとの違い

 三番目は、これからこの連載でも取り上げることになりそうな(何も決めていないけど)、人類学系のアナキズムの可能性と限界に関わっている。デイヴィッド・グレーバーやジェイムズ・スコットによって、いまでは人類学とアナキズムの結びつきは自明のものと見なされるようになっている。しかしこれは最近のことで、かつては人類学といえばレヴィ・ストロースの構造人類学、その前はマリノフスキーのクラ交易という具合に、アナキズムとはあまり関係のないものと思われていた(もっとも、アナキスト人類学の先駆けはクラストルあたりにあるのだろう)。人類学とアナキズムの結びつきは、近代批判のラディカルさという共通点から分からないでもないが、ある種新鮮なものでもある。人類学系のアナキズムは、貨幣と負債の歴史を問題化するものであれ、農耕以前の社会をプレ権力の原風景として描写するものであれ、欧米中心の近代を、かなり壮大なスパンで相対化し、突き放している。逆に言うと、突き抜け方が徹底しているために、近代を内側から捉えるという側面は見られない。そのため、19世紀以降の産業化の中で出てきた固有の問題をどう解決するかという難題に直面した、かつてのアナキストたちとは別の場所に立っている。人類学においては、その立場上はじめから、欧米中心の近代は外部から批判されることになるのだ。
 初期アナキズムはよくも悪くも、幾多の制約の中で、近代の内部からアナキズム的な世界を実現しようとする点で、人類学系のアナキズムとは異なっている。思うに、プルードンのようなアナキスト、そしてパリコミューンの思想には、いま手許にあって使えるもの、また現存する条件の中で、手近な道具を組み合わせて不便でないものを生み出していく、ブリコラージュ的な発想がある(ブリコラージュが人類学用語であることを考えると、この文脈では少し妙な表現だが)。巨大な装置や一点突破の革命は危険である。それは必ず新たな支配につながるからだ。むしろたまたま手にしたもの、いま持っているもの、そしてそばにいる具体的な他者との関係が重要になる。これが産業化の中で労働者をいかに結びつけ、あるいは労働の組織化に伴う支配の危険を回避しながら相互性と連帯を生み出すかを考える際の指針となる。
 こういった意味で、プルードンなどの初期アナキストたちは、産業化という社会的条件の中で思考しているところに強さがある。たしかに人類学的な観点からの社会批判は、私たちの想像力をかき立て、こうではない社会がかつてあったのだという希望とともに、いまとは違う未来を構想する勇気を与えてくれる。それとは別の意味で、目の前にある問題に苦闘する中でアナキズムを一歩一歩構想した思想家たちは、19世紀以降の産業化の先にある21世紀の現在を私たちがどう見るのか、そしてそれをどう変えるべきかを考える上で道しるべとなる[※7]。

「人間は有限である」という大前提

 ということで、森政稔のアナキズム理解がいかに独創的で重要であるかをこれまで切々と述べてきた。ここからいよいよそのアナキズム理解の中身に入っていくべきなのだが、これがなかなか難しい。その理由は、たとえば「体系と批判」という森政稔が初期プルードンについて本気出して書いた論考[※8]を読んでみると分かる。たしかに重要なことを言っているに違いないし、可能なかぎり明晰に書かれている。それでもやっぱり、なんだかよく分からないのだ。プルードンは、宗教を批判的に見る一方で日曜日の礼拝が重要だと言ったり、私的所有は盗みだという一方でそれを全否定しているわけではなかったり、市場における交換に正義と公正を見出したり、アソシエーションを評価したと思ったら批判したり、労働の組織化を批判したり擁護したりする。
 こうした主張には、もちろんいちいち理由がある。所有は、ある場面では正義にもとる状態を作り出す。近世の囲い込みから、現代のグローバル投資家に至るまで。しかし一方で、社会的に限定された所有は、人々の独立の基礎となる。これは「無産者」の権利がいかに儚いかを思い浮かべる一方で、ジェイコブズのところで述べた「プチブル」の重要性を想起するとよく理解できる。また、市場については短く述べることが難しいが、そこには、細心の注意を払って評価すべき両義性があるということだ。市場の交換を正義と関連づける思想は、アリストテレスの交換的正義以来、脈々と受け継がれてきた。また、市場の持つ「分散性」という特徴は、強者のやりたい放題を許すようにも見えるが、実は参入や退出の自由、参加者の独立、そして資源配分の公正とも結びつきうるのだ。
 さらに、アソシエーションと労働の組織化は、1848年二月革命の帰趨(きすう)を念頭に置くと、その可能性に留保をつけざるをえないことも理解できる。アソシエーションを掲げる革命であった二月革命は、国家による労働の組織化とあまりに単純に結びついたために、うまく機能しなかった。サンディカリズム(労働組合主義)についても、プルードンの立場からは、その組織と運動の形態が個人の独立を揺るがす側面を無視することはできなかっただろう。しかし、こうした留保にもかかわらず、プルードンは労働者たちの組織化と、その政治的能力に期待を寄せてもいた[※9]。
 プルードンはとにかく、そのときどきに自身が置かれた運動の文脈の中で思考し、レトリックを駆使してものを書くので、同じことばを違った風に使ったりして分かりにくいのだ。しかも著書がどれもこれも長くてうんざりさせられる。
 森政稔はそれを丁寧に読み解いていくのだが、単純化するくらいなら両義的なまま読者に差し出す方がいいという性格なので(これは知的誠実である)、やっぱりよく分からない。これからが本題というところで申し訳ないが、興味を持った人はどうか実際に森政稔を読んでみてください。また、プルードンに興味を持った人は、平凡社ライブラリーの『プルードン・セレクション』からはじめて、『貧困の哲学』を読んでみてほしい[※10]。
 中身に立ち入らずに結論を述べるようで恐縮だが、森政稔がアナキズム論考でくりかえし強調しているのは、アナキズムとは、「人間の有限性」という動かしがたい前提を、心の底から理解したらどうなるかを体現した思想であるということだ[※11]。体制の転覆を謳い革命の希望を告げる幾多の思想家・運動家たちは、その先にあるユートピアを指し示した。しかしそのユートピアは、どこにも実現しないはずの場所である。もし実現すれば、そこには新たな支配と従属、権力の関係が生まれるに違いない。アナキストはこのように考える。それは単なる揚げ足取りなどではなく、そもそも人間が作り出す「社会」なるものへの根本的な懐疑に発している。この点は、ゴドウィンもシュティルナーもプルードンも(そしてルソーも)同じである。人が集まれば権力が生じ、それは支配-服従へと帰着する。支配なき体制や権力なき社会を夢想することは、有限な存在である人間が、無限を手に入れようとする驕りにほかならない。
 アナキズムはそれを拒む。支配者に手を貸さないことと、決して支配されないことの二重の意味で。だからアナキストは独立独歩で、自分自身を譲り渡すことを望まない。そしてまた、他者が別の他者に自己を譲り渡すことも望まない。国家は支配の装置なので、国家権力は信用できない。かといって、暴力で体制を打倒しようとテロリズムを画策するわけではない。独立者のゆるやかな連合と相互性の尊重というアナキズム的スタイルは、もっと平和的で、より漸進的なものだ。このような、手近なもので未来を生み出しそれを少しずつ改良する、ブリコラージュとしてのアナキズムは、人々の「平等な自由」を目指している[※12]。
 平等な自由とは何だろう。これは、ロールズ『正義論』の正義の二原理の中でなぜか一番注目されない、第一原理に掲げられているものでもある。平等な自由とは、どんな人も自由で独立した存在として生きるべきだということだ。これは単なる平等とは異なり、「自由が平等に満たされている」状態を指す。誰もどのように生きるべきで、どんな人生の目標を持つべきかを他者や社会から指図されない。つまり、異なる存在であることを等しく認められるという意味で、自由を有するということになる。平等な自由が実現した社会においては、相互の自由を尊重することそのものが、社会的な紐帯をなしている。自由こそが人々を結びつけるというわけだ。
 そして、こうした平等な自由が満たされた社会に生きる人々の姿は、一定の距離を取って空き地などに集まり、謎の集会を開くねこたちと重なる。ねこたちは好き勝手な模様をしていて、思い思いのポーズで佇んでいる。肉球の色だってそれぞれ違っている。また、アテナイの人々に吠えかかる犬の哲学者たるキュニコス派、誇り高き野良犬イギー、瀬戸と内海の言論バトルを我関せずのスタンスで見守るニダイメ、今朝も大声攻撃を仕掛けてきて現在爆睡中のエルちゃん、森政稔と私がこれまで出会ってきたたくさんのねこたちとも重なる。そして、焼きそばパンを膝に夢想し、駒場でねこと戯れ、ときどきお船に乗ることで至福を得る、森政稔自身の姿と重なるのだ。

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夜の集会を開くねこたち

*「ねこと森政稔」の記事作成にあたり、取材に同行し一人と一匹の写真をたくさん撮ってくれた(そしてミレちゃんに嫌がられた)NHK出版の編集担当である倉園哲さん(出前館)、ねこの大家族写真を送ってくれた明治大学政治経済学部の髙山裕二さん(トクヴィル研究者かつねこ王子)、そして私たちの到着を所定のベンチに座って待っていてくれたねこのミレちゃん、今朝も読もうとした新聞の上にどてっとなったけど太り過ぎで新聞からはみ出したままカメラ目線していたうちのエルちゃん、また世界中のすべてのかわいいねこたちに感謝します。ねこがいる世界に生まれてこられてよかった!

次回「デイヴィッド・グレーバー」を読む

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※1 プルードンを中心に、アナキズムの概念史のような著書を書く計画についてかなり前から聞いているが、まだ果たされていない。そろそろ書き上げる予感がしているけれど、気のせいかもしれない。
※2 森政稔「アナーキズム的モーメント」『現代思想』2004年5月号、p. 64.
※3 Georges Sorel, Réflexions sur la violence, Paris: Pages libres, 1908(今村仁司、塚原史訳『暴力論』(上)(下)岩波文庫、2007).
※4 同上、p. 79.「サタイア」は風刺の意味。
※5 同上、p. 70.
※6 誤解されては困るが、私はシュミットの思想が嫌いではない。むしろかなり好きなものもある。委任独裁と主権独裁についての議論や、パルチザン論、ニュルンベルク裁判における勝者の裁きの批判(『攻撃戦争論』)などはとてもいいと思う。大学院で指導してくださったのは、そのシュミットとケルゼンの研究で高名な長尾龍一先生である。
※7 19世紀の初期社会主義者たちが、産業化と自由の両立というテーマを掲げたことを明快に示した論考として、森政稔「産業化と自由、そして連帯――初期社会主義思想からみた自由と自由主義」(佐々木毅編『自由と自由主義――その政治思想的諸相』東京大学出版会、1995所収)がある。
※8 森政稔「体系と批判――初期プルードンの正義論」(一)(二)『社会科学研究』42巻4号、43巻2号。
※9 Pierre- Joseph Proudhon, De la capacité politique des classes ouvrières, Paris: E. Dentu, 1865(三浦精一訳『プルードンII 労働者階級の政治的能力』三一書房、1972).
※10 河野健二編『プルードン・セレクション』平凡社ライブラリー、2009、プルードン、齋藤悦則訳『貧困の哲学』(上)(下)平凡社ライブラリー、2014.
※11 森政稔「アナーキズムの自由と自由主義の自由――シュティルナーとフォイエルバッハの場合」『現代思想』1994年4月号、また、前掲「アナーキズム的モーメント」を参照。
※12 森政稔「ベンジャミン・タッカーとアメリカ的アナーキズムの起源」『現代思想』2015年7月号、p. 149に見られる、タッカーによるアナキズムの原理。

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プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)

明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。

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