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こころの充足を求めて――「不安を味方にして生きる」清水研 #23[真の幸せへの道のり]

不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
第1回からお読みになる方はこちらです



#23 真の幸せへの道のり

「衰退」と「こころの充足」

 第21回第22回でお伝えしたように、「must(~しなくてはならない)思考」の縛りがなくなったことで、それまで押し殺していた感性が解き放たれ、自分の気持ちが自由になったのを喜びとともに感じています。
 一方で、私の求める「こころの充足」にはほど遠い状況です。「must」に縛られ、行動に対する評価基準があったときは、苦しくてもその基準を達成できればこころは満たされました。いまは自由ですが、進むべき方向が明確ではありません。
 「自分はなんのために生きているのか?」という問いの答えを探して、さまよっているような感覚もあります。

 若い頃に描いていた未来は不安もいっぱいありましたが、希望に満ちていました。肉体的にも知的にも精神的にも、日々成長する感覚があったからです。これからも自分は成長を続け、さらなる叡智を身につけたあとの世界は、きっと眺めが良いものなのだろうと思い込んでいました。
 けれど、いまの私に見える未来はそうではありません。鏡に映る自分の顔には、明らかに肉体的な老いが認められます。新しいデジタル技術についていけず、知的にも置きざりにされるのではないかという不安も感じます。肉体的にも知的にも衰えの始まりを実感すると、このように自分は衰退を続け、死にいたるのだというイメージが明確になるのです。
 自分自身ばかりではありません。両親や親友といった大切な人も老いてゆき、別れを意識することがあります。さらに視野を広げると、日本という国も、私がものごころついた頃から近年にいたるまでずっと経済的に豊かな国との信頼感がありましたが、自分のなかではそれもゆらぎつつあります。世界に目を向けても、環境問題や戦争など地球の未来にも不安を感じます。たび重なる喪失と将来への不安は、ときに私の気持ちを暗澹たるものにします。
 宗教的な価値観、あるいは死後の世界を信じている人は、救いがあり希望をもてるでしょう。来世に報われると思えれば今生の苦しみや試練に耐えられ、死の先に新たな世界が見えるからです。しかし残念ながら私は、死後の世界を信じることができません。

 これから衰退を続け、死にいたるという前提のもとに、どうやって「こころの充足」を得るのか。これが私のいまの課題です。難しそうですが、私はきっと自分が納得できる答えが出ると確信しています。患者さんとのやりとりを通して、それまで漠然と生きていた方が病や死と向き合うなかでこころの充足を見つけだす過程を、たくさん見てきたからです。
 私は、その答えを見つけるための旅を続けています。最初は暗中模索でさまよいつづけていましたが、おぼろげながらも答えのかたちが見えてきた感覚があります。

幸せになるには感謝する

 答えのヒントを探しているなかで出会った、印象的な考え方があります。
 修道士のデヴィッド・スタインドル=ラストによる「幸せになりたいなら感謝しよう」というTEDトークがあります。「私たちは幸せだから感謝するのではありません。感謝するから幸せになるのです」との言葉に、感謝することは幸せになるための極意だと納得したものです。
 デヴィッド・スタインドル=ラストがアフリカに滞在した際、その地域には、飲める水や電気がなかったそうです。帰国後、彼は水道の蛇口をひねるたびに胸がいっぱいになり、電気をつけるたびにありがたく、幸せを感じたと言います。「自分はなんと恵まれた環境で生活ができているのだ」と。
 しかし、しばらくたつとそのことに慣れてしまい、幸せの感覚は薄れました。そこで、彼は水道の蛇口と電気のスイッチにシールを貼りました。蛇口をひねるたび、電気をつけるたびにシールを見て「こころを立ち止まらせ」、感謝と幸せを思い出すためです。
 立ち止まるクセがつくと、飛行機、レストラン、ワイン、トイレットペーパーなどさまざまな機会やものに感謝を感じるようになったそうです。そして、見落としがちな素晴らしい豊かさにこころを開くと、困っている人を助けて幸せになってもらいたいと考え、行動する機会にもこころが開かれるとのことでした。

 デヴィッド・スタインドル=ラストの話は、ストンと腑に落ちました。私も学生時代、バックパックを背負って多くの国を旅した経験があります。彼ほど過酷ではなかったかもしれませんが、2か月にわたって北アフリカの国を旅行中に熱中症になったことがあり、その際はほんとうに不安な思いをしました。熱中症は数日の安静ののち改善しましたが、その国では英語がほとんど通じず、国際電話をかけるにも町の中心にある電話局に行かないとならず、心細いなかでなんとか情報を集め、現地の医師の診察を受けることができました。
 その旅行から帰国したときは、こころからほっとしました。久しぶりに食べた、ふっくら炊けた白いご飯のおいしさに、涙が出るほど感動したものです。けれどその感動も数日で薄れ、代わり映えしない日常と認識するようになりました。
 先ほど述べたように、これからの私は、新しく得るものよりも失うもののほうが多いでしょう。存在するのが当たり前と思っていると、失ってはじめて残念だと気づき、喪失の連続は暗澹たる心情をもたらします。一方で、その存在が当然でないと思えれば感謝の気持ちが湧き、こころは温かく満たされるのではないか。デヴィッド・スタインドル=ラストの話は、私に重要なヒントを与えてくれたように感じました。

地球ガチャと人類ガチャ

 先日、友人と、友人の大学生の息子さんと食事をしていたときに、次のようなやりとりがありました。息子さんは通っている大学の環境が合わないようで留年を繰り返しており、現在の生活に不本意な気持ちをもっているそうです。そして、「ああ、自分に生まれてきたくなかった」と言ったのです。
 私は彼の話を聞き、たしかにそれは困難な状況だと苦境をねぎらいました。一方で、「自分に生まれてきたのが不幸だ」と感じていることについて、少し思考の転換が図れないかと、次のような話をしました。

 「いまの自分に生まれてきたくなかったと思っているんだね。それはとてもつらいことだ。だったら、ちがう人の人生と交換できるガチャを引かせてあげよう。地球ガチャっていうんだけど」
 「地球ガチャって、どんなガチャですか? 引いてみたいな」
 「いま地球の人口は80億以上いると言われているよね。全員の人生をガチャにして、引いた人の人生をかわりに生きるんだ」
 「へ~」
 「G7の人口を合わせても7億7千万ほどと言われているから、経済的にはきみが日本よりも豊かな環境に生まれる可能性はあまり高くない。それよりも、飢餓や戦乱に見舞われていたり、あるいは人権が保障されていなかったりする国に生まれる可能性のほうがはるかに高い。どうだい、地球ガチャを引きたいかい?」
 「うーん、どうだろう」
 「それならもうひとつ、人類ガチャというのもあるんだ」
 「人類ガチャ? それ、なんですか?」
 「人類(ホモ・サピエンス)の誕生は約30~20万年前と言われているけど、人類の誕生から現在にいたるまでに生きた全員の人生をガチャに入れて、引いた人の人生をかわりに生きるんだ。文明の誕生から現在まで1万年程度だから、文明誕生前の人生を選ぶ可能性がかなり高い。たとえば石器時代にワープするなんてこともありうるし、そもそも石器すらもない時代かもしれない。衣食住に事を欠き、猛獣が襲ってくるのが日常みたいな時代に行くかもしれないが、人類ガチャを引いてみるかい?」
 「うーん、それならいまのままのほうが良いかもしれないな」
 「そうだよね。いま向き合っている状況はたしかに困難かもしれない。ただ、私たちが暮らしている世界は、かなり恵まれているということはきちんと認識しておいたほうがいいよ。
 平和で身の危険を普段は感じず、生活保護などのセーフティネットがあるので衣食住はある程度保障され、基本的人権が守られている。生まれてからずっとそういう環境で生きていると当たり前のことと錯覚してしまうが、ほんとうは得がたいことだという認識をもてれば、感謝の気持ちが湧いてくる。
 感謝とは押しつけがましく聞こえるかもしれないけど、そうじゃないんだ。〝ああ、こうやって暮らせているのはありがたい〞と思えると、自分の人生を肯定して、幸せに思えるんだよ」
 「たしかに、そうかもしれない。こうやって穏やかな食事の時間をもてるのもありがたい。そういうふうに視野を広げると、自分の悩みは贅沢なのかもしれませんね」

 この話のあと、息子さんの表情は少しやわらかくなっていました。
 もちろん、私との対話だけでいま向き合っている悩みが簡単になくなるわけではないでしょう。人生の第一ステージに取り組んでいる彼にとって、学業が順調でなく、周囲に取り残されていると感じているなら、それは大きな問題です。大学に行けばまた厳しい現実を目の当たりにして、気持ちがすさんでしまうかもしれません。
 それでも、デヴィッド・スタインドル=ラストが水道の蛇口にシールを貼ったように、一日の始まりに、平和で安全な世界に暮らしているいまが当たり前ではないのだと意識して、「ありがたい」と感謝の気持ちをもつことは、自分の人生を少し豊かにしてくれると思います。

優越感の罠

 ガチャの例は誤解を招くかもしれませんので、少し補足します。平和で安全な世界に生きているのを感謝することと、困難に満ちた世界で生きている人に対する優越感をもつことは異なるという点です。一時的に優越感で満たされたとしても、いずれ自分を傷つける刃として跳ね返ってくるリスクがあります。もし生きている環境が困難に満ちた世界になったとき、「自分は恵まれていない立場になった」と、優越感は劣等感に変わるでしょう。あるいは、その厳しさが身にしみると、優越感を感じていた相手の気持ちを思いやり、「以前の自分はなんと思いあがっていたんだろう」と気づくかもしれません。

 数年前に広島平和記念資料館を訪れたとき、当時の状況が描写された展示に涙が止まりませんでした。多くの方が被害にあわれたことを事実としては認識していましたが、経験されたひとりひとりの物語を想像すると、その悲惨さが自分のこころにリアルに迫ってきました。被害者の方には、言葉では表せないほどの苦しみや悲しみ、怒りがあったのだろう。これはわずか約80年前(わずかというのは私の主観ですが)に起きたことなのだ、と。この現実は他人事ではなく、現在の自分が住んでいる世界の平和も油断していればいつ失われるかわからない――。このときの私のこころに優越感はなかったと信じたいです。

 健康についても同様です。自分が健康であるのが当たり前だと思っていると、病気の人を目にしたときに「かわいそう」と感じるかもしれません。「かわいそう」の奥には、病気の人は不幸で、自分は不幸ではないという認識があり、優越感が隠れています。
 私も多くの患者さんから、「かわいそうと思われたくないので、がんになったことを周囲に知られたくない」という話を聞きます。さらに、「じつは私も昔、がんになった人をかわいそうだと思って、ほかの人と興味本位のうわさ話をしていたんです」という後悔を打ち明けられる場合もあります。

 そういう私も若い頃は「病気の人はかわいそう」と思っている節がありました。2003年に国立がんセンター(現・国立がん研究センター)の研修に応募したとき、願書に「苦しんでいる人にケアを施せるようになりたい」と書いたのですが、当時の指導医に「苦しんでいる人のケアができるようになりたい」と、表現を修正されたことを思い出します。「施す」という表現には、病をもっている人を下に見ている視点が込められています。当時の自分を恥ずかしく感じる一方で、医学部での教育を含めて、人間の現実を知る機会がない場合、そうなってしまうのも自然な成り行きかもしれません。
 医療者などの対人援助職のなかで、「ケアをしてあげる」「治療してあげる」など、「患者さんに〇〇してあげる」という表現をする人がいます。あまり意識しておらず、先輩の言葉づかいをまねただけかもしれませんが、このような表現には優越感が込められており、「かわいそう」と同様、大きな違和感が私にはあります。
 このような人たちは、「健康な人」と「病気の人」が別個に存在するという前提があり、自分は「病気の人」にはならないとの思い込みがあります。厳しい表現をあえて使うと、この想定はあまりに世間知らずであり、楽観的すぎるのではないでしょうか。だれでもいつ病気になるかわからないという現実を知っておくことが大切だと思います。


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清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。

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