新たな自分に出会う――「不安を味方にして生きる」清水研 #21[中年期からのこころの冒険①]
不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
*第1回からお読みになる方はこちらです。
#21 中年期からのこころの冒険①
「こころの宇宙」を豊かにするために
第19回と第20回では、人生の第一ステージと第二ステージで作られる価値観や感覚を通して、承認欲求の正体について掘り下げました。今回は人生の第二ステージで何が起きるのか、その道筋をたどります。
第一ステージのゴールは、社会と折り合いをつけて自分の人生を歩めるようになることです。自分に自信がなかった私は、「must(~しなくてはならない)思考」にしばられ、他人の評価を気にしながら生きていました。かれこれ40年ぐらい、もがきつづけていたように思います。
第一ステージを経て第二ステージとなった今は、他人の評価はほとんど気にならなくなりました。諸行無常を知り、誰もが死に向かう人生を生きていると気づいたからです。
中年期になると、社会的な評価に価値を感じなくなることについては、独自のライフサイクル論を確立したダニエル・レビンソンも繰り返し述べています(『ライフサイクルの心理学』講談社学術文庫)。私だけではなく、このようなこころの動きを体験するのは一般的な現象でもあるのでしょう。
中年期になってからの試行錯誤を経て、やっと私も他人の評価を恐れずに生きられるようになりました。呪縛とも言えるmustから解放されて身軽になり、これからは本当に望むこと、「want(~したい)思考」に沿って生きたい。そのために、私のこころはどうありたいと感じているのか、一生懸命wantの声を聞こうとしています。
いずれはその声がはっきり聞こえるようになり、「生きていることは豊かなことだ」とこころの底から思えるほど自分の「こころの宇宙」が豊かになること、それが現在の私の大きな目標になっています。のちに述べますが、「こころの宇宙」という表現を用いたのは、誰しもこころのなかには宇宙のような無限の広がりがあり、そこには自分でも気づかないさまざまな気持ちが眠っているというイメージを私は持っているからです。
長らくmust思考に従って生きてきた私には、まだwantの声が明確には聞こえず、現在は「自分のこころの宇宙はどうしたら満たされるのだろう」というとまどいのほうが大きいように感じます。
苦しくはありましたが、mustにしばられていたときのほうが目指す方向はわかりやすいものでした。たとえば収入が上がったり、著書が評判になったりしたら、それだけで満たされていたからです。恥ずかしいことですが、「自分のランクがひとつ上がったぞ」といった、ほくそ笑むような気持ちもあったかもしれません。
いまは、そのようなことでこころは動きません。お金はないと生きていけませんし、ある程度の収入があったほうが便利なのはたしかです。それでも、仮にいまの給料が10倍になったとしても、おそらく自分の気持ちは満たされないでしょう。
若いころのように時間は無限にあると錯覚していれば、お金の使い道も無限に存在すると感じ、お金はたくさんあるほどいいと思うかもしれません。みなの前で高級車を乗りまわし、優越感にひたれるかもしれません。
けれど、他人から羨望のまなざしを向けられても、人生の現実は何も変わりません。いまの私はそのことを知っているので、他人の評価では満足できないのです。
この原稿を書いている現在の私は52歳ですが、時がたつのが年々早くなる気がします。振り返ればいろいろな出来事があっても、10年くらいはあっという間で、まさに「光陰矢の如し」と感じます。
もし私が平均寿命まで生きるとすれば、「気がつけば、あっという間に老年期になっていた」となりそうです。現在がんなどの病気に向き合っている方からすれば、何を贅沢なことを言っているんだと思われるでしょう。あくまで自分の感覚ですが、これから過ごすことのできる時間は、以前に比べるとはるかに短くなると感じるのです。
自分に残された貴重な時間を、他人に認めてもらうために生きようとは思いません。また、物質的な豊かさだけではこころは満たされないこともわかっています。
どうしたら、自分のこころの宇宙は満たされるのか。それを模索している真っ只中ですが、ここから私の模索のプロセスをお伝えしましょう。
こころが満たされる瞬間
まだ肌寒さが残る春先の夕方、私はなまった体を動かすためにスポーツクラブに行きました。運動を始めるまでは体もこころもけだるい感じでしたが、1時間ぐらい汗を流し、シャワーを浴びてさっぱりして外に出ました。
ゆったりとした風が吹いて、体全体がピリッとここちよい冷たさを感じ、「ああ、気持ちがいいな」と思いながら西向きの坂道を下っていました。
すると、ちょうど夕日が真正面に見えました。まばゆい夕日があたる町並みは黄金のように光っていて、その美しさに私は感動をおぼえ、「なんときれいなんだろう」と独り言をつぶやきました。風に吹かれた心地よさもあり、いつも何気なく見ている景色が感動をもたらしたのです。
そのとき私は、20年ほど前にお会いした進行がんの女性の言葉を思い出しました。その女性は進行がんに罹患していることに悩み、長らくうつうつとした気分と向き合っていました。ある日、彼女は家族と近くの川沿いの道を歩いているときに夕日を見たそうです。夕日に照らされた川べりが輝いて見え、その風景は言葉で表現できないぐらい美しかったと語りました。
理由はわかりませんが、その体験後、彼女はこころが穏やかになったそうです。それまではいつも眉間にしわを寄せ、苦しい表情だったのが、そのことを話した日以降はやさしい顔をしていたのをおぼえています。
当時の私は、「そんなことがあるのかな?」というほどにしか思えず、その女性の心境を想像できませんでした。以前は何事も理屈を通して考えがちで、美しいものなど感性の世界にこころを開いていなかったのです。
芸術にふれる時間も無駄だと思っていました。教科書や論文を読み、実際的な知識を得るほうがはるかに有意義だという価値観で凝り固まっていたからです。
それから歳月を経て、私は目の前の輝きを放つ景色に目を奪われながら、「あの女性が見た景色、感動はこんな感じだったのかな」と思いました。けれど、すぐに思いなおし、「彼女は大切な家族をはじめ、この世との別れを意識していたんだ。美しい夕日を見ながら、もっともっと格別な感情があふれていたんだろう」と、こころの動きに思いを馳せたのです。
短い散歩でしたが、私はいつになく温かい気持ちで満たされました。自分のことを理屈っぽくて感性に乏しい人間だと思っていましたが、「感性の世界にもこころは開かれているんだ!」と違う自分を発見したようで、うれしい気持ちもありました。
個性化を目指して
ユング心理学では、こころの在り方について、次のような考え方をします。意識的に生きている自分を「自我」、こころ全体を「自己」と呼び、意識して生きている部分はこころのほんの一部で、意識されない部分がこころの奥にはたくさんあるというものです。
ユング心理学に従えば、こころには自分でもまだ気づいていない面が多く眠っています。だからこそ前述したように、こころ全体は宇宙のような無限の広がりがあるように私は思うのです。こころにある、まだ自分が知らない部分を発見することで、だんだん本来の自分――納得できる自分――になっていきます。これをユングは「個性化」あるいは「自己実現」と呼んでいます。
夕日の美しさに感動して、それまで知らなかった自分に出会えたように感じたとき、私はまさに個性化の過程を体験した感覚を味わいました。
私は、第一ステージである人生の前半では、社会に適応することに一生懸命でした。他人に嫌われたり、失望されたりすることを恐れ、自分がなりたい自分ではなく、周囲から求められる自分であろうとしたわけです。
その結果、社会的には一人前の人間とみなされるようになりましたが、本来とは異なる自分を演じていたのかもしれません。個性化とは真逆の方向性で、こころを抑えつける苦しさがずっとありました。
もちろんこれからも社会人としてルールを守ったり、相応の責任を果たしたりはしますが、第一ステージのように、そこにすべてのエネルギーを注ぎたくはありません。少し気取った表現ですが、これからは「自分のこころの宇宙を発見する旅」に出るのです。
夕日の美しさに感動した自分以外にも、生真面目に生きてきた自分とは異なる、いろいろな自分を見つけていきたいと思っています。ほほえましいだけでなく、幼かったり、寛容でなかったり、醜い自分もたくさん見つかるかもしれませんが、それらも含めて探しにいきます。
次回は、自分のこころの宇宙を探検するコツについてお伝えしましょう。
第20回を読む 第22回に続く
清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。