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自分のなかの宇宙を旅する――「不安を味方にして生きる」清水研 #22[中年期からのこころの冒険②]

不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
第1回からお読みになる方はこちらです



#22  中年期からのこころの冒険② 

こころの探検のコツ

 前回では、人生の第二ステージである中年期からのこころの冒険についてお伝えしました。本来の自分を探す、「自分のこころの宇宙の旅」です。
 こころの宇宙の旅は、地図があるわけではありません。これからどんな発見があるのか、旅に終わりがあるのか、それとも終わる前に自分が死を迎えるのか、現時点では見当がつきません。けれど、さしあたって進む方向については、ユング心理学がヒントをくれています。それは、「自分があまり使っていないこころの機能をはたらかせる」というものです。

 ユングは、こころの機能は「思考」「感情」「感覚」「直観」の4種類だと述べています。「思考」は、物事を論理的に考える機能であり、「感情」は物事を理屈抜きに好き嫌いで判断する機能です。そして、「思考」と「感情」は正反対の機能と考えられています。思考機能優位の人は感情機能があまりはたらいていない傾向がある一方で、感情機能優位の人は思考機能がはたらきにくいのです。
 「感覚」は物事をあるがまま現実的に感じとる機能ですが、「直観」は物事からひらめきを生む機能です。「感覚」と「直観」も、正反対の機能とされています。たとえば絵画を見るときに、感覚機能優位の人は、そこに描かれているものをそのまま観察する傾向にありますが、直観機能優位の人は、その絵画からなんらかのメッセージを感じとる傾向があります。

 私自身は物事を論理的に考え、現実的に物事を受けとめる傾向があり、思考機能と感覚機能が優位と思われますが、その一方で感情機能と直観機能はおおむね眠ったままだった気がします。
 これからは、自分の優位な特性を生かしつつも、いままで抑えつけていた感情的な自分、直観的なひらめきを大切にしていこうと考えています。
 理屈っぽい自分を変えたいという方の参考になるかもしれないので、感情の解放について私のやり方を少しご紹介します。

胸に手をあててみる

 感情を解放する第一歩として、食事を選ぶときにそれまでの思考機能ではなく、感情機能をはたらかせるようにしました。単純な例ですが、機能の対比がわかりやすいので、よろしければ参考にしてください。
 私の場合、昼食は病院のコンビニで調達することが多いのですが、以前は体重コントロールのため、カロリー表示をもとに「昨日は食べすぎたから、今日はざるそばにしておこう」などと決めていました。これは論理的で、思考機能を用いた選択になります。結果としてカロリーは抑えられますが、こころに我慢を強いたような感覚がありました。
 最近意識して行っているのは、陳列棚を眺めながら、自分が純粋に何を食べたいのかを感じとってから選ぶことです。コツとして、左胸に右手をあてると、どの食べ物に自分のこころはワクワクするのか、こころの動きがわかりやすいように思います。
 ある日は、かつ丼にこころが高鳴ったように感じたので、迷わずそれを選びました。かつ丼をほおばるとき、「自分が食べたいものを食べている」という喜び、納得感を味わえたので、「胸に手をあてて、こころの動きを知るというやり方はいいな」と思えました。

 身近な例で説明しましたが、感情機能を意識的にはたらかせることを繰り返すと、胸が高鳴るサインがだんだん聞こえてくるようになります。そのときに大切なのは、サインを無視しないことです。
 たとえば、少し高価だけど「いいなあ」と思える服を見つけたとします。量産品のほうがコスパがよいのに、と思考機能が考えるかもしれません。それでも、「自分が着たいのはこの服なんだ!」と感情機能を優先するのです。
 太陽の光を浴びながら海で泳ぎたいと思ったら、近くに大きなプールがあったとしても海まで出かける。行きたいコンサートがあれば、チケットが高くても予定を調整してでも優先する。
 意識的に繰り返すことで、自分の「こうしたい」が明確になり、感情機能に基づいた行動が増えていきます。このようなプロセスを経て、私にはこころが我慢している感覚はなくなっていきました。
 コスパ(費用対効果)、タイパ(時間対効果)は、思考機能に基づく考え方です。効率に対する意識も大切ですが、コスパ、タイパを最大化するだけでは、こころは満足しないでしょう。状況によってはコスパ、タイパにしばられないことも、豊かに生きるためには必要だと私は考えます。

直観を磨く

 私の場合、直観機能(ひらめき)をはたらかせるのは、感情機能以上に難航します。試行錯誤するなかで、音楽にふれているときだけは、私の直観がはたらくことに気づきました。
 私はクラシックのコンサートによく行きますが、目を閉じて演奏に耳を傾けると、音だけを聴いているのに、なぜかいろいろな視覚的イメージが湧いてきます。クラシックがかなり好きでないと伝わらないかもしれませんが、少しお付き合いください。 

 少し前に、青木尚佳なおかさんというバイオリニストが弾く、メンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲」を聴く機会がありました。つややかで柔らかい音色で、目をつぶって聴くと、絹の糸が躍動しながら服が編まれていくイメージが浮かんだのです。第一楽章にはソロ・バイオリンによるカデンツァがあるのですが、カデンツァの最後の部分では、静かな夜の暗闇に小雨が降りだしたイメージが湧きました。
 同じ曲を最近、辻彩奈あやなさんという別のバイオリニストの演奏で聴いたのですが、その演奏に強い情熱を感じました。目を閉じて聴くと、同じカデンツァの部分で、やはり夜の暗闇に雨が降るイメージが湧きました。けれど、そのときは小雨ではなく、地面から跳ね返るぐらいの雨足の強さを感じました。
 どちらの演奏も素晴らしかったですが、こんな感じ方を自分ができることに新たな発見がありました。
 また、偉大なピアニストであるマルタ・アルゲリッチが弾くラヴェルの「ピアノ協奏曲」を目を閉じて聴いたときは、まるで鍵盤の上を少女が無邪気に飛び跳ねているイメージが湧いてきました。アルゲリッチは御年82歳ですが、永遠の少女のような一面をこころに宿しているのだろうか、と感服したものです。

 目を閉じると、優位である感覚機能のはたらきが制限されます。それによって、普段ほとんど使っていない直観機能がはたらくのかもしれません。さらに、このように目を閉じて視覚的なイメージが湧くのは生演奏のときだけで、録音された演奏ではそうなりません。不思議なものです。
 同じ芸術でも絵画から感じるイメージもありますが、私の場合はまだまだ弱いように思います。絵画の場合、目を閉じると鑑賞できないので、絵を見るときは感覚機能がしっかりはたらくからかもしれません。

 直観機能をはたらかせることは苦手なままで、「こうすればうまくできますよ」という包括的な説明はまだできません。そんな私でも、試行錯誤するなかで直観機能がはたらく場面と出会えたこと、直観を育てていける実感を持てたことは強調しておきたいと思います。

こころの充足に至るために

 意識的な行動を重ねるうち、自分のこころを押し込めている感覚は確実に減ってきました。窮屈な苦しさはあきらかになくなってきており、以前より身軽に生きていると感じています。
 それでも、こころの深い充足に至っているとは思えません。この調子で死ぬまでの日々を生きたとしたら、苦しくはなくてもどこか満たされないことでしょう。 

 精神科医の泉谷いずみや閑示かんじ先生は、作曲家のベートーヴェンは、人が生まれてから、こころを充足するまでの道のりを「交響曲第三番(英雄)」に描いていると述べています(『なぜ生きる意味が感じられないのか』笠間書院)。
 「交響曲第三番」は4楽章からなっていますが、泉谷先生は4つの楽章の並びが、そのまま人間精神の成熟段階を象徴的に反映しているのではないかと考えています。それは、1:オプティミズム(楽観主義)、2:ペシミズム(厭世主義)、3:積極的ニヒリズム(虚無主義)、4:統合的人格というプロセスです。
 この曲はそれまでの交響曲にはない特異な構成になっており、第一楽章は一般的なソナタ形式ですが、第二楽章には「葬送行進曲」があてられています。

 ベートーヴェンは作曲家として成功をおさめようとしていましたが、20代後半から難聴が悪化し、31歳で絶望して自殺を考え、「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる手紙を記しています。
 いくら社会の規範に従って真面目に生きていても人生は理不尽であり、厳しい現実に向き合わざるをえないという想いを、ベートーヴェンは「葬送行進曲」に込めているのではないかと想像します。
 そして、この交響曲に特徴的なのは、第三楽章にスケルツォ、第四楽章に自身が作曲したバレエ音楽「プロメテウスの創造物」の主題による変奏曲があてられていることです。スケルツォは〝おふざけの曲〞、「プロメテウスの創造物」は文明を生み出し、思索ができる人間を象徴しています。
 第三楽章のスケルツォが表しているという積極的ニヒリズムは、「生きていることに意味なんてない。だから気楽に踊りあかせばいい」というような意味です。いまの私は日々気楽にスケルツォを楽しんでいる感覚ですが、そのまま踊りあかして人生を終えたいとは思いません。
 さいわいベートーヴェンは、「人生のフィナーレにふさわしいその先が、ちゃんと待っている」というメッセージを、交響曲の第四楽章に込めています。このメッセージは実証されていませんが、私はきっと自分の人生もメッセージのとおりになるだろうと楽観的に考えています。

 そう考えるのには理由があります。自分が会ってきたがん患者さんたちが、死と向き合うなかで、こころの深みに至る、あるいはこころの宇宙を満たすことができることを、身をもって示してくれているからです。私も、今後自らの死と向き合うことが触媒となり、心境が変わっていくのだろうと思っています。
 病気になるといった体験をしたら、きっと私の人生の第四楽章がそこから始まるのでしょう。けれど、そのときを受動的に待っているなかで、もし突然人生が終わりを迎えたら、自分の人生はスケルツォの段階で終わってしまうことになります。最終楽章が描かれず、未完成のままです。ぽっくり死ぬほうが幸せという人もいますが、私は自分の死を十分意識的に過ごす時間がほしいと思っています。
 そのため、私は死を積極的に意識する試みを始めました。このことで生きていることに深い感謝の気持ちが湧き、いま優勢である虚無主義的な視点から、少し離れられるように感じています。このことについては、また改めてお伝えします。


第21回を読む 第23回に続く

清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。

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