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隣国での有事はいかにして起こり得るか――『総理になった男』中山七里/第17回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。日本でのオリンピック・パラリンピック開催を切り抜けた真垣内閣。しかし、慎策の思いから開会式の中継で台湾を「TAIWAN」と呼称したことが、思わぬかたちで大きな国際問題に発展していく――
 *第1回から読む方はこちらです。


五 VS有事

 九月二十五日、台北市中正紀念堂。
「ウイグルの文化を護れーっ」
「中国政府の横暴を許すなーっ」
「覇権主義断固反対ーっ」
 芸文広場前は抗議デモの群衆で溢れ返っていた。皆に合わせてシュプレヒコールを上げている檜山慧ひやまけいは少なからず昂揚していた。
 この広場はすっかり市民デモのメッカになった感がある。一九八九年の天安門事件を支持するデモに始まり、一九九〇年の野百合学生運動や一九九四年の反原発デモや二〇〇八年の野イチゴ運動、最近では香港逃亡犯条例抗議デモなど、世に知られた市民デモの多くはこの地で行われている。
 そして今、台湾市民は中国政府の新疆しんきょうウイグル自治区弾圧に怒りと不安を抱いている。ウイグル人の人権や文化までを丸ごと奪い、無理やり漢民族と同化させてしまう。そのやり口を台湾に対して行使しないという保証はどこにもないからだ。
「中国共産党は解党せよーっ」
「中国政府の横暴を許すなーっ」
 繁体字で自ら書いたプラカードを掲げながら、檜山は自分が歴史の一ページに登場しているような興奮を覚える。ともに参加している者たちも同様ではないだろうか。周囲を見れば、中高年よりも若者の姿が目立つ。
 台湾に留学してまだ二年だが、感心したことの一つに若者の政治に対する関心の高さがある。自国の政治は自分たちで決めるという意識が顕著で、前回の総統選挙で二十代の投票率は九割近かったとする推計も出ている。日本とはずいぶん事情が違う。「投票率が低いのは国民がその国の政治に満足しているからだ」という意見もあるが、檜山はそうではないと確信している。無関心は消極的な権利放棄に過ぎない。少しでも不満があれば改善を訴えるべきだし、疑問があれば解消するべきだと考えている。
 日本の大学にいた頃、政治経済学部の准教授が矢鱈やたらに熱い人物だった。普段はペシミストを気取っている癖に、政治経済を語らせれば熱血漢に変貌する。檜山は彼に感化されて政治学にのめり込み、遂には病膏肓こうこうに入って台湾に留学した次第だった。
 台湾の政治運動は若者がナビゲーターとなり、市民を牽引けんいんしている。檜山はそこに魅力と可能性を見る。この国で学んだことを日本でフィードバックできないかと夢想する。
 シュプレヒコールには一定のリズムと音量がある。いつ誰が決めた訳でもないのに自然と秩序が構成されている。これも市民や学生がデモに慣れている証拠だろう。
 ところが檜山の昂揚を突然遮る声が上がった。
「中国の国家主席は退陣せよーっ」
 一瞬、何かの間違いではないかと思った。政府や政策を批判しても、国家主席を名指しで糾弾することはしない。台湾も一枚岩ではなく親中派と親米派、統一派と独立派に分かれている。中国からの監視も厳しく、抗議はしても一触即発になるのは避けていたきらいがある。だからこそ、このシュプレヒコールには違和感があった。
「中国の国家主席は退陣せよーっ」
「ウイグル族にひれ伏せーっ」
「死をもって償えーっ」
 言葉がどんどん尖鋭化せんえいかしていく。空気が徐々に剣吞なものへと変わり、いつの間にかデモの参加者が増えているではないか。
「中国政府の横暴を許すなーっ」
「中国の国家主席を沈黙させろーっ」
 気がつけば、檜山はデモ隊の中央に押しやられ、すぐには群衆から抜け出せない位置にいた。膨れ上がった群衆は遂に大通りまで駒を進めてきた。
 異変はその直後に起きた。
 突然、道路脇が騒がしくなったと思いきや、群衆の一部が商店のショーウィンドウを鉄パイプで割り始めた。それだけではない。店内に押し入り、商品を略奪してきたのだ。
 まさか。そんな馬鹿な。
 台湾のデモは統率され抑制的だったはずなのに。
 初参加の者が興奮のあまり暴徒と化してしまったのか。
「やめろ、やめるんだあっ」
 たまらず檜山は叫んだ。
「略奪するな。暴動になってしまう。これじゃあ抗議活動でなくなる。犯罪だぞ」
 だが檜山の声は一部群衆の騒乱に搔き消されていく。群集心理が働いたのか、見る間に破壊と略奪に加担する者の数が増えていく。
 やめてくれ。
 頼むから。
 檜山の願いも空しく、暴徒となった一群は得物を手に商店に押し入る。その姿には理想の民主主義もへったくれもない。ただの犯罪集団だ。
 檜山は群衆から抜け出そうとするが、暴徒とそれを抑え込もうとする者の攻防に囲まれて身動きが取れずにいる。じたばたしているうちに、向こう側から武装した警官隊が姿を現した。
『全員動くなーっ』
 警察局車両の拡声器から警告が発せられる。だが従う暴徒はいない。それどころか警察官に向かって投石する者さえいた。
『騒乱をやめなければ実力で阻止する』
 警察局の警告に噓やハッタリはない。拡声器の声が途絶えた次の瞬間、前線に立っていた警察官たちが銃を水平に構えた。
 まずい。
 檜山は反射的に屈んだ。その瞬間、頭上を催涙弾らしきものが通過した。
 破裂音と叫び。怒号と擦過音。いくつもの音が混ざり合う中で、煙と血の臭いが鼻腔に侵入してくる。
 逃げなきゃ。
 一刻も早く、ここから離れなきゃ。
 やっと人の固まりが緩やかになったので、駆け出したその時だった。
 檜山の頭上に黒い影が振り下ろされた。

 東京オリンピック・パラリンピックは国内で惨憺さんたんたる批判を浴びた一方で、称賛する声も一部にはあった。同様に海外での評価も分かれた。
 ニューヨークタイムズ紙の評価は次の通りだ。
『IOC会長が語ったようにパンデミックの中で開催された東京大会は、「全世界が通っているこの暗いトンネルの終わりの光」となるはずだった。しかし、社会から切り離された閉所恐怖のような状態になることが多かった』
 片や英ガーディアン紙の評価はこうだった。
『私の五輪体験が優しさに満ちているのは、ホスト都市だった東京の優しさの表れである。このイベントの最終的な目的が何であれ、この東京の人たちの配慮と親切は、この過酷な時代に必要なものを示す教訓だ』
 執務室で今後の政権運営について話し合っていた大隈は、有力紙を紹介しながら慎策の労をねぎらう。
「いずれにしても大成功とは言い難いが、経済的損失は最小限に抑えられた。敗戦処理投手としては上々の仕事ぶりだった」
「ありがとうございます」
「ただし個人的には不満もある」
 大隈はすぐに唇をへの字に曲げた。
「開会式直前、鄧中国大使から訪問を受けた件、忘れた訳ではあるまい」
 忘れるものか、と慎策は内心で応える。中国大使と台北駐日経済文化代表処黄代表との板挟みでずいぶん悩まされたのだ。
「中継中、NHKのアナウンサーが『チャイニーズ・タイペイ』ではなく『台湾』と呼称したことだ。いや、『した』ではなく『させた』だな。NHKの実施本部に確認した。呼称の変更は内閣からの指示だったそうじゃないか」
 そこまで調べられたのなら認めるしかない。慎策は神妙に頭を下げた。
「わたしの独断です。申し訳ありません」
「一国の首相が簡単に頭を下げてはいかん」
 少し慌てたように大隈が言う。大隈の弱点を熟知した上での低頭だから、慎策も多少の罪悪感がある。
「大国の覇権主義を目の当たりにして、むらむらと判官贔屓びいきの血が騒ぎました。場内アナウンスではなく、いちテレビ局の中継ならオリンピック方式に抵触もしません」
「この際IOCは関係ない。中華人民共和国の面子の問題だと言ったろう」
 大隈は額に皺を作る。
「鄧中国大使との会談を打診してきたのは親中派の議員だと言った」
「ええ。その親中派議員というのは民生党の幹事長で、官房長官の僚友ですよね」
「何だ、知っていたのか」
「そのくらいはわたしにも調べられます」
「じゃあ、わしが公言しないまでも親中派だということも調べたか」
「官房長官は豪放磊落ごうほうらいらくで外交についても忌憚のない発言をされています。しかし、民生党を旗揚げされた頃を境に中国についての発言は控えておられます」
「ああ、その通りだ」
「何故ですか」
「結党に大同小異はつきものだが、党員の多くは反米に凝り固まり、親中に傾き過ぎていた。わしも親中派ではあるが、かの国が内包する危うさも充分に承知している。それをヤツらごとき無批判な親中派と十把一絡じっぱひとからげにされては堪らんからな」
 がちがちの親中派と見られたら将来的に不利になる。現状を鑑みる限り、大隈の予見は当たっていると言わざるを得ない。少数民族を弾圧する傍ら覇権主義を推進し始めた頃から、中国に対する国際的な批判が高まっている。結党以来、親中反米を標榜してきた民生党は、その煽りを食らって確実に支持率を下落させているのだ。
「だが問題はそこではない。あの国の顔に泥を塗ったのが非常にまずい」
「しかし官房長官。台湾の呼称を変更したことについて、中国政府からも鄧大使からも表立った抗議は受けていませんよ」
 すると大隈はじれったそうに首を横に振る。
「大声でわめき散らす者の怒りなんぞ大したもんじゃない。恐いのはな、無礼をされても一見無関心のように装うヤツらだ。沈黙は一番の悪意だ。言葉で吐き出すべきものを心の中に溜め込んで、行為でしっぺ返ししようとする」
「まさか」
 大隈の物言いは少し大仰に聞こえた。
「国の呼称を変えた程度で、中国が我が国に対して敵対行動を起こすというのは大袈裟過ぎやしませんか。子どもの喧嘩じゃあるまいし」
「子どもの喧嘩、か。もちろん国や国を統べる者が戦を始める時は相応の国際情勢と内部事情、それに経済力と軍事力の総量が複雑に絡み合うから同列に扱うことはできん。しかし、共通点もある」
「何ですか」
「子どもの喧嘩も戦争も、それぞれ自分が正しいと信じている。だから互いに一歩も退こうとせず、泥沼に足を突っ込む」
 言わんとすることは正鵠を射ている。何か否定できる材料はないかと思案していると、内閣情報調査室の阿部あべが飛び込んできた。
「総理、お話し中のところ申し訳ありません」
「何事ですか」
「台北市内で暴動が発生し、多くの逮捕者と負傷者が出た模様です」
 たった今、その台湾の話をしていたばかりだ。あつらえたような偶然に、慎策も大隈も顔を見合わせる。
「独立派のデモの一部が暴徒化し、これを制圧しようとした台北市政府警察局との間で小一時間に亘って鎮圧行動が実行されました」
 最初に声を上げたのは大隈だった。
「負傷者の内訳は判明しているのか」
「未確認です」
「確認次第、すぐに報告してくれ」
「承知しました」
 空気が目に見えて張り詰めた。阿部が退室した後、慎策はおずおずと問い掛けた。
「どうして負傷者の素性が重要なのですか」
「相手次第で重要になるかどうかは分からんが、とにかく把握だけはしておきたい」
 慎策はまだ大隈の真意が摑めない。だが大隈がこれほど気にしているのであれば些事でないことだけは確かだ。
「風間参与を呼びます」

 風間が執務室に入ってきたのとほぼ同時に、海外メディアが台湾暴動を取り上げていた。三人は執務室にしつらえられたモニターで海外メディアのニュースに見入る。スマートフォン越しの画面ではなく、七十インチのモニターで観る映像は迫真的だ。
 ショーウィンドウを破壊し、店内の商品を略奪する暴徒。催涙弾を発射する警官隊と投石で応じる市民。催涙ガスの刺激臭や棒で殴られた痛みがこちら側にも伝わってくるようだ。通行人かデモに参加していた者が鎮圧行動の模様を至近距離から撮影し、テレビ局に渡したらしい。警官隊の統率の取れた行動も、必死に抵抗するデモ参加者の表情も克明に映し出されている。
「どうしてこんなことが起きた。独立派は現政権の方針に同調していたから、暴動が起きる可能性はなかったはずだ。それがどうして」
「デモは新疆ウイグル自治区に対する中国政府の弾圧に抗議していた。行進を続けるうちに一部が暴徒化したらしい」
 慎策が説明を加えても、風間はまるで納得した様子を見せない。返事も忘れたようにモニターを凝視する。
 そして矢庭に椅子から立ち上がり、モニター画面に顔を近づけた。
「おい、風間」
「まさか、そんな」
「どうしたっていうんだ」
 初めて慎策の問い掛けに気づいたらしく、風間はようやくモニターから離れた。
「少し焦った。すまない」
「お前が焦るなんて珍しいな」
「デモ参加者の中に知った顔があったような気がした」
「向こうに知り合いでもいるのか」
「教えていた学生で台湾に留学したのがいる。まさかとは思うが」
「大使館に確認させようか」
 束の間躊躇を見せた後、風間は小さく頷いてみせた。
「頼む」
「それにしてもせんな。先生の言う通り、独立派が暴徒化したり略奪したりというのは理屈に合わん」
 慎策も同じ思いだった。
「官房長官は、この暴動に裏があるとお考えですか」
「理屈に合わないことには裏があると見るべきだろう」
「賛成ですね」
 風間は深刻な顔をしたまま同意する。
「台湾市内の暴動なんて一九四七年の二・二八事件以降は起こっていない。民主化がなされてからというもの、暴動やテロとは無縁の国なんだ」
 映像がスタジオに切り替わる。
『暴動に関して中国政府外交部が会見を開きました』
 三人の目と耳が再びモニターに集中する。映し出されたのは外交部報道官のしかめ面だった。
『この度の台北騒乱に我々は遺憾の念を表明する』
 中国政府はこの事件を〈台北騒乱〉と呼称することを決めたらしい。
『チャイニーズ・タイペイには我らの同胞が多く住んでいる。独立派およびその支援者たちの不正義によって同胞の身が危険に晒されることは断じてあってはならない』
 ぴくりと風間の肩が上下した。
『独立派およびその支援者たちは〈一つの中国〉に反するばかりか、我が国の主権、人民、財産を略奪する無法者である。チャイニーズ・タイペイの総統と総統府は断固たる態度をもって先導者を処分するべきである』
「そういうことか」
 モニターを眺めていた風間は合点がいったように唇を上げる。見れば大隈も似たような顔をしている。
「総理、内調から最新の情報は届いているか」
「まだのようですね」
「日本のメディアは問題外、海外メディアのみを頼りにしていても偏る。双方の言い分を聞いてみるのが妥当と思うがいかがか。どのみち日本政府も対応を迫られる」
「賛成ですね。総理、すぐに鄧中国大使と駐日経済文化代表処の黄代表を呼んでください」
 風間と大隈の意見が一致するのは大抵正しい時だ。慎策は迷わず二人の提案を受諾する。

「事情も何もない。ニュースで流された映像そのままですよ。チャイニーズ・タイペイを独立させようと画策している一派が我々の同胞に暴力と略奪をしている」
 鄧大使は分かりきったことを訊くなと言わんばかりだった。こちらを見下すような視線に辟易へきえきしながらも、慎策は質問を続ける。
「しかし大使。現在の台湾総統は独立派を支持する民進党で、国民の過半数がその方針を支持している。そんな状況下で独立派が暴動を起こすなんて道理に合わない」
「暴徒に道理を説くつもりですか」
 鄧大使は薄ら笑いを浮かべる。
「暴動と言うよりは統一派に対する弾圧なのですよ。多数にモノを言わせて正論に蓋をする。平穏を望む統一派を暴力と示威行為で圧して、このまま独立を国際社会に黙認させようという肚なのですよ。誠に許し難い行為です。民主化が聞いて呆れる」
「それではテロリズムの理屈ではありませんか」
「真垣総理の仰る通りです。これは独立派によるテロなのです」
鄧大使は我が意を得たりとばかりに、こくこくと頷く。
「独立派という名のテロリストによって同胞が危険に晒されている。総統と総統府が毅然とした態度を取らなければ、我が政府としては鎮圧部隊を派遣することを念頭に置いています」
 黙って聞いていた風間の眉がぴくりと動き、それを見ていた大隈が口を差し挟んだ。
「では、総統と総統府がデモの参加者に然るべき処分を行えば部隊の派遣は思い留まるという認識でよろしいか」
「対象はデモの参加者だけではありません。彼らがテロリストの予備軍と知れた今、公然と独立派を標榜する者は全員処分の対象者です」
「台湾国民の過半数を逮捕すると言われるのか」
「官房長官ともあろう方が、認識が甘い。過半数が独立を支持していると言うが、あれは数字のまやかしです。仮に総統選挙の結果がそうであったにせよ、その過半数の中にも独立派の数に圧されて口を噤んでいる同胞たちが大勢いるのです。チャイニーズ・タイペイのほとんどの市民は中国への帰属を希望してやみません」
 何故か大隈はそれ以上、鄧大使に食い下がろうとはしない。
「チャイニーズ・タイペイを『国』と認めているのは世界でもたったの十三か国だけ。国連もWHOも、そして我が親愛なる日本国もそれを認めていません。従って今回の台北騒乱は国内で起きたテロ事件に過ぎません。我々中国政府がテロリストの鎮圧に乗り出すのは正当な行為なのです」
 鄧大使は有無を言わさぬ口調で言い放った。
「国内問題に外国が介入すれば、明確な内政干渉です。まさか真垣総理がそんな軽挙に及ぶとは思いませんが、念のために申し上げておきます」
 この時、慎策の脳裏には予てより懸念されていながら誰もが口にしたがらなかった四文字が浮かんだ。
 台湾有事。

「何がテロリズムですか、馬鹿馬鹿しい」
 次に招いた黄代表は最初から怒りを隠そうともしなかった。
「こちらでは何と言うのでしたか、真垣総理。ああ、そうそう、盗人猛々ぬすっとたけだけしいと称するのでしたね」
「しかし黄代表。報道を見聞きする限り、暴動は独立派のデモが起こしていますよ」
「不穏当なシュプレヒコールを上げたり略奪行為をしたりしているのは独立派の市民ではありません」
 黄代表は言下に答えた。
「全ては統一派の仕業なのです」
 慎策の隣に立つ風間が、納得顔で頷く。
「つい先ほど立法院(台湾の議会)の外交国防委員会が急遽きゅうきょ開かれ、情報機関トップの国家安全局長が状況の把握を答弁しました」
「どのような状況ですか」
「中国の総領事館が親中的な団体を動員しているのです。更に局長は、中国当局が彼らに一人当たり二百ドルの日当を支払っている事実も明らかにしました」
 下卑げひた言い方をするならヤラセという訳だ。
「独立派にテロリストの汚名を着せた挙句、台湾市民の保護を名目に軍隊を派遣するつもりなのでしょう」
「台湾総統と総統府には問答無用で、ですか」
「大方、独立派に暴動をけしかけたのは政府であると偽情報を流す計略でしょう。情報戦ではアメリカやロシアに引けを取らない国ですから」
 噓も百回続ければ信憑性しんぴょうせいを帯びてくる。理不尽な話だが、これはイラク戦争でアメリカが実証してみせたことだ。
「しかし、何故このタイミングなのですか」
「来年の一月には総統選挙が行われます。直近の調査では現政権を掌握している民進党の支持率が台湾国民党のそれをはるかに上回っています。このまま推移すれば三期連続で民進党が政権を担うことになりそうです」
「独立を党是とする民進党が政権を担当し続ければ、統一が遠のきますね」
「気運が高まれば、独立を目指す動きが活発化するでしょう。中国政府はそれを警戒しています。だから総統選挙が始まる前に台湾の自治を完全掌握し、統一派による傀儡かいらい政権を樹立させる目論見なのです」
 黄代表は慎策たちを正面から見据える。一歩も退かぬという意思が目に宿っていた。
「中国政府は国際社会に対して情報戦を仕掛けつつ、他国の介入を絶対に許さないでしょう。しかし我々は決して屈しません。ここで屈したが最後、台湾の民主主義は消滅してしまうでしょう。ちょうど現在の香港のようにです」
 ひどく思いつめた表情の黄代表に、三人はかける言葉さえなかった。
 黄代表が退室した後、執務室に残った三人は顔を突き合わせて協議に入った。二人の意見を窺うように口火を切ったのは慎策だ。
「どちらの言い分が正しいのでしょうね」
 すぐに風間が反応した。
「考えるまでもない。台湾の政治状況を考えた時、独立派が暴動を起こすメリットなんて何一つない。黄代表の言うように、中国政府が親中的な団体を雇って騒乱を起こしたという解釈の方が納得できる。国家安全局長の答弁にも信頼が置ける」
 慎策も同感だった。台湾に対する判官贔屓を差し引いても、台北騒乱が独立派の仕業という話は根拠が希薄に思える。
「官房長官はいかがですか」
「総理と風間先生には申し訳ないが、二人の話は本質からズレている」
「聞き捨てなりませんね、官房長官。説明してください」
「まず、わしたちの手元にはメディアによる報道、そして二つの国の代表から得た証言しか情報がない。つまりどちらが正しいかを判断するための客観的な証拠がない。台湾の国家安全局長の答弁にしても、わしたちは明確な証拠を提示された訳ではない。現状ではどちらの言い分も当事者の主張に過ぎず、真相はやぶの中だ」
「証拠と仰いますが、情けないことに内調に捜査能力はありません。彼らにできるのは情報収集だけです」
「だからこそ難儀なのだ」
 大隈は物憂げに腕組みをする。
「いみじくも黄代表が口にしたように、暴動の真相は双方の情報戦の趨勢で決まる。どちらの言い分が正しいかではなく、どちらの主張により信憑性があるかだ。そして情報戦の勝敗は内容の正確さではなく量で決まる。どんなに稚拙な噓でも百万遍言い続ければ皆も信用するようになる。仮に中国政府の謀略だったとしても、国際社会が信じてしまえばそれが真実となる。情報収集は結構だが、その情報の大部分が偽情報であった場合、収集すればするほど流す情報量が多い方の主張に誤導されるという寸法だ」
「じゃあ、官房長官はどうしろと仰るんですか」
「当事国でない限り、今は様子見をするしかない。周辺国も挙って情報収集に乗り出すだろうし、時間とともに新しい情報も入ってくる。判断するのはその後でも遅くあるまい」
 風間は大人に窘められた子どものような顔で大隈を見ていた。
 与党国民党の強みは、派閥ごとに政策に対する考えの相違があっても選挙や危急存亡の秋には一致団結できる点だ。逆に言えば、党の存続に関わらない限り主義主張が異なる者たちの寄り合い所帯に過ぎない。それはトロイカ体制も同じだ。
 台北騒乱のケースは後者に属する。まだ台北市内での暴動事件という範疇はんちゅうに留まっているうちは党自体に影響がないからだ。だが、その寄り合い所帯の体質が政府および党としての決定を遅らせる結果を招いた。

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プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「子のミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』(以上、NHK出版)、『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』(新潮社)、『こちら空港警察』(KADOKAWA)、『いまこそガーシュイン』(宝島社)、『能面刑事の死闘』(光文社)、『殺戮の狂詩曲』(講談社)ほか多数。

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