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今まさに炎上しようとしている隣家の消火活動を手伝うこともできない――『総理になった男』中山七里/第18回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。台湾でのデモで端を発した中国と台湾の睨み合いはまさに一触即発状態。「内政干渉」と他国をけん制する中国を警戒し、“台湾の友人”である日本は何もできずにいる――
 *第1回から読む方はこちらです。


 暴動発生のニュースが全世界を駆け巡った翌日、負傷者の身元が公表された。
 負傷者は全員で二十八人。うち日本人留学生が一人、中国人留学生が七人、残り二十人は台北に在住する一般市民という内訳だった。
 早速、中国政府外交部報道官は会見の席で台湾当局を激しく非難した。
『台北総統府は騒乱において我らの同胞から多くの被害者を出しながら、中国政府に対して未だ何らの謝罪もしていない。負傷者を出したのは総統府の治安能力の未熟さによるものである』
 この抗議に台湾総統府が応じた。
『暴動は中国政府の煽動せんどうによるものであり、デモ参加者の負傷、破壊され略奪された商店の損害は全て中国政府の責任に帰する』
 売り言葉に買い言葉を地でいくようなやり取りだったが、子ども同士ではなく国同士の応酬ではとても笑えたものではない。慎策は内閣情報調査室からの報告を聞きながら肝を冷やした。
 乾燥しきった草むらに火を放つように、台北騒乱を火種としたデモや事件が各地で起こるようになった。
 その中で最も注目を浴びたのが台北市中正区重慶南路一段、つまり総統府の正面で行われた統一派によるデモだろう。台北騒乱による人的および経済的被害は総統府と独立派の責任という主張のもとに四百人規模の抗議デモが行われ、総統と総統府の方針を批判した。
「総統は中国と宥和を図るべきだ」
「中国は一つ」
「独立したければよそでやれ」
 シュプレヒコールを繰り返すうちに言葉はとがり、間もなく総統への個人攻撃と化していく。やがて興奮した一部が植え込みや建物に向けて投石を始めた。
 たちまち警備をしていた警官隊と衝突し、何と総統府前で台北騒乱が再現されてしまったのだ。

 慎策と大隈が執務室のモニターで件のニュースを観ていると、風間が大層深刻な顔でやってきた。
「どうした」
「さっき大使館と確認が取れた。台北騒乱の際、負傷した日本人留学生がいただろ。思った通り、俺の教え子だった」
 風間が准教授の顔を見せるのは久しぶりだった。それだけショックだったのだろうと、慎策は想像する。
「怪我の具合はどうなんだ」
「幸い命に別条はないが、脳天に直撃を食らって全治二週間だそうだ」
 気の毒に、と大隈が口を挟んだ。
「警棒には金属製もあるからな。さぞ痛かったろう」
「警棒じゃないみたいです」
 風間の声に不穏な響きがあった。
「負傷したのは檜山という学生なんですが、大使館職員が聞き取りをした限りでは、彼は警棒ではなくプラカードの柄で殴られたと証言しています。つまり鎮圧にきた警察官にではなく、一緒にデモに参加していた何者かに襲われたんです」
 束の間、気まずい沈黙が流れる。ざらついた声を上げたのは大隈だった。
「デモの同志が仲間を襲うはずがない。反乱分子が紛れ込んでいたというのか」
「その場合、反乱分子は統一派ということになります」
「まさか、それさえも中国政府の差し金と考えているのか」
「可能性は否定できませんよ。現に統一派の手で破壊活動が繰り広げられている。ほら」
 風間が示す先にはモニターに映るデモ隊の狼藉ろうぜきぶりと彼らを鎮圧しようとする警官隊の姿があった。
 驚くべきはデモ隊の反攻だった。警棒に似た武器やトンファー状の武器を手に、警官たちと闘っている。中にはヘルメットとプロテクターでしっかり防備している者さえいる。
 双方とも手にしているのは殺傷能力を持つ武器だから、本気でやり合えば無傷では済まない。攻防戦の一部では流血も確認できた。
 やがて警備網を突破した数人が総統府の敷地に進入して火を放った。
 炎上する前に消し止められたようだが、火を見たデモ隊が更に気勢を上げる。
 まずい。
 モニター越しでも事態が騒乱よりも深刻な状況になっているのが分かる。
「しかし風間先生。統一派がここまで尖鋭化してしまったのは、元はと言えば先の台北騒乱がきっかけだった。独立派の暴走が統一派に口実を与えてしまったのではないか」
「官房長官は、まだそんなことを言ってるんですか」
 風間は大隈に一歩進み出る。
「官房長官こそ本質がズレている。台北騒乱の何が一番問題かと言えば、台湾市民以外にも被害者を出してしまったことなんですよ」
「風間先生の教え子には気の毒だったが、あれこそただのとばっちりというものだろう」
「その、ただのとばっちりのために当事国以外の国が巻き込まれてしまった。我が国はもちろん、アメリカも無視できなくなった。中国と親密な関係であるロシアも介入してくるでしょう」
「そんなことは分かっておる」
 大隈が反論を試みようとしたその時、秘書官が黄代表の到着を告げてきた。風間が入室する直前に急遽セッティングされた会談だった。
 三人の前に現れた黄代表は前回にも増して心労が窺えた。目の下に隈ができ、頰の肉はこけ落ちている。
「台北騒乱で留学生の男性が負傷されたことに心を痛めています」
 見舞いの言葉から入られたので三人は頭を下げるしかない。最初に謝った方が勝ちであるのを黄代表は知っている。
「あの騒乱で終わればよかったのですが、不幸にも争いは各地に飛び火しています。総統府前の流血騒ぎもひどいものですが、他に國聖原子力発電所が統一派の襲撃を受けました。幸い大事には至りませんでしたが、反乱分子は台湾のライフラインを寸断するつもりでした」
 黄代表の発言を風間が受ける。
「台湾の市民が自らの首を絞めるような真似をするとは思えない」
「その通りです。国家安全局は一連の破壊活動は全て中国政府の指示と判断しています。台湾国内を内乱状態に陥らせるのが目的でしょう。内乱状態になれば、台湾市民を保護するという名目で軍隊を派兵することができますから」
「クーデターですか」
「現政権を転覆させるには一番手っ取り早いやり方です。どさくさに紛れて統一派である台湾国民党に政権を握らせれば傀儡政権の出来上がりですよ」
 黄代表は忌々しそうに言う。外交官が他国の代表に対してクーデターを口にするのは相応の覚悟が要る。それだけ台湾の事情が切迫している証拠だった。
 国の主権が脅かされるというのは、こういうことなのか。慎策は黄代表の緊張が伝染したかのように呼吸が浅くなる。偽りの存在だとしても自分は一国を代表する者だ。もしこの国が今の台湾と同様の危機に見舞われた場合、自分は何ができるのだろうか。
「本日お伺いしたのは、先ほど決定した総統府の方針をお伝えするためです」
 黄代表の口調が改まる。三人は揃って居住まいを正した。
「一連の騒乱を鎮圧するために総統府は全力を尽くします。しかし騒乱状態が継続し、中国政府の干渉が一定のレベルに達した時は、総統府は戒厳令を敷く手続きに入ります」
 戒厳令と聞いた瞬間、慎策の腹が冷えた。
「そうなる前に在台湾の日本国民を速やかに帰国させた方が安全かもしれません。総理、日本は台湾の友人です。その友人に迷惑をかけたくない。これは総統からの伝言です」
「黄代表。戒厳令はすぐにでも発令される予定なのですか」
「こればかりはわたしにも分かりません。事態は流動的です。しかし発令前にお知らせすることは可能です。事案が事案なだけに時間的な余裕はあまりないと思いますが」
 日本は台湾の友人、と言われて胸が熱くなる。宰相としては単細胞とそしられるかもしれないが、東日本大震災への莫大な義援金をはじめとして、災害や事故といった不幸の度に支援し合ってきた事実は間違いなく両国の友情を育んだと思っている。
 わたしたちにできることがあれば、と言いかけて慎策は喉が詰まった。
 他国の争乱に対して日本に何ができるのか。現政権への肩入れか、それとも鎮圧支援のための自衛隊派遣か。それこそ内政干渉だ。中国政府に宣戦布告をするのと同義ではないか。
 ちらと横を盗み見れば、風間も大隈も顔に苦悩を滲ませて沈黙している。今まさに炎上しようとしている隣家の消火活動を手伝うこともできない。間近に立っているというのに、指を咥えて見ていることしかできないのだ。
 黄代表が退室すると虚無感が漂っていた。己の無力さと薄情さを突きつけられた気分だった。
「あなたの気持ちは分かる、総理」
 大隈は同情するように肩を叩いた。
「わしも同じ気持ちだ。長年の友が危機に陥れば助けてやりたいのは道理だ。しかし自国を巻き込む訳にはいかん。ここで口を出せば、間違いなく内政干渉と叩かれる。下手をすれば睨み合いだけでは済まなくなる。ここは辛いところだが、我慢して推移を見守るより他はない」
 いつになく弱気な大隈に、いつになく感情的な風間が絡む。
「違いますよ、官房長官。あなたは総理と同じ気持ちじゃない」
「何を言う」
「あなたは中国政府を敵に回したくないだけだ。かの国の反感を買うくらいなら隣国を見捨ててもいいと思っている」
「それが悪いと言うのかね」
 半ば開き直ったかのような物言いだった。
「軍事力は世界第三位、経済力も第二位の大国だ。武力もカネも桁違い。正直言って台湾は敵にもならん。そんな国と一戦交えることになれば日本は壊滅する。あの国との衝突は絶対に避けるべきだ。そのために台湾が落ちたとしても、我が国の安全を確保するためなら仕方がない。それとも風間先生、台湾との友情を貫くために、日本と日本国民を危機に晒すつもりかね」
 風間は何かを言おうとするが口に出せず、苛ついているようだった。
 総統府前の騒乱は多数の負傷者と逮捕者を出して数時間後に沈静化した。だが騒乱は収まっても次なる展開が待っていた。
『中国との宥和を望む善良なる市民たちが逮捕されたことに、当局は断固として抗議する』
 中国外交部の報道官は今までで最も険しい口調で総統府を非難した。
『タイペイの住人は中国国民であり、その中国国民を力ずくで抑圧し、拘禁することは独裁者の所業である。中国政府は直ちに逮捕者の釈放と人権の保護を要求する』
 報道官のコメントに対する総統府の回答は次の通りだ。
『煽動された暴徒たちによって総統府ほか国内の重要施設が破壊活動の標的となった。彼らの行為はテロリズムであり、犯罪者を逮捕・拘禁するのは法治国家として当然である。中国政府の抗議は的外れであり、且つ台湾の自治権をないがしろにするものである。総統府は一刻も早く国内の騒乱を鎮圧させ、市民生活の平穏を取り戻す。そのためには戒厳令の施行も辞さない』
 ややもすれば挑発と受け取られかねない返答に、報道官は更に表情を険しくした。
『かかる総統府の回答は極めて好戦的であり、戒厳令などもってのほかである。自国民を保護するために、中国政府はあらゆる手段を講じる。総統府は我々の覚悟に顔色を失くすだろう』
 ヒートアップした報道官のコメントに危機感を抱いた周辺諸国は、次々に懸念を表明した。

 フィリピン『台湾の置かれた立場は理解するが、早まった行動は自粛してほしい』
 インド『中国の専横は目に余るものがあり、台北騒乱に始まる一連の事件は国際社会において裁定されるべきである』
 韓国『台北騒乱は中国の覇権主義の象徴であり、直ちに平定され、台湾の自治を護らなければならない』

 周辺諸国が示した懸念に対し、中国政府は釘を刺してきた。それもとびきり大きな五寸釘だった。
『タイペイでの騒乱は中国の国内事情である。従って他国がこの問題に言及するのは明白な内政干渉であり、断じて許容できるものではない。無関係の第三国は口を慎むべきであり、尚も干渉を続ける国は近い将来に自らの愚行を悔いる羽目になるだろう。我々にはその力と準備がある』
 この報道官の発言を境に、東アジア情勢は一気にキナ臭くなった。

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プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「子のミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』(以上、NHK出版)、『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』(新潮社)、『こちら空港警察』(KADOKAWA)、『いまこそガーシュイン』(宝島社)、『能面刑事の死闘』(光文社)、『殺戮の狂詩曲』(講談社)ほか多数。

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