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政治に無頓着な男が総理大臣の替え玉になったら――中山七里『総理になった男』第1回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編開始!
 ある日突然、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いを原動力に国内外の難局を切り抜け、国民の信頼を得てきた。あれから2年、慎策は長らく低迷する経済問題に切り込んでいく――。


一 VS経済

 ネットで主なニュースに目を通した慎策しんさくは、ひと息吐いてから動画サイトに飛んだ。トップに挙がっていたのは、すっかり馴染なじみになった芸人のYouTubeだった。
『ハーイ。キャビネットたかだのチャンネルにようこそ。このチャンネルではわたしキャビネットたかだが政治・経済の問題をゆるーく簡単に解説する番組でっす』
 キャビネットたかだは所謂いわゆるネット芸人と呼ばれる一派の一人だ。YouTubeをはじめとしたSNSを活動の場とし、既存のメディアにはほとんど露出しない。既存のメディアに気を遣う必要がないから過激なネタを披露できる。慎策が舞台で政治ネタをっていた頃を思い出させる。
『相変わらず不景気ですねー。わたしと同期の某芸人なんて、最近じゃ舞台は月イチ。営業もかけてもらえないんで、バイトの数を増やしたって。これだけ不景気が続いている理由、皆さん知ってますか。名目GDP、まあ国内総生産のことなんだけど、世界に占める割合がたったの5パーセント、ついに中国にも追い抜かれて、比較のできる一九九四年以降では最低になっちゃった。あ、国内総生産っていうのは国内で産出された付加価値の総額のこと。大雑把おおざっぱに言うと儲けのことね。つまり国内でのもうけの総額で国の経済状況を数値化している訳』
 軽佻浮薄けいちょうふはくなキャラクター造形ながらキャビネットたかだが人気を博しているのは、ひとえに語りの平明さにあるのだろう。とにかく彼の解説は分かりやすく、難解な経済用語も卑近なたとええに変換してくれる。その言葉の絶妙な選び方は盟友の風間かざまを思い出させる。
『GDP成長率が年々プラスになっていれば、経済成長が続いているという判断なんだよね。要するに一つの目安に過ぎないんだけど、儲けがあるなしの話だから指標にしやすいんだよね。ところがですね、この度内閣府が発表した四月から六月期の国内総生産は年率二・九パーセント減で、増えるどころかマイナスになっているです。あ、ここで言うGDPは実質GDPのことね。実質GDPってのは名目GDPに貨幣価値の変動も含めた数値だから、より正確な経済成長率が把握できるって仕組み。まともな経済ニュースだと実質GDPの数値を採用しているところが多いのはこのため。はい、ここ試験に出るから』
 説明の平明さや言葉の選び方だけではなく、芸人ならではの話術を最大限に生かしている。これがネット限定というのはもったいない気もするが、きっとスタジオでは、もっと高いレベルを要求されるのだろう。
『メッセージもらっていてですね、たかださんは大卒だから、こんなに経済に詳しいんでしょうと。いやいやいや、大卒だから知識が豊富だとか、そんなことないから。大卒でなくても賢い人は賢いし、大学出ててもポンコツはいるしね。僕が通っていた城都じょうと大もそんな大した学校じゃないし。ただですね、政治経済学部に風間という准教授がいまして、この先生の講義が滅法めっぽう面白くてですね、授業に欠かさず出席していたら経済に詳しくなりました』
 慎策は口に含んでいたコーヒーを噴き出しそうになる。まさか動画チャンネルで風間の名前を聞こうとは。してみればキャビネットたかだの説明上手は風間直伝のものかもしれない。
『あっと話がれちゃった。で、どうして日本が不景気なのか、どうして国内総生産が上がらないかと言うと、まあ内需が低迷しているから。これに尽きるよね』
 慎策は同意せざるを得ない。内需拡大こそが景気上昇のきっかけであり、そのために政府は二の矢三の矢を放っている。
『ところが政府の打つ手はどれもこれも小出しで、小出しだから効果が薄い上に、折角せっかくカネがあっても、みんな貯蓄に回しちゃう。そりゃあさ、一般庶民は先行き不透明だったら今散財するより貯金に回すよ。そこんところが政府のお偉方には分かっていない。真垣まがき総理もねえ、アルジェリア日本大使館占拠事件では男を見せてくれたんだけど、結局テロリストより経済の方が強敵だったんだよね。今のところ景気回復の目処めどはなし。成果の見込めない政策にジャブジャブ予算を注ぎ込んでいるんだから消耗戦もいいところ』
 何やら風間にわらわれているようで居たたまれなくなり、慎策はサイトを閉じた。
 顔が真垣統一郎とういちろううり二つ。ただそれだけの理由で加納慎策しんさくが真垣総理の影武者を務め始めて二年になろうとしている。最初はほんのリリーフのつもりが、本物の死去によって降板の機会を失い今に至る。
 元々役者志望で政治や経済のことなどからっきしだった。それでも周囲を誤魔化ごまかしながら総理の真似事まねごとを続けられたのは、風間と亡き官房長官の助力があったからに過ぎない。ところが諸々もろもろの事情で二人が去った後、慎策は一人で総理の職を務めなければならなくなった。
 どだい自分に景気を浮上させるなど無理な相談なのだ。悔しいがキャビネットたかだの批判は的を射ている。
 首相公邸のだだっ広い寝室で一人、慎策は高い天井を見上げる。不安と無力感に押し潰されそうに感じる。これなら昔住んでいた安アパートの方が、ずっと安心できるのではないか。
 こんな時、横に珠緒たまおがいてくれたらと切実に思う。だが意を決したプロポーズにも、彼女は首を縦に振ってくれなかった。
『いきなりファースト・レディになれなんて突拍子なさ過ぎなのよ。売れない役者と結婚してくれと言われる方がまだ現実味がある』
 破局とまではいかないものの、しばらく返事は保留させてくれと言われてそのままになっている。
 くそ。誰にも頼れず、誰にも癒やされない。
 こんなにひ弱な男が一国の首相であるものか。慎策はベッドに潜り込んで目を閉じたものの、なかなか眠れなかった。

 翌日、慎策は官邸執務室に円谷敬三つぶらやけいぞう官房長官と岡部鑑三おかべかんぞう財務大臣を招いていた。
「おはようございます。総理におかれましては本日もご機嫌麗しくて何よりです」
 午後に予定されている定例記者会見に先駆けての総理レクなのだが、元より真垣に批判的な岡部は慇懃無礼いんぎんぶれいさを忘れない。
「真垣内閣の経済対策の要は施政方針演説で仰った大幅な金融緩和と成長戦略です。今も政策は継続中であり、会見ではその部分を強調していただければと存じます。政治部の記者たちなので経済指標について具体的な質問は出ないと思いますが、仮に出たとしても無視してください。細かな弁明、いや説明は国会答弁で行うと言っていただければ済みますから」
 岡部は最初から明言を避けろと進言している。言い換えれば真垣政権の景気対策が不調であると白状しているようなものだ。
「岡部さん」
 横に立っていた円谷が慎策の反応を待たずに抗議する。
「それではあからさまに総理が回答を拒んでいるように映ってしまいます。そもそも経済政策の進捗しんちょくについて国会で答弁するのは財務大臣の役目でしょう」
「しかし野党は、最終的には総理に答弁を要求します。今のうちに用意しておいた方がよろしい」
「その前にあなたが総理の盾となるべきではありませんか」
 前官房長官の樽見政純たるみまさずみが急逝すると後を引き継いだのが副長官の円谷だった。総理の女房役として陰日向になってくれてはいるものの、樽見にあった威圧感と老獪ろうかいさがない。犬のように吠えるだけなので、岡部にも軽くあしらわれてしまいがちだ。
 大幅な金融緩和と成長戦略が空振り気味であるのは、わざわざレクチャーされるまでもなく慎策も承知している。
 金融緩和とは金融機関に大量の資金を供給して市場にだぶつかせる政策のことで、民間企業の需要を呼び込むのが狙いだった。重ねて日銀が物価上昇率二パーセントという目標を掲げ、市場に蔓延まんえんするデフレ予想をインフレ期待に変えるという試みも行った。
 だが景気低迷の主な原因は資金の需給関係よりは個人所得の減少にあったのだ。
 国民こくみん党が過去に打ち出したグローバリゼーションによって雇用の非正規化が進み、労働者の給与所得平均は年々下がり続けた。今では年収二百万円以下という低所得者層が増加している有様だ。しかも円安や消費税増税によって賃金の実質値は三年前に比べて五パーセントも減少している。個人の所得自体が危機的に減少しているのに、ただ市場や消費者の気持ちの変化に期待するだけでは実効性が見込めないのも自明の理だった。
 成長戦略に関しても同様だった。政府が考えていたのは公共事業を増やすことだったが、巨額の財政赤字を抱える国が長期にわたって実行できる政策ではなかった。景気回復は短期で実現できるものではなく、ここでも政府の浅薄さが露呈している。
「財務大臣として答弁することは一向に構いませんが、わたしの答弁自体が総理の逃げのように思われては結果的に損なのではありませんか」
「最初から逃げているのはあなたじゃありませんか」
 頭の上で二人の鍔迫つばぜり合いが始まる。いつものことだ。罵り合いを聞いているうちに嫌気が差し、慎策は片手を上げて二人を制した。
「分かりました、岡部財務大臣。まずわたしの答弁で説明しきれない部分は事務方にお願いしましょう」
 どのみち指標に強い議員に迫られたら岡部も慎策も太刀打ちできない。情けない話だが餅は餅屋に任せた方がいい。
 岡部が退室すると、円谷が頭を下げてきた。
「申し訳ありません、総理。お見苦しいところを」
「いいですよ。同じ内閣と言ってもウマが合う人と合わない人がいます」
 元より国民党は複数派閥の寄り合い所帯であり、組閣も各派閥に配慮した経緯がある。当然、派閥間の確執や抗争がしょっちゅう顔をのぞかせる。
 それでも危急存亡のときには一致団結できる強みがある。在アルジェリア日本大使館占拠事件の時がまさにそうだった。いざとなれば一枚岩になれる柔軟性が長期政権を支えてきたと言っても過言ではない。
 だが、今は違う。答えのない景気低迷の戦犯探しに躍起となり、閣僚はおろか党の足並みも乱れている。党内右派が左派を、左派が右派を攻撃し合い収拾がつかなくなってきている。
「こんな時こそ党がまとまらねばならないのに。岡部さんは本当に矢面に立つのが嫌いな人なので」
「経済政策の失速は党の責任ですよ。財務大臣だけに背負わせる訳にはいかないでしょう」
「しかし消費税増税に旗を振ったのは岡部さんです。少なくとも野党の矛先の一片は自ら受けるべきでしょう」
 増税は目下、慎策を悩ませている要因の一つだ。いや、慎策は悩むだけで済むが、国民は怒り、くすぶっている。
 何故なぜ消費税を増税する必要があるのか、慎策は以前岡部に質問したことがある。岡部は得々とこう答えたものだ。
『今後少子高齢化が進む中で、若い世代が減っていくにもかかわらず社会保障の財源を確保しなければなりません。そのための増税です。しかし所得税や法人税を引き上げてしまうと若年層や現役世代にはますます負担がかかるため、特定の世代に負担が集中せず広い世代で負担されている消費税が一番増税に適しているのです』
 もっともこれは財務官僚出身の岡部の物言いであり、別の大臣からは違う答えが返ってきた。
『財務官僚の天下り先のほとんどが大企業だからですよ。消費税増税は結局、大企業の懐を潤すことになる。つまり天下り先が確約されている財務官僚にとって、消費税増税は己の懐を潤すに等しい』
 どちらの言い分にも偏りがあり、どちらにも説得力がある。だが政府の行った消費税増税が時期尚早であったのは否めない。本来、デフレから完全に脱却し内需が高まった後に増税すればまだよかったものを、時期を早まったために内需拡大の機会を潰してしまった。しかも国債を次々に償還して更に財政を圧迫してしまった。
 増税しようがしまいが国には一定の税収がある。景気が上向きになればおのずと税収は増え、増収分を国民経済に回すのが健全な方法だった。それを全て逆に行ってしまったのだから、経済が回復するはずもなかった。
 国民の生活は楽にならず税金だけが増えた。これでは国民が納得するはずもなく、結果として内閣の支持率は急落した。
「野党の追及は留まるところを知りません。内閣の支持率が落ちている今をチャンスと捉えているんでしょう」
 円谷は危機感もあらわに言う。官房長官として焦り気味なのは分かるが、あまりにも浮足立っている。若さゆえなのかそれとも資質に不足があるのか、やはり前任の樽見に比べて心許こころもとなく思えてしまう。
 政権を維持するための支持率の危険水域は三十パーセント割れと言われている。現在、真垣内閣のそれは三十五~三十二パーセントを推移しており危険水域の目前にある。円谷をはじめとした閣僚たちがそわそわと落ち着かないのも無理はない。
 救いは内閣支持率とともに野党の支持率もジリ貧になっていることだ。普通、政権与党の支持率が下がれば相対的に野党の支持率が上がるものだが、今回は野党の支持率も低迷しているために政権交代の気運が高まっていない。
「幸か不幸か民生みんせい党政権時代の三年間は未だに国民の悪夢なのです。従って内閣支持率が落ちても当分の間は我々が下野することはないでしょう」
 円谷は自分に言い聞かせるように言う。己の不安を紛らわすために敵の不安材料を並べ立てるのは有効な手段だ。
 だが、それでは一向に活路を見出みいだせない。
「今は野党の出方をどうこう論じても仕方ありません」
 慎策は経済政策について早急な改善案を望んでいる。だが肝心の官房長官が閣僚や野党の体たらくをあげつらっていては、話もできない。
「内需を拡大させるには、どうすればいいかですよ。それこそが喫緊の課題です」
「しかし低所得者層向けに一律十万円の給付をしましたが、結局は大部分が貯蓄に回ってしまいました。高所得者層にばらまけば消費に向かってくれるのは目に見えるのですが、それでは国民の反発を免れない」
 円谷は溜息を吐かんばかりだった。
「たとえ給付金が二十万円だったとしても結果は似たようなものだったろう。それが財務省の予想です。給付金をケチっておきながらどの口で言っているんだとは思いますけど」
 現金を渡せば消費に回してくれるだろうという見方は、どこか国民を馬鹿にしている。具体的な案が出た時、国民の消費行動に何の予備知識もなかった慎策は岡部の説明にうなずくだけだったが、いざ実行してみれば見当違いだったと断ずるより他にない。キャビネットたかだの弁ではないが、一般庶民は先行き不透明であれば散財するより貯金に回すのが当然なのだ。国民の消費行動を見誤ったのは、そもそも立案者が一般庶民と同じ目線を持たなかったからではないのか。
「小口の給付金に頼ったのが間違いであったのを潔く認めましょう。内需拡大には、もっと抜本的な施策が必要です」
 ところが、その抜本的な施策がなかなか浮上しない。慎策自身が政務調査会に顔を出し、閣僚を歴任したベテラン議員や頭が柔らかいはずの一年生議員に水を向けてみたが、彼らの口から出てくるのは既出の政策や机上の空論だけだったのだ。
 無論、ちょっとした思いつき程度で景気がV字回復するような甘い期待はしていない。それで景気が上向くのなら、とっくの昔に日本はデフレから脱却しているはずだった。
「抜本的な施策。我々国民党だけでなく民生党も同じように模索したはずなのですが、ついぞこれというアイデアは出ませんでしたね。いずれも対症療法で経済効果は限定的でした。予算のばらまきは国民党古くからの手法で、実効性が薄いと分かっていながらも目先の内閣支持率を上げるために実行してきました」
 そこまでしゃべると、円谷は不意に口籠くちごもった。
「どうかしましたか」
「いえ、今までやってきた施策を批判する資格が果たしてわたしにあるかどうか」
「身内であっても批判は必要でしょう」
「前官房長官ならともかく、わたしごときが口にしても無意味です」
 円谷は自信なげに下を向く。
 政務担当の官房副長官は首相派閥の出身者など首相側近の中堅・若手が任命されることが多い。そのため官房副長官は若手政治家の登竜門ポストとも言われている。
 真垣の所属する第四派閥相沢あいざわ派の若手だった円谷も例外ではない。まだ三十代、慎策よりも年下でどこか幼さの残る顔立ちは自信よりも不安が似合いそうだ。
「力不足であるのは自分でも分かっているのですよ」
 円谷は自嘲気味に言う。
「樽見さんがあんなことになって、官房長官の席は棚から牡丹餅ぼたもちみたいな言われ方をしましたが、わたしにすれば青天の霹靂へきれきでした。本当なら樽見さんの下で政権運営の何たるかを学び修練を積むつもりだったのに、いきなり大役を任されましたからね」
 慎策の胸がちくりと痛む。いきなり大役を任されたのは慎策も同じだ。しかも周囲には事情を打ち明けられないときている。
「円谷さんは充分やってますよ」
「総理から慰めていただくのは有難ありがたいのですが、自分の器量は自分が一番知っています。出世は男の本懐だと思いますが、あまりに準備不足でした。官房長官は総理の女房役でなければならないのに、未だ進言の一つもできていません」
「お手本を樽見さんにしているから理想が高くなっているのではありませんか」
「そうかもしれません。何しろ敵に回しても味方でいても怖いお人でしたから。歴代の官房長官の中でも最強だったんじゃないでしょうか。閣僚との駆け引きにしても記者会見の答弁にしても、隙が見当たらない。政府叩きで名を上げた左翼系新聞の政治部記者も樽見さんにはまるで歯が立ちませんでしたからね」
 生憎あいにく、慎策が知る官房長官は樽見だけだったので比較はできないが、最強と言われればなるほどと思わせるほどの存在感があった。総理大臣の替え玉を命じられた慎策にとって、樽見はかけがえのない庇護ひご者だった。
 改めて樽見の不在が重く伸し掛かる。
「お手本がはるか高みであるのは承知しているのですが、毎日樽見官房長官を目の当たりにしていたので、どうしたって比べてしまいますよ」
「樽見さんは確かに傑出した政治家だったと思います」
 慎策は万感の思いが迫るのをこらえて言う。
「こんな時、樽見さんならどうしたのだろうと考えてしまいます。ああ、いや、別に円谷さんがどうということじゃないんですよ」
 慌てて慎策が撤回しようとしたが、円谷はやんわりと受け止める。
「いいですよ。むしろ比べられるのなら本望くらいに思っていますから。だからこそ今、何もできない自分が歯痒はがゆくて歯痒くて」
 同病相あわれむではないが、円谷を見ているとどうしても我が身を投影してしまう。突然代役を任され、しかも前任者の誉れと絶えず対峙たいじしなければならない。
 死者は無敵だ。生きている者がどれだけ血と汗を流そうと、信奉者が創り上げる虚像には絶対に勝てない。
「円谷さん」
 自分でも驚くほど優しい口調だつた。
「樽見さんは立派な官房長官だった。もう、それでいいじゃありませんか。円谷さんは円谷さんの最適解を見つければいいと思います。あなたは樽見さんではないのですから」
 我ながら気恥ずかしい台詞だと思ったが、円谷はそれ以上に感動した様子だった。
「お心遣い、痛み入ります。今のお言葉で救われた気持ちです」
 よしてくれ、と思う。
 今吐いた台詞は自己弁護のようなものだ。感謝などしてほしくない。
「いえ。とにかく今は景気を何とか浮揚させなくては」
「再度、わたしが政務調査会で発破をかけてみましょうか」
「しかしベテラン議員は既成概念にとらわれ、一年生議員のアイデアは実効性に欠けます。それは前回同席してくれた円谷さんもお分かりでしょう」
「総理の前で緊張していたという解釈もできます。ベテラン議員は自分の不勉強をあからさまにしたくないでしょうし、新人議員は失言しないようにと消極的な意見に終始します。しかしわたし程度が同席するなら、もっと自由闊達かったつな議論が生まれるやもしれません」
「ではお願いします」
 円谷の熱意にほだされて承諾したものの、正直慎策は政務調査会での議論にあまり期待を抱いていない。総理や官房長官が同席するしないで内容が変わるような討論などろくなものではない。何より他人任せで、他の議員から意見が出るのを待っていたら、樽見や風間に𠮟られるではないか。
「政務調査会へのテコ入れも結構ですが、実は自分でもやってみたいことがあります」
「何でしょう。お手伝いできることならお供しますよ」
「市場調査です」
「市場調査。それなら総務省統計局に最新のデータがありますよ」
「数字ではなく実態を見たいのですよ」
 売れない舞台俳優だった時代、アンケート結果も集計していたが、より役立ったのは客席に下りて客の反応を確かめることだった。アンケートや統計が眉唾だとは言わないが、自分が見聞きした情報には噓や誇張がない。
「農家に漁港、工業地帯。それから繁華街、商店街。生産地から消費地までを視察して回りたいのですよ」
「なるほど。しかし今月は委員会が目白押しで、今から視察団を編成して新たなスケジュールを組むとなると」
「視察団なんて、そんな大掛かりなものじゃなくて。できればわたし一人で色んな場所を回ってみたいのですよ。格式ばった視察では相手も実態をさらけ出してくれないでしょうしね」
「お忍びという訳ですか」
 円谷は思案顔を傾ける。
「最低SPを数人張り付かせなければなりませんが、彼らなら行動も目立たないでしょう。分かりました。至急手配しましょう。総理が希望される訪問場所をリストアップしてください」
「どうもありがとう」
「ただし条件があります」
「何ですか」
「わたしも同行させてもらいます」
「総理大臣と官房長官がそろって外出。そういうのをお忍びと言うんでしょうか」
「ご心配なく」
 何故か円谷は今までと打って変わって自信たっぷりの様子だった。
「変装は得意なんですよ」

第2回を読む

プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

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