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スポーツの祭典の裏でうごめく外交問題――『総理になった男』中山七里/第16回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。選手たちの思いを胸に、熱いメッセージを伝えてオリンピック・パラリンピック開催の是非を問う国会答弁を乗り切った慎策。いよいよ開会式前日、各国の来賓たちとの会談に臨む慎策は、思わぬ相手に直面する――
 *第1回から読む方はこちらです。


 開会式前日であっても総理大臣の多忙さは平常時とさほど変わらない。違うとすれば面談する相手の顔ぶれだろう。
 〇九:〇〇 午前中、赤坂の議員宿舎で風間と打ち合わせ。
 一三:二〇 元赤坂の迎賓館に到着。
 一三:四三 南スーダン副大統領と会談。
 一四:一〇 国連難民高等弁務官と会談。
 一五:三〇 モンゴル首相と会談。
 一六:一四 公邸に移動。
 一六:二〇 総理大臣補佐官と面会。
 一七:〇五 公邸から議員宿舎に戻る。
 一八:四四 元赤坂の迎賓館に到着。
 一九:〇四 アメリカ大統領夫人と夕食会。
 オリンピック外交は聞きしに勝るもので、各国首脳が到着しだしてからは毎日がこうしたスケジュールだった。だが、それも大統領夫人との夕食会を済ませば一段落する。
 夕食会が終わったのは二〇:一五。だが本日はその後にも仕事が残っている。
 二〇:二〇  台北駐日経済文化代表処のおう代表と会談。
 慎策はひと息入れる間もなく迎賓館の一室で黄代表と顔を合わせる。今回はオブザーバーとして風間も同席している。
「いよいよ明日ですね」
 黄代表は親しみのこもった目でこちらを見る。元より台湾は親日だが、黄代表はひときわ日本文化に造詣ぞうけいが深いことで知られている。日本語も堪能で話していてたどたどしさは全くない。
「コロナ対策で選手をはじめ関係者の方々には事前のワクチン接種など感染防止でご面倒をおかけします」
「開会式のあるなしに拘わらずワクチン接種は義務のようなものです。お気になさらず。とにかくわたしは大会が楽しみでならなかったので、無事開催できるのを大変嬉しく思います。総統も大会の成功を心から祈念すると申しておりました」
「ありがとうございます」
「今年の台湾は今までとひと味違いますよ。女子ウエイトリフティングを含めて金メダルを狙える選手が何人もいる。教育部(日本の文科省に相当)の見込みでは二〇〇四年のアテネオリンピック以上の成績を挙げられそうです」
「それは頼もしい。でも開催国は我々ですからね。負けていられません」
「開催国が日本というのは選手にとってもリラックスできる要因です。まるでホームでプレーするような安心感があると言う選手もいます」
「ますます油断がなりませんね」
「見ていてください。必ずや台湾選手が表彰台の一番高いところに立ちますから。国旗を掲揚できないのは残念ですが」
少し寂しげな笑みを浮かべる黄代表を眺めながら、慎策は風間から伝え聞いたオリンピック・パラリンピックにおける台湾の立ち位置を思い出す。
 そもそもは二〇世紀前半、中国大陸で勃発した中国国民党および国民革命軍と中国共産党との内乱に端を発している。内戦の末に中国は大陸に樹立された中華人民共和国と台湾に敗走した中華民国に分かれた。敗れた側の中華民国は国際連合における中国の代表権を失い、事実上追放という憂き目に遭う。
 中華民国は大陸での主権を主張しているが国際的には承認されず、一方の中華人民共和国は「一つの中国」を世界に主張して譲らない。そのために国際的舞台であるオリンピック・パラリンピックでは「中華民国」とも「台湾」とも名乗れず、便宜的に「チャイニーズ・タイペイ(中華台北)」と呼称されている次第だ。従って大会で使用される国旗も本来の青天白日満地紅旗ではなく、台湾のオリンピック委員会旗を掲げている。
 現在は台湾独立もしくは現状維持を良しとする民進党が政権を握っているが、中国統一を目指す台湾国民党が虎視眈々こしたんたんと奪取を画策しているという状況にある。
「やはりオリンピック方式には不満がありますか」
 オブザーバー役に徹しているはずの風間が口を差し挟んだ。
「それはそうです。台湾の選手は誰しも国を代表して参加するのですからね。オリンピック本来の理念は国家主義の排除ですが、それでも国際的なスポーツ大会は非暴力の戦争のようなものです。勝利した側が自国の旗を掲揚できないというのはとても辛いものがあります」
「お察しします」
「公式の場で国と認めてもらえない。それは国民のアイデンティティを大きく損ないます。実際、オリンピック・パラリンピックのような国際的な舞台で他国が堂々と自国の旗を掲げているのを見ると、そう、日本語で言うと肩身が狭いと感じてしまいます。『チャイニーズ・タイペイ』という名称も委員会旗も所詮は借り物なのです」
 珍しく風間は同情するように黄代表を見下ろしていた。
 黄代表との会談が済んだ頃には午後九時をとうに過ぎていた。そろそろ疲れがピークに達し、折角の料理もあまり堪能できなかったのが恨めしい。この後は議員宿舎に戻り、開会式に備えたいものだ。
 明日に開会式を控えた今では、さすがにオリンピック中止の声は小さくなっている。集中審議で慎策が開催を明言した直後、各紙が世論調査を行ったところ、開催賛成と中止は五分五分となっていた。委員会での演説が奏功した証左はなかったが、他に特筆すべきトピックスはなかったので大隈が大層評価してくれた。自分の力が発揮できる仕事はここまでだ。開会式は晴れ晴れとした気持ちで迎えたい。
 ところが出口に向かう途中、スマートフォンに当の大隈から連絡が入った。
「はい、真垣です」
『総理、本日の公務はもう終わったのか』
「ええ、ついさっき。これから議員宿舎に戻るところです」
『悪いがもう一人会ってほしい人物がいる』
「誰ですか」
『中国大使だ。今からそちらに案内する。場所はもう確保してある。彩鸞さいらんの間だ。よろしく頼む』
 電話は慌しく一方的に切れた。よほど急な用事だとみえる。大隈のたっての願いでは断る訳にもいかない。第一、滅多に動じることのない大隈の慌てぶりからしても明日に回せる話ではなさそうだ。幸い、まだ風間がいたので同席してもらうことにした。
「中国なら国家体育総局局長との会談は済んでいるだろう。どうしてまた大使がしゃしゃり出てくるんだ」
「俺だって大隈さんから詳しい話を聞いていないから分からん」
「嫌な予感はするな」
 彩鸞の間は正面玄関真上の部屋で、豪奢ごうしゃなクリスタルガラスのシャンデリアと霊鳥・鸞のレリーフがひときわ目を引く。条約の調印式や首脳会談などに使用される部屋だけのことはある。
 やがて大隈が中国大使を伴って現れた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
 とう中国大使は流暢りゅうちょうな日本語で話しかけてきた。大使に就任以来、何度か顔を合わせているが、未だに本心が窺い知れない人物の一人だ。
「開会式を明日に控えてご多忙だったでしょう。手短に話を済ませて、早々にお暇しますよ」
「このお時間にわざわざいらっしゃるのだから、手短に済む話ではないのでしょう」
「いいえ、簡単な確認ですよ。明日の開会式では従来通り『チャイニーズ・タイペイ』を中国の一部として扱っていただきたいのです」
 思わず慎策は風間と顔を見合わせる。まるで先刻の黄代表との会話を盗み聞いていたかのようなタイミングではないか。
「今までも慣習的に続けられていたことですが、何故わざわざ今回は確認されるのですか」
 慎策が口にした疑問に反応したのは、鄧大使よりもむしろ大隈だった。余計なことを言うなという顔で慎策を睨む。
「何事にも慎重で潔癖な国民性なのですよ。特に最近は全くの部外者である国々が『Taiwan』などと存在もしない名称を使用するので注意を喚起しているところです」
 ここで、またもや風間が口を差し挟んだ。
「各国の航空会社にも申し入れをされたそうですね」
「いかにも。民用航空局は世界の航空会社四十四社に対し、台湾の表記を正すよう要求しました」
「確か罰則も明記されたとか」
「申し入れを拒否するのであれば当然ペナルティは発生します。変更しない場合、法的処罰を含む対応を行うと警告しました。ほとんどの航空会社が申し入れに従ってくれたので事なきを得ています」
「表記を正された側は、あまりいい気持ちはしないでしょうね」
 大隈は風間の言葉にも目を剝く。ただし当の鄧大使は顔色一つ変えなかった。
「元々間違っていたものを正しただけなので逆恨みというものです。あなたたちでも、沖縄が独立したいと言い出したら、それは間違っていると窘めるでしょう。それと同じですよ」
「そうでしょうか」
「声の大きさは叫ぶ者の人数に比例します。小さき声は雑音にしかならない。そして往々の場合、雑音は耳障りなものなのです」
 その後も鄧大使は台湾の主張が鬱陶うっとうしくてならないと遠回しに繰り返し、一時間もするとせいせいしたというように帰っていった。
 後に残された慎策と風間は、責めるように大隈を睨む。
「二人とも、そんな目で見るな」
 大隈は大隈で自分の連れてきた人物が招かれざる客であるのを自覚しているようだ。
「さる親中の議員を介して会談の申し込みがあった。あんな内容になるとはわしも知らなかった」
「直前に黄代表との会談があったことと無関係ではないでしょうね」
 風間は忌々しそうに言うと、黄代表との会話内容をかいつまんで説明する。
「おそらくアメリカの介入を嫌がっているのだと思います。民用航空局からの申し入れに対し、ホワイトハウスは馬鹿げた要求だとコメントしましたからね。国務省も強い懸念を表明し、共同して中国への不満を表明するよう友好国に呼びかけた経緯がある。中国政府としては小さな芽も残らず刈り取りたいところです」
「それはたかが呼び方の問題だけだろう」
「官房長官ならご存じでしょう。台湾呼称問題は中国人にとって格好のナショナリズム発揚の場です。コロナ禍で経済が停滞し国内の不平不満が鬱積している今、ナショナリズムの発揚は最適のガス抜きになります。無論、中国政府の覇権主義が背景にあるのですがね」
「覇権主義、なのかね」
 今度は大隈が風間を睨む。
「国共内戦に勝利した大陸側にしてみれば、敗走した中華民国を独立国と認めるのは困難だぞ」
「官房長官は中国の覇権主義を承認するおつもりですか」
「そうではない。そうではないが大国には大国の面子があると言っているんだ。そもそもがプライドを重んじるお国柄だしな」
「台湾問題が日本と無関係であるはずがないのはご承知でしょう」
「台湾有事のことを指しているのならな、風間先生よ。わしは眉唾ものだと考えている」
 二人のいさかいは次第に熱を帯びていく。以前より親中派である大隈に対し、風間は日頃から中国の覇権主義を警戒している。だが、ここにきて二人の信条が真っ向から衝突するとは慎策も予想していなかった。
「何が眉唾なものですか。実際、二〇一九年一月に中国の国家主席が台湾を武力統一する可能性に言及しています。官房長官も知らないはずはないでしょう」
「可能性は可能性に過ぎん。強い言葉で牽制けんせいするのは外交の常道だよ」
「現在も中国政府は台湾に対して経済的制裁を含めて統一への圧力を強めています。しかし経済負荷戦略が成功しなかった場合、必ず武力による圧力を強めてきますよ」
 そろそろ剣吞な雰囲気になってきたので、慎策は二人の間に割って入る。
「二人とも落ち着いてください」
 慎策の取り成しで二人はようやく我に返る。
「今は開会式のことで頭がいっぱいです」
「そうだったな。いや、総理には見苦しいところを見せてしまった」
 大隈は頭を搔きながら、それでもと言い募る。
「一般人ならともかく、国を動かす人間が軽率に大国の逆鱗げきりんに触れるような真似は慎むべきだ」
「決して軽率ではないつもりですけどね」
 風間の憎まれ口を横で聞きながら、慎策は鄧大使の言動を思い出す。傲慢。まさにその一語に尽きる。大国の威厳だか何だか知らないが、いちいちこちらの神経に障る。
 対して黄代表の、小国ながら毅然きぜんとした態度で大国に抗う姿は雄々しく見えた。これは日本も同じ島国という共通点があるからなのか、それとも慎策自身の判官びいきなのか。
 何とかオリンピック・パラリンピックの規約に抵触せず黄代表の思いに応える術はないだろうか。
 そして不意に思いついた。
「参与。NHKでオリンピック・パラリンピックの放送を担当する部署はどこだか知っているか」
「実施本部だと思うが、それがどうした」
「責任者を呼んでくれ」

 翌二十三日午後八時、新国立競技場。今まさにスポーツの祭典が始まろうとしていた。
 無観客での開催だが、客席には来賓と関係者のみ九百人程度が着席している。慎策は身体を固くして、オープニングを待つ。正直、真隣に臨席されるお方を意識すると膝から下が震え出しそうになるが、懸命の演技力で緊張を覆い隠した。
 VTRが流れ、映像による演出が始まる。しばらくの後、フィールド上で創作ダンスが披露され、それが終わるとIOC会長や陛下が入場する。
 関係者一同が深く低頭する中、陛下が慎策の隣に着席される。抑えていたはずの緊張感が一気に爆発する。
「ご、ご臨席誠にありがとうございます」
 慌ててしまい上手く話せなかったのが途轍もなく恥ずかしい。穴があったら入りたい気分とはこのことかと思う。
 日本国旗が六名のアスリートたち、そして陸海空自衛隊の代表六名に引き継がれて国旗掲揚台に揚げられる。君が代独唱とミュンヘン五輪事件の犠牲者らを追悼するメッセージ、パフォーマンスと続き、いよいよ選手入場の段となった。
『選手入場です』
 場内アナウンサーの声がひときわ大きく会場内に轟く。オリンピック発祥の地であるギリシャを先頭にIOC難民選手団を含む二百六の選手団が続々と姿を現す。様々に意匠を凝らしたユニフォームや選手個人の派手なパフォーマンスを眺めていると胸が躍り、無観客であっても祭典は成立するのだと思い知る。
やはり開催してよかった。
 選手団の入場順は日本語による各国表記の五十音順だ。アナウンスはそれぞれの国名を最初にフランス語、英語、日本語の順番で紹介する。アイスランドの次はアイルランド、そしてアゼルバイジャンと五十音順が進行していく。
 五十番目の北マケドニア共和国。
 百番目のソマリア。
 やがて百四番目の選手団が姿を見せ、場内アナウンスは『チャイニーズ・タイペイ』と紹介する。
 その直後だった。
『台湾です』
 中経の女性アナウンサーは高らかに言い放った。
 横並びで座っていた関係者が一様に驚きの表情を見せる。中には短く「えっ」と声に出す者もいた。黄代表はと見れば、自国の選手団と慎策を交互に眺め、満足そうに頷いている。
 前日、慎策がNHKのオリンピック・パラリンピック実施本部の責任者に依頼したのがこれだった。オリンピック・パラリンピックでは台湾を「チャイニーズ・タイペイ」と呼称すると決められている。だが開催国の言葉には規制がなく通常の呼び名であっても違反にはならない。それでも「Taiwan」の発音は台湾人にも中国人にも、そして全世界の人々の耳に届いたはずだ。
 オリンピックの規定に抵触せずに黄代表の思いに寄り添う。そのためにはこれより他の手立ては考えつかなかったのだ。
 二百六の選手団が全員揃い男女ペアの選手宣誓が済むと、大会組織委員会会長とIOC会長の挨拶へと進み、遂に陛下が開会を宣言された。
『私はここに第三十二回近代オリンピアードを記念する、東京大会の開会を宣言します』
 ローマ数字のⅩⅩⅩⅡ(32)を表す花火がスタジアムから打ち上げられ、大きく夜空に開いた。
 空を見上げながら、慎策は昂揚とともに不安を覚えていた。「台湾」と呼称したことで彼らの留飲を下げられただろうが、喜ぶ者がいれば一方で怒る者が存在する。今ごろ鄧大使は大使館の自室で顔色を変えているのではないか。
 開会式を終えて公邸に戻る際、公用車に同乗した風間がグータッチを仕掛けてきた。
「よくやった」
「あれにどれだけの効果があったのか心許ない」
「台湾総統から感謝のメッセージが届いている。SNSでは大騒ぎになっている」
「騒ぎの内容による」
「台湾側は歓喜の渦だ。効果のほどはそれで充分だろう」
「中国側はどうなんだ」
微博ウェイボーでは逆に非難の嵐だが、まあウェイボーは中国政府の監視下にあるから引っ繰り返っても賛同なんてできっこない」
「中国政府の反応は」
「今のところ音無しだな。鄧大使からも特段の反応はない」
 たかが選手団の呼称だ。人類の祭典の最中に野暮を言いたくないのかもしれない。
 その時慎策は楽観的に捉えたが、後から考えれば現実逃避に他ならなかった。
 まだしも公式に抗議される方が救われる。最大の敵意は沈黙をもって実行されるからだ。
 慎策が誠意で図った試みは大きな称賛を浴びた。
 だが、それは後に控える難題の前哨に過ぎなかった。

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プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「子のミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』(以上、NHK出版)、『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』(新潮社)、『こちら空港警察』(KADOKAWA)、『いまこそガーシュイン』(宝島社)、『能面刑事の死闘』(光文社)、『殺戮の狂詩曲』(講談社)ほか多数。

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