本がひらく
連載 シン・アナキズム 第4章「ポランニーとグレーバー」(その2)
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連載 シン・アナキズム 第4章「ポランニーとグレーバー」(その2)

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「自己調整的市場」について(1)

政治思想史家・重田園江さんの好評連載「アナキスト思想家列伝」第11回! 毎月のように新しい本が出る「アナキズム」っていったい何なのか? その魅力をビシバシと伝えます。今回は前回に続いてカール・ポランニーとデヴィッド・グレーバーについて取り上げます。
※これまでの各シリーズは下記よりお読みいただけます。
 「序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」へ
 「ジェイン・ジェイコブズ編」の第1回へ
 「ヴァンダナ・シヴァ編」の第1回へ
 「ねこと森政稔」の第1回へ
 「ポランニーとグレーバー」の第1回へ

『大転換』ってどんな本?

 いよいよこれからポランニーの思想に分け入っていくことにする。しかし考えてみると、ここでいきなり本題に入るのはまずい感じもする。読者の中には『大転換』を読んだことも聞いたこともない方もいるだろう。ウェブの連載なんだから、著書みたいに独断と偏見で好きなことばかり書かずに、少しは読者に配慮した方がよさそうだ(と、さんざん好きなことばかり書いてきたのにいまさら言ってみる)。

 『大転換』は前回書いたとおり、1944年に出版された著書である。ポランニーがこの本を執筆した動機には、長期的・短期的に見てさまざまなものがあるだろう。だが最も大きかったのは、やはり自身と家族の生を脅かし、生活どころか生存の脅威にまで晒された、二度の世界大戦とファシズムの来歴を知りたいという理由だったはずだ。

 実際『大転換』は、第I部と第III部がファシズム台頭を許した国際的・国内的な政治経済状況の分析となっている。それにはさまれる形で、長い第II部が置かれている。第II部「市場経済の勃興と崩壊」はさらに二つの部分に分けられ、それぞれ「悪魔のひき臼 Satanic Mill」、「社会の自己防衛」と題されている。第I部「国際システム」と第III部「大転換の進展」は、ファシズムをその一部とする市場への国家社会の介入・統制という「大転換」が生じてくる大戦間期、つまり1920年代と30年代を主に扱っている。第II部では、こうした激動の20世紀をもたらした19世紀史を中心に、イギリスはじめヨーロッパでの市場経済の席巻を、それ以前のヨーロッパ経済システム、および「未開」の互酬や再分配の機構と比較し考察している。

 これまで『大転換』について書かれたものの多くは、第II部を中心に扱ってきた。それはもちろん第II部がこの本の中心だからなのだが、第I部と第III部が論じにくいことも関係しているだろう。第I部と第III部は、第二次大戦後もくり返された金融危機との関係で、国際経済システムが各国経済にどのような犠牲を強い、それが国際危機、ナショナリズムや保護主義、そして戦争を生むのか、といった観点から考察すべき内容である。この点については、とりわけリーマンショックとその後の大企業保護、個人債務者の切り捨て、世界中に莫大な借金をしているアメリカはなぜその借金を返さなくてよいのか、それに反して通貨危機・経済危機に陥った国々はなぜ構造調整と称する厳しい財政規律と借金返済の優先を強いられてきたのか、といった論点と関連づけて論じる必要がある。これはまさにグレーバーの『負債論』を動機づけている問いだ。『負債論』は明らかに国際金融システム(「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれる先進国あるいは金持ちの都合だけで作られた国際金融秩序)の理不尽をその執筆動機の一部としている。

 下の図は、アメリカの債務総額を名目GDPで割ったパーセント(青線)と上位0.01%の富の保有割合(赤線)のグラフだ。いろいろとびっくりするのだが、まず驚くのは、債務総額がGDPを遥かに凌ぎ、最高で3.65倍に達したことだ。ただしこの数字は、政府債務だけでなく、家計・企業の債務を含んでいる[※1]。そして債務の割合の上昇が、富をごく少数の人が独占する状況と連動していることがわかる。しかも富全体の10%を超える割合を持っているので、はじめは上位0.01%が信じがたく、1%の間違いかと思った(これは日本の数字に近い。ただし日本でもコロナ以降富裕層は増えている)。本当に0.01%の金持ちらしい。どうなってるんだろうアメリカって国は。

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市岡繁男「米国の債務比率と所得格差は表裏一体」週刊エコノミストOnline 2019.7.16(https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20190723/se1/00m/020/012000c)をもとに作成

 ただし、こうした国際金融に関わるテーマは、「アナキズム思想をあれこれの観点から取り上げてみる」という趣旨ではじめたこの連載とはかけ離れている。そのうえ、「金本位制」から「管理通貨制」そして「変動相場制」へと歴史的に変化してきた20世紀の国際金融について、貨幣とは何かという哲学的な問いを念頭に置いて論じなければならない。これはどう考えても無理だ。というわけで、『負債論』を論じるところで必要な範囲で言及することにする。

ファシズムが資本主義を救う?

 ちなみに、ファシズムについてのポランニーの見方はユニークだ。それを資本主義の乗り越えではなく、むしろ自己調整的市場が危機に陥った時代に、資本主義を延命させる試みとして捉えているからだ。この指摘は、ファシズムの反民主主義的な性格と、自由市場を信奉する人々による民主主義への攻撃の共通性という、ポランニーの同時代認識とも関わっている。つまり、自由放任を維持できなくなった資本主義は、その延命のために形態を変えるが、当時ドイツにいた自由市場主義者たちもまた、資本主義を攻撃する社会主義と民主主義を激しく嫌悪したために、資本主義延命を条件にファシズムを容認したということになる。このあたりは、若森みどり『カール・ポランニー』(NTT出版)第3章を参照するとよく分かる。

 ファシズムの闇は深い[※2]。ポランニーのこの見方は、オルド自由主義者がなぜナチ期に比較的自由な研究活動を許され、またナチ政権にかなり接近した人もいたかを解く鍵にもなる。オルド自由主義については『フーコーの風向き』第9・10章で取り上げたが、ナチ時代の彼らの活動の怪しさについては、雨宮昭彦の仕事を参照してほしい。
 なんだかすでに話が難しくなっているが、ここまでは前置きなので安心してください。これからやっと肝心の第II部を取り上げる。前回予告したとおり、キーワードは「自己調整的市場」だ。だがいきなりその話をはじめると「は?」となりそうなので、第II部のあらすじネタバレ紹介をしつつ、自己調整的市場の話につなげていくことにする。

 ポランニーによると、近代以前のヨーロッパ、また近代ヨーロッパ以外のあらゆる時代や地域で、経済は社会のさまざまな制度や実践のうちに埋め込まれていた。この「社会に埋め込まれた経済」が社会的な制約を脱し、脱埋め込み(disembed)が起こるのが19世紀イギリスということになる。たとえばポランニーは、自由主義経済学以前の近代国家の経済政策である重商主義について、次のように述べている。

 重商主義は、いかに熱心に国家的政策として商業化を要求したとしても、諸市場を市場経済とは正反対のものとして考えていたという点に注意しなければならない。このことは、産業に対して広範囲にわたって国家干渉が行われたことにもっともよく表れている。この点については、重商主義者も封建勢力も、王室の政策立案家も既得権益保持者も、中央集権官僚も保守的排他主義者も、変わるところがなかった[※3]。

 つまり、ポランニーによるなら、ヨーロッパにも、なんなら世界の至るところに市場が存在してきた。市場はどこにも見られるが、文明や時代のあり方によってその様相を異にする。これについてポランニーは、『経済の文明史』第三部、『人間の経済II』『経済と文明』などで、初期アッシリア、古代ギリシア、そしてダホメ王国などの豊富な事例を挙げて考察している[※4]。

お金がないと生きていけない社会

 しかし問題は、それら諸市場が上記の引用で「市場経済」とされているものとは異なっていたということだ。諸市場と市場経済とを正反対と考えるというのは字面ではよく分からないが、「近代以前には市場経済は存在しない」というポランニーの考えを念頭に置くと理解できる。ここで市場経済とは「市場価格によって統制され、調整され、指図される経済システム」で、「財の生産と分配における秩序は、この自己調整的メカニズムに委ねられる」[※5]。価格による統制や調整とは、需要と供給が価格によって決定され、生産も分配も価格に依拠してなされることを意味する。難しい言い方だが、私たちが現にそのなかで生活している経済システムを指していると考えてよい。生産者は価格が下がると生産量を調整し、また儲けにならない商品からは撤退する。消費者は価格と品質を天秤にかけ、財布と相談して何をどれだけ買うか決める。つまり、売るために生産される「商品」と、それを買うために利用される購買力としての貨幣が存在し、人々は最大限の貨幣利得を求めて行動する、そういう経済システムである。

 ここでは建前上、政府その他の社会的装置による市場への介入は排除されており、その意味で社会は、「経済領域と政治領域へと、まさに制度的に分離される」[※6]。自己利益の最大化だけを求めて、購買力としての貨幣、すなわち札束を握りしめて価格シグナルに反応し、できるだけ有利な取引のために奔走する人々。生産と流通と消費の全体が市場での価格を中心に、価格を拠りどころにして動く社会。これをポランニーは「市場社会」と呼ぶ。

 たしかに考えてみれば、私たちは、お金を払って買い物をしないと生活に必要な物資を手に入れることができない社会に住んでいる。人はなぜ働くのかという問いへの直截的な答えは、「収入を得るため」だ。なぜなら、お金が入ってこないと片時も生活できないからだ。ポランニーも言っているが、飢えの恐怖と儲けへの欲望が表裏一体となって人を労働へと駆り立てるのが、この社会なのだ。寒い冬には暖房をつけるが、これだって電気代を滞納したら使えない。水道代が滞れば水は出ないし、温かい風呂に入るにはガス代も払わないといけない。遠くに行くために電車に乗るにはお金がいるし、服だって寝る場所だってお金を払わなければ手に入らない。

 そんなこと当たり前だろうと思われるかもしれない。でも、これってとってもおかしなことかもしれないのだ。ポランニーの視野は、そのくらい遠くまで届いている。私たちが生きているのは、あらゆるものが売られ、買われるだけでなく、すべてを売ったり買ったりしなければ、誰も生きていくことができない社会だ。これってとっても特異でおかしなことじゃあないだろうか。これがポランニーを読むことで惹起される、現存社会へのとてつもない違和感だ。

「商品になってはいけないもの」とは?

 あらゆるものが商品になるという場合、ポランニーがとくに注目するのが、財やサービスではなく、労働・土地・貨幣が商品になることである。ポランニーにとってこれら三つは、商品になるべきではない存在だ。なぜならそれらは、売るために作られたものではないからだ。

 労働、土地、貨幣は、明らかに商品ではない。売買されるものはいかなるものであろうと、販売のために生産されたものであるという公準は、労働、土地、貨幣にはまったく当てはまらない。換言すれば、商品の経験的な定義からするとこれらは商品ではないのである[※7]。

 ここで読者は当惑しないだろうか。「売るために作られたものだけが商品」というのが経験的な定義だとすると、労働、土地、貨幣がそこに当てはまらないのはたしかだ。しかしそうなると、他の商品はどうなんだろう。たとえばペットボトルの水。ペットボトルは石油化学製品として作られたとしても、中の水は売るために「作られた」と言えるだろうか。もっといえばプラスチックの元になる石油は、売るために作られたのだろうか。そう考えるとポランニーの言っていることが、よく分からなくなってくる[※8]。

 そこで視点を変えて、ポランニーは市場社会以外の諸市場でも、さまざまな商品が販売されていたと考えていることを起点としたい。局地的市場(ローカルな市場(いちば))で小麦が取引されたとする。それは「販売用」の小麦として、自家用や租税用のものとは分けて取り置かれたものだろう。このように「販売用」として別にされたものは、おそらく売るための商品と考えてよいものだ。ところがたとえば人間労働の場合には、売るための労働と自家消費のための労働を分けることができない。というのは、労働が生身の人間の活動だからだ。人間は「その活動を生活の他の部分から切り離したり、蓄積したり、転売したりすることもできない」[※9]。

 それなのに私たちは、日々労働力を売っている。これがマルクスのいう「労働力の商品化」である。私たちは自身の身体および心の一部を切り売りしているのだ。そこに取り返しのつかない搾取が起こるとしたら、これは単なる商品の買い叩きではなく、生命を脅かす行いになる。過労死に追い込まれる会社員からインフォーマル経済における再生産不可能な低賃金労働に至るまで、不正義はあらゆる場面に生じている。これが起こる出発点として、労働が商品にされることで社会的保護から切り離されてきた歴史があるのだ。

 労働につづいて、ポランニーは自然についてとても重大なことを言う。「土地は自然の別名にほかならず、人間によって生産されたものではない」[※10]。売るために作られたものではない自然を売ること。この指摘の射程は驚くほど遠くに至る。シヴァのところで取り上げたことを思い出してほしい。人と自然が織りなすサイクルの一部であった牛が「商品」になることで、乳の出をよくするためにホルモン注射を打たれ、肉づきをよくするために穀物飼料を与えられる。それによってメタンガスの排出量が高まる。その飼料穀物は遺伝子組換えの大量生産だ。専用の化学肥料で収穫量を増やされ、除草剤に耐性を持つよう遺伝子が組換えられている。

 売るために作られたものでない自然を商品にして売買するとき、人間がすることはとても残虐だ。ペットショップで買った犬猫を「責任を持って最後まで飼いましょう」と道徳的メッセージのつもりで発している芸能人を見ると、命を金で買うことがおかしいと少しも想像せずにモラルを主張できる無邪気さにゾッとさせられる。

 ポランニーは売るための商品とそうではないものを分けている。だが、富はどこからやってくるのかを考えるとき、もとを正せばすべての商品が地球の資源である自然と切り離せないことに思い至る。そうである以上、どの商品にも売るためではない要素が混在しているように思われる。ここで私はポランニーが言ったことから言っていないことを推論しているのだが、彼の商品の定義からしてそう考えざるをえないのだ。

金融市場の「おかしさ」

 労働・自然に次いで三番目に取り上げられるのが貨幣だ。土地を売買することと労働を売買すること。これらは、人間が自然の一部であり生身の存在であることを考えると、二つの類似した「擬制商品」(売るために作られたのではない商品)だ。だが貨幣はちょっと質が違うので注意が必要になる。貨幣は人間が存在し、取引において機能を果たさなければ存在しない。その意味で人間社会が作り出したものである。だがポランニーに言わせると、「実際の貨幣は、単に購買力の表象にほかならず、一般に決して生産されたものではなく、銀行あるいは国家財政のメカニズムによって存在するようになるものである」[※11]。

 これはポランニーが、貨幣そのものが売買される金融市場、通貨市場が存在することを、とても奇妙に思っていた証拠だと思われる。貨幣が生産されたものなのかどうかについて、私は確たることを言えない。だが金融市場というのがなんだかおかしいことくらいは分かる。

 そもそもポランニーの発想は、人間生活が社会的なシンボルや規約によって取り囲まれているとしても、そこにはなんらかの「実体」との結びつきがあるという考えからきている。これは、彼がアリストテレスの家政(オイコノミア)について論じる際にも、労働者保護のためのスピーナムランド法の意図を語る際にも当てはまる。

 その観点からすると、金融市場というのは実体的なものとしての社会、あるいは実在する物理的あるいは自然的な物事とはかけ離れた世界を作ろうとしている。金融市場においては、ある金融商品ができると、それに関する先物や保険など、いろいろな派生商品を作ることができる。ヘッジファンドはこの金融派生商品を組み合わせて、リスクを避けて収益を得ようとする金融取引である。金融商品は、日本では1980年代の金融自由化以降に複雑化・多様化し、市場規模が巨大になった。私はちょうど1990年に銀行に就職したので、このころの金融業界のことをよく覚えている。

 一つは、銀行の新入行員が、複雑な新しい金融商品の仕組みを勉強しなければならなかったことだ。当時主に取り上げられていたのは、金融派生商品(デリバティヴ)のなかでもシンプルな先物だった。ここですでに、未来の取引を約束すること(先物)とリスクに備えて保険をかけることだけで、いくらでも新しい商品を生み出せる金融の世界をとても恐ろしく感じた。リスクにかける保険自体も売買されるし、再保険つまり保険の保険もありふれている。保険の保険の保険……と考えるなら、原理的には無限個の金融商品が作れる。暴落に賭ける「ショート」なども、損すると得をするというこんがらがった話だ(映画「マネー・ショート」をご覧ください)。

 下の図は、ヘッジファンドの市場規模が2000年からの20年間でどの程度大きくなってきたか、またいかに相場が上がってきたかを示している。リーマンショックで少し落ち込んだが、その後の上がり具合と規模拡大が連動していることが分かる。21世紀になって、日本人は前よりずっと投機と金儲けが好きになったらしい。

NHK_シン・アナキズム_図版_02

Barclay Hedge より「ゆかしメディア」[※12]作成
「ヘッジファンド業界の変化2020」2020.5.18
https://media.yucasee.jp/posts/index/15428/)をもとに作成

 もう一つは、銀行の就活で面接官に言われたことばだ。当時私は金融業について何も知らず、業界に興味もなかった。ただ筆記試験がなく、履歴書の欄も少なくて一般的、たいてい面接に行くだけで内定がもらえる楽さに惹かれていた。世の中舐めちゃいかんと大学四年の自分に言ってやりたいが、ポスト・フェストゥム、つまり後の祭りだ。面接で五〇代くらいのおじさんに「いまの金融業界の問題は何か」と聞かれた。私は金融のことは何も知らないので分からないと言ったら、おじさんの方から親切に教えてくれた。

 その人の考えでは、日本の銀行は長い間国民経済を支えてきた。そこには製造業があり、ものづくりがあった。その手助けをするのが銀行だったはずなのに、いまやっていることはいったいなんだ。先物取引だ、新しいカタカナの金融商品だと騒いでいるが、これじゃあものづくりから離れていくばかりじゃないか。経済というのは実体があるもの、もっとリアルなものに結びつき、成長や豊かさの実感を国民が得られるもののはずだ、というのだ[※13]。

 私はこのおじさんの話に大いに感銘を受け、これから日本はどうなっちゃうんだろうと心配になった。その後すぐにバブルは崩壊し、世界中で通貨危機がくり返し起こり、産業は空洞化し、リーマンショックが起きたわけだから、おじさんの嫌な予感は的中したともいえる。でもそこでものづくりが原点と言っちゃうところが、高度成長期のサラリーマンどっぷりの価値観なわけで、土地・労働・貨幣は擬制商品にすぎないくらい言ってほしかった気もする。

災厄で焼け太る金持ち

 いずれにしても、実体的な存在である土地と労働を商品にすることは、地球環境と人間の尊厳に対する重大な侵害をもたらした。そして貨幣を商品にすることは、商品経済が社会の実体からどんどんかけ離れていく大いなる契機となった。その遊離がただの金融ごっこ、金持ちたちのゲームとして閉じていてくれればいいのだが、資本主義は弱者を食い物にするのが常なので、貧困者の住宅ローンに巣食って破綻したのがリーマンショックだった。そして案の定、金持ちと大企業は救済された。

 下の図を見ると、コロナという災厄においても弱者が食い物にされ金持ちが焼け太ったことは、上位1%の富の増加を見れば分かる(日本の場合、経済の地盤沈下がひどいことが同時に示されている)。

【コロナで貧富の差が拡大したことを示すグラフ。上位1%の富裕層が持つ富の割合】

NHK_シン・アナキズム_図版_03

出典:「中国、格差是正へ所得分配強化 市場・税制・寄付3層で」「日本経済新聞」2021.8.25
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM210D50R20C21A8000000/)をもとに作成

 いまでは、自然の商品化は地球環境問題という巨大なブーメランとなり、強欲資本主義に加担していない人も動植物も例外なく危機に陥れている。労働の商品化は搾取と絶望と飢えと貧困を生みつづけている。金融の商品化は1%の金持ちをますます富ませる世界の維持に役立っている。こういうわけで、これら三つの商品化は市場社会の間違いの根本にある。まったく困ったものだ。

「ポランニーとグレーバー」(その3)を読む

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※1 ついでにもっと驚くのは、日本の数値がこれより大きいことだ。政府の債務残高だけで見ると、アメリカが直近でGDP比約1.3倍なのに対し、日本は2.56倍に達する(2020年、財務省発表)。
※2 ポランニーはナチズムをドイツにおけるファシズムの意味で用いている。
※3 カール・ポランニー、野口建彦・栖原学訳『[新訳]大転換――市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社、2009、p.122.
※4 玉野井芳郎・平野健一郎編訳『経済の文明史』ちくま学芸文庫、2003、玉野井芳郎・栗本慎一郎訳『人間の経済I――市場社会の虚構性』、玉野井芳郎・中野忠訳『人間の経済II――交易・貨幣および市場の出現』岩波書店、1998、栗本慎一郎・端信行訳『経済と文明――ダホメの経済人類学的分析』ちくま学芸文庫、2004.
※5 『大転換』p.119―120.
※6 同上、p.123.
※7 同上、p.125.強調原文。
※8 院生時代にはじめてポランニーを読んだときからこのことが疑問だった。東大の駒場と本郷の経済学の先生たちが合同でやっているゼミナール的な授業に出ていたのだが(なぜか本郷で開催されていた)、そこに若森みどりさんも出席されていたらしい。こちらはまったく記憶がないので、年下の若森さんに意地悪なこと言ってないといいが。いまでは丸くなってツルツルしてますが、若輩のころはトンガリ小僧だったとよく言われるので。
※9 同上、p.125. 晩年のポランニーは奴隷貿易における交換単位に興味を持っていたが、ダホメの「貿易オンス」をめぐるこの研究の中では、売るために作られたのではない人間を売買するという観点からの考察はない。
※10 同上。
※11 同上。
※12 「ゆかしメディア」は「『ヘッジファンド』から『慶応幼稚舎』まで――読者数30万人 日本最大級の富裕層向けメディア」を謳うインターネットサイトである。
※13 いまはなき「日本興業銀行」の方だった。

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プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)

明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。

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