シン・アナキズム 第4章 ポランニーとグレーバー (その6)
機能的社会主義について(3)
先月発売のちくま新書『ホモ・エコノミクス』が好評の重田園江さんによる、ポップかつ本格派の好評連載「アナキスト思想家列伝」は第15回を迎えました。「どんどん難しくなっているようで申し訳ない感じ」という重田さんですがここは踏ん張りどころ。「もう一つの社会のあり方」を本当に想像できる連続2回の1回目です。キーワードは引き続きカール・ポランニーの「機能的社会主義」。まずは500円分の切手の話から!
※これまでの各シリーズは下記よりお読みいただけます。
「序 私はいかにして心配するのをやめ、アナキストについて書くことにしたか」へ
「ジェイン・ジェイコブズ編」の第1回へ
「ヴァンダナ・シヴァ編」の第1回へ
「ねこと森政稔」の第1回へ
「ポランニーとグレーバー」の第1回へ
機能的社会主義論はなぜ理解しにくいのか
さて、ここからいよいよポランニー自身の機能的社会主義論を紹介していこう。しかしこれがそれほど簡単ではない。この連載自体、なぜかどんどん難しくなっているようで申し訳ない感じだ。これにはいくつか理由があるのだが、一つには、ポランニーが機能的社会主義について述べたのは、すでに挙げた1922年の「社会主義経済計算」と1924年の「機能的社会理論と社会主義の計算問題」の二つの論考だけだという点がある。しかもこれらは二つとも、社会主義経済計算論争という歴史的文脈の中で書かれているので、ポランニー自身の理論の全貌を系統立てて説明しているとはいえない。強調点や議論の焦点がミーゼスらへの反論に置かれている論争的な文章だからだ。
日本語読者にとっては、別の不幸な事情もある。まず、二つの論考のうち簡単に読めるのは、後で書かれた「機能的社会主義と社会主義の計算問題」の方で、これはちくま学芸文庫の『経済の文明史』に収録されている。しかしこの論考は、全体が22年の論文の補遺として書かれているので、それだけ読んでも意味がよく分からない。その上とても短い。
ポランニーはどうやら、一度書いたことをくどくどくり返すのはあまり好きではなかったと思われる。私もこれには賛同する。だって一回書いてるんだから、知りたければそれを読んでくださいよ、というわけだ。同じことをくり返し書くのは、知的に枯渇してきた時だけのような気がしてならない。
ただ一方で、書かれてから時間が経ってしまい、ましてや極東の地でポランニー思想にアプローチしようとする読者にとっては、その一回書いたものがなかなか手に入らないということが起こる。
それがまさに今回のケースだ。1922年の「社会主義経済計算」論文については、「導入」と「第2章」のみ『カオスとロゴス』誌上に日本語訳がある。第1章を読まずに第2章を読まされるというのも困った話だ。第1章が読みたい人は、日本語訳を掲載した『カオスとロゴス』版元の「ロゴス社」に500円切手を同封して申し込むと返送されると、訳の末尾に書いてある。版元の住所は、出版時の1996年には板橋区大山だが、現在は社名を「ロゴス」に変更し、文京区本郷が所在地となっている。ここに500円切手を送ったら第1章の訳が送られてくるのだろうか。25年も前の約束を履行してくれのるか、とても不安だ。
500円切手(ただし、100円切手五枚で送るように指示されている)の行方をドキドキしながら待つのも嫌なので、ここでは手っ取り早く英訳を参照することにしよう。そもそもこの『カオスとロゴス』という雑誌が、私が勤務する明治大学図書館にはなく、わざわざ大阪外国語大学から取り寄せてもらった。こういったわけで、ポランニーの機能的社会主義論は、英語で読むのはちょっと、という読者にはアクセスのハードルがとても高い。500円切手の行方も気がかりだ。それにしても『経済の文明史』の訳者たちは、なぜこの論考の第1章だけでも訳してくれなかったのだろう。もし英訳がなかったら、ドイツ語を解さない私のような人間はお手上げだった。
「アナキズムの社会構想」の観点から読む
ポランニーの機能的社会主義論については、西部忠『市場像の系譜学』にも紹介があるが、詳しいのは若森みどり『カール・ポランニー』の方である。こちらも決して長いものではないが、第2章3で一節全体を使っての内容紹介がある [※1]。
若森の著書は文献考証が細かいところまで行き届き、全体的に精度が高いが、この部分は分かりにくい。その理由は、おそらく次の点にある。ポランニーは上記二つの論文を「社会主義経済計算論争」の枠内で書いており、若森の叙述もそれに忠実に、「社会主義に経済計算は可能か」という論点に議論を収斂させていく。しかしそうなると、ミーゼスら他の論者の議論との対比による論争全体の見通しなしには、ポランニーの主張の特徴はなかなか理解しにくい。
そこでここでは、アナキズムの社会構想という観点に関連づけ、もう少し広い文脈でポランニーの議論を位置づけてみる。つまり、社会主義経済計算論争の歴史的文脈とは異なった背景の下に、ポランニーの議論を置くということになる。
前回まで、機能的社会主義やオーストロ・マルクス主義、そして第三の社会主義についてくどくど書いてきたのはそのためだったのだ。ポランニーの機能的社会主義構想は、これまで述べてきた「第三の」社会主義について、その具体的なあり方を述べたものだ。その社会はどのような部分から構成され、とりわけ経済的な諸機構はどのようなやり方で運営されるのか。なかでも分かりにくい、価格決定に関わる費用概念についてのポランニーの議論も、機能的社会主義における「意思決定の民主的なプロセス」の一環として捉えることで、それなりに位置づけを与えられるように思われる [※2]。
不自由と強制を避けるための経済運営
以下では主に「社会主義経済計算」の叙述に拠りながら、ポランニーの議論を見ていこう。冒頭に書かれているのは、ポランニーにとって機能的社会主義と資本主義の違いを特徴づけるのが、市場の有無ではないということだ。ポランニーの考えによるなら、機能的社会主義は資本主義とは異なった形のものではあるが、市場機能を内に含んでいる。
ところがここでポランニーがいう「ある種の」市場というのがどうもイメージしにくい。ポランニーの論考を読み進めていっても、この部分が機能的社会主義における市場の要素ですよ、とはっきり書いてあるところはない。むしろ叙述が進むと、費用計算と価格決定の具体的なやり方にどんどん話が向かっていき、市場とは何か、どのような意味でどのような機能が「市場的」とされるか、といった原理的な議論からは遠ざかっていく。
だが、全体を読んでよく考えてみると、ポランニーはどうやら、生産者(財や生産物の供給者)側と消費者(財や生産物の使用者)側とがそれぞれの欲求あるいは要求をもって取引や交渉を行い、それを通じて価格が決定されて物資やサービスが分配される、そういった機構全般を「市場」と呼んでいるようなのだ。当然ながら市場機構の中には、匿名の供給者と需要者がやりとりを行うとされる自己調整的な市場も含まれる。
つまり、ポランニーの書き方からすると、次のような条件を満たす取引はすべて市場ということになる。それは、生産者と消費者がそれぞれ異なる欲求を持って登場し、あらかじめ定められた強制的・外在的取り決め(固定価格など)によらずに、その都度の交渉をつうじて財やサービスを配分するという条件である。価格の決定プロセスが匿名の市場圧力によるのか、それとも当事者間の交渉によるのかは、ここでは問われていない。
そしてこの広い意味での市場像からするなら、機能的社会主義において生産アソシエーションと消費アソシエーション(あるいは「コミューン」)との間の交渉によって定められる協定価格もまた、ある種の市場機能を通じた価格決定機構だということになる。
ここでこの協定価格が何と対比されているかというと、ソ連型集産主義における固定価格である。集産主義(共産主義)経済においては、生産から消費までの全体が中央の計画に従ってあらかじめ決定されている。そのため、生産者と消費者が個別の事情に基づいてその都度価格交渉をする余地はない。これはソ連に広く見られた配給制度ともなじみやすい価格体系である。この体系が柔軟性を欠き巨大官僚制の弊害を経済活動にもたらすことは、バウアーのところでも述べたとおり、機能的社会主義の支持者の間ではよく知られていた。
一方で、匿名かつバラバラの個人の無数の取引によって価格が決定されることになっている自己調整的市場は、個人の自由なふるまいを尊重しているようでいながら、当事者は無名で市場に対して何の力もなく、つまり自由にふるまえないという特徴を持つ。これが「悪魔のひき臼」の原動力となり、多くの人々を貧困の淵に沈め、また生活環境や自然資源を著しく毀損してきたというのがポランニーの考えである。
さらに当時の市場社会については、独占や寡占によって一部の巨大企業が経済に関する実権を握るという、いわゆる「独占資本主義」問題が知られていた。そして独占や寡占は、「規模の利益」を通じて市場での競争において大企業や大資本が有利になることが原因で、市場そのものによって不可避に生み出されてしまう巨大権力であると考えられていた。つまり、市場競争は一方で一人ひとりの自由な意思決定とはほど遠い「自動的な」メカニズムとして現れるのだが、他方でそれが競争の反対物である独占に至るのは避けられないということになる。そしてこのどちらにも、個人にとって、また社会にとっての自由はない。
こうしたそれぞれの負の側面を念頭に、ポランニーは集産主義における不自由や強制と、競争市場および独占・寡占がもたらす不自由や強制との両方を克服するような経済社会を思い描くことになる。それが機能的社会主義と、そこにおける交渉と協定による経済運営だった。
国有化とは違う「社会的所有」とは
機能的社会主義の経済が価格決定に際して考慮すべき原則として、ポランニーは二つの要素を挙げる。一つは資本主義におけるのと同じ意味での「生産性」であり、これは生産における効率や労働を含めた資源の有効利用、費用の節約などを含む原則である。すぐに分かるとおり、資本主義的な生産プロセスでは、生産性は企業によって最も重視されている価値である。というのも、生産性を上げることでより多くの剰余価値が発生し、剰余価値がもたらす利益は企業という組織の目的そのものだからだ。
機能的社会主義においては、生産は資本家や経営者が労働者を雇用する私企業を通じて行われるのではない。そもそも生産手段の社会化(つまり工場などの設備を私的に所有するのではなく、そこで働く人たちや地域の人たちが共同で所有すること)は、機能的社会主義の主要な特徴である。それは、雇い主不在の、それでいて国家や中央権力などによって統制されていない、現場主義に立つ経済の組織化なのだ。
そこでは、生産は私企業に代わるさまざまなアソシエーションによって行われる。生産アソシエーションの例として、ポランニーは「生産協同組合、ギルド、「自主管理工場」「業務提携sozietäre Geschäftsform」、「社会作業所」、「自律的企業」、生産労働組合、産業組合、生産者全国労働アソシエーション、単一大労働組合One Great Union[原文英語]」 [※3]を挙げている。こうした例から、ポランニーが労働者自ら工場を運営する方式にはさまざまな組織形態があると考えていたこと、また当時実際に多様な形態のアソシエーションが形づくられていたことがうかがえる。現に存在するさまざまなアソシエーションの試みを生かし、つなぐことで、働くこと(生産)、ものを運び届けること(流通)、そしてものを買うこと(消費)の現場から、新しい社会の組織化を実現する。これがポランニーの描く機能的社会主義だったといえる。
ここで「共同所有」について述べておく。共同所有というと、私有の反対だから国有というイメージが強く、共産主義=ソ連型社会主義の国有化を連想するかもしれない。だが、考えてみれば当たり前なのだが、共同所有にはいろいろなやり方がある。たとえば夫婦で家の所有権を半々にしていたら、それは共同所有の一形態だ。組合員の出資を募って作られる生協(消費協同組合)も、小さな出資を集めて運営資金としている点で共同所有だ。この観点からすると、株式会社も資本調達を多くの株主から行っているため、ある種の共同所有といえる。しかし企業の生産主体である従業員が会社を所有しているわけではないので、これは社会主義者から見ると、匿名性を持った私的所有の一変種と見なされる。
このように、共同所有はいたるところに見られるが、複数人で持てばなんでもいいわけではない。そのため社会主義者は、従業員や消費者などによる所有、つまり生産協同組合や消費協同組合(生協)などを、他の共同所有と区別して「社会的所有」と呼ぶ。この社会的所有こそが、機能的社会主義において大小さまざまな経済組織体の所有形式となるのである。
社会正義と経済活動
機能的社会主義における経済主体が価格決定に際して考慮すべき、生産性と並ぶもう一つの要素は、社会正義あるいは社会的公正social justiceである。これは、「生産された財を、しばしばなされるように個々の消費者や消費者集団の観点から眺めるのではなく、社会の観点から眺める」 [※4]ことによって明らかになる。
ポランニーはこの箇所で具体例を挙げていないが、たとえばこういうことだろう。一人の消費者や消費者集団にとって、自家用車は電車より便利かもしれない。自分の家から行きたいところまで乗っていれば着くので、途中歩いたり走ったりしなくていいのだから。しかし、皆が自家用車を欲しがったらどうなるだろう。道路は渋滞し空気は汚れ、交通事故は増えて歩行者は安全に歩けなくなる。そうなると、社会的には公共交通機関を利用した方がよい。つまり財には、個人にとっての欲求充足の観点から見たのとは異なる次元での価値があるということになる。これは、すでに述べた意味での生産性(資本主義経済で考えられている生産性)を規定する「生産コスト」とは区別される、「社会的コスト」として、財や生産物の価格の中に含まれるべきものである。
ポランニーがここで表明しているのは、経済学では「社会的費用」と呼ばれてきた考えに近い。これは、ドイツの飛び地であったケーニヒスベルクに生まれ、ジュネーヴ大学で学んだのちにアメリカに亡命したウィリアム・カップ(1910―1976)が理論的に精緻化し、環境問題へと適用したことで知られる概念である。日本では宇沢弘文(1928―2014)によって広く知られるようになった。
しかし考え方としてはそれ以前からあり、とりわけ1920年代以降、経済活動に含まれる社会的な要素についての議論がさかんになってくる。こうした時代背景の中で、ポランニーが考える社会的費用は、社会正義の観点から価格に転嫁されるべきあらゆる事柄を含む概念となっている。そのため社会的費用に含まれるのは、必ずしも自然環境へのダメージには限られない。たとえば、子どもを持つ家庭が快適な住環境を得る権利、コミュニティの人々が騒音に悩まされない権利、劣悪な労働環境で働かない権利、女性が労働現場で不当に差別されない権利なども、それらを守るための費用が社会的なものとして計上され、価格に転嫁されるべきなのである。
また、たとえばアルコール製造や武器産業など、人間の身体にとって有害であったり世界平和を脅かしたりするような産業であっても、資本主義経済の枠組みではこれらを規制することが難しい。しかし、社会正義や社会的費用という観点が導入されれば、社会の一般的な福祉を害するような産業を規制できる。ポランニーの観点からするなら、経済というのは単なる私的な欲求充足を中心的価値として運営されるべきものではないのだ。
それは、まずは生産過程において労苦(つまり労働)が公平に配分されているか、一部の人が極端に劣悪な労働環境を甘受していないかを注視しなければならない。また、ある商品を生産することで社会に与える負のインパクトについても考慮されなければならない。
これは工場が出す汚水や大気汚染といった問題に限られない。たとえば作ったものの廃棄まで責任を負うことが困難な核兵器や原発からプラスチック、あるいは人体に有害な化学物質を製造過程で用いる食品など、一般的に企業が勝手に「外部化」してきた負の産出物を、費用として組み込むことで、「コスト」の概念そのものを変えなければならない。
このことが理解されれば、この連載のヴァンダナ ・シヴァのところに出てくる遺伝子組換え農作物の話や、ジェイン・ジェイコブズのところに出てくる都市の再開発による中長期的影響の話も、彼女たちが問題にした負の要素が考慮に入れられるようになるだろう。また消費過程では、個人の欲求充足だけでなく社会的な観点から、人々のニーズに応えるような財やサービスの分配がなされているかに配慮しなければならない。
* * * * *
※1 若森みどり『カール・ポランニー』p.55―64.
※2 ポランニーの費用概念については、「枠組み費用」と「介入費用」、「自然的費用」と「社会的費用」の区別が知られる(詳しくは「社会主義経済計算」に書いてある)。そしてこれら二種の費用を、生産―流通―消費(販売)における価格の固定性との関係で、「下方」(生産から消費へ)に向かう価格への影響と、「上方」(消費から生産へ)に向かう価格への影響に分けて考察している。以下この連載の本文では、こうした内容には踏み込まないことにする。これについて説明することで、読者は混乱させられるだけでなく、議論の大枠の理解もより困難になるように思われるからだ。
※3 ‘‘‘Socialist Accounting’’ by Karl Polanyi,’ tr. A. Fischer, D. Woodruff, and J. Bockman, in LSE Research Online, 2016, p.25, n.24.
※4 ibid.,
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プロフィール
重田園江(おもだ・そのえ)
明治大学政治経済学部教授。1968年西宮市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本開発銀行へ入行、退職後、東京大学大学院総合文化研究科相関社会科学専攻博士後期課程単位取得満期退学。2005-07年ケンブリッジ大学客員研究員。2011年、『連帯の哲学Ⅰ――フランス社会連帯主義』で第28回渋沢・クローデル賞受賞。ほかの著書に『フーコーの穴――統計学と統治の現在』(木鐸社、2003年)、『統治の抗争史――フーコー講義1978-79』(勁草書房、2018)、『フーコーの風向き――近代国家の系譜学』(青土社、2020)など。