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「must」を捨て自己肯定感を上げる――「不安を味方にして生きる」清水研 #13 [こころの着地点を見つける①]

不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
第1回からお読みになる方はこちらです



#13  こころの着地点を見つける①

なぜ自分には厳しいのか

 人には受け入れがたいことと向き合い、前に進む力があります。第9回などに登場した室田隆さん(仮名・38歳男性)は、事業が軌道に乗った矢先にがんに罹患し、夢の実現を目にするまえに人生を終えることを告げられました。室田さんはその状況に一時は絶望しましたが、こころはそこにとどまり続けませんでした。
 第12回で「こころの道筋」について説明しましたが、人生を根底から揺るがすような出来事が起きたあと、喪失と向き合うプロセスを経てこころは回復していくのです。
 私は多くのがん体験者の語りを聴くにつけ、どんな厳しい出来事が起きたとしても、人はこころの着地点を見つけることができると実感します。「幸せ」とは思えない状況もあるかもしれませんが、苦しみと向き合う一方で、愛情深い時間や、美しい体験を見出すことはできるのでしょう。
 しかし、絶望から抜け出して新しい生き方を見出すというプロセスが、簡単には進まない人がいます。こころが傷ついたときには、悲しむことが大切だとこの連載で何度か述べましたが、「泣くのはよくないことだ」とこころに蓋をしてしまう人がいます。今回は、そのことについて書きたいと思います。

 担当医からの紹介で、古田恵理さん(仮名・52歳女性)が私の外来を受診されました。乳がんの手術後、再発予防を目的に抗がん剤治療を受けており、半年前に治療が終わったとのことでした。「体が重い感覚が続き、気持ちも晴れない」とふさぎ込んでいる古田さんを担当医が心配して、腫瘍精神科の受診を勧めたそうです。
 診察室に入ってくるやいなや、「もっとがんが進行して大変な人もいるでしょうに、自分なんかのために時間をとっていただいてすみません」と古田さんは頭を下げました。
 私は、「とんでもありません。どうぞ遠慮しないで、今日はいろいろと話してください」と言うと、いまの状況について、いくつか質問しました。
 そこでわかったのは、治療が終了したあとも体調が戻らず、家事が十分にできないのを情けないと思っていること。家族に負担をかけて申しわけないと、自分を責めているといったことでした。
 同席した夫の和夫さん(仮名・54歳)によると、「妻はすごく自分に厳しいんです。焦らずにゆっくりやればいいって、私も娘も言っているんですが。以前みたいにきびきびと動けないことが、もどかしいみたいです」とのことでした。
 それに対して恵理さんは、「私は、自分の家がきれいになっていないと、気がすまないんです」と言います。
 「夫や娘の健康のために、きちんと食事を作ることは私の大切な仕事。でも、いまは体がだるくて、床にほこりが落ちていても、掃除機をかけようという気力が湧かない。自分はどうなっちゃったんだろう、そういう自分が情けないんです」と言葉を続けました。

 私はそんな恵理さんに、「ずいぶんといまの自分を責めておられるのですね。けれど、申しわけないというのは、自分に非があるときに使う言葉です」と話し、そのうえでこうお伝えしました。
 「恵理さんはがんになって、手術や抗がん剤治療といった大変な治療を受けてきました。体がまだ本調子に戻らないのも、家事が以前のようにできないのも当然のこと。申しわけないと思う必要はありませんよ」
 それでも恵理さんは「いえ、自分が怠け者だから、ダメなんです」という主張をゆずりません。
 このような場合、いくら私が「あなたはがんばっていますよ」と言っても、相手は「そんなことありません」という返答に終始し、押し問答になってしまいます。恵理さんのように、自分に厳しいまなざしを向ける人の信念は、簡単には揺らぎません。
 こんなとき私は、たとえば次のように、視点を変えることを提案してみます。

清水:悪いたとえですが、もし和夫さんががんになって手術をし、抗がん剤治療を受けたとします。その後、和夫さんの体調が戻らず、十分に仕事ができないことで、「情けない。妻や娘に対して申しわけない」とご自身を責めていたらどうでしょう。恵理さんはどのような言葉をかけると思いますか?
恵理さん:「病気になったのはあなたのせいじゃないから、ゆっくり休んで」と言います。
清水:和夫さんに対しては、やさしい言葉をかけるんですね。同じ状況でも、ご自身のことは情けなく感じ、厳しい言葉を投げかけています。あえて意地悪な聞き方をしますが、どちらかは偽りの言葉なのでしょうか?
恵理さん:どちらもほんとうの自分の気持ちです。
清水:私もそうだと思います。恵理さんは他者にはやさしいのに、自分には病気でもがんばらなければいけないと、厳しい条件を課しているのではないでしょうか。
恵理さん:そう言われれば、そうかもしれません。
清水:なぜ自分のことは厳しく律しようとするのか、もし気持ちのゆとりがあれば次の診察までに考えてみてください。
恵理さん:なかなか難しい宿題ですが、考えてみます。

「want」の自分と「must」の自分

 ふだん意識されないことが多いのですが、人には「want(~がほしい/したい)」と「must(~しなくてはならない)」のふたつの相反する自分が存在します。
 幼いころは、悲しいから泣きたい、甘えたいといった「want」の自分しか存在しません。母親の状況はおかまいなしに、おなかがすけば「ごはんが食べたい」と言い、いやなことは拒否します。そして好奇心の赴くまま、一生懸命に遊びます。「want」のときは感情、感性が優位で、損か得かといった合理的な計算はしません。
 やがて成長するなかで、理性が優位で論理的なもう一人の自分ができてきます。「want」の自分は走り回りたいけれど、「授業中は席についていなければならない」と自分に言い聞かせ、ブレーキをかけるのです。それが「must」の自分です。「must」が強くなると、「弱音を吐いてはいけない」「もっと努力しなくてはいけない」「立派な人間にならなくてはいけない」というふうに、どんどん「want」の自分を抑え込んでしまいます。

 「must」の自分は、親(養育者)からのしつけ、学校教育、他者とのかかわり、所属する組織の規範意識などの影響を受けながら、形作られていきます。そのなかで、もっとも影響が大きいのは親からのしつけでしょう。幼いころ、こころは真っ白なキャンバスのようなもので、そこに最初に描かれるものは、その人が他人や社会を見る価値観の原型となるのです。
 たとえば、子供が友達とけんかをして、泣いて家に帰ってきたとします。そのとき子供のこころの中には、悲しい気持ち、悔しい気持ち、怖い気持ちなどが渦巻いているでしょう。それに対して親が「よしよし。悲しい、悔しいんだね」とその気持ちを認めてくれれば、「want」の自分は肯定され、悲しいときは悲しんでいいというメッセージになります。
 そうではなく、「けんかをして泣くなんて弱虫がすることだ。もっと強くなれ」と言われたら、泣きたい気持ちを抑え込む「must」の自分が生まれるのです。
 「want」と「must」、どちらも自分であり、必要なものです。「want」が優位のときは、やりたいことをやっている感覚、納得感があり、自分の気持ちと行動がおおむね一致した感覚を持てるでしょう。
 一方で、「must」が発動して、「自分の意見は異なるが、ここでは相手のことを立てておこう」とか、「ここは踏んばりどころだな。遊びたい気持ちを抑えて、もうひとがんばりしよう」と自制することが必要なときもあります。

 大切なのはふたつのバランスでしょう。「must」が強すぎて、「want」の自分が疲れきっていても、「怠けてはいけない」「こんな自分で満足してはいけない」と、どんなときも「must」に従って生きるのは苦しいものです。
もちろん、強い「must」の存在には努力する原動力になるという側面もあります。そのため、努力するエネルギーにあふれる人生前半の時期には、「must」が強くてもなんとかやっていけることが多いのです。
 けれど、いくら若くてエネルギーがあっても、努力しても報われない感覚が続けば、燃え尽きてしまい、強い自己否定につながることもあります。才能や魅力にあふれ、華々しく活躍して見える人が自殺すると、「なんでこの人が!?」と周囲は驚きます。けれど、おそらくその人は強い「must」の自分に苦しんでいたのだろうと私は想像します。
 強い「must」に縛られてきた人のエネルギーが衰えたときは人生の転換期です。人生の後半になって心身の衰えを感じはじめたときなど、こころは悲鳴をあげます。これがいわゆる「ミドルエイジ・クライシス」というものであり、その後の人生を豊かなものにするには、強い「must」を手放す必要があります。古田さんのように病気と向き合うことによって、変化が必要となることもあります。

「must」が自己肯定感を下げる

 このところ、さまざまな場面で見聞きする機会が増えた言葉のひとつに「自己肯定感」があります。自己肯定感にも、大いに「want」と「must」が関連します。みなさんは、自己肯定感が高いと聞くと、どんな人を想像するでしょうか。
 自信満々に見える、収入が多い、友人が多くて社交的、周囲に必要とされる……さまざまなイメージが浮かぶでしょう。実際には、いまあげたような要素は、自己肯定感と関係することはありますが、本質的なところではありません。
 一見、自信満々な人が虚勢を張っていることもありますし、すべてを兼ね備えて完璧に見えていても、「自分はダメ人間」と思い込み、もがき苦しんでいる人もいます。

 本質的に自己肯定感が高い人とは、「どんなときでも、自分は自分でいい」と思える人です。
 自己肯定感が低い人の潜在意識に共通するのは、強い「must」です。普通ではけっして到達できないような強い「must」の基準を持つ完璧主義者は、どんなにがんばって成長しても、「まだまだこんな程度ではダメだ」と、自分を許すことができません。
 そこまで完璧主義ではなくても、状況によって自己否定に陥る場合もあります。古田さんの例では、健康なときは自分に課した「must」の基準(家事をきちんとこなす)を満たすことができたので、自分を肯定できていました。ところが、病気によって基準をクリアできなくなり、自分を許せなくなったのです。

「毒親」と自己肯定感

 なかなか自己肯定できないことはとても生きづらいことです。その背景には「must」の強い存在があり、「must」ができあがるプロセスの多くには、親のしつけが関与しています。たとえば、「一流の学校を出なければダメだ」という親の価値観を引きずり、「学歴がない自分はダメだ」という自己否定と長く(ときに一生)闘うことを余儀なくされる人もいるわけです。
 では、自己肯定感が低いことは親の責任なのか? という疑問が生じますが、これについてはさまざまな見方ができます。過干渉な親を「毒親」と表現することがありますが、その表現には賛否両論の反応があることからも、多様な意見があることが見てとれます。

 ひとつは、自分の在り方を省みるための視点という意見です。強い親の支配に苦しんでいる人にとっては、支配者に「毒親」という強烈にネガティブな言葉のラベルを貼ることで、親と自分を切り離し、自由になれるという側面があるかもしれません。
 一方で、「毒親」とラベリングすると「自分は悪くない」との免罪符を得ることになり、「こうなったのは親のせいだからしょうがない」と、自分の在り方を省みないという意見もあるようです。
 また、親の立場からすれば、「子供のことを一生懸命考えて行ったこと」であり、行動の背景にはひと昔前の価値観や、親の親(祖父母)からのしつけの影響もあるわけです。自己否定は世代間で連鎖するという事実はよく知られています。
 よかれと思って過干渉を繰り返している親を一方的に「毒親」と言うのは酷であり、先祖代々「毒親的な行動」は受け継がれてきたという意見もあるでしょう。
 さらに、過干渉の程度によっても、「毒親」に対して感じる意味合いは変わってきます。報道されるような虐待者は、「毒親」を超えて犯罪者と言えるかもしれません。一方で、子供の被害感情が強くて親を「毒親」とラベリングしているように感じるときは、子供の意見に反発したい気持ちが生まれます。
 このような多くの視点があるので、私は自己肯定感が低いことの苦しみは、「毒親」によるものだと、単純化して言うつもりはありません。ただ、自己肯定感が低いことによる苦しみの多くは親との関係に端を発していることは確かですし、その人が自分の親を「毒親」だと思わざるをえない気持ちを否定するつもりもありません。

 私自身も自己肯定感の低さに苦しむ経験をしてきました。両親は「おまえは詰めが甘い、努力が足りない」と厳しい言葉を投げかけてきて、自分に自信が持てませんでした。高校生のころは周囲の評価ばかりを気にして、自分自身を見失っていました。
 一時期は両親の育て方に怒りが湧き、かなり反発していましたが、いまは文句を言う気持ちはなくなりました。終戦前後に生まれた両親にはやむを得ない事情があったと理解でき、また育ててもらったことに感謝もしています。
 私個人の考えですが、親の心理的支配と闘っている最中には、ときに「毒親」のような劇薬と思える見方も必要なことがあるでしょう。そして闘いののち、支配から離れることができたら、親と真に対等な関係を築けるのです。そのときには「毒親」のような言葉は必要がなく、むしろ違和感を持つでしょう。
 もちろん、「あなたと親の関係など、私の悲惨な経験からすれば甘いものだ。だからそんなことが言えるのだ」と思う方もたくさんいるでしょう。親という存在に感じることは人それぞれですが、私の体験からはそう感じます。

 次回では、「must」から自由になる方法についてお話ししていきましょう。


第12回を読む 第14回に続く

清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。

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