チャーハンを通して26年ぶりに父と和解した(元カリスマホスト、タレント・城咲仁) 【前編】
「しっとりチャーハンの聖地」と呼ばれ、全国から客が行列する、東京・板橋区の町中華「丸鶴」。連載の6、7回で登場した、店主・岡山実さんのひとり息子は、元カリスマホストで、タレントの城咲仁さん(46)だ。店の後継をめぐって、長年わだかまりのあった親子が、チャーハンを通して和解のときを得たという。
■18歳で「店は継げない」と家を飛び出した
──連載の6、7回で丸鶴の店主・岡山実さん(77)にお話を伺いました。多くの町中華同様、丸鶴も跡継ぎの問題を抱えていましたが、城咲さんは子どもの立場として、どんな思いや考えを抱いてきましたか。
僕は、ひとりっ子で、親父が店を継がせたがっているのはわかっていました。でも、継げないと思っていた。
それで、高校を卒業したとき親父にむりやり店の修行をさせられて、家を飛び出しました。「俺の人生はこれじゃない」と置き手紙をして。それから、しばらく絶縁状態になりました。
──継げないと思った理由は?
親父はひと言でいえば、お客さまファーストの「モーレツ仕事人間」。お袋も一緒に働いていたので、僕はひとりっ子の「鍵っ子」でした。
学校から帰ると、家の電気をつけて、冬は暖房を入れ、夜7時になると丸鶴にご飯を食べに行って、帰ってきて風呂を沸かし、翌日の準備をして寝る。
風邪を引いても、自分でおかゆを作って寝ているような小学生でした。お袋が大変なのもわかっていたので、「大丈夫、大丈夫」って言って。
習い事の空手の道着のアイロンがけも自分でしていましたよ。
学校の話を親にできるのは、定休日の日曜の夕飯どきだけ。もちろん平日の学校行事には来られないし、平日の遠足に親戚が来たときもありました。
僕自身はそれを当たり前だと思っていたし、両親には愛情を注がれて育ったので構わない。でも、自分が将来、結婚して家庭を持ったときには、子どもには同じことをさせたくない、と思っていました。それが、理由の一つです。
──もう一つの理由は?
僕が高校生のころ、飲食店はバブル崩壊後の厳しい状況にありました。丸鶴からも客足が遠のき、毎朝、親父は大量の仕込みをするのですが、それを捨てないといけない。その情景を見るのはツラかった……。
親父の料理は変わらずおいしいし、手抜きも一切していない。それなのに、なぜお客さんが来ないのか。不思議でした。
本人の実力や努力以外の要素に影響される、飲食店の厳しさを肌で感じてきたことも大きいです。コロナでも名店がつぶれたり、いまだ立ち直れない店も少なくないですよね……。
──では、家を飛び出した後、親の思いを知りつつ葛藤を抱えていた?
それはなかったですね。僕の意思は固かったので。
だれか別の人が継げばいい。親父はそんなに店を継がせたいなら、だれか他の人を見つけてくればいいと思っていました。
■「親父の味」を残したい
──そんな城咲さんに、丸鶴に対する心境の変化が訪れたきっかけは何ですか?
ここ何年か、丸鶴がバズっていて、チャーハンを求めて全国からお客さんが来て、開店前から行列ができています。親父は親父で、あの年にして、「自分の味」を残したいと必死であがいている。それを見たときに「どうにかならないかな」と心が動かされました。
それで、飲食をやっている大手の方や社長さんとかに相談したり、親父に「どこかに入ってもらわないか」って言ってみたりもしました。でも、親父の仕事ぶりを見せると「無理、無理」となってしまう。
仕事量が半端ないし、朝6時前から大量の仕込みを同時並行で、猛スピードでこなしていて。それは親父にしかできないんですよ。
それで、「親父の味」を冷凍して通信販売する方法を考えました。
──昨年(2022年)、立ち上げた、丸鶴魂の「冷凍チャーハン」ですね。最初、話を持ちかけたとき、父・岡山さんの反応はどうでしたか?
「おまえにチャーハンの作り方だけ教えて、粗悪品を出されても困る」と言われました。「おまえが、工場やメーカーの方としゃべったときに馬鹿にされないよう、仕事を全部覚えなさい。そうしたら許可する」と。
そんなわけで、店に40日間修行に入ることになりました。昨年の3月のことです。
■26年ぶりの弟子入り。「当たり前の会話」を重ねて
──18歳のときに家を飛び出し、26年の時を経て、再び店に修行に入ったわけですね。いかがでしたか?
親父と二人っきりになるなんて何十年ぶりかで、最初は小っ恥ずかしかった(笑)。一対一でじっくり向き合うこと自体、ほとんどなかったですからね。親父は、子どものころすごく怖かったし。10代はバチバチだったんで。
──どう変わっていったんですか?
いざ、始めると夢中になっちゃって。
「親父、ちょっとこれどう思う?」「おまえ、その切り方は粗いよ」「どうやんの? ちょっと教えてよ」「しょうがねえな」って……なんてことのない、当たり前の会話を交わしているうちに、親父との間に通い合うものが生まれた。
朝の仕込みは6時前から始まるのですが、なるべく早く起きて、親父より先に店に入って火をつけて、一つでも二つでも済ませておくようにしました。
「ここまで終わらせておきました」って言うと、親父がニコッとするんですよ。親父に余裕ができれば、その分、教えてもらえることはもっと増えるでしょ。
僕は同じやり方を、実はホストのときにもしていました。だれよりも早く店に出て、先輩のいいところを盗むんです。これって、考えてみたら、子どものとき丸鶴で、親父や従業員とのやりとりを見て学んだことなんですよね。幼少期を過ごした丸鶴が「学びの場」になっていた。
■「しっとりチャーハン」はパラパラより難しい
────修行の様子はYouTube「丸鶴炒飯冷凍食品化計画」にアップされ、城咲さんは「しっとりチャーハンは、パラパラチャーハンより難しい」と話していました。
パラパラは簡単ですよ。ご飯を中華料理店の火力でほうっておいたら、あっという間にパラパラになっちゃう。でも、しっとりチャーハンはご飯の水分を残さないといけないから難しい。しっとりしていながら、かつ、ご飯がほどけるように仕上げないといけない。
そのためには、短時間で手早く炒めることが大事です。ご飯も若干硬めに炊きます。
──ポイントは「鍋振り」ですか?
「鍋振り」より「おたま使い」ですね。チャーハンというと、鍋振りのイメージが強いですが。
親父を見ていると、鍋はそんなに振っていない。「あんまり煽るな」とも言われました。煽ると空気が入るので、水分が飛んじゃうんです。
──「おたま使い」とは?
パラパラチャーハンの店って、けっこう高い金属音がカンカンカンカンしていると思いませんか? 親父の音は違う。おたまの腹と横の部分を使っていて、上の角の尖っているところを使わないからです。
それは、米を傷つけないためです。米がつぶれると、粘りが出たり、ふっくらしなくなる。
それで、おたまで「8の字」を描くようにして、ご飯をほぐすんです。でも、これが実はキツい。手が動かなくなりますよ。
■わだかまりが消え、心の通う「温かさ」
──40日間の修行を通して、親子の関係は変わりましたか?
親父は、妻(タレント・加島ちかえさん)に、僕の様子を嬉しそうにずっとしゃべっていたときがあったようです。「あいつの包丁使いはまだまだ。でも、だいぶうまくなってきたよ」って。僕には、そんなこと、ひと言もいわないで。「見たことのない笑顔だった」と妻は話してくれました。
修行期間中、妻も店を手伝ってくれ、サポートしてくれました。妻は「他人行儀だった、僕と親父の会話が変わった」と言います。
さらに、「僕自身も変わった」。しゃべり方に大らかさが加わったとも。
40代半ばで結婚して、家庭を持ち、人生の折り返し地点の、このタイミングで父のもとに修行に入り、和解し、絆も深まった──。かけがえのない時間を得られたことの有り難みをかみしめています。僕が、人生の次のステージに上がっていくために必要な時間だったんだと思います。
そして、僕が得られたものを社会に還元する、新たにやりたいことも出てきました。
後編に続きます。
城咲さんは21歳でホストになり、「1億円ホスト」と呼ばれるようになります。この頃は、どんなチャーハンを食べていたのでしょう? 3歳から包丁を握っていたという「料理のキャリア」と、父のもとでの修行を経て得た「新たな思い」を聞きます。
←第7回(丸鶴・岡山実さん後編)を読む
第9回(城咲仁さん後編)に続く→
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◆プロフィール
元カリスマホスト・タレント 城咲仁
1977年、東京生まれ。21歳で新宿・歌舞伎町の老舗ホストクラブでホストになり、5年間No.1ホストをつとめ、「1億円ホスト」の異名を持つ。2005年、タレントに転身。バラエティ番組などで活躍し、テレビ通販では1日2億円売り上げるトップセールスに。21年、タレントの加島ちかえさんと結婚。22年、実家の町中華「丸鶴」の味を伝える、「丸鶴魂」を立ち上げ、冷凍チャーハンの通信販売をスタートし一周年を迎えた。
取材・文:石田かおる
記者。2022年3月、週刊誌AERAを卒業しフリー。2018年、「きょうの料理」60年間のチャーハンの作り方の変遷を分析した記事執筆をきっかけに、チャーハンの摩訶不思議な世界にとらわれ、現在、チャーハンの歴史をリサーチ中。
題字・イラスト:植田まほ子