1億円ホスト時代、「チャーハンを食べて自分を取り戻していた」(タレント・城咲仁) 【後編】
町中華「丸鶴」の後継をめぐり18歳のとき父と対立し、26年を経て和解した城咲仁さん(46/前編)。後編では、「1億円ホスト」時代、どんなチャーハンを食べていたのか。3歳から包丁を握っていたという「料理家」としてのキャリア。そして父のもとで修行し、「父の味」を伝える冷凍チャーハンの商品化を進めるなか得た、新たな「思い」などを聞きました。
■悔しいことがあると、親父のチャーハンかカツ丼を食べていた
──実家の町中華「丸鶴」は「しっとりチャーハンの聖地」と呼ばれ、行列のできる人気店ですが、子どものころからチャーハンは食べていたんですか?
食べてましたね。でも、そのころの丸鶴のチャーハンは、今のとは違って、ナルトやチャーシュー、卵の入った「ザ・町中華」という感じのものでした。
学校でいやなことがあったり、空手の試合で負けて悔しかったりすると、親父の作るチャーハンかカツ丼を食べていました。ホストでナンバーワンになった後も、うまくいかないことや、心を落ち着かせて考えたいことがあると食べに帰っていました。
何億というお金を動かしていても、「俺はこの板橋の町の中華料理屋の息子で、一杯300円のラーメンで育てられてきたんじゃないか」って、自分を取り戻していました。
■「1億円ホスト」そして「テレビショッピングのトップセールス」に
──18歳のとき、店の後継問題でもめて家を飛び出し、その後、どういう経緯でホストになったんですか?
僕は家を出た後、なりたかったバーテンダーの仕事に就き、3店目でチーフバーテンダーになりました。
そんなときに、仲の良かったバンド仲間が自死したんです。直前に、僕のバーに来て、様子が少しおかしかったので、「俺んち、来い」って言ったのですが、「いい」って帰っていきました。
すごくショックを受けて、何もできなくなってしまいました。金もなくなり、実家に帰って、酒浸りの日々を半年ほど送っていたのですが、ある日、親父に言われたんです。「腐ったな」って。
家を飛び出してから何年も口をきいていなかった親父に言われて、目が覚めました。友人の分まで頑張って生きるんだ、と思っていたのに、俺、何しているんだろうって。
そのとき、20歳のころ人に連れていってもらった、新宿・歌舞伎町の老舗ホストクラブ「クラブ愛」を思い出し、ホストの方に会いに行くことにしました。
「クラブ愛」を知る前は、僕の中のホストのイメージは、正直、良くなかった。チャラチャラした感じで。ところが、「クラブ愛」は違った。僕みたいな若造にもきちっとプロの接客をしてくれたのが印象的でした。
店を訪ねると、その日はてんやわんやの忙しさで、手伝うことになって。そのまま働くことになりました。
──21歳でホストになり、歌舞伎町のナンバーワン・ホストになって、年収「1億円ホスト」の異名も持ちました。その後、27歳でタレントに転身し、現在はテレビショッピングで1日2億円売り上げる、トップセールスにも。
テレビショッピングは15年近くやっていて、商品開発から関わっているんです。渡されたセリフをただしゃべるみたいなのはいやなので。
僕は、自分が納得していない言葉はしゃべれない質なんです。だからこそ、信頼を得てファンもついてくれました。
ダイエットインストラクター、スーパーフードマイスター、薬膳インストラクターなどの資格も勉強してとりましたよ。
■3歳で包丁を握り、「世界の料理ショー」に憧れた
──一方、料理番組に出演したり、レシピ本を出したり、妻のために作った手料理のインスタ写真が「超ハイレベル」と話題を呼んだり。「料理家」としての顔もお持ちですよね。
前編でお話ししたように、親父との間で店の後継をめぐるもめ事はありましたけれど、料理自体は子どものときから好きでした。3歳のときから包丁は握っていました。
お袋の実家は徳島の田舎で、新鮮な野菜がよく送られてきてたんです。料理番組で見て、きゅうりの板ずりを見よう見まねでしたり、もろみ味噌が好きだったんでもろきゅうを食べたり、きゅうりをおやつによく食べてましたね。
子どものころの丸鶴は、メニューがいまの4倍くらいあって。中華以外に、生姜焼きやオムライス、カツ丼などもありました。親父は割烹料理屋もやっていたときがあったので、おいしい刺身も食べられ、恵まれた環境で味覚が育まれました。
あと、高校の3年間、イタ飯屋の厨房でバイトもしてました。親父は「中華料理屋の息子が、イタ飯屋なんて」ってぶち切れていましたけれど。やめるときには正社員にならないかと誘われましたよ。
──憧れの料理家とか、いましたか?
グラハム・カーですね。『世界の料理ショー』の。保育園から帰るとテレビで夢中で見ていました。小学生のときには近所の女の子たちを集めて、クレープを焼いて、グラハム・カーのまねをしながらふるまっていました(笑)。
■仕込みに「魂」をこめる
──これだけの料理の腕とキャリアを持つ城咲さんですが、前編でお話をいただいた、丸鶴のチャーハンの冷凍化プロジェクトでの、実家のチャーハン修行では最初苦戦していました。何が難しかったんですか?
一つは、包丁使いですね。あんな大量のチャーシューを切ることは普通ないですよ(笑)。チャーシューって滑るんです。毎朝、45㎏切り、腱鞘炎になりました。
あと、前編でも話した、親父の作り上げた大量の仕込みを同時並行で進めるオペレシーションですね。朝、スープを作りながら、チャーシューを茹でながら、野菜を洗いながら、米を18升(180合)とぎながら、チャーシューも切ってという。これが一番難しかった。
親父の作り上げたオペレーションは、冷凍化でも難題になり、工場の方に「メーカー品のラーメンじょうゆを使わないんですか?」と聞かれました。
親父が既製品を使わないのは、「仕込みこそ料理人の命」という考えが強いのと、買うと原価が上がっちゃうからです。
親父は「おまえ、いまいくら物価が高いっていったって、チャーハンは庶民の食べものだよ。1000円を超えるチャーハンなんて出せないよ。いくらチャーシューやエビをゴロゴロ入れようが」って常々言っています。
自分が寝る間を惜しんで手をかければ、価格が抑えられる。その分、お客さんに還元できる、というのが親父の考え。
「お客さんの時間」についても、こんなことを言っていました。
「俺が、従業員が昼間だらだらしていると怒るのは、サラリーマンの昼休みは1時間。ご飯を食べて、休憩もしたいし、タバコも吸いたいし、コーヒーも飲みたい。その人たちのことを考えて仕事しなさいってこと」
そんな考えから、昼にサービスでアイスコーヒーもつけるようになったようです。お袋はドリップで作るので大変なんですけど。
でも、それが親父のイズムであり、丸鶴魂なんです。
■町中華の「温かさ」を伝えていきたい
──丸鶴での修行期間を経て、父・岡山さんとのわだかまりも消え、新たにやりたいことが出てきたと、前編で話していました。
修行の時間を通して、父と和解し、「温かいもの」が得られました。町中華がここ数年人気なのも、肩の凝らない「温かさ」があり、気安さから会話もはずむ。そうした「食卓」が求められているからではないかと思います。
僕が親父との修行を通して得たものを社会に還元したくて、東京都と組んだ「町中華フェス」を来秋開催予定で計画しています。孤食など子どもの食をめぐる状況が問題になっていますが、「世界の食卓はつながっている」をテーマに、売り上げは子ども食堂などに寄付したいと考えています。
僕は億単位のお金を動かしてもきましたが、大事なのはむしろそうした「温かさ」ではないか。妻とも温かい家庭を築いていきたいし、より広くそうした家庭が増えていくことを「丸鶴魂」を通して実現していきたいです。
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◆プロフィール
元カリスマホスト・タレント 城咲仁
1977年、東京生まれ。21歳で新宿・歌舞伎町の老舗ホストクラブでホストになり、5年間No.1ホストをつとめ、「1億円ホスト」の異名を持つ。2005年、タレントに転身。バラエティ番組などで活躍し、テレビ通販では1日2億円売り上げるトップセールスに。21年、タレントの加島ちかえさんと結婚。22年、実家の町中華「丸鶴」の味を伝える、「丸鶴魂」を立ち上げ、冷凍チャーハンの通信販売をスタートし一周年を迎えた。
取材・文:石田かおる
記者。2022年3月、週刊誌AERAを卒業しフリー。2018年、「きょうの料理」60年間のチャーハンの作り方の変遷を分析した記事執筆をきっかけに、チャーハンの摩訶不思議な世界にとらわれ、現在、チャーハンの歴史をリサーチ中。
題字・イラスト:植田まほ子