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しっとりチャーハンの聖地「10歳から中華の道に」(「丸鶴」店主・岡山実)【前編】

チャーハンの枕詞になっている「パラパラ」。ところが、その逆をいく「しっとり」で、全国から人が集まり行列する町中華があります。創業57年の、東京・板橋区の「丸鶴」。10歳でこの道に入ったという、店主の岡山実さん(76)の歩みは戦後の町中華の歴史そのもの。時代とともにチャーハンはどのように変わってきたのか。なぜ全国から人が行列するのか、前後半の2回にわたってお届けします。


10歳で「中華の道」へ。15歳で店長に

10歳で「中華の道」に入る

終戦の翌年、1946年に、ここ東京・板橋区の大山で生まれ育ちました。10人きょうだいの5番目。だから、いても、いなくてもわからない。

小僧のときからチャーハンは好きでしたね。というのも、うちは天ぷら屋で。当時はかまどでご飯を炊いていたから、家の食事はいつも、店で使えず残るげご飯。これにしょう油をかけて、おにぎりにして。焦げご飯も、たまに食べたりとか炊きたてはおいしいんですよ。だけど、これが毎日となったらたまんない。

小学2年の終わりに、親父の天ぷら屋がつぶれて。小学5年のときに家の3軒隣にあった中華料理店で働き始めました。最初は出前下げの手伝いでしたが、6年のときにはもう厨房で鍋を振ってました。

初めて食べたチャーハンは、だから、店の厨房で自分で作りました。豚肉は高かったから、ハムを使ったんじゃないかな。ご飯に味はついているし、具も入っているし、こんなウマいもんないと思ったね。

──15歳で店長になります。

店に、九州出身の腕のいい職人さんがいて。麺も餃子やワンタンの皮も全部自分で作っていた。この人が私のお師匠さん。

このお師匠さんに引っ張られて、区内の別の店に移ったんだけれど、お師匠さんが、ある日、突然姿をくらましちゃった。そのうち、地元・大山の大和軒の旦那から「店を手伝ってくれないか」って誘われて。それで中学1年の終わりごろ店を移って、15歳で店長になりました。

──そのころの写真が店に貼ってありますね。

ところが、行方不明だったお師匠さんが、また突然、目の前に現れて。「明日の朝、ここに立っていろ」って言うんで、朝早くに寝間着姿で立っていると、そのまんま群馬に連れて行かれちゃった。お師匠さんが店長の店にね。

しかし、1カ月もしないうちにお師匠さんはまた東京に帰っちゃって、「おまえが店長をやれ」って。だけど、従業員は30歳前後。10歳以上も年の離れた、子どもみたいなやつに使われるのが面白くないわけ。色んな嫌がらせを受けましたよ。1年半くらい辛抱していましたけれど、このままい続けたらエライことになると思いました。

半世紀以上、中華鍋を振ってきた(撮影・編集部、以下同)

──それで、東京に帰ったんですね。

肉の勉強をしたいと思って、池袋の肉の卸問屋で働くことにしました。従業員は100人くらいいましたね。牛や豚のさばき方からハムやソーセージの加工の仕方まで、1年もしないで覚えてしまいました。そこで得た知識や経験が、丸鶴のチャーシュー作りに生かされています。

それで、そのころ、後につけ麺で知られるようになる、東池袋の大勝軒の山岸一雄氏と知り合って。頼まれて、山岸氏の店や、経堂にあった知り合いの店などを手伝ったりしました。どっちの店も、そのころは暇で、「どうにかしてくれ」と。

私がまず取りかかったのは、メニュー表作り。それを近くの郵便局や役所、病院などにばーっと配った。で、言ったのは「出前用のオートバイを買いなさい」と。ラーメンを運ぶのに、自転車だと最高10個しか運べないけれど、オートバイだったら30個運べる。私は中学を卒業して間もなく免許を取っていたからね。さばける量が全然違う。

経堂の知り合いの店は半月くらいで出前の電話がどんどん入るようになったし、山岸氏の店の売り上げも6~7倍にしましたよ。

19歳で「丸鶴」創業。ラーメン80円の時代

19歳で現在の場所に「丸鶴」を創業

──19歳のときに地元・大山に戻り「丸鶴」を創業します。どういう経緯だったのでしょう?

姉の旦那が、大山で中華料理店をやっていて、「おまえは使われる人間でない。使う側になるべき人間だ」って。で、「関東マツダさんの隣にいい物件がある」ということで、今の場所に「丸鶴」を開店しました。1966年の秋です。

──開店資金はあったんですか?

私は10歳から働き始めたでしょ。初めての給料は1800円だった。それを毎月、500円とか1000円とか地元の信用金庫に積み立てていたんです。店を開くとなったときに、「店、持つんだって? 金、あるのか?」って信用金庫の店長さんに言われて、「ないです」と答えたら、「なんぼいる?」って。200万円貸してくれました。ラーメンが一杯80円の時代です。3年で完済しましたけどね。

──当時はどのようなメニュー構成だったんですか?

ラーメンがあって、150円の定食があって、チャーハンは100円か120円くらいだったんじゃないかな。酢豚や八宝菜といった中華だけでなく、ハンバーグ、カツライス、チキンカツカレー……色々作りましたよ。

──チャーハンをメニューに入れたのは?

ナルトは、蕎麦屋は輪切りで、中華料理店は斜め切りなのは、どうしてだかわかりますか? 蕎麦屋はナルトの端っこを残すことができないけれど、中華はチャーハンに使えるからです。長ネギの青い部分も、蕎麦屋では使えないけれど、中華はスープに入れられる。

昔はラーメンがいっぱい売れて、そうするとチャーシューの両端がいっぱい余るでしょ。チャーハンがメニューにあれば、それを使える。中華は材料の無駄が出ないんですよ。

おいしいチャーハンを作ろうと思ったら「しっとり」になった

一番人気の「チャーシューチャーハン」

──チャーハンは最初から「しっとり」だったのですか?

初めから「しっとり」です。丸鶴のチャーハンが、パラパラに対する反逆みたいなかたちで紹介されることも多いけれど、私自身はパラパラとかしっとりとかのこだわりはない。

私が仕事を始めた昭和30年代前半(1950年代中ごろ)は、炊飯ジャーはないし、冷蔵庫も氷を入れたようなもので、湯沸かし器もなかった。炊いて残ったご飯を店はどうするか? アルミのケースにふきんをかぶせて置いておくんです。そうすると翌日には硬くなるので、炒めたら、否が応でもパラパラになる。

ご飯は、炊きたてと前日の残りとでは、どっちがおいしいと思いますか? 当然、炊きたてでしょう。ご飯に「甘み」がある。だから、私は炊きたてのご飯を使うことにし、結果的に「しっとり」になった。

そして、もう一つこだわったのが、使い回しでないフレッシュなラードを使うこと。そうすると、ラードの「甘み」も加わります。

──炊きたてを使うことで、炒める時間も短くなりますね。

長時間炒めないから、塩の「甘み」もとばない。「ご飯」「ラード」「塩」の3つの「甘み」が三位一体。それが丸鶴のチャーハンのおいしさの土台にあります。

──創業時から今と同じチャーハンを出していたんですか?

いまは5種類あるけれど、開店当初は1種類。卵とナルト、チャーシューの入ったチャーハンです。定食や麺類があるなか、売り上げ比率でいったらチャーハンは3割くらいだった。それが今は、9割。昼だけで200食出ます。

──いまやチャーハンを求めて、全国から人が集まり行列ができます。それほどの人気になった「鍵」は何でしょうか。

一つは、「チャーシュー」でしょうね。いまのチャーシューになるまで、20年近く改良を重ねてきました。きっかけは、お客さんがラーメンに残したチャーシューを食べたことです。もっとおいしくするにはどうしたらいいか、試行錯誤を重ねました。

仕込みの様子。チャーハンは昼だけで200食出る

後編に続きます。
20年かけたチャーシューの改良や、独創性を発揮したチャーハンの開発秘話。町中華が直面する後継者の問題や、今後の夢などについて語ってもらいました。

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第7回(丸鶴・岡山実さん後編)に続く→

◆連載のバックナンバーはこちら

◆プロフィール
中華「丸鶴」店主 岡山実

1946年、東京生まれ。10歳で中華の道に入り、19歳で板橋区大山に「丸鶴」を創業。「しっとりチャーハン」が人気で、全国から人が集まる行列店に。息子は、タレントで元カリスマホストの城咲仁。丸鶴の冷凍チャーハンを企画した。

取材・文:石田かおる
記者。2022年3月、週刊誌AERAを卒業しフリー。2018年、「きょうの料理」60年間のチャーハンの作り方の変遷を分析した記事執筆をきっかけに、チャーハンの摩訶不思議な世界にとらわれ、現在、チャーハンの歴史をリサーチ中。

題字・イラスト:植田まほ子

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