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「愛と性と存在のはなし」第7回 〔最も深い苦悩を語るということ〕 赤坂真理

※連載第1回から読む方はこちら

 「あなたの秘密を書いてください」

 そう言われたら、あなたは何を書くだろうか。
 正直になれるだろうか? 目の前の人に。
 いや、
 正直になれるだろうか? ほかならぬ自分に。
 自分のために。
 
 そういう課題を、2019年度、教えていた大学生の創作の課題に出した。
 何年か創作の教師をして、創造性には、この課題がいちばんよかった。いちばん変容が起きた。いろいろな課題を出したけれど、いちばん厄介なのは、才能の欠如でもテクニックの欠如でもなく、読書量や書く量が少ないことでもない。自分に、鍵をかけた部分があることなのだ。出せない部分がある。わたし自身を思ってみてもそうだ。できないわけでもないのに、やらないことがある。それを閉ざしているだけで、他の多くのことが表現できない。しかし、外から見ると、そここそがその人のいちばん美しいところなのだ。そのことも自分はわかっている。しかし、自分に限って、それを出したらみんなが引いていくのではないかと思っている。自分は死んでしまうのではないかと思っている。ここは、一人では開けられないところで、誰かの助けが要るのだと思っていた。わたしがその課題を出したのは、自分自身を救うためだったかもしれない。

 そしてこの課題を出すのに、特別な秘訣があるわけではなかった。指導法があるわけではない。ノウハウがあるわけではない。「人」がいるだけだ。目の前の人を、よく見るだけだ。わたしはいつも、書かれた作品より、その「人」に興味があった。そして、その人と作品の間にあるもの。何が出ているかではなく、何が出ていないか、に。いや、秘訣は、たったひとつだけ、あるとわたしは思っていた。自分が、正直であること。どんなことがあっても同じ現場で、そばにいるのだと、態度で見せること。わたしも、彼も彼女も、どうか正直になれますように、自分を偽りませんようにと、それは、祈るような行為だった。学生が心を開けるように、わたしも同じ課題で一緒に書いた。いや、わたしは、自分を救うためにこそ、自分にその課題を課したのかもしれない。学生はわたしを助けてくれた。

 なぜそんな話から始めるのかというと、ひとつには、それをしたからわたしはこの連載を始められて、続けることができているから。
 もうひとつには、人が、最初で最後に秘密を持つのは、自らの愛と性においてだという気がするから。

「あなたは安全に狂う必要があります」

 2月末から、3月の初旬にかけて、わたしはインドの田舎町に、瞑想リトリートに行っていた。インドに行くのは初めてだった。コロナウィルスの影響で日本からのインド入国ヴィザが発給停止になる前に行き、インド政府が旅行者を含むすべての人の出国はおろか外出さえも禁じる前に日本に帰ってきた。二週間くらい、本当にぽかんとあいた、エアポケットのような時空にいた。その間のことだった。これは、そこで私が経験したことである。                         

 それは、面白い瞑想体系で、ただ静かに座るのではない。瞑想が生まれた時代は、人は肉体労働に従事していたので、一日の終りにただ座ればすぐ頭が静かになったが、現代人は頭ばかりを偏って使っている。そのために、座ってもすぐに頭が静かにはならないか、またはぜんぜん、静かにはならない、どちらかだという。それは本当だろうとわたしは思う。
 わたしは瞑想と呼ばれるものをわりとやってきた気がするが、ただ頭がぐるぐるしてお話のループに入り込み、そこから抜けられなくて死にたくさえなっていた、ということがあった。面白いことに、人は、お話のために、死んでしまうのだ。人は、お話に絶望できる。それはお話なのだが、それにこそ、絶望できる。でなければ、絶望ということは起きない。どんな状況も、それはただそうであるだけで、それと絶望とはちがう。こう言うとあんまりかもしれないが、突き詰めるとそうだというのが、経験者のわたしの実感である。恨みや、後悔や、無価値感、そういうものは、全部、お話なのだ。お話のために死んでしまえる、それが人類の特徴であるのではないかとすら思う。だけれど、それは本当につらい。神経系も総動員されて、本当にリアルに体験される。
 
 わたしはさんざん希死念慮を持ってきたが、本当に死にかけたとき、身体はけなげで何があっても生きようとする。死にたいと思っている身体はない。そして、ばかげているのだが、それでも、ほとぼりがさめると、やはり死にたいという考えからは抜けられなかった。死にたかったし、暴力衝動がすごかった。わたしが失敗したなら、みな破滅してしまえと思っていた。そんなとき、数年前、人の紹介からアクティブな瞑想に出逢った。言われたのだ、「あなたは安全に狂う必要があります」。

 笑えたが、必死だった。OSHOというマスターがいて、めちゃくちゃに踊りまくってから座ったり、面白い瞑想法がたくさん考えられているのを知った。まずは21日間とシャンプーの宣伝のように言われ、早朝に部活のように通った。よしんば何も起こらないとしても、踊るだけで解放は起きるし、楽しいものだ。どの人も好きに踊るので、誰も恥ずかしく思ったりしない。たまに人をチラ見して、おーあんな踊り方があったかと感心して、まねてみたり。そのかたわらで固まってる人もいる。それはそれでよい。美しいなあと思ってしまう。これがわたしの性に合った。友だちもできた。頭がうるさい人、身体に不自由がある人、感情コントロールが効かない人、など、どんなタイプの人でもどんなトラブルを持つ人でも、瞑想に入れるようにいろいろな入り口が用意されているのも魅力だった。崇めはしないが、OSHOという神秘家が天才であるとだけは、少なくとも思う。

最も深い苦悩を語るということ

 瞑想リトリートの一日目は、そんなふうに踊りまくったりして過ごして、楽しくなごやかだった。日本人と、現地のインド人とがいた。男女比は半々くらいだった。インド人は、二人を除いてみな男性だった。日本人は、二人を除いてみな女性だった。ポーランドからの白人女性が一人いた。
 二日目に、二人組になっての問いのワークがあった。
 問いが出される。

 「あなたの、最も深い苦悩と、いちばんのエクスタシーについて、話してください」

 この問いに、かわりばんこに答えるのだ。
 あの問いと、同じだ。わたしが出した、あの問い。
 わたしは身構えた。知っているからこそ。
 これは本当に正直にならなければ意味のない局面だと、知っているからこそ。
 人は、お話で死んでしまえる。
 本当に。
 しかしそれは、裏を返せば、人は、お話で助かることがある。そういうことだ。  
 そこに人の希望もある。
 でも本当に本当に、正直でなければならない。借りてきた話をしてはならない。推奨されている文法にあてはめてはいけない。それでは変容は起きない。たとえば、「多様性を認めなければいけない」とか、「ポジティブでいることが大事」とか。何を言う自由も認める。ごまかさずに、人を恨んでいるなら恨んでいると。殺したいなら殺したいと。まとめる必要もない。「だけど根はいい人なんです」とか。
 どんな話も聞いてもらえる。安全に。
 それは、どんな話も受け止める、ということでもある。

 わたしが組んだのは、背の高い、まじめそうで、物腰のやわらかな、インド人の男性だった。風をまとったようなゆったりしたローブを着ていた。年齢は、60くらいか60代前半ではないかと思う。やさしそうな、感じのいい人だった。お互い英語で話せることは知っていた。かなり深く、細かいことまで言える英語の力が互いにあるのも知っていた。ダイニングかどこかで話したから。彼の英語は、音声的にはインド訛りで、「ヒー・イジュ(he is)」とか、日本人のわたしには、かわいいほどに舌足らずに聞こえるのだけれど、内容はすごく豊かで、単語の選択や語法のはしばしが、イギリス的だった。”Is it not?”とか。parcel(郵便小包)とか。古い風景が見えるようだった。
 ああ、今は想像もつかないけど、遠くない昔に、イギリスの植民地だったのですよね。わたしのは、アメリカ英語です。アメリカで教育の一部を受けたからだし、日本ではアメリカ英語が教えられています。それは日本がアメリカの植民地だからです、いや今でもそうですよ、はっきり植民地とされなかった分、今でも脱せません。首相より天皇よりえらいのは、アメリカです。うちの憲法はアメリカが書いたものです。天皇が国の象徴だというのも、アメリカが書きました。憲法第一条第一項にですよ。天皇自身が、それを全身全霊で守ると言いました。どうですかそういうの? なんて、ちょっと言いそうになったりした。あとで、本当にそういう話をするとは思わなかった。

 頭の皮が張るくらい、緊張した。遠くのかすかな音に耳を立てる犬になった気分だった。
 誰にも話さなかった秘密を話すことになる。聞くことになる。
 そうでなければ開かない鍵が心や、どこかが凍りついてしまった身体にある。
 そう知っているから。
 誰かの秘密に属することを、聞く人は、ただ聞く。
 なんの意見もしない。質問もしない。相槌さえ打たない。ただ聞く。
 ちゃんと打ち明けられたのなら、それを聞いてもらえたなら、それだけで、変容は起こる。
 そのことをわたしは経験的に知っている。
 そしてわたしは微笑んだ。大丈夫。安全。なんでも聞く。なんでも話す。

愛の、不在について

 相手が話し始めた。
 誰かを、あんなに一生懸命に見たことは、意識にのぼる範囲で、思い出せない。目を離したら、一瞬で相手が迷子になってしまう、そんな切実さで。
 インド人を正面からちゃんと見るのは初めてだった。
 実は、ステレオタイプでしか、見たことがなかった。カオスの国の人、商売上手な民族、ゼロを発見した人たち、神秘主義と現実主義のあまりのギャップ、長く植民地を経験した人たち。でもその目を、見たりしたことがなかった。実を言えばいいイメージを持ったことがなかった。わたしを騙すのではないかとか。しかし、いや、日本人の目だって、こんなに見たことはないくらいに、彼の目を見た。わたしは誰の目も、こんなにちゃんと見たことはないかもしれない。でも、人の目を見なければならないのはこういうときだ、絶対にそばにいて一人にしないという信頼を伝える、という確信が、わたしにはあった。
 相手が話し始めた。
 彼の、最も深い苦悩について。

 「愛がない。おそれがある。愛がない。安全を感じられない。自分の家族が嫌い。このインドの社会が嫌い。ここはあまりにシステマティックな社会で、結婚は取り決められ、妻と夫は、その前に一度も会ったことがない。愛はない。どうやって愛が起こる? 今でも事情はあまり変わらない」

 ああ、システマティックとは、こういうときに使う言葉だったのか!!
 わたしは電撃をくらったように驚き、彼の言語選択センスに感心した。
 システムが、個人に優先すること。インド社会は混沌と言われるが、実はシステマティックなのだ。コアは、システマティックに動いている。
 そしてわかる。いろんなことが、いっぺんに。
 わたしの国が直面している問題についても。自分が直面してきた問題についても。

 「セックスはある。それはただのセックスだ、愛はない。セックスは子どもをもたらすが、ただ、セックスだ。愛はない。おそれがある」
 人口を増やすか保つかするには、こういう「人材の有効活用」が必要なのだ! 
 そこにいる、条件にあった人たちを、無駄なく使うのだ。だって自由意志にまかせたら、恋愛は起こるとは限らないし、カップリングには、不確定要素が多すぎ効率が悪すぎる。自由恋愛に任せたら、人口は減る。あたりまえのことだ。政府の人に教えてあげたい。
 そして私の国は、システマティックなように見えるし言われているけれど、実は、個人はあまりに自由なのだ。そして、彼の言うことと、婚活マッチングサービスは、基本的には変わらない。条件同士を出会わせること。そこに愛が生まれるかなんかは知らない。自由すぎて、選ぶ項目が人生に多すぎるのだ。進学、職業選択、恋愛、誰とセックスするか、誰となら家族になってもいいか。すべて個人の責任だ。家の責任でさえありはしない。
 そして家族になったとして、愛はあるか。そんなのわからない。愛はこの社会の優先事項のいちばんにはない。愛も性も。それでどの人間も生まれてきたというのに、最優先にはされていない。

 「わたしの父親は、わたしに指の一本も、触れたことがなかった。死の床にあるときそれを告げると、驚いていた。それはどんな狂った男なんだ?」

 わたしは目の前にいる人の痛みを思った。
 経済的に成功しているであろう、きちんとした人。高い教育を受けたとわかる人。
 たくさんの家族に囲まれた人。そのひとの、まったき孤独。
 わかるよ、と、一ミリだけ、わたしはうなずく。
 相槌も禁じられていても、睫毛で、一ミリだけ。

 わかるよ。
 その、砂を噛むような不毛。つらかったろうね。いったいどうやって耐えてこられたのか。何十年も。国じゅうがそんななら、その社会がどうなってしまうのか。どうしてうまくいっているように見えるのか。

 その人をよく見た。インド人、ではなく、その人を、よく見た。
 褐色のやわらかそうな膚。ああいう褐色の膚に包まれるとはどんな感触なのだろう。気持ちよさそうに感じた。よくなめされた革のようで。陽や風や水を、十分に浴びてのびのびとして。それともわたしが白くて少し黄色い肌に包まれているのに特別の感覚がないように、その膚にくるまれていることには、感覚はないのだろうか。あるいは、その色のために差別された記憶があり、嫌いだろうか。あの膚はどう息をするのだろう。どう乾燥を知り、どう雨を知るのだろう。ぞくっとするとき産毛が立つ、あの感覚は一緒なのだろうか。葉巻煙草のような指。色も、かたちもちょうどそんなふう。こんがり焼けたお菓子のようでもある。手にとってみたい。それが動くのを見ている。はじめて見る知らない生物のように、さわって大丈夫かと思いながら、さわってみたいと思う。あの指は何にさわってきたのだろうと思う。どうさわるのだろうと思う。瞳を見ている。密度の濃い、黒い瞳。

 不意に、「同じ人間なんだ」という認識にわたしは打たれた。

 人種や文化を超えて、同じ、人間。性別も、人種も、膚の色も言語も超えて。あるいは、そのすべての下に。
 「同じ人間なんだ」ということは、よく言われる。自分とて言うけれども、ただきれいごとだ。わかっていた。わたしは外国人がこわかった。ちがう色の膚に包まれ、ちがう風土で育ってちがう言語で考え話し書く存在が理解できず、こわくて、生理的にこわくて、わかりあえるなどと思っていない。自分も決して心を開いたりしない。そして心を開かなかったことを文化のせいにする。心を開いたら、利用されるのではとどこかで思っている。
 たとえばアメリカでは、交通事故が起きたとき「アイム・ソーリー」と言ってはならない、あなたは非を認めたことになるから裁判で不利になります、あるいは、宗教と政治はおいそれと話題にしてはいけません、そんなこと。異文化を生きる、ちょっとしたヒント。ヒントであふれているけれど本質はなにもない。それはすべて分離を基本にしている。踏み込まないこと、踏み込まれないこと入らないこと、入られないこと。どこもあなたが不利にならないヒントで満ち満ちて、いかに相手の優位に立てるかに基づいていて、誰も、心を開く方法を教えてはくれない。どうやって愛を持てるかを教えてはくれない。誰も愛を教えてくれない。愛の方法は、どこにもない。
 そしてそこにあるのはおそれだ。他のなにものでもありはしない。そしてこれは多かれ少なかれ、多くの人にある反応だと思う。でなければ、世界中にこんなに殺し合いがあるわけがない。わたしたちは本音と建前が分離して、ならば嫌悪であれ一致している方がまだマシではないかと思える。よじれている人は、動機において嘘をつくからだ。それは人間のしうる最悪のことだ。その感情に関して嘘をつき、嘘をついたこと自体を否認するからだ。
 それが、わたしの国に起きたことだとわたしは思っているのだけれど。でなければ、唯一の被爆国がなぜ、原発大国になれたかなあ?
 人のつく嘘は、限りがない。嘘をベースにするとすべてがよじれる。でもまあ今は、そんなことはどうでもいい。社会のことはどうでもいい。
 わたしは、どうするのか。
 
 聞きながら、人の偶然と必然について、遠い頭で考えている。
 目の前にあるのは、鮮やかな対比であるように、思われたから。
 この人はわたしの鏡像、つまりは、真反対の像に思えた。
 わたしは、愛があるのにセックスがないことに悩んできたから。

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プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)
1964年、東京生まれ。作家。90年に別件で行ったバイト面接で、なぜかアート誌の編集長を任され、つとめた。編集長として働いているとき自分にも原稿を発注しようと思い立ち、小説を書いて、95年に「起爆者」でデビュー。著書に『ヴァイブレータ』(講談社文庫)、『ミューズ/コーリング』(河出文庫)、『箱の中の天皇』(河出書房新社)、『モテたい理由』『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)など。2012年に刊行した『東京プリズン』(河出書房新社)で毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞・紫式部文学賞を受賞。

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多彩な執筆陣による連載小説・エッセイ、教養・ノンフィクション読み物や、朝ドラ・大河ドラマの出演者や著者インタビューなどをお届けします。新刊情報も随時更新。ときどき編集部裏話も!  *NHK出版HP → https://www.nhk-book.co.jp/

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