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「愛と性と存在のはなし」第7回 〔最も深い苦悩を語るということ〕 赤坂真理

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 「あなたの秘密を書いてください」
 そう言われたら、あなたは何を書くだろうか。
 正直になれるだろうか? 目の前の人に。
 いや、
 正直になれるだろうか? ほかならぬ自分に。
 自分のために。
 
 そんな課題を、2019年度、教えていた大学生の創作の課題に出した。

 何年か創作の教師をして、創造性には、この課題がいちばんよかった。いちばん変容が起きた。いろいろな課題を出したけれど、いちばん厄介なのは、才能の欠如でもテクニックの欠如でもなく、読書量や書く量が少ないことでもない。自分に、鍵をかけた部分があることなのだ。出せない部分がある。
 わたし自身を思ってみてもそうだ。できないわけでもないのに、やらないことがある。それを閉ざしているだけで、他の多くのことが表現できない。しかし、外から見ると、そここそがその人のいちばん美しいところなのだ。そのことも自分はわかっている。しかし、自分に限って、それを出したらみんなが引いていくのではないかと思っている。自分は死んでしまうのではないかと思っている。
 ここは、一人では開けられないところで、誰かの助けが要るのだと思っていた。わたしがその課題を出したのは、自分自身を救うためだったかもしれない。
 そしてこの課題を出すのに、特別な秘訣があるわけではなかった。指導法やノウハウがあるわけではない。「人」を見るだけだ。目の前の人を、よく見るだけだ。わたしはいつも、書かれた作品より、その「人」に興味があった。そして、その人と作品の間にあるもの。何が出ているかではなく、何が出ていないか、に。
 いや、秘訣は、たったひとつだけ、あるとわたしは思っていた。自分が、正直であること。どんなことがあっても同じ現場で、そばにいるのだと、態度で見せること。わたしも、彼も彼女も、どうか正直になれますように、自分を偽りませんようにと、それは、祈るような行為だった。学生が心を開けるように、わたしも同じ課題で一緒に書いた。いや、わたしは、自分を救うためにこそ、自分にその課題を課したのかもしれない。学生はわたしを助けてくれた。
 なぜそんな話から始めるのかというと、ひとつには、それをしたからわたしはこの連載を始められて、続けることができているから。
 もうひとつには、人が、最初で最後に秘密を持つのは、自らの愛と性においてだという気がするから。

「何が許さないのか」

 「お題は……そうですね『あなたが最も隠していることについて』、お互い語りましょうか」

 異国で満月の下、そういう話になったとき、かなりびっくりした。
 迂闊にも、自分がこれを問われるとは思っていなかった。
 それを言ったのは、感じの良いインド人男性だった。白髪まじりの髭がもしゃっとして、ニットキャップをかぶり赤い服を着ていて、ちょっと褐色のサンタさんみたいだった。インド人と一口に言っても、多民族国家というか、本当に膚のトーンから体つきや体毛の濃さに至るまで、かなり違うのだけはわかった。

 わたしは初めてインドに来た。母が死んで4ヶ月くらいの頃。
コロナウイルスの感染拡大防止に、世界中がロックダウンするほんの少し前。ほんの少しタイミングがずれても、渡航できなかったか、行ったきりかなり長い間帰れなかったというタイミングだった。わたしはそれまで、インドは無意識に避けていた気がする。何かがこわかった。
 知り合った男の人はやさしくてひょうきんで、アメリカで教育の一部を受けたわたしからすると、かわいい英語をしゃべった。これがインド英語というやつなのか、わたしには、舌足らずの幼児語のようでかわいく響いた。ヒー・イジュ(He is)とか、ショックス(ソックス)とか。ただ、内容は高度で教育の高さを感じさせたし、単語のはしばしがイギリス的だった。parcel(郵便小包)とか、 do you not? (アメリカ英語で言うdon’t you?)とか。アメリカ英語に慣れていると、ちょっと古語っぽく聞こえて由緒正しい感じ。そうでしたね、長く、イギリスの植民地支配を受けたのですよね、わたしの国は、実は事実上アメリカの植民地ではないかと思うのですけど、形式上、植民地支配を受けたことはないことになっています。でもどうなんでしょうか、あからさまな植民地と、否認もできる植民地、どっちがいいんでしょう…..そんなことをきいてみたくなる。

 インクワイアリーという、瞑想者がする手法があって、夜に屋上のテラスでいろいろ話していたら、それをやってみようということになったのだった。
 インクワイアリーとは、問題に別の見方をもたらすことを意図した問いかけである。決まりは、一人が言うときは、他の人は聞くだけ。ペアのときも、三人以上のときも。瞑想を助ける手法として使われることがある。わたしたちは、瞑想をしに世界各地からその地に集まった仲間だった。
 
 テラスからは、隣接する土地が見える。そこは広い市場で、何日も、昼から夜遅くまでシヴァの祭りを繰り広げている。シヴァの祭りは、シヴァの結婚祝いである。世界広しと言えど、結婚記念日が記念日という神や聖人は、シヴァだけだという。それは、幸せな結婚というのが、それほどにもまれだから、という話だ。

 市場の敷地では、移動式遊園地が開かれ、朝から夜遅くまでDJがしゃべり、観覧車が観覧車とは言えない高速で回り、DJはそれをあおり、運転手は自分のノリで機器を動かしている。チープな絶叫マシンはチープなつくりであるがゆえに本当に怖くて絶叫が絶えず、特に船を模したジャイアントスイングは怖いことまちがいなし。色とりどりのテントの下では、ハロゲンライトが眩しく焚かれ、スパイスから安アクセサリーから駄菓子から布からビンディの顔料から、いかにもインドというカラフルさの縁日のテントで商人たちが客を引く。そろそろ人出も引いてきて、そこここで焚き火をしている。煙が細く立ち上って、何かなつかしい匂いがする。たまに、流れ星が見える。

 わたしがこの問いにびっくりしたのはもちろん、これはわたしが学生に出した課題と同じだったからだ。

 それは、なんのことはないわたしが、自分の秘密をどうしても書けずにいたからだった。秘密を、安全な場所で少しずつ出せるようにする、そうすることによって、誰にとっても表現において最も厄介な障害であろう、心理的ブロックを、はずすことを目的としていた。
 そう、最後まで自分を許せないのは、自分である。
 最後まで自分に許可を出せないのは、自分である。

「誰にも言えない」

 まず、相手が話し始めた。
 彼の、最も隠していること。

「愛がない。おそれがある。愛がない。安全を感じられない」

 急にあたりが静かになった気がした。その人をまじまじと見た。
 インド人を正面からちゃんと見るのは初めてだった。
 実は、ステレオタイプでしか、見たことがなかった。カオスの国の人、商売上手な民族、ゼロを発見した人たち、神秘主義と現実主義のあまりのギャップ、長く植民地を経験した人たち。でもその目を、見たりしたことがなかった。実を言えばいいイメージを持ったことがなかった。わたしを騙すのではないかとか。しかし、いや、日本人の目だって、こんなに見たことはないくらいに、彼の目を見た。わたしは誰の目も、こんなにちゃんと見たことはないかもしれない。でも、人の目を見なければならないのはこういうときなのだ。

「自分の家族が嫌い。このインドの社会が嫌い。ここはあまりにシステマティックな社会で、結婚は取り決められ、妻と夫は、その前に一度も会ったことがない。愛はない。どうやって愛が起こる? 今でも社会事情はあまり変わらない」

 ああ、そうか、「システマティック」とは、こういうときに使う言葉だったのか!!

 わたしは電撃をくらったように驚き、彼の言語選択センスに感心した。
 システムが、個人に優先すること。インド社会は混沌と言われるが、実はシステマティックなのだ。コアは、システマティックに動いている。
 そしてわかる。いろんなことが、いっぺんに。
 わたしの国が直面している問題についても。自分が直面してきた問題についても。

「セックスはある。それはただのセックスだ、愛はない。セックスは子どもをもたらすが、ただ、セックスだ。愛はない。おそれがある」

 ある共同体が、全体として人口を増やすか保つかするには、こういう「人材の有効活用」が必要なのだ! 
 そこにいる、条件にあった人員を、無駄なく余さず使うのだ。だって自由意志にまかせたら、恋愛は起こるとは限らないし、カップリングには、不確定要素が多すぎ効率が悪すぎる。自由恋愛に任せたら、人口は減る。あたりまえのことだ。日本政府の人に教えてあげたい。

 そして私の国、日本は、システマティックなように見えるし言われているけれど、実は、個人はあまりに自由なのだ。そして、彼の言うことと、婚活マッチングサービスは基本的には変わらない。条件同士を出会わせること。そこに愛が生まれるかなんかは知らない。自由すぎて、選ぶ項目が人生に多すぎるのだ。進学、職業選択、恋愛、誰とセックスするか、誰となら家族になってもいいか。すべて個人の責任だ。家の責任でさえありはしない。
 そして家族になったとして、愛はあるか。そんなことはわからない。愛はこの社会の一番の優先事項ではない。愛も性も。それでどの人間も生まれてきたというのに、最優先にはされていない。

 わたしは目の前にいる人の痛みを思った。
 経済的に成功しているであろう、きちんとした人。高い教育を受けたとわかる人。
 たくさんの家族に囲まれた人。そのひとの、まったき孤独。
 わかるよ、と、睫毛で一ミリだけ、わたしはうなずく。
 反応は、話者に影響するから、相槌もうなずきも無しが決まりだ。でも、睫毛で、一ミリだけ。

 わかるよ。

 その、砂を噛むような不毛。つらかったろうね。いったいどうやって耐えてこられたのか。何十年も。国じゅうがそんななら、その社会がどうなってしまうのか。どうしてうまくいっているように見えるのか。
 きょうび、自分の国でこういう話をついぞ聞かなかった。
 自分の国の人たちは、自由恋愛において途方にくれていた。

 その人をよく見た。インド人、ではなく、その人を、よく見た。
 褐色のやわらかそうな膚。ああいう褐色の膚に包まれるとはどんな感触なのだろう。気持ちよさそうに感じた。よくなめされた革のようで。陽や風や水を、十分に浴びてのびのびとして。それともわたしが白くて少し黄色い肌に包まれているのに特別の感覚がないように、その膚にくるまれていることには、感覚はないのだろうか。あるいは、その色のために差別された記憶があり、嫌いだろうか。あの膚はどう息をするのだろう。どう乾燥を知り、どう雨を知るのだろう。ぞくっとするとき産毛が立つ、あの感覚は一緒なのだろうか。
 葉巻煙草のような指。色も、かたちもちょうどそんなふう。こんがり焼けたお菓子のようでもある。手にとってみたい。それが動くのを見ている。はじめて見る知らない生物のように、さわって大丈夫かと思いながら、さわってみたいと思う。あの指は何にさわってきたのだろうと思う。どうさわるのだろうと思う。瞳を見ている。密度の濃い、黒い瞳。

 不意に、「同じ人間なんだ」という認識にわたしは打たれた。
 人種や文化を超えて、同じ、人間。性別も、人種も、膚の色も言語も超えて。あるいは、そのすべての下に。
 同じ苦しみ悩みを持っている。
 条件は対極に見えて、同じ苦しみ悩みを持っている。
「人種がちがっても同じ人間なんだ」ということは、よく言われる。自分とて、そう言うけれども、本当はただきれいごとを言っていると、わかっていた。わたしは外国人がこわかった。ちがう色の膚に包まれ、ちがう風土で育ってちがう言語で考え話し書く存在が理解できず、こわくて、生理的にこわくて、わかりあえるなどと思っていない。自分も決して心を開いたりしない。そして心を開かなかったことを文化のせいにする。心を開いたら、利用されるのではとどこかで思っている。

 たとえばアメリカでは、交通事故が起きたとき「アイム・ソーリー」と言ってはならない、あなたは非を認めたことになるから裁判で不利になります、と習う。あるいは、宗教と政治はおいそれと話題にしてはいけません、と習う。そんなこと。異文化を生きる、ちょっとしたヒント。ヒントであふれているけれど本質はなにもない。それはすべて分離を基本にしている。踏み込まないこと、踏み込まれないこと入らないこと、入られないこと。異文化で演っていく知恵とは、要はあなたが不利にならないちょっとしたことで満ち満ちていて、いかに相手の優位に立てるかに基づいていて、誰も、心を開く方法を教えてはくれない。誰も愛を教えてくれない。愛の方法は、どこにもない。自文化の中にだってない。

 そこにあるのはおそれだ。どこにあるのもおそれだ。他のなにものでもありはしない。そしてこれは多かれ少なかれ、多くの人にある反応だと思う。でなければ、世界中にこんなに殺し合いがあるわけがない。わたしたちは本音と建前が分離して、ならば嫌悪であれ一致している方がまだマシではないかと思える。よじれている人は、動機において嘘をつくからだ。それは人間のしうる最悪のことだ。その感情に関して嘘をつき、嘘をついたこと自体を否認するからだ。
 それが、わたしの国に起きたことだとわたしは思っているのだけれど。でなければ、唯一の被爆国がなぜ、原発大国になれたかなあ?

 人のつく嘘は、限りがない。嘘をベースにするとすべてがよじれる。でもまあ今は、そんなことはどうでもいい。社会のことはどうでもいい。
 わたしは、どうするのか。
 
 聞きながら、人の偶然と必然について、遠い頭で考えている。
 目の前にあるのは、鮮やかな対比であるように、思われたから。
 この人はわたしの鏡像、つまりは、真反対の像に思えた。
 わたしは、愛があるのにセックスがないことに悩んできたから。
 そして真反対は、同じ質の苦悩なのだ。

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プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。

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