愛と性と存在のはなし20191121

「愛と性と存在のはなし」第1回 〔性的マイノリティは存在しない〕 赤坂真理

「男/女」と単純に分類しがちな私たちの「性」というものは、本来とても繊細で、多様だ。それは少しずつ認識されつつあるが、いま私たちが性を語る言葉は、あまりに人々を分断し、対立させ、膠着させるものではないだろうか。各々が性を語るその言葉の前提は、確かだろうか。マジョリティだと自認するあなたの「性」が、本当はもっと複雑で、深淵なものだとしたら――。私たちの内なる常識に揺さぶりをかけ、いまだ誰も語りえない性愛の豊かな地平をひらく、作家・赤坂真理の全霊の挑戦。

 性的マイノリティは存在しない。
 のっけから衝撃的なことを、あるいは反動的にも聞こえることを言うのを、ゆるしてほしい。

・・・

 これから、とても繊細な話をしようと思う。
 いちばん繊細に語らなければいけないことを、わたしの持てる力のすべてをかけて、可能な限りの繊細さと大胆さで語ろうと思う。
 いちばん繊細に語らなければならないこと、それは、愛と性のことだ。
 愛と性はかなりちがう。
 にもかかわらず、とても混同されやすくできている。
 混同は、一致とはちがう。
 一致したらしあわせだ、と思う。 存在にとって。
 一致することはあるのだろうか?
 ある。
 あると信じている。
 長続きするのか?
 それはまた別の問題だ。

 人類の大問題としてそれらの問題はあって、人類最古にして最新の問題としてそれらはあって、まだわたしたちはその繊細な議論のとば口にさえ立っていない。自分自身も含めて、そんな感じがする。
 そして、性がその本来の繊細さ、多様さを取り戻してきたのは、最近のことであるような気がする。複雑になるベクトルと、本来の多様な自然に還るベクトルがいっしょにあるような、面白い時代に生きていると思う。
 あれ? わたしは、性的マイノリティが、あると言ってないか?
 そう、わたしは、いわゆるセクシュアル・マイノリティの多様性は、性本来に備わったものであり、性の自然なのだと思う。それが、ゆるされるようになってきたのだと見る。
 だとしたら、すべての人の中に、ポテンシャルとしてあるのではないかと思っている。
 しかし性愛はそのポテンシャルが、今でさえ、乗りこなされていない。


 「性自認と性志向に多様性を認めよう」というのは、けっこうなことだと思う。でもその前に。一人ひとりが、自分と自分の愛について、わかっているんだろうか。
 わかっていない。わたしも含めてわかっていない。真剣にわかろうとしたことがほとんどない。そう思う。

 いわゆる「セクシュアル・マイノリティ」を語るとき盲点になるのは、「ヘテロセクシュアル(異性愛者)には問題がない」という気持ちに、無意識にも、なることだ。
 そうなんだろうか?
 ある意味、ヘテロセクシュアルほどむずかしいものはない。
 世間的な通りのよさをのぞけば、ヘテロセクシュアルほどむずかしい関係性はない。そんな気さえ、この頃する。
 異性は、相対する相手として、違和が大きい。
 目の前にいるそれは、あまりにちがった生物で、わかり合うのがむずかしい。
 どこを見ても、「ヘテロの中の異性嫌い」「ヘテロ内の異性対立」の言語があふれている。もしこれが、同性愛者がパートナーへの不満を語る言語であったなら、その相手は「個人」として扱われているはずだ。女が、レズビアンのパートナーである女に対し「女はこうだ」とか、「だからレズビアンの女は」と言うとは思えない。個別の話にするはずだ。
 だけれどヘテロの男女は、とりわけ女は、すぐ、異性を一枚岩の異物のように扱いたがる。
「男は」「女は」という言葉は、異性愛者の間にだけある。それは両性を分断する言語だ。「敵陣営」に対する言葉なのだ。その言語の不毛じたい、ヘテロの悲劇と思える。あるいは笑えない喜劇と。たとえばよくあるキャッチーな言葉として「ワンオペ育児」というのがあるけれど、それで夫を非難する妻は、ある意味夫を一人の人として見ていない。わけがわからず話が全く通じないひとかたまりの生物の一部と見ている。
 しかしそれには一理はある。
 本当に、異性の内実のことは全く、想像がつかないのである。
 ここがヘテロセクシュアルの関係性のむずかしさだと思う。

 本当は、いちばんむずかしいと言っていいほどむずかしいのだけれど、ヘテロセクシュアルは、体裁だけはきれいに整ってしまう。世間的には通りがいい。異性と交際してなんら変だと思われないし、結婚してなんら変だと思われないし、ヘイト感情も浴びないし、子どもができて「自然」だと思われている。これはやっかいだ。
 ヘテロが自分自身を知る機会は、ほとんど失われている。そして問題が出てくると、相手が悪いのだ、そう思いやすい。問題を、本当に切実な自分のこととして認識することが、ヘテロはむずかしい。問題と認識されない問題は、知らないうちに「痛み」としてたまる。痛みと認識できないことは、ケアされることもない。ちゃんと話し合われることさえほとんどない。それは、もう一方への「恨み」としてたまる。

 先に触れた「ワンオペ育児」というコトバは、育児を、平等な労働市場のタームにして、不平等を語るものだが、それを便利に使うとき、見過ごされるのは、子どもは圧倒的に母親に愛着する、という事実だ。そもそもに「平等でなさ」が、原初の性をめぐって、ある。そこが女の喜びであり圧倒的負担である。そこが男の楽さであり疎外感である。比べられない感情を、同じ土俵で比べようとする。それで、相手が悪いと言い募ったり、対立をしたりする。
 性とセックスをめぐって、あまりの不均衡が出やすいのがヘテロセクシュアルであり、地球はその憎しみであふれていると言っても過言でない気すらしてくる。
 この違和を超えて異性が、愛とハーモニーで結びつくことは、多様性が叫ばれる一方で、むずかしくなるばかりなのではないかと感じる。それがただのきれいごとにしか思われないようなところが、ヘテロの悲しさだ。

「性の多様性を認めよう!」と人々が言うとき、ヘテロは、その対象外だ。
「多様性を認めよう」という議論の中に、「異性の自然を多様性として認めよう」という議論は、ない。たとえば、女に比した場合、男は「感じない」と言われる。男の快感は局所的であるという。これはよく言われることだし、だから男は身勝手なセックスをするとさえ言われてしまう。なんなら、ペニスが悪いのだくらいに。けれど、本当に快感が局所的である存在の内実を、わたしは、あるときまで、一度も想像してみようとしたことがなかった。それを想像してみたとき、それに「なってみる」想像をしたとき、セックスだけでなく、その感覚はすべてに及ぶのだ、とわかった。いや、わかる一瞥を持った。
 女が男によくする要求は「わたしをわかって」で、わたしもそれをよくしてきた。なんでわかんないの? と思ってきた。男を恨みもした。
 しかし、ちがう身体になってみる想像をすると、「本当にわからない」のだ。そしてそれは、悪ではない。男が女の感覚をわからないこと、それはただの自然である。
 ちがう身体を持った人への想像力を、わたしたちはほとんど持てない。まして異性の身体の内実は、想像することさえむずかしい。異性は、ごくふつうにいる絶対他者だ。なのに、想像もできないことに対して、あまりに簡単に推測して、なにかを断じて非難することが多すぎる。それがヘテロの世界で、ヘテロは、常に、内なる戦争状態にあるかのようだ。
 女は男を、性感が局所的である人の体感を、想像してみようとしたことがあるだろうか? 体感が局地的であるということは、おそらくは、ふだんから、皮膚などを通した知覚量が少ないということだ。だから男は古くから兵士にもなれた。だから物事に集中しやすい。知覚に外に引っ張り出されることが少ないのだ。対して女は気が散りやすい。ささいなことで知覚を持っていかれてしまう。
 どちらも、互いの自然について、理解しようとはせずに、人格の問題にすりかえる。人格の問題にすりかえるくせに、相手を「個」としてみていないのはすでに言ったとおりだ。
 自分が自分と反対の性の身体と体感を持っていたら、世界の見え方感じ方や、ひいては考え方が、どうちがうだろうか? 想像してみるといい、一度でも。それは世界を変える。
 ヘテロセクシュアルが悲しいのは、この圧倒的なわからなさを、ちがうものへの驚きととらえ、賞賛ととらえる回路を、わたしたちが、育てていないことだ。
 これを、多様性の議論の中にさえ入れないことだ。
 それでいて、異性愛以外の愛の多様性に認めましょうと言っても、それはただの言葉であり、努力目標である。
 努力目標だから、すぐ簡単に「べき論」になってしまう。
 自分とちがう愛や存在のかたちを持った人に、本当の理解も、興味さえ、持ってはいないのではないか。
 正直に告白すると、わたしには、同性愛者の内的感覚はわからない。
 そしてそれは、異性愛者が異性に対することと、同じなのだ。あまりの異物を見るまなざし。本当にわかろうとは、していない。

・・・

 あるとき親密な関係の男に、
「女みたいにされたい」
 と、言われたことがあった。
 彼としては、とても勇気を出してそう言った。
 その切実さには涙が出そうだった。
 そうだったのか、と胸を打たれた。
 その望みを、わたしは聞いた。
 そして、叶えていない。
 わたしはそのあまりのちがいに心は打たれた。
 しかしそこからそれを育ててはいない。
 彼もそれ以上はリクエストしてこない。
 告白でけっこう満足してそれ以上進もうとはしない。
 なぜだろう?

 めんどうくさいのだ。お互いに。
 お互いに、多大な努力がいる。
 わたしの努力がいるし、彼の努力も、いる。
 感じようというのは、個の領域を超えて感じようというのは、能動的なことで、自分も安全域を出なければならない。それは危険なことだし、相手に全幅の信頼がなければできない。信頼した相手に受け止めてもらえなかったら、自分は壊れてしまいそうだと思う。それこそが、他者と本当に出逢うことの美しさだとしても。そのリスクをおかすくらいなら、知らないほうがいい。そう思う気持ちは、誰にでもある。
 「女みたいにされたい」の、本当の本当を、わたしは、たしかめてさえいない。
 本当のところ、どうしてほしいのか。
 それはたとえば、
 ピストン運動数十回の間に射精するのが男と思わないでほしい、ということかもしれなかったし、射精しなくてもいいですか、だったかもしれない。もし勃たなくてもそれはあなたに魅力がないこととはちがう、と言いたかったのかもしれない。男がセックスの主導権を持たなければいけないような風潮が嫌だと訴えたのかもしれない。もっとさわってほしい、だったかもしれない。どこもかしこも、ていねいにさわられたかったのかもしれない。声をあげてみたかったのかもしれない。行為中に泣きたかったのかもしれない、壊れるほど感じてみたかったのかもしれない、女のように体毛を手入れしてすべすべな肌を愛でられたかったのかもしれない。名前を呼んでかわいいと言って頭をなでて、だったのかもしれない。女装してセックスしたかったのかもしれない。もしかしたら男も女に挿入されたいと言ったのかもしれないし、マグロ女みたいにただ寝そべって好きにされたい、と言ったのかもしれない。
 そういうふるえるような告白を、その切実ささえ、日々の暮らしの中でわたしたちは忘れやすい。
 それは、愛に属することだ。
 そして、とてもエネルギーが要る。
 それよりはセックスの相手を簡単に替えてしまいたい、と思ったことがある。
 親密な関係の中でひとつひとつをゼロから話し合ってつくることより。
 ときに、愛をとるよりセックスを。
 相手を替えて刺激を得たほうが早いと思ってしまう。
 セックスと愛を切り離そうとする。
 セックスはいつも、親密さと刺激のはざまにある。愛と刺激のはざまで揺れ動く。
 刺激が勝つと、愛を捨てかねなかったりもする。
 あきらめてしまう。性と愛の交差するところで相手をとらえることを。その魅力のすべてを、人間の可能性を、知ろうとすることを。
 それは愛の可能性を狭めることだが、忘れて、できればふつうの枠におさまりたい。
 愛の可能性を忘れてまで、人は、できればふつうの枠に収まりたいと思う。
 ふつうの枠におさまることで、不問に付される数々のメリットを享受する。
 なんということだろう。
 しかもごくふつうに。
 そうして自分の中の愛の可能性を殺してしまう。
 それよりは、手っ取り早く欲情したいと思ったりする。
 愛と欲情を切り離す。
 欲情はだいたい、出会い頭のものだ。それはこわさとも少しだけ似ている。暴力になってもおかしくない状況で、しかし暴力は起こらず、それよりはお互いを求める気持ちが勝つと、見ず知らずだった人ととつぜんつながる。
 そういう結びつき方は、日常をともに過ごしている関係性では、起こりにくくなる。
 見知った期間が長い人との間には、セックスは起こりにくくなる。
 世にいうセックスレス問題だけれど、ならば日常の中で起こるセックスとはどんなものだろう? それは純粋に相手への興味だったり驚嘆だったり、賞賛のあらわれだったりするかもしれない。
 それは美しい。それは一般的な意味で言われるセックスではないのかもしれないが、しかし、親密なエネルギーの交歓のすべては、セックスだとも言える。
 だったらセックスってなんなんだ、という問いを、わたしたちはほとんどしない。
 しかしそれより、いつかどこかで見たようなセックスのほうを、懐かしんだりする。そんなもの、本当は知らないのに。自分に一度も、あったためしがないのに。
 それでもあまりの未知よりは、退屈でも息苦しくても、既知をえらびたい。
 わたしたちが息苦しいのは、ある意味、わたしたちが選んだことの結果である。


 性的マイノリティは存在しない。
 なぜなら、マジョリティなど存在しないから。
「マジョリティ」とは、「マジョリティに入りたい人」のことだ。マジョリティに入ることに腐心し、数々のメリットを享受し、そこで眠りこける。しかし彼や彼女は、そこで自分が何を失っているのかに気づいていない。いや、気づかないふりをしている。
 自分の欲求をごまかさず、すべて細かく描き出して認めたら、それは誰とも似ていない。
 たとえば似た海岸線は、ひとつとしてなく、なだらかな海岸線が複雑な海岸線よりいいわけでもない。逆もまた真。
 誰とも似ていないし、だから当然「世間」なんてものと接点はない。が、自分の真実を自分で認められたら、それが「世間的」にどれほど変わっていようが、自分は落ち着く。
 ただそういう地図を真摯につくり、自分のかたちを自分で知り、認め、好きな他人のそれも見せてほしいと、心から頼むことを、わたしたちは、しなさすぎる。

 わたしたちはみな、自分の地図を持たず、共に在りたいと願う相手の地形も知らず、冒険しようとしている人のようだ。

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プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。