愛と性と存在のはなし20191121

「愛と性と存在のはなし」第2回 〔男であることはなぜ辛いのか〕 赤坂真理

 年来、「自らの男性性への嫌悪」「男であることの罪悪感」を口にする男に出逢ってきた。

 わたしはこれを他のどこでもあまり聞かないし読んだことがなかった。
 わたし自身、聞いてよくわかったとは言えない。
 じっさい、何がそんなにつらいのかと思っていた。
 彼らは、変わった人たちではない。どちらかというと、適応的な人たちで、この「男性的世界」でほどよく成功しているように見え、しかも優しくて人当たりがやわらかい。
 今風の男、と言うことができるかもしれない。
 加えて言えば、彼らは異性愛者であり、性同一性(生まれた性と、こうでありたい性)に齟齬を感じたりはしていない人たちである。
 つまり、いわゆる「セクシュアル・マイノリティ」から聞いた言葉では、なかった。
 よく話してみなければ、彼らがそんな気持ちを抱えているとは気づけない。

 彼らの気持ちをわかりたいと思っていた。
 彼らはわたしの最も大切な部類の人たちでもあったから。
 何か大事なこと、切実なことを、言われている直観はあった。
 それでも、わたしには彼らの内実は、よくわからなかったのだ。

 人は、他人のことをわからないと同時に、反対の性の内実は、想像してみることすらむずかしい。
 数年か十数年か、経って、やっとこんなふうにわかってきた。

「想像してみることすらむずかしい」

 これは、この思索の随所に出てくる言葉となるだろう。
 よくよく肝に命じておかなければならない。
「想像することすらむずかしい」ことの、むずかしさを。
 そして自分の性と身体の水準でものを言い、相手もその基盤を共有しているものだと信じ込む。それですれ違って、嘆くこと。なぜわかってくれないのだろうと、相手をアホ扱いさえし、ときになじったりする。それを、たとえアタマでわかっていても、時に感情は、止まらなくなる……わたしもそういう間違いを、繰り返してきた。
 相手の内部メカニズムと、自分の内部メカニズムが、想像を絶してちがう。それを経て出てくる感情や表現が、まったく違う。本当に、それは想像を絶しているのだと思う。わたしにできるたとえは、テレビとクルマくらいちがうんじゃないか、くらいのこと。それが、「想像してみることすらむずかしい」ことへの、こちらの想像力の限界。ただ、想像力に絶対的な限界があると知ることは、相手に謙虚になれることではある。

 想像することすらむずかしいことのためにこそ、想像力は、ある。

 わたしはそう思う。
 そして忘れずにいたい。
 いつも、ありふれた、巨大な未知を目の前にしているのだと。
 そこにありのままに驚嘆したい。
 ならば自分もまた、自分にとって、そして誰かにとって、そのような巨大な驚嘆であるのだ。生まれながらに、誰しも。それを見せあえて、ありのまま味わいあえたら、それはどんなに素晴らしい世界だろうか。それは人の、まるごとの可能性であり、愛の、まるごとの可能性なのだ。
 こんな思いが、わたしを動かすパッションである。

 「そんなこと、思う必要はないんじゃない?」

 冒頭のように、「自らの性に嫌悪感ないし罪悪感がある」と口にする男たちに、わたしはそう言ってきたし、本心から思っていた。
 わたしが大切に思う人間たちに、そんな罪悪感は持ってほしくはなかったのだ。
 でも彼らの罪悪感は根深い。
 さらに問題は、誰にもそれを言えないことだろう。
 男は公にこういうことを言えないし、男同士で打ち明け話をする習慣もない。それが自分の「弱さ」と見えるようなことなら、なおさらである。
 わたしに言ったのは、わたしなら耳を傾けそうだと思ったことに加え、わたしが女だから、だったろう。
 個人の資質と、性の質が、ここでは総合されて、「わたし」という個人に、親密でデリケートな打ち明け話がなされた。異なる男性の口から、何度も。
 「わたし」のどこまでが個人の資質で、どこまでが性の影響を受けた資質か、わたしにはわからない。誰にも完全にはわからない。そういうものの総合を「個人」や「個性」と言ってきた。
 「性」に先立つ「個別性」があるのか、「性」は「個別性」を彩っているのか、それは、本当言ってわたしにはわからない。
 わたし自身、個性だと思ってきたものが、女性的資質の色濃いものだと思ったこともある。また、「あの人なら話を聞いてくれそう」という判断が、女性の受容的な質を感じてのことなのかも、わからない。

 わたしがこの一連の思索を『性と愛と存在のはなし』としたのには、意味がある。

 こんな思いが込められている。
 性というのは、どちらで生まれたにかかわらず、性自認がどうであるにかかわらず、性同一性に齟齬があるなしにかかわらず、性志向がどうであるにかかわらず、恋愛するしないにかかわらず、セックスするしないにかかわらず、人は一生、「性的存在」として生きる。
 それは、このわたしが、女のなりをしていてどことなくやわらかい雰囲気だから、今まで言えなかったことを言えるのかもしれないと、誰かが思ったりするようなことまで含む。
 そしてわたしが、性を含んだこの身体というプラットフォームを使って感じ、表現することで、誰かの糧にもなれるかも、しれない。
 性的な表現でなくても、すべての表現は、身体を通す以上、その特質の影響を受ける。考えることだって、身体を通す。
 いずれにせよ、人が生き、人と関わり、何かを表現するということは、一個のボディを、情報源、かつ発信源にすることなのだ。
 ある個人の一生を通じて、その人と、最初から最後までいるものは、唯一、その人の、身体、である。人は身体を超えた存在であるとしても、それを感じ、表現できることも、身体によってである。

 だから、自分の身体や身体のイメージに嫌悪を持つことは残酷である。
 身体や身体のイメージに嫌悪を持たせることは、残酷である。

 身体の、意識の、愛の、かたちはどうであれ、すべて驚嘆すべきものであり、すべてよしである。
 人類は、まだ、愛について何も知らない。本当に、そう思う。
 自分の愛の可能性も、他人の愛の可能性も、まるで。
 ならば、どんなかたちの愛にも、悩む必要は、ない。
 人は、「愛」を「性」の枠に押し込めすぎたきらいがあるし(結婚だってそうだと思う)、かと言って、性の扱いもまだ、ほとんど何も知らない。よって自分の愛し方と尊重の仕方を知らず、だから他者の愛し方も知らない。
 人類はまだ、愛に関してよちよち歩きだ。
 でも、考えようによっては、よちよち歩きとはいい時期ではないだろうか。なぜなら、立ち、歩くということすべてが、そこでは驚嘆であるからだ。

 「男が感じる男の罪悪感」の話に戻る。
 やっと少しわかってきて、それが表現されるむずかしさを思う。
 それが打ち明けられた、有り難さを思う。
 ひとつは、男が男同士で、心を開いてそういう自分の「弱さ」の話をするのはむずかしいこと。気にせずそうすればいい、というのは、当事者じゃないから言えることなのだろう。女がよく言うように、言ってみたい、「だって男はそうなんだもん!」と。わたしとて男になったことはないが、わたしの周囲の誠実な男たちが、その誠実さのすべてをもって、むずかしいと言うことは、むずかしいのだ、むずかしいに決まっている。わたしは女で、どちらかと言えば、小さな弱音を吐くのは得意としてきて、小さな弱音も吐けない人のことは想像しにくい。そう、小さな「想像を絶すること」は、いたるところにある。まずは、それはそれのままで、認めることからしか始まらない。
 どうしてもできないか、しにくいことは、まずは、理由を説明すること抜きで、そう在らしめよう。それに腹が立つとしたら、こっちの問題なのだ。相手ではない。
 相手はただ、ありのまま、その人でいる。
 もうひとつのむずかしさは、男がそれを社会的に発言しようとするのは安全ではない、ということだ。
 先程書いたように、彼らがわたしには心を開いて話したのは、わたしが「男の生きづらさ」を理解しようとする者で、「女」だからだと思う。
 こうも思ってみる。
 彼らは、「女」に託すしか、なかったのでは。男がそういうことを言っても、聞いてもらえない。
 男は、「支配者」であり、ゆえに「加害者」だった。そういうことになっているのだから。
 そう思ってみると、何か大事な、そしてどこか緊急性のある、メッセージを預かってしまったようにも思う。

 次に、話題になったあるスピーチを入り口に、男性の男性性嫌悪をも含む、性をめぐる広い問題系を扱ってみたい。
 わたしには、このスピーチによって、「男性が感じる男性の罪悪感」や
「男性嫌悪」が可視化されたところがある。

 2019年度の4月に、社会学者でフェミニストで東大名誉教授である上野千鶴子が、東京大学の入学式で祝辞を述べた。そのスピーチが話題になり、SNSやマスコミで、女性を中心に共感や賞賛や、喝采を得ていた。
 そのことが、今でもわたしの胸に、重い不可解さを残している。
 これを、上野千鶴子への個人的な批評の意図はなしに、
「性をめぐる典型的な問題をそろえたサンプル」
 として、見てみたい。上野千鶴子という名を伏せてもよい。知らない女性が、入学式という記念式典に来て、祝辞を述べた。だとしたら。
 実際、今の大学新入生にとって、フェミニストの上野千鶴子は、ビッグネームではないだろうし、ほとんどよく知らない人として、彼らは予断なく聞いたのではないだろうか。

 このスピーチは主に、この社会で女子が被る不平等や不利益を扱ったものだった。拍手を送ったり、我が意を得たりと叫んだりした人も、有形無形の差別や不利益を受けてきたのだろう。
 しかしわたしはこれに関して、当事者である「東大入学生」の声を、聞いたことがない。
 新入生へのメッセージとは、若い人間の人生の節目において、彼らの一生の糧となるようなものとして、贈られるものだとわたしは思う。
 だとして、それを聞いた新入生当事者たちに、長い時間の中で発効するのはどんなことなのか。
 わたしが最も知らないのは、それを聞いた男子新入生の気持ちである。
 男子新入生は、果たして、その祝辞を聞いて「自分の入学は祝福されている」と、思えたのか。
 SNSなどで拍手をした、まったく部外者の人にも、同じことを聞いてみたい。
「もしあなたが男子新入生でこれを聞いたとして、拍手ができますか?」
 と。

「ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場にくることができました」

 と、そのスピーチは始まる。

「その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子大生と浪人生に差別があることが判明しました」

 わたしはこの祝辞を、新入学生の男子として聞いてみると想像してみて、残酷だと思った。わたしが男子新入生だとしたら、のっけから、しんそこ苦痛で逃げたい。
 まずは、男子であるだけで、不正の疑いの目が向けられてしまうのだ。
 しかし、そういう場所から出るのは勇気がいるし、空気を読まないやつだと思われるかもしれない。第一ぎっしり座っているから出にくい。

 このスピーチは、最後まで聞いてみると、入学生が励まされはする。
 東京大学は前例のないことをしてきた大学であり、その東京大学はあなたがたを全力で支援するのだ、と言う。
 しかし、 スピーチはリアルタイムで聞くときには、どう展開するかわからない。 そのうちに、こんな話を全部聞いてしまう一人の男子新入生だとしたら……
わたしなら、あとで、吐きたい。何も言えずに、その場をやり過ごして耐えて、あとで一人で酒を飲んだりして、じっさい気持ち悪くなって、吐くだろう。翌朝最悪の気分で起きて、自己嫌悪になるだろう。そしてそのことを、誰にも言えない。だって言ったら、大バッシングを受けることがわかっているのだから。

 こんな話を聞いてしまう、とは、たとえば、こんな話だ。

「東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子大生を集団で陵辱した事件がありました。(中略)「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品(注:この事件に取材して書かれた姫野カオルコの小説『彼女は頭が悪いから』)を読めば、男子東大生が世間からどういう目で見られているかわかります」

 男子新入生の立場になったと想像して、いたたまれなくなった。
「辱めを受ける」という言葉が浮かんだ。

 女子新入生の立場だったとしても、楽しく思えなかった。なぜなら、周りの同年代の男性に、不信と恐怖を感じてしまうからだ。周囲に対して、緊張を感じる。まだ男性経験もないかもしれない、そんな女性、これから恋をしようともいう人。

 そして上記から導かれる「東大男子像」とは、どんなものだろう?

 <東大の男は、自らの東大ブランドをかさに着つつ、同等の知能の東大の女は敬遠し、自分の優位を誇れる「バカな女の子」をよりどりみどりに集めて好き勝手し、まともなコミュニケーションも恋愛もせず集団でレイプする。この社会が男性優位な社会である限り、こういうことは起こり、男性ブランドとしていちばん高いものを持つ東大男子にこれは象徴的なことである。>

 男子新入生は、知りもしない先輩の起こした刑事事件に対しての、罪悪感をもたせられる。
 男性であるというだけで。
 男性の性は、根源的に「暴力」をはらんだもので、世間的に、つまり「悪」なのか?
 敏感な男ならばそう感じる。
 そして、敏感な男こそが、社会や女性や、ほかならぬフェミニストが、その資質を大事に育てたい存在のはずだ。
 しかしそういう敏感な男たちに、これは極度の緊張と罪悪感を与える。
 わずかな男性犯罪者のために、心ある多数の男性を傷つけてしまう。東大男子に犯罪者がいたのはたしかだ。これをフェミニズム学会で言ってもいいが、入学式で言うのは非道だ。わたしはそう思う。
 人が見たこと聞いたことというのは、基本的に、どこかに残る。どこかに刺さる。自分に当てられたメッセージならなおのことだ。あるときに、自分の、傷や不具合の発端として、意外なことを思い出すことがある。そんな記憶に、なりうるようなメッセージだと思う。これが刺さらないような人だとしたら、レイプはよくないという教育的効果さえ届かないはずだ。
 その反面で、敏感な男性の中に、神経症とコミュニケーション不全の芽を植え付けてしまうかもしれない。彼らは、コミュニケーション不全になるかもしれない。何を証明しようとしても、コミュニケーションは裏目に出る可能性はあり、だったら、はなから人とかかわらないほうがいい。
 そんなふうに考えてしまう人間が、ひそかに生まれるかもしれない。

 また女子新入生にとって、これを聞く意味と影響は何か?
 この環境の人口の半分かそれ以上を占める人々「男」が、信用ならないということ? 愛するに足らず、能力は低いのに甘やかされて、自分の利権を食う存在だということ?
 記念的なセレモニーでそう教えられることは、若い女性にとってどんな意味を持つのか。それは、その場とか、数年の単位ではわからない。

 これはまだ、いまだ問題となっていない問題なのだ。いまだ発現せざる問題なのだ。

 男にとって、若い日の記念すべきセレモニーで、知りもしない先輩の悪行を、同胞として引き受けさせられるのは、どんな気持ちか。それがどれほど神経症的な症状を彼らに引き起こしうるか。想像する力がないのだったら、教育などしないほうがいい。
 いかに能力の高い人が育とうと、その人があまりに人間不信だったなら、あるいは同性しか安心できないとでも言うのなら、それは、教育の大失敗なのだ。

 ジェンダー(性の社会的役割)の問題と、セクシュアリティの問題が、このスピーチでは混ぜられている。
 いや、セクシュアルな主体として、誰かを愛し、誰かに愛されたいと願う個人のことは、ほとんど扱われていない。
 人間はトータルな存在だ。
 トータルな存在とは、自分のかたちをわかろうとし、愛をわかろうとし、夢を持ったり持てなかったりし、それをかなえたいと努力したり、努力しすぎて心が折れたり、働きたいと願ったり願わなかったり、働かざるを得なかったり、仲間をつくったり、仲間と喧嘩したり、楽しんだり喜んだり、傷ついたり、人を好きになり、セックスをしたいと思ったり、人を好きになることやセックスすることに不安や恐怖を感じながらも、やはり人を好きになる、恋に落ちる、好きな相手と一緒にいたいと願う、それと同時に、ときにはそのために、勉強したり働いたりする……。そんな人たちだ。
 入学式に出る人というのは、そんなトータルな、やわらかい存在だろう。
 選抜方法に男女差別があり、同じことが、社会に出ても続くから、女子が不利益を受けることを正そうという話も、よい。それはたしかに正されるべきだと思う。
 しかしそのために、男性を敵視したり、女性の中に男性不信を植え付けたり、男性に自分への嫌悪をすりこんだとしたら、そこに憎しみの種を植える。対立をつくる。

 不平等は、ある。不条理も。断絶も。それらは、ある。
 そこに、トータルな存在として、虹の橋を架けようとする言葉は、どんなであるのか。

 誰を批判する意図もない。

 一緒に考えたいのだ。

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プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。