見出し画像

「愛と性と存在のはなし」第8回 〔男か女に生まれることの避けられない痛み〕 赤坂真理

※連載第1回から読む方はこちら

 わたしのことを話さなければならない。わたし自身の最も深い苦悩について。
 わたしの苦悩と、そのいちばんの核に隠された可能性について。
 その可能性について語るために、わたしはこのすべてをしている。

耐え難さと生きていくために

 それは、そうすべき対話の時間だった。相手が、誠心誠意そうしてくれるのを聞いていた。驚くべき告白を、聞いていた。息をするのも忘れて。わずかな息で、わたしは空気を吸うというよりは、言葉のエッセンスを吸う。それはわたしの中で痛むほどだ。
 誰かが、生まれてこのかた誰にも言わなかったことを言うとき、それはわかる。

 薬物依存症者の援助職に就く、かつて依存症当事者だった友人が言ったことをわたしは思い出す。
 薬物依存症は、きわめて致死率の高い病で、その致死率の高さは、実は自殺によるものだ。やめてからの自殺が多い。逆に言えば、依存症者とはある意味、依存によって自殺を踏みとどまっている人達なのである。
 依存症者の延長線上にあるのは、犯罪者ではなく、自殺者である。  ある耐えがたさとなんとかやっていくために、彼らは薬物を使う。アルコールでもセックスでも、そこにあった利用可能なものを。
 薬物を使ってでも生き延びようとする点で、彼らはまじめなのだ。なんとか時間稼ぎをして、希望を探しているようにも見える。その間に、薬物じたいの影響で死ぬこともあるのだが。でも、政府のスローガン「ダメ、ゼッタイ」が悪いジョークでしかないのは、薬物をやめて、それから自殺する人が、後をたたないからだ。
 けれど、生きることをひどく面倒だと感じたことのない人なんかいるのだろうか。いいときがあってもすぐ去って、不安や倦怠や退屈や孤独がやってくる。その繰り返しではないのか。ひたすら消耗していくのではないのか。人間の誰にでもある、こんな根源的不安。依存症者たちは、ことのほか「本質」を見据えてしまった人たちのようにも思えるのだ。やり方がかなり不器用でも。
 友人に、生き延びて回復する人に特徴はあるのかと訊いたことがある。彼女は答えた。
「どこかで、打ち明けられた人。何も言われず、ただ聞かれる場所で」

ありふれた狂気

 これは、そういう場と似ていた。
 打ち明けること。人生のある地点で、存在をかけて。生きるために。
 聞くこと。人が存在をかけて語ることを。
 わたしは、淡々と語られる狂気を聞く。なぜ耐えてこられたのかと思う。目の前のやわらかな男の人。やわらかな褐色の膚に包まれて、静かな目をしている。なぜ魂がやわらかなままに保たれたのかわからない。それを思うと、胸が詰まって、苦しくて、いとしい。
 ありふれた狂気。こんな。
 この国インドでは、結婚は親が決める。
 たしかに独身は心もとなくて、家族につながりを持ちたいとは思うけれど、結婚するのは知らない女性。愛がない。二人の若い男女が一緒にいれば愛が生まれるだろうというのは希望だけれど、間違ってる。セックスはあるけれど、ただのセックス。さいわい自分は、若い頃に大きな仕事に抜擢されて、安定した収入を得ることができた。それで自分の家族と、七人のきょうだいと、従兄弟とかの親族を養った。長男なのでそうする。
 生まれた位置がすべて。宗教的運命観の構造。すみずみに浸透している。それに乗れれば、システムに運ばれて動くだろう。さいわいうまく回った。物質的に何の不足もなくなった。けれども、愛がなかった。わたしは瞑想と出会うまで、誰とも人間関係を築けたと感じていなかった。特に女性とは。女性におそれがある。
 わたしはわたしの愛を、誰とも分かち合うことができない。わたしには、こんなにたくさんの愛があるのに。

 泣きそうで泣かない、静かな瞳。それはむしろ血を流しているように感じられる。
 やわらかな膚を切れば流れる血のように在る、愛。
 それを彼は、誰とも分かち合ったことがない。
 聞きながら、浮かびあがってくるたくさんの夜。
 ドアを開けて。明かりを落として、服を脱いで。一枚一枚、脱がせて。
 そうするものだから、する営み。期待されているからする営み。何に? この女にか、あるいは社会にか。どちらも本当は好きじゃない。でもがっちり縛りつけられている。そうでなければ、生きていけない。一人では生きていけない社会。本当によくできた互助社会。そこから外れるのはアウトカーストくらいリスキーに感じる。こわくてとてもできない。責任を投げ出すこともできない。眠る部屋にも自由はない。裸になっても心は分かち合えなくて、いつも、失敗しないことだけを考えている。できれば早く終わってほしい。セックスを気持ちよいとか美しいとか思ったことがない。自分の体が嫌いだ。かたちも機能も。一瞬の、放出の、そのときだけの、ちいさなピーク。あとはひたすら恥ずかしい。罪悪感で消えたい。誰としても同じ。

 どのみち離婚は認められない。決められたことならかえって楽だ。考えなくていい。

 興奮はすぐ醒めて、何をしたらいいのかわからない。髪でも撫でればいいのか、わからない。この女性が何をすれば喜ぶのかわからない。わたしを愛しているのかわからない。自分がわからないのに、聞けやしない。心を開くことができない。話す言葉が続かない。何に興味がある人なのかわからない。ああ軽妙な話ができたなら。でも興味が一致しない。そもそも自分の興味がよくわからない。家族や親族のためにだけ働いてきた。わたしは成功していて、それでいいと思ってきた。でも、本当はなにがしたいのだろう。
 
 こんなに生きてきたのに、自分が誰だかわからない。
 不意に、聞いているわたしに、ある感覚がやってくる。
 同じひとつの水の中にいるような。
 この感じを知っている。なつかしい。
 存在の源泉に触れているような。
 言葉の下にある、存在のようなものに触れていて、いや、その中に、自分たちは浸されていて。

誰もが男か女に生まれる痛み

 前にもこんなことがあった。母が死ぬ直前だ。この4か月くらい前だ。

 死にゆく母の枕元で、ある告白をした。母はもう相槌も打てないし、目で語ることさえできなかった。瞳はただ靄のかかったみずうみのよう。永遠のまどろみにたゆたう人に、わたしは告白した。いや告白が、自分の底から湧いてきた。母のベッドの周りを歩いていて、ある場所に立った時、告白が自分から湧いてきたのだ。
「わたしは、あなたを守る男の子として生まれてくるはずだった。息子としてあなたに愛し、愛されたかった。ごめんなさい。ああママ、ごめんなさい」
 泣きながらわたしは言った。なぜ謝っているのかわからないまま謝っていた。

 彼女との間の愛と不和、お互いにあまりに下手に愛し合ったその軌跡、そういうことが、自分でよくわかる気がした。ごめんなさい、放蕩娘でごめんなさい。大事にできなくてごめんなさい。究極の悲恋の恋人たちを見るように、二人の人生の総決算を見ている。泣いている自分と、理解している自分を、同時に見ている自分がいる。あの、何をしてもだめだった感じ。何も届かない感じ。差し出されたものを受け取れない感じ。自分の種明かしのような。自分で自分に話して聞かせる自分の物語のような、そんな自分の告白をわたしは聞いていた。不思議と静かな水のような空気の中で。
 そしてそこには自分を癒す不思議な力があった。

 自分が性同一性障害だと言っているのではない。
 いや、そうであってもいいが、だとするなら、今流通している概念の中身が、大雑把すぎて乱暴なのだ。

 性同一性障害は、体の性別と心の性別がちがう、という。
 乱暴だ。それゆえに多くの人が自分をつかみそこねる危険すらある、と思う。
 性は、もっと多面体のようにできている。ある面では、生まれ持った性と一致できてくつろげ、別の面ではおそろしく違和感を抱く。そして違和感がちいさな面であったとしても、それが最重要でないということはない。
 そして性同一性障害は、「犯人探し」を避けるために、親の育て方などのせいではなく脳のちがい、とされている。でもそれは仮説であり、便宜上創り出されたものだと思う。
 わたしは、性同一性障害の多くが家族由来な気がしている。誰が悪いというのではない。

 誰しもが、男と女から、男か女として生まれる、家族というものの、そのことそのものにつきまとう、根源的な痛みや、ずれがある。
 だから誰にでもありうる。

 ねえママ、
 わたしはわたしの思うようなものではなかった。
 なりたいと思ったものには、ことごとくなれなかった気がする。
 でも本当になりたかったのかしら。
 なりたかったわたしって何?
 わたしは、女?
 でも今が、かつてなくわたしは女という感じがする。不思議な感じがする。
 ママ、ねえママ、なんというか、
 …………ありがとうね。
 
 異国のテラスで、目の前の男を見る。
 ああ、
 この人は、
 なんて、
 なんてわたしなの。
 鏡に映ったわたし?
 そう思うと、微笑めた。
 鏡の中に入っている。
 彼の中から自分を見るような感覚がやってくる。膚の中を流れるあたたかな血。黒い静かな瞳。その深さあたたかさの中に、自分をおさめる。

 自分が発見される。
 欠けたピースが埋まるように。
 しかし本当は、欠けたものはなにもない。
 わたしは話し始める。
 それをもうひとりのわたしが聞いている。

「わたしの苦悩は、愛があってセックスがなかったこと」

そして大人がいなくなった

 「セックスの起こし方がわからなかった。
 男女が二人いて好意があれば、セックスは自然に起こるかと思っていた。そうではなかった。セックスはどうやら自然なものではないらしい。そんなこと誰が教えてくれた? ていうかなぜ? そうやって増えてきたのに。わたしの社会では、そうなのかしら。わたしたちの社会が、何かをなくしてしまったのかしら。なくしてしまったのはたしかなのだけれど、それが何かを言うのは難しい。
 
 平和がいちばんと言われて育った。
 平和はたしかにいいことなのだけど、均衡の破り方がわからない。のっぺり平和。男は、暴力を使ってはいけないと教え込まれて育つ。とにかく、力を使っちゃいけない。それって優しい。優しい男がわたしは好き。一緒にいると、同性が二人いるような感じ。いいんだけど、何か、どこかに掻けないかゆみがある感じがする。仲がいいけれど、愛すべき存在だけれど、セックスが起こらない。無理に起こそうとすると、愛が死んでゆく。
 浮気をしたことが何度かある。セックスがしたかった。必要だった。それで、セクシーな気分になれて、家でもしたい気分になれたら万事丸く収まらない? 要するに当て馬? 

 すると、見事に暴力的な男を呼んだ。フィジカルな暴力をふるわれたことはないけれど、言葉の暴力だとか、わたしには優しい、どこかの家のDV亭主だとか。
 あるときその妻が来て「彼DVなんです」と、なぜかにこやかにわたしに言う。そうなんだ!? そんな男、どうよ!? と思わずガールズトークしそうになる変な状況、でもここでにこにこしてるあなたが気持ち悪いよ、と妻に、心底おもう。その男に心底さめる。したい男って、絶対、人生をともに過ごしたくなんかない人たちだった。わたしには浮気の才能がない。たぶんだけど、女にはだいたいこれがあんまりない。うっかり軸足うつしそうになるのだ。

 こりごりして、家に帰って、
 もう、ひとりとだけセックスすると決める。
 一人の男にすべてを求めるのも酷な気もしながら。
 セックスのためにセックスをする感じ、あの、砂を嚙むような感じ。
 だんだん鬱になってゆく。
 毎朝起きると一日寝ていたい。
 機嫌はほとんどいつも悪い。
 そしてすべて破壊したくなる感じがやってくる。
 憎みだす。
 なぜだかわからない。
 わたしは今まで二度、人を殺してしまうかもしれないと思ったことがある。
 ふたりとも、いちばん大事な人だった。
 なぜ、いちばん壊したくないものこそを、壊したいの?
 なのにそこから離れられないのはなぜ?
 そもそも、愛していなければそんなに憎まないのは、なぜ?」
 
 そして言い切れない言葉が内側で渦巻いている。
 わたしの生きてきた社会は、あなたの社会のちょうど逆みたいな感じ。
 へんな出会いだね。世界でいちばん人口増加している社会の男と、世界でいちばんくらいに人口減少している社会の女。

 わたしたちは極と極。
 わたしの社会のことを話しても、たぶんあなたは理解しない。その特異な壊れ方、特異な苦悩。わたしたちにもわからない。だからわたしは考える。きっと戦争と戦争の経かたが関係してる。でもそのトレースは、もうすぐ消えきる。その前に考えの種子を残さなければならない。
 あなたの社会が、長い時間をかけてイギリスの支配を排除したのと逆かもしれない。わたしの社会は、アメリカの支配を受け入れた。けっこうすすんで受け入れた。世界で最も成功した占領統治だと言われている。支配されている人が植民地だと気づかない植民地って、最強じゃない? それに抵抗する言葉も消えていき、今はもうほとんどない。

 家制度や家族は壊された、その後の世界をわたしは生きてきた。
 もちろん社会的なことだけじゃないんだけど、集合性を強く感じてしまう個人がたまにいる。その悲しみやら痛みやら構造やら何やかや。
 それこそが、個人の資質なのかもしれないけど。
 わたしたちの昔の社会は、戦争が終わって、占領軍のアメリカに解体されたのだけれど、人々がそれを望んだのだろう。歓迎した。本当は、したくなかったんだ、愛のない結婚を。戦争の前までは、あなたの社会みたいだった。人々はお見合い結婚をし、一度も会ったことのない人と、そういうものだと思って結婚した。 

 愛がない。
 セックスがある。
 子どもができて、家が続いていく。そういう世界。安定再生産。
 家が絶えることは、何より怖いことと刷り込まれて、それが愛より何より大切だと教えられて、それを信じてきた。それで人々は相互に縛り合って、でも結束は強かった。子どもの数も多かった。

 あなたの話を聞いて、父を少し思い出した。
 父は一生のうちに、正反対の価値観を生きた。長男で、父親が長く不在だった一家の家長代理として十代から生きて、戦争中を生きて、働いて、結婚してから、アメリカのホームドラマのパパみたいになった。
 でも、家は古いままだった。わたしの家は、同級生たちの家より少し古い価値観があった。祖父母が同居していたからだし、たぶん父が親族と事業をしていたから。
 わたしの父は一代で事業を成功させて、一代で失った人で、それでわたしの原家族には、一家離散っぽいフィーリングがある。

 昔、父のところに、こそこそやって来た親族を、よく覚えている。要するにお金をせびるか、仕事の斡旋を頼むか。そう、一族で成功した家長のところに、みんなたかりに来る。たかっていいことになっていた。それが互助社会。あなたも大変だったろうね。少しわかる。それで誰も追い返さなかったのだろうね、あなたは。責任感が強いのか、人がいいのか。そういうところ、わたしは嫌いじゃないけれど。

 わたしたちの社会は、そういうものが急激に崩れて、代わるものが「会社(カイシャ)」という脆弱で酷薄なものしかなくなった。だから会社に入れないことが、人格否定にまでなってしまった。
 大人がいなくなってしまった。人の一生の選択に、介入してくる「大人」がいなくなった。絶対結婚しなさいとか言う大人はいない。当てこすりを言うことはあっても。子どもは、自由なようだけど、どうしていいかわからない。

 恋という偶発的なものに、賭けなければならない。
 それってけっこうたいへんなことではないか。誰とでも起こるわけじゃないから。
 仕事も何もかもしながら、全部が等価な選択肢のように開かれている。
 学校を決め、仕事を決め、恋愛まで自分でするのはたいへんで、そのどれかや、ぜんぶから、降りる、と言う子どもが出てくる。
 ぜんぶ、子どもが決めなくてはならない。その過酷さに、子どもがつぶれてしまう。どこへも行きたくない、家から出たくない。何年も、何十年も。そんな一人になる可能性があったと、自分のことを思っている。
 なんでも自分で決めなくてはならない。
 その上セクシュアリティなんて、自分のものなのにコントロールのきかない変数も入ってくる。

 どうしたらいい?
 もうお手上げな感じ。
 そして、誰も愛について教えてくれない。

相対性としての男と女

 感謝を示したかった。
 心を開いて打ち明けてくれたこと。
 誰にも言ったことのないわたしの苦悩を聞いてくれた人。
 外国人から、「同じ人間」になった初めての人。
 感謝と言うには軽い。
 なんと言ったらいいのだろう。
 言葉はなくて、ただ触れる。
 言葉はなくて、ただ触れられる。
 触れていいですかともきかない、どちらも。
 ゆるされるのは知っている。ただ引き合う。
 なめらかな膚や、やわらかな頬、指でたどってみる鼻のかたち、鼻で鼻にさわりあう。できたての何かのような鼻のやわらかさ。それで笑ってしまって息を感じる。睫毛を見ている。誰がつくったのか、耳の造影には驚嘆する。まるで耳というものを初めて見る人のように。続いている首筋、それと肩をつなげる筋肉。肩口と二の腕のライン。
 心臓の鼓動に耳をつける。
 どこか遠い星から聞こえるパルスのような。
 それらすべての、純粋な驚嘆。
 触れられてはじめて立ち上がる自分のかたちがある。
 自分がいる。自分が自分を知る。
 
 そして愛は、突然在る。
 
 どこに在ったか知らない。
 なぜこの人かもわからない。
 好みとも関係ない。
 どの愛と比べて上でも下でもない。
 愛は感情じゃない。
 あ、そうなんだ、
 愛は感情じゃなかった。
 ただ在る。
 こういうものか。
 はじめて気づく。
 人はこんなふうにセックスすることもできるんだろう。
 これ人類の可能性だな。
 攻撃性なく、
 純粋な興味から、純粋な驚嘆から。称賛から。
 あなたってうつくしいね、と。
 手はただ吸いついていく。
 極と極。
 男と女というのは、固定でなく、相対性で成り立つものかもしれなかった。
 男になるものがあって、女になるものがある。
 +になるものがあって、−になるものがある。

 そのとき不思議なことに、わたしは初めて同性愛の体感を理解する。 
 同性愛とはきっと、同性を異性と感じる感性のことだ。
 そうでなければ電気は流れない。
 だから、男と女の間にある可能性をまず語りたかったのだ、と知る。その分断や対立や政治や要求ではなく。でなければ多様性なんか語れない。
 そこにある、ほとんど手つかずの可能性に、そっと触れる。

連載第9回へ進む

連載第7回へ戻る

プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信中です。ぜひこちらもチェックしてみてください!