見出し画像

赤坂真理「愛と性と存在のはなし」第9回 〔すべての身体と心にはズレがある〕

※連載第1回から読む方はこちら

性の管理とその犠牲

 この連載の第1回で、提示した命題を覚えているだろうか?
 よりわかりやすく言い換えて、もう一度繰り返す。

「すべての個人は性的マイノリティである」

 自分はヘテロセクシュアルだから普通、などと思っていると、人生が非常に生きにくい。これからますます生きにくくなるだろう。伝統価値の崩壊が世界一くらいに速い戦後日本社会では、特にそうだと思う。
 おおまかに多数に属しているだけで、異性と結婚したところで、「普通に」「自然に」起こることなど、もはやひとつもない。もともとそうだったのだが、共同幻想や、その強制が強くて「自然に」起こるように見えたときがあった。その共同幻想はもうないか、なくなりつつある。

 およそ文明と共同体維持の要諦とは、ずばり、性の管理だった気がする。もっと言えば、「女」の管理だったのだと。

 唾棄すべき男性支配原理の世界だった、などと言いたいわけじゃない。女しか子どもを産まないから、共同体の人口や血統や価値観の保持のためには、女しか、管理する価値がないのである。男は、そこを突き詰めると数ccの体液であり、しかもその液体の行く末を追うすべがない。宙に浮いた感じ。だからこそ男は、「立場」というものをあたかも具体物のように保証する架空システムを、考えずにはいられない。それは陰謀というより、まずは実存不安なのだ。その被害をこうむったことがある女性であったとしても、もし自分がそういう生理を持っていたらどう発想するか、一度は考えてみる価値がある。性のことに大切なのは、まずは深い想像力だ。その想像力が、一人ひとりの中に、まだ決定的に欠けている。  

 文明と共同体の核にあるのは、そういった、実利や、実存不安のあれやこれをないまぜにして、オブラートに包んだり粉飾したり、時に脅しをきかせたりして説いてみせたもの、ではないだろうか。
 レヴィ=ストロースが発見した「未開社会」での近親相姦を巧みに避ける婚姻システムから、ヒンドゥー社会での同じ階級内でのお見合い婚や(それは生殖人員の効率的なマッチングであり、階級縦断を未然に防ぐシステムでもあると思う。自由意志とは、誰を好きになるかわからないことだから)、多くの宗教の結婚離婚にまつわる決まりやタブーや、キリスト教の原罪意識まで、すべてそうであるように思う。

 そしてその「犠牲者」は、女性ばかりでなく男性でもあったのだと。
 特に現代では、それに苦しみ傷ついている男性が多くいるのを、わたしは知っている。共同体規範と抱き合わせにある宗教は、罪悪感を擦りこむことをベースにする。罪悪感を擦りこむことが、支配にとっていちばん少ない投資で効果があるからだ。支配者たちは、自らは手を汚さないために、それを神が言ったことにした。
 かくして、やわらかな心たちは、傷つく。 
 もう何も感じたくないくらいに傷つき、今度は心を固くする。
 やわらかな心があるなら、誰でも、それに傷つき、縛られて苦しんだはずだ。

すべての人は「性同一性障害」である

「人間だけが、『存在(イグジスタンス)』ありきで生まれてくる。他の動物は『その種を種たらしめる特徴(エッセンス)』のみで一生を生きる」

 そう聞いたことがある。その話を聞いた時、衝撃を受けたのを覚えている。
 ゆえに、人間だけが自由意志を持ち、人間だけが、不幸にもなれるのだ。
 動物は不幸になることはできない。
 自己イメージに苦しむカバはいない。草を喰むばかりの退屈な毎日でいいのかしらと悩む牛も、オスの役割にはもううんざりで降りたいというインパラもいない。発情しないキリンはオスメスともにいない。温暖化で住処をなくしても、シロクマは不幸にはなれない。たとえ今、この瞬間に飢え死ぬのであっても。

 人間だけが、いろいろな「ズレ」を感じることができる。
 そこに、不幸になる可能性と幸福になる可能性、両方が同時にある。
 ズレは本当に日常的にあり、多岐にわたる。
 この異性に欲情するけれども心では軽蔑している、とか。その状況に身悶えことで感情的により抜き差しならなくなっていくような、興味深い心理も人間は持っている。こういうのはドラマの定番である。いろいろな位相で、身体と心はずれている。行動と感情はずれている。敵陣営の人間を愛してしまったなどというのも、人間が愛好するドラマである。動物には、ない。
 それは、存在と本能の間のズレ、であるかもしれない。

 そこで、生まれ持った性に心がズレを感じる、という現象も起こる。
 根源的な、自己のズレである。
 これは、セクシュアルな用語的には「性自認」のズレと言われるものだが、一般に言われるほど大雑把なものでも、逆にマニアックな区分でも、ないと思う。ほとんどすべての人の中に、日常的に、細かく点在している。

 自分の生まれもった性に違和を感じる。
 それにくつろぐことができない。
 嫌悪する。
 人間だけが持てる悩みであり、昨今それへの注目度は上がるばかりで、下がることはない。今では第二次性徴期前の骨がやわらかいときに反対の性ホルモンを摂り始め、より完璧な、なりたい異性のかたちに近づこうとする医学的アプローチの傾向も、その領域の「先進的」アプローチとしてはあるのだという。「先進国」ではそういう傾向になっている、などとも当事者たちから聞くことがある。それが長い目で見て、人を本当に幸せにするかは別にして。望む完璧な女のかたちになった男が、あるとき、男として女を好きにならないとは限らない。そのとき、彼/彼女の性的違和感は、別の意味でマックスになる。その時、うまく捨て去った男性のかたちを、歯ぎしりするほどに取り戻したいと願わないとは、言えない。そこにはまだ追跡調査さえ行われていない。

 しかし、わたしは言ってみたい。
 究極のそもそも論。
 
「すべての人に、性的な身体と心のズレは、あるのだ」と。

 性同一性障害とはなんだろうか。
 現在では「身体の性と心の性が違う(ずれている)こと」という定義が定着している。なお、現在では、医療基準としては「性同一性障害」という用語は使わず、「性的違和」と言うが、一般社会によく知られた用語が「性同一性障害」なので、わたしは今はこちらを意識的に使っている。
 この「症状」の理由としては、胎児の時、つまり脳の形成期に、何らかの理由で身体の性と逆の性ホルモンのシャワーを浴びたため、とされる。
 しかし内側と外側がきっぱりと違うような人が、どれだけ存在するというのだろう。それは思い浮かべてみれば戯画のような人だ。まじめにいるとは思えない。いやもちろん、いるのだが、そんなにきっぱりと分かれてはいないはずだ。それはそれで、大まかすぎて暴力的に感じてしまう。明らかに、目的ありきでつくられた定義なのではないか。
 はっきり言って仮説だが、仮説にしてはかなり乱暴なことを信じさせようとする。もちろん、脳の問題とすることで、自分責めや、親の責任追及にはまりこむループに入り込まなくてすむ効果は、認める。
 しかしむしろ、これによって見えなくなるような、微細な性同一性のズレが、多くの人の問題だとわたしは思うのだ。

 たとえばーー

 いわゆる草食男子、つまり女性的男性。女性的世界の中で生きやすくなるために女性的になった男性。
 好きな人とセックスするときにできない男性。
 恋愛は好きだがセックスが嫌いな男性。
 恋愛は好きだがセックスが嫌いな女性。
 デートは好きだがセックスはしたくない男性。
 デートは好きだがセックスはしたくない女性。
 セックスしても射精が嫌いな男性。
 射精をどこか汚いと思っている男性。
 射精に罪悪感や嫌悪感を抱く男性。
 男であることの潜在的な暴力性を嫌悪する男性。
 異性が好きでセックスも大丈夫だが、妊娠出産に不可解な恐怖を抱く女性。

 できる限りの繊細さで、自分の性的違和を調べてみなければならない。
 そして自分のかたちを、可能な限りごまかすことなく認識する。
 自分のために。
 権利のためなんかじゃない。
 自分のために。
 いちばん大事な問題は、自分自身とどううまく在れるか、だ。他人はどうでもいい。他人と何一つ比べなくていい。劣っていることはなにもない。劇的である必要もない。すべてはそうであるだけだ。あなたはそうであるだけだ。そうであることからしか始まることができない。他人をごまかせても、自分をごまかすことはできない。ごまかしたら抑圧してしまう。それがちいさな部分であっても、そこが最重要でないということはない。自分自身とうまく在れない人が、他人や社会とうまく在れることは、ない。決してない。

精密な鍵穴のかたちを求めて

 このことは、より文学的な表現をするなら「すべての人が内側には男女両性を持つ」ということである。
 が、そういう調和的な言い方ではなく、わたしはあえて「すべての人は性同一性障害である」とここで言ってみたい。
 ひとつには「障害」と言ってみることで、それをコントロールしたいという願望を手放せる。自分が弱いから、とか、努力すれば適応できる、などという考えに大切な知力や体力を使わなくてすむ。
 細かく、モザイク状に、一人の中に同一性障害は点在している。
 それは一人の全体として見たら、1%ほどの領域であるズレかもしれない。けれど、かなり、感知できる。無意識にもそれがある限りは、行動や反応に、かなり影響する。1%だからとるに足らないとは決して言えない。1%が全体を覆すときも、あるのである。無意識のままに置いておいたら。
 逆にそれを意識的に取り扱って、自分のものにしてみたら、それは資産となりうる。それは似た人に出会える、シグナルでもある。

 そのズレのざらっとした感覚だけが、はじめて意識させるなにものかがある。
 生の断面を見せるズレだけが、はじめてたどらせてくれるわたしのかたちがある。

 それをわかって認めた時、はじめて、それありきで生きていくことを学ぶ。
 そうして、何をすれば満足なのかを知る。
 はじめて、努力の余地がそこに生まれる。
 自分が自分を認めていないとき、何が欲しいかわからない。「多数」の欲しがることをまねして欲しがってみたりするけれど、それは疎外感を強めるだけだ。だって本当は別に欲しくないのだから。欲しいものがわかってはじめて、努力というものも可能になる。
 それが大多数とちがっていようがかまわない。
 自分のかたちが本当に微細にわかっていれば、それに合うことも、本当に限られる。
 精密な鍵穴は、精密な鍵でなければ開かない。
 複雑な海岸線のように、唯一のかたち。
 そのことに文句を言う気がなくなる。
 もともと「それ」であるだけだと知る。
 その時、本当の意味で、わたしはわたしなのだと思う。

連載第10回(最終回)へ進む

連載第8回へ戻る

プロフィール
赤坂真理(あかさか・まり)

東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信中です。ぜひチェックしてみてください!