見出し画像

赤坂真理「愛と性と存在のはなし」最終回 〔セクハラ論議はなぜ一面的なのか――言葉をめぐる落とし穴〕

※連載第1回から読む方はこちら

「セクハラ」という言葉が見えなくする真実

 愛と性をめぐる問題系の中で、最もありふれたことのひとつなのに、議論が一向に深まらないことがある。いわゆる「セクハラ」の問題である。「セクハラ」と聞くと、良心的な男性の多くが、どれほど身構えるものかを、わたしは知っている。一方で「セクハラ」を受けたと感じる側が、どれほど驚いたり不安定な気持ちになったり傷ついたりするものかも知っている。
 これは女性とは限らない。性的な傷は男性から女性に付与されるもの、とは限らない。いわゆるフェミニストの多くがそう考えて、男性を女性の敵呼ばわりするのは、痛恨の至りである。男→女の例が多いのは事実だが、その理由については別の機会に論じてみたい。
 これから話すことは、セクハラは男性の行為とするものではなく、むろん男性を論難するものでもない。同時に、受けた側の落ち度を責めるものでもない。

 「セクハラ」という用語自体の、有効性についての話である。

 今のセクハラ議論は、誰をも防衛させるだけ、という気がしている。もしかしたら「セクハラ」という語を使うことで、誰にも真実がわからなくなるのではと疑う。社会全体にも。訴えた本人にさえ。
 わたし自身の経験をきっかけに、「セクハラ」という言葉の有効性を疑ってみることで、この問題を考えてみたい。

「あってはならないこと」なのか?

 先日起きたある出来事をきっかけに、わたしは「セクハラ」という用語自体の有効性を疑うようになった。

 ・その用語を使うことで、傷ついた本人の回復が遅くなる可能性が高いこと。

 ・いわゆる「セクハラ」は、今思われているようなものではなく、別のことに近いと思うに至ったこと。

 また、当人も含め、誰がどんなに気をつけても、誰かが性的に傷つく事態というのは、なくなりはしないと思っている。
 「セクハラ」は、「あってはならないこと」というより、起きる構造をまず知って、「起きたらどう対処するのがいいか」という発想をしたほうがいいように、わたし個人は思っている。いじめでもそうだが「あってはならないこと」とすると、みんなが硬直し、ひいては社会全体が硬直する。

当事者としての真実

 先日わたしは、ある男性アーティストのモデルをしに行った。彼が、休憩時間に「君も見る?」と言って、服を脱ぎ始めた。何をきかれたのかのかもわからないまま、彼は全裸でわたしの前に立っていた。その風景がなぜか、すごくショックだった。ショックで固まっていると、引き寄せられて、キスされた。「キスはやめて」とだけ言った。そのあとは、モデルをこなした。
 家に帰って数時間して、とつぜん、鞄に突っ伏してわたしは泣いた。

 少し落ち着いて考えた。
 異様なことが起きたと思っていた。しかし考えてみると、むしろよく聞いたことのあることだった。
 「モデルに行った人が性被害に遭う」
 しかし、よくあるということと、傷つかないことは別だ。傷ついているからこそ、訴訟案件もとても多いのだろう。わたしの神経はまだ細かくふるえ続けていた。

 なんで自分はこんなに傷ついてるんだろう? と次に考えた。
 「被害」とすれば軽いはずだった。レイプされたわけではない。差し迫った身体への危害も加えられていない。ただ、世界に対する信頼が失われた。それは被害だ。それでも、いや立証できないだろう、とか、男の裸を見たくらいで驚くな、とか、キスくらい減るもんじゃなし、とか、そんな反応がありそうだ。
 昔から「露出狂」という性犯罪カテゴリーはある。見るとショックを受ける人が多くいるので、あるのだろう。
 だが、そもそもどうして、あれで世界への信頼がそんなに失われるのか。
 わたしの世界が安全じゃなくなったからだ。とつぜん相手が位相を変えると、わたしの世界は安全でなくなる。ものすごく侵入された感じがする。
 考えがぐるぐるしはじめた。
 そのとき、自分が自分に言ったひとことが、自分を救った。

「なぜ」傷ついたのか、と問わなくていい。

 「傷ついた」は、「傷ついた」だ。
 それでいい、そう言っていい。
 理由がうまく言えなくていい。
 これがセクハラの要件を満たすのかと考えなくていい。
 被害としたら小さなことかもしれなくて、こんなことで傷つくわたしがおかしいんだろうかとか考えなくていい。
 わたしにも落ち度があったのでは、とか考えなくていい。
 相手が100%悪いんじゃないってのもわかってていい。

 ただ、言っていい。
「わたしは傷ついた」 
「わたしは性的に傷ついた」
 セクハラだろうがなかろうが、他の何かだろうが、「傷ついた」ことだけはわたしの事実で、それを誰も否定することも奪うこともできない。

 それが「セクハラ」なのかどうかさえ、どうでもいい。
 わたしは傷ついた。
 それだけがわたしの真実だ。

 自分にそう言った。
 自分がほっとした。
 その夜の眠りが、やっとやってきた。凍りついたそのときから感覚が麻痺している左腕は、まだ感覚がないままだった。

「セクハラ」という言葉の落とし穴

 ショックを受けたならショックを受けたと、傷ついたなら傷ついたと、言うこと。

 気づいてみれば簡単なことだった。
 理由をまず説明できなくたっていい。まずは自分のために、傷ついたと認めればいい。認められれば、それだけで傷はずいぶん軽くなる。ちゃんと認められた人だけが、自分を癒すことができる。裁判と、回復は、まったく別のことだ。

 それを言うことに、資格も承認も要らない。
 まずは自分だけに言うことだ。嘘偽りなく。
 自分が過敏なだけじゃないかとか、弱いだけじゃないかと言う人がよくいるが、あなたが過敏だろうと、メンタルが弱かろうと、それは関係ないし、恥じる必要もない。自分の感情と感覚だけは自分のものだ。そのことにかけて、ただ傷ついたと、言っていい。
 このやり方なら、男性も使える。
 知り合いの三十代男性がこういう話をしてくれた。初対面の女性に、諸条件から、「落とし」にかかられたのか、いきなり内腿をさわられた。後で検索してみたら、どうやらそういう「落とし」のテクニックが女性の一部で流布しているらしいと知った。彼はその場では驚いて、とっさに何も言えなかったが、そそくさと辞去して、その人には二度と会いたくなかった。
 これを「セクハラです」とその場で言うことはむずかしい。特に、男性から女性に言うのはむずかしい。
 でも「いきなりそこをさわられてびっくりしました」と言うことは、自分の真実として、できる。

 まずはそこになんのラベルもつけないこと。

 わたしにとって「セクハラ」という言葉で発想することには、単純な落とし穴があった。
 これがわからなかったら、わたしの回復は、もっと時間がかかったはずだ。

 「セクハラ」という語は、犯罪用語であり、訴訟用語だ。
 このために、言うほうも、言われるほうも、防衛をする。

 言われる方が防衛するのはともかく、言うほうも防衛する、とはどういうことか?
 「自分の落ち度をとられないように」と発想するからである。自分は訴える資格を備えているかと発想するからである。
 裁判としては、それでよいかもしれない。落ち度が認められたら、裁判では負けかねないのだから。が、自分の回復となったときに、「落ち度がないように」という発想は、真実を隠すか歪めることがある。少し改変された真実は、当人からも、事実を隠してしまう。
 これは「当人にも非がある」ということではない。 
 まずは自分のために、起こったことを受け止めて、自分が傷ついたと認めることが大事なのだと。それをするためには、「セクハラ」という語が落とし穴になるかもしれないという話をしている。
  
 傷ついた人はまず、傷からの回復をしたいのだ。
 自分の記憶や感情の中でさえ防衛をしてしまうと、何が起きたかのかたちが微妙にでも変わる。そうすると、本当に必要な助けを求めにくくなる。
 助けを求める、ベース自体のかたちが変わっているからだ。
 まずは、自分に対してだけは、「自分に落ち度はない」という防衛をはずしてほしいと思う。
 そして仮に「落ち度」とやらがあったとしても、そのことがあなたの尊厳をなんら損なうものでもない。また、それが「不利」になるとされている枠組みのほうが、実はおかしい。このことは今から考えてみたい。

議論の枠組みを疑う

 報道される、いわゆる「セクハラ事件」を見ていて、不思議に思うことがある。
 訴追する人の、相手への感情が、まったくわからないところだ。
 どのケースも、大嫌いで卑劣な相手から、なんの落ち度もないのに辱めを受けた、という構えになっている。要約が過ぎるのか、こちらはひとかけらの好意も持てないような卑劣な相手から、一方的に侵入や攻撃を受けたことになっている。
 
そういうケースもあるにはあるだろう。
 だけど、その人に対する、原告の感情は、最初からずっとそうだったのか? と思う。
 人と人との傷は、好意がベースになっていた場合のほうが、深くなる。距離が近くなるし、関係が深いからだ。
 多くの「セクハラ」には、最初は双方に友好的なところもあったのではないか、とわたしは思う。

 けれど、たとえ最初は基本的な好意があったのだとしても、そのことは隠されるだろう。なぜなら訴訟では「不利になる」からだ。だから原告が被告を最初は好きだった、ということがあったとしても、それは隠される。
 訴訟としてはそれでいいかもしれないが、本人がそう思い込むことには、心理的なダメージがある。記憶の改竄が起きてしまう。
 自分のケースを振り返ってみると、相手とは最初は友好的だった。だから至近距離でパーソナルなモデルなどができる。自分のケースがすべてとは言わないが、多くの場合、最初は友好的、あるいは金銭などのメリットがあるなどのベースで、相手と関わっていた可能性は高いのではと思う。 

「だから落ち度がある」という話ではない。
それはあくまで「セクハラ訴訟に不利になる/有利になる」という枠組みでの考え方だ。
 「有利不利」という考えが発生してくる、セクハラ議論の枠組み自体が違うのではないか、と言いたいのだ。

 わたしの知り合いの男性大学教員が、女子学生に対するセクハラで訴えられるということが現実にあった。
 わたしはその男性が友人として好きだったので、びっくりして、少しショックだったのを覚えている。そのうち別の友人から、「あれは恋愛だったのだ」と聞いた。恋愛ならわかる、と思った。またしばらくして、相手の女子学生の親しい友人でもある別の友人から、「別れるなら単位をやらない」と先生が言ったとか言わなかったとかいう話を聞いた。脅したということ。

 この中のどれが真実か、ということをわたしはぜんぜん問題にしていない。当人たちにしかわからない。
 ただ、このケースはヒントになる。
 
 思うのだが、セクハラの多くは、途中まで恋愛的だ。
 だから悪いと言っていない。
 ただ、この事実は隠されるだろう。訴える人にとって不利とされる。

 しかし、もし恋愛関係にあったなら、セクハラ訴訟に不利、というのはまったく的外れなことだと思う。
 それこそが、あらためられなければいけないところではないか。
 恋愛や、それに類似した至近距離だからこそ、パワーの行使は効果的だったのだから。
 だとしたら――。

セクハラとは「DV」である

 不意に洞察がやってきた。

 セクハラは、「DV」と同じくくりでとらえられなければならないのではないか?

 そうでなければ、至近距離の暴力を、捉えることはできないのではないか。
 こう捉え直してみないと、「セクハラ」議論は、いつまで経ってもどこへも行き着けない。そんな気がしている。
 
「どんなに恋愛関係にあろうと、他人にしてはならないことがあること。そこで立場や職権、あるいは身体的・社会的な力を乱用してはいけないこと」

 DVと同じことが適用されない限りは、何が起きたかの真実が明らかにならない。
 恋愛においても、してはいけないことがあるのだ。
 ここで、冒頭で述べたことと重なってくる。
今のセクハラ議論は、誰もを防衛させてしまう。そしてそれをとりまく社会を含め、誰にも真実がわからない。もしかしたら訴えた本人にも。
 考えれば考えるほど、セクハラはDVと似ているのだ。
 セクハラは、愛着した相手にしかしないし、それが起きるのはおそらく、どこかでその人を「所有するような感覚」がある場合だけだ。たとえば、雇用関係で人を所有物のように思う、などがこれに当たる。

 それは「身内感覚」と同じである。
 つまり、「ドメスティック」である。

 「身内」と見なした者にだけ向ける暴力や恫喝というものがある。
 それをDVと言う。
 DVは婚姻やパートナーシップの有無とは、全く関係がない。
 誰かを「自分の持ち物」「身内(自分の身のうち)」のように見なすことと、その人との法的関係とは、なんの関係もない。

 社会運動のサイトでこういう呼びかけを見た。

「タイに来る日本人の男性が、タイ人女性を性の対象と見て、すれ違うなりいきなり『いくら?』と聞いたり、月10万円で愛人契約をしようとしたりする。それはタイ人女性の尊厳を傷つけるので、抗議しましょう」

 それをする男性は、経済格差や外貨レートで上位にあると思っており、金銭で女性を「所有できる」と思っている。「セクハラ」と呼ばれるものは、相手を選ばずできるものではない。本人の中ではちゃんと選んでいる。所有感覚を持てるか、下に見ることができるかだ。セクハラ、パワハラ、DVをする人が、別のところでは権威にペコペコすることはよく見られる。タイ人女性に、すれ違いざまに「いくら?」と聞く同じ人が、ニューヨークのフィフス・アヴェニューで、道行く白人女性に同じことをするかと言ったら、しない。所有感覚によって権力を濫用できるのは、やはりDVと同じ構造なのだと思う。
 そして、それを言うなら、子どもへの虐待も、DVなのである。ドメスティック・ヴァイオレンス。家庭内の暴力。
 身内の暴力。

「二つの極」のあわいにある可能性

 好意や愛が反転したときが、いちばん、人が傷つく。
 愛をどのように持ち、持ち続けられるかは、人の一生のしあわせにかかわる。
 愛は性はずいぶんちがう。にもかかわらず、とても混同されてとらえられるし、じっさい、重なり合う部分も多い。このことがまた愛をむずかしくしている。
 人はひとりひとりちがうし、そこに性別という究極の不均衡のファクターもある。
 が、わかりあえる。その方法はある。わたしはそう信じている。そのやり方をこの連載の中で模索してきたし、その信念を持って、わたしはこの連載をやってきた。大げさではなく「人類のためのこと」を書くという気持ちを持ってきた。今回最終回を迎えるにあたって、わたしはもう一度その思いを強くしている。

 「人類」とは、男も女も、どちらもだ。
 人類とは、男と女から生まれた、男か女かでできた生物の集団だ。のちにジェンダーということを考え出すにしても、誰もが男と女から、性別の特徴を持った者として生まれる。ジェンダーという考えは尊重するが、身体の特徴が、感じ方や精神構造におよぼす影響を、決して過小評価はできない。心とは、多くが、外界をどう感じるかのインプットでできるのだから。

 まるで違う身体を持った、反対の性の人のリアリティは、そうでない者には、想像することさえむずかしい。

 これは、女が男を鈍感だと言うときに使われやすいが、逆もまた真である。
 仮に男が本当に「感じにくい」のだとして、「感じにくい」者のリアリティを、「感じやすい」ほうは想像すらできない。
 あまりに違うものに対する想像力を、持てていないことは、どちらも同じだ。
 そしてわたしが男と女の話をするとき、わたしは多様性の議論を少しも除外しない。むしろ、多様性に開かれるために、最初で最後に、男と女の話が必要だと思ってきた。
 いちばん違いが大きいにもかかわらず、いちばん安易に出会えてもしまう、男と女。
 そのふたつの極を考えることで、その間にある、ありとあらゆる可能性、ありとあらゆる自由、多様性を見つけていきたいと願っている。
 生まれ落ちた条件の中から、自分の人生は、ひとつひとつ細かく、自分が選んでとっていくしか、人がしあわせになる方法はない。

 読んでくださったみなさんに、心から感謝する。

連載「愛と性と存在の話」をお読みいただきありがとうございました。同連載は大幅な加筆のうえ、今秋にNHK出版新書として刊行予定です。どうぞご期待ください!

連載第9回へ戻る

プロフィール
赤坂真理(あかさか・まり)

東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信中です。ぜひこちらもチェックしてみてください!