「愛と性と存在のはなし」第6回 〔愛と欲望の痛みと傷〕 赤坂真理
すべてが性愛になる
前回、フレディ・マーキュリーとクイーンを描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』のことを書いた。
対比で思い出すのは、フランスの女性作家マルグリット・デュラスの少女期の自伝的小説『愛人 ラマン』だ。
いや、対比というよりは連想。
主人公に男女というちがいがありながら、不思議なほどよく似た手ざわりのものとして、わたしは両者を思い起こす。
両方とも「植民地」での性愛が核の部分にある。そこが起点となっている。フランスの植民地のインドシナでの、フランス人少女の性の目覚め。イギリスのかつての植民地、アメリカでの、イギリスから来た流浪(ボヘミアン 流浪にルビ)の青年の、自身の本当の性の目覚め。
フレディ・マーキュリーは、イギリスへの移民であって、イギリスでもマイノリティ階層であった。そしてアメリカとかつての宗主国イギリスの国際的立場や経済力は、1970年代当時ではすでに、逆転していた。アメリカがイギリスに抱く、文化コンプレックスはそのままだとして。しかし、だからこそ、細い腰をして長髪で中性的だった当時のフレディは、アメリカでは、より「女性的な存在」に見える。彼自身が受け身のゲイであることと、そのことが、不思議な一致を見せている。粗野なものと、なよやかなものが出会い、出会い頭にエネルギーが流れる。
出会い頭に、関係性が決まる。
「国家間ジェンダー」というものがあるように思われる。国家や文化の間にあるエネルギー落差のようなものだ。暗黙のうちにそれはあり、決まり、感じ取られ、誰も言わないのに、多くの人がわかっている。それを敏感に感じ取って自分が決まる。それはある意味、個人の意思を超えている。
『愛人 ラマン』とはデュラスの自伝的な話である。植民地仏領インドシナで暮らすフランス人の少女(デュラス自身)が、現地の経済を握る華僑一族の青年の欲望を受けて、女になる。15歳半。フランスに帰る18歳のときには、彼女は、見る人をびっくりさせるほどに老けていたという。本人のこういうモノローグがある「十八歳でわたしは老いた」。大人が何年もかけてやることを、全部やってしまったのだ。そのすべてが起きたのが、植民地という隔絶された欲望の土地だった。
ある日、渡し船のところで、黒塗りのリムジンのかたわらに立つ東洋人の男に誘われる。
恋のはじまりはそうだ。
性エネルギーは、男性的なほう(+)から女性的なほう(−)に流れる。
同性同士でもそうだ。はじまりは。
凸から凹へ流れる。
そしてすべて、それにならう。
経済的な、上から下へ流れる。
立場的な、上から下へ流れる。
しかし植民地では何かがよじれる。あるいは、よじれの吹き溜まりが、植民地なのだ。今でも事実上の植民地はたくさんあり、同様のことが起きている。
そこでは、国家間の上下関係、立場の上下関係、社会コードの上下関係と、経済の上下関係……。
すべてがいっしょくたになって性愛じみる。
そこに強い情動が動いてしまうなら、なんだって、恋愛の引き金となるのだ。
その少女が男の持つ金に欲情しているのは間違いない。男の切り札が、経済力であるのも。
切り札を持つからこそ、男は、社会的に上とされる人種に属す女にチャレンジできる。
性的対象にするには子どもと言えるほどに若い、という禁忌にさえ、チャレンジできる。
男の欲望の後ろ盾は、お金や黒塗りリムジンや膚にしみついた絹タッサーの匂い。
しかしそれら目当てに彼女の心が動いたというのではなく、それらは彼と不可分で、そうして出逢ってしまった。
そして、にもかかわらず、彼女が男を支配する。これは人種的上下関係のためである。
支配しながら、されている。経済的には依存している。依存しながら、支配している。
そのすべてが恋愛の動力であり、それが恋愛のエネルギーの、正体ですらある。
そのコードが複雑なほど、ある意味、恋愛は抜き差しならなくなる。
経済格差が恋愛に変形したとして、立場格差が恋愛に変形したとして、すべて嘘ではなく、そのすべてを呑み込んで、恋愛である。人間の感情であり性愛である。
人は自由を好むという。支配被支配を嫌うという。
が、がんじがらめの支配被支配構造の、なんと、恋愛と似ていることか。
いろんなことを性愛と読み替えて欲情できるのが、人間なのだ。
『愛人 ラマン』に描かれた、植民地の青年と少女。
経済的支配者であり文化的被支配者である男と、経済的弱者であり文化的強者である少女。
どこか軽蔑しあいながら強く強く惹かれる。
軽蔑すらも欲望のスパイスとなる。
快楽はこのうえない。
しかしその人と生きるヴィジョンは互いにひとかけらもない。
なんて最低だ、と思う。相手を。自分を。関係を。環境を。自分と互いの家族を、すべてを。
未来がない。
なのに求め合って離れられない。
貶めなくては犯せない。モノのように手荒に扱われて欲情する。
愛と性が、分離する。
交錯する。
愛と人間性が分離する。
交錯する。
しかしこれが、まぎれもない性愛体験なのである。
このことを、なんと説明したらいいのだろう。
軽蔑しながら愛し合うこと。
軽蔑するからこそなお、強く求め合うこと。
文学的な主題ではあるが、多くの人に、多少は身に覚えのあること。
相手を苦しめたいような欲求も、自分が傷つきたいような欲求もまた、消しがたくあり、それと愛とが同時存在すること。
これはDVと紙一重、というか、言ってみればDV力学そのものである。
親密な関係性の暴力の解決のむずかしさもそこにある。
愛と性が分離する。
あるいは、愛したい存在と欲望する存在がずれている。
これは、映画『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディ・マーキュリーの痛みとして描かれたことでもあった。
フレディ・マーキュリーはゲイであるがゆえに、そうであるように描かれていた。
そうではない。
これは同性愛者(ゲイ)と異性愛者(ヘテロ)間の問題ではなく、異性愛同士にも、あるいは同性愛同士にも、つまりは万人に起きうることである。
だからわたしは思う、大ヒットした映画『ボヘミアン・ラプソディ』とは、セクシュアル・マイノリティを「描いた」映画なのではなく、ただ「肯定する」映画なのでもなく、セクシュアル・マジョリティが自らの生きづらさをなんとか照らし出すために、セクシュアル・マイノリティに「問題を託した」映画なのだと。切実に、きわめて切実に。
自分にとって問題や生きづらさの正体が何であるのか、わからないことが、ある意味、最も苦しいのだから。
マジョリティの問題を照らし出すのはマイノリティであり、マイノリティに希望を託すのはマジョリティである。
愛と性の分離
思う、
フレディ・マーキュリーにしろマルグリット・デュラスにしろ、暴力的なまでの劇的な他者によって、自己の性と愛に出逢うことは、危険である。
それはドラマティックではあるが、トラウマたりうる。人生に生じた断裂のようなものである。それまでの自分を暴力的に変えてしまい、その人が自己を統合する時間を持てないまま、人生の次段階になだれ込んでいくと、内面に断裂を抱えたままとなる。これはアーティストの創作には悪くはないのかもしれないが、個人は痛みを抱えたままになる。少なくともそう見える。こうしたトラウマは、一生をもって、プロセスされなければならない。ある意味、一生をかけて、癒やされなければならない。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』でのフレディ・マーキュリーの描かれ方は、見ようによってはすべて、自己のセクシュアリティとの出逢いの暴力性を、なんとか着地させる試みだった。
自己の本質との劇的な出会い、愛する人との劇的な破局、それに劇的にスターになっていくこととが、同時進行する。劇的な成功、劇的な孤立、ドラッグや乱交による劇的な転落。転落からの回復。死。
フレディ・マーキュリーとマルグリット・デュラスに、もうひとつ共通点があるのだ。
性愛との劇的な出会いののち、依存症になることである。
残りの人生の大半を過ごすほどの、命取りになるほどの、依存症に。
フレディは薬物、デュラスはアルコール。
このことに気づいたときに、はっとした。
「耐えがたさ」を生き延びるために
これを書いている2020年の2月に、日本の有名な歌手が覚醒剤所持でつかまる、ということがあった。
再犯でもあり、近年きびしさを増すばかりのドラッグバッシングの論調の中でも、彼の再起は絶望視されるくらいに冷たいものだった。
その歌手はゲイであり、声高には言われたくないであろうパートナーシップに至るまで、ニュースに暴露されていた。
ニュースやワイドショー的には、ダブルスティグマ(二重の負の刻印)を負った人物で、ゴシップ的に騒ぐには格好のネタなのだ。
が、このことは、薬物依存症の本質をついているようにわたしには思われる。
依存症とは、まずは、さびしさの病だからだ。
彼、槇原敬之が覚醒剤を使用していたのには、フレディ・マーキュリーと似た事情があったのではないかとわたしは推察する。
ゲイの孤立感、疎外感と関係があるだろうと。
もちろんすべてのセクシュアル・マイノリティが依存症になるわけではない。それはどんな病気も、似た条件のすべての人がかかるものではないのと同じだ。が、フレディ・マーキュリーのときに言ったことと同じだけれど、セクシュアル・マイノリティの場合「耐えがたさ」「世間のいたたまれなさ」というものに、ひとつのかたちを与えやすいのだ。耐えがたさやいたたまれなさの「理由」は人それぞれだが、かたちを与えにくいそれを、マイノリティが示すことをヒントに、マジョリティは、内省することができる。
だからマジョリティがすべきは、そこに自分も持つ問題のヒントが凝縮されているのではないか、と思ってみることではないか。
いずれにせよ、依存症者は治療されるべき人々であり、第一に制裁を加えられるべき人々ではない。
依存症とは、耐えがたさを抱えながら生き延びるための病だ。
孤立の、疎外感の、裏切りと裏切られの、耐えがたい退屈の、生きていく面倒くささの、傷の、疎外感に耐えることの、恨みの、自責の、後悔の、不毛の、不安の、無価値感の。
耐えがたさを耐えながら、酒や薬を使ってでも生き延びようとするのだから、依存症は基本的に、真面目な人の病だ。
だから、依存症者の同一線上にあるのは、まずは自殺者であって、犯罪者ではない。
依存症者とは、自殺を引き伸ばしている人、のように、わたしには見える。
緩慢な自殺をしている人、と言われることもあるが、そのことだ。
じっさい、薬を止めた(止められた)人が、自殺してしまう、という事例を、関係者からよく聞くことがある。「ダメ、ぜったい」は、こんなふうにまったく機能しない。抑止にもならなければ、クスリは止まったが自殺した、ということになりかねない。
また、よく信じられているように、だらしなさや弱さーー百歩譲って、弱いとして、弱さとは、バッシングされるべきものではないーーや怠惰さの産物ではなく、逆に、あまりの鋭敏さの病だ。
あまりの鋭敏さを、なだめるものが必要なのだ。
そのいちばん手っ取り早いものが、お酒だったりする。パチンコやゲーム、恋愛やセックス依存もある。
これは、この社会が過緊張を強いるものであることとも関係している。
依存症になるのは、耐えがたい痛み苦しみ、退屈や不安が人生にあり、他のことではなだめられないからだ。
耐えがたい苦しみが存在し、他の方法では癒やされないと思うとき、人は精神をなだめてくれそうななにかを探し、発見する。
それは、行き場や安息のなさから、そして管理されきった閉塞状況で、精神を脱出させようとする試みなのではないか。
この際だから、薬物に関する自分の考えをのべておく。
薬物は、ひどく使えば、神経系を壊し、ひいては人格を壊すことがある。また、使う度合いが進むと、薬物がもたらす妄想に人格を乗っ取られて見えることがある。
が、それと破壊的な行動や、反社会的な行動は、また別のものだ。反社会的な行動があれば、そのことは罰の対象となる。けれど薬物摂取とそれはイコールではない。
まずは、壊れた神経系や身体と、そこへ向かわせた心が、治療対象になる。
その反社会的な行為を現時点で行ってもいないのにもかかわらず、予防的な観点から「反社会」のレッテルで処罰すべきではないとわたしは考える。
もとが孤独の病であるゆえに、社会から切り離したら、より悪化する。
予防的に処罰する必要があると言うなら、お酒があんなに野放しに流通していて、度が強く口当たりのよいものがかわいいパッケージで安くどんどん売られていることに、説明がつかない。
また、どんどんきびしくなる「脱法ドラッグやハーブ」の禁止を受けて、いよいよ「トベる植物」の情報までが出回るようになったという。道端などに生えている植物で幻覚作用などがあるものを教えてくれるものだ。
本当は、そこまでして、耐えがたい何かに耐えようとする心たちがあるのだ。
それは、懸命に生きようとしている。
国家間の性愛じみた感じ
しかし思うに。
この劇的な他者によるトラウマは、他ならぬ、この日本とアメリカの関係に、あったはずだ。もっとずっと、集合的に。
あるいはあまりに集合的であるからこそ、わかりにくく、ずっと。なのだろう。
わかりにくかろうとなんだろうと、それは放置すれば致命的であることに変わりないと思うのだが。今ぬるく死んでいるような状況が続いていると思うなら、その影にあるのは、国家と文化の性愛じみた欲望と傷の、結果であり原因であると思う。
「占領は性愛じみていた」
とジョン・ダワーが書いている。
これを読んだとき、国内の論者が誰一人として言おうとしない本質に触れた気がして衝撃を受けた。
そう、
負けたにしては愛しすぎている。敵対しないというのを超えて、ニーズ先取りのサービス提供をしている。
そこにわたしは傷ついていた。わたしが見たわけではない。わたしが当事者だったわけではない。けれど、そういう世代の第2世代として、どこかそれを恥じた。
こういう問いもある。
これは、立派に植民地ではないか?
そしてその時、思いもいたらなかったことがある。その時の男たちの気持ちはどうだったのか? ということだ。
日本において先の戦争のことは「女性視点」でしか語られない。語ってはいけない。巻き込まれた以上のことを、語ってはいけない。
誰が明言したわけでもないが、誰もが守っているルールである。
戦争や国家は、どこまでもジェンダー的に扱われる。
ありきたりに、無自覚に。
了
プロフィール
赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。