大澤真幸 連載「真に新しい〈始まり〉のために──コロナ時代の連帯──」第3回 惨事便乗型アンチ資本主義〔前編〕
コロナ禍のもと、身体的接触がタブーとなるなか孤立した人々の間には亀裂が生じ、社会の分断が進行している。米中をはじめとする大国は露骨な国益を主張し、私たちは国家という枠組みに否も応もなく囚われていく。このような息苦しい時代だからこそ、階級的格差を克服する平等性の実現や、国家という枠を超えた普遍的連帯の可能性というビジョンを、私たちはいま一度真剣に追究するべきではないか――。
「コロナ時代の連帯」の可能性と、そのための思想的・実践的課題に鋭く迫る、著者渾身の論考!
※連載第1回から読む方はこちらです。
I ソフィーの選択のように
1 資本主義を救おうとすると……
誰もが、国民国家を横断し、階級の差別を克服した普遍的連帯が必要なことはわかっている。しかし、人類はそちらへと歩みを始めず、逆の方向へと突っ走っている。その原因を妥協することなく底の底まで探究していくと、われわれの資本主義への執着、資本主義という形式をとった経済への執着を見出すことになる。人類は資本主義を手放すことはできないらしい。
ところが、新型コロナウイルスのパンデミックの中で、われわれは、資本主義という形態をとった経済をめぐって究極の選択を迫られた。経済をとるのか、生命(健康)をとるのか。後者をとることは、資本主義を(一瞬)全面的に手放すに等しいほどに徹底して経済活動を停止させることを意味していた。世界中のほとんどすべての国が、細部では相違があるものの、ほぼ同じ意義をもつ選択に直面した。そして、ほとんどの国が実際に、一時的に「経済」を手放した。
日本をはじめ多くの国に関していえば、最も切迫した時期は、とりあえずは終わったが、これで安心というわけにはいかない。なぜなら、新型コロナウイルスは、これからも何波にもわたってくりかえし流行のピークを迎える可能性があるからだ。また未知の感染症やウイルスはこれで終わりというわけではなく、今後も人間社会に突然入ってきうるということをわれわれは知ってしまったからだ。さらに言えば、生態系の大規模な危機等、新型コロナウイルスのパンデミックに匹敵する――あるいはそれを超える――困難が、今後も起こりうると、十分に予想できるからである。要するに、人類は今後ずっと、同じような究極の選択を迫られる可能性がある状態を生き続けなくてはならない。
つまり、われわれは、同じ選択の前に繰り返し立たされることになる。われわれはどうすべきなのか。
まずはひとつのことを思い起こすことから始めよう。2008年のリーマンショックのときに学んだことを、である。あのとき、われわれは知った。資本主義は、生き延びようとすると、ときに自らの原理を――少なくとも部分的には――否定せざるをえなくなるのだ、と。リーマンショックを乗り越えるためにとられた政策の基本は、銀行や大企業に多額の公的資金を投入することだった。ということは、このとき銀行も大企業も、事実上、国有であるかのように扱われた、ということである。企業の国有化は、しかし、社会主義体制のやり方ではないか。20世紀の末期に、資本主義は、長年のライバルだった社会主義に勝利した。この勝利は、資本主義よりも優れた経済システムはありえないことの証明として受け取られた。ところが、その資本主義が、危機を乗り越え生き延びるためには、自らがこの地上から追い払った社会主義の手法を導入するしかなかった、ということになる。これが、リーマンショックを通じて得られた教訓である。
さて、すると、現在われわれがその渦中にある新型コロナウイルスの危機に関しても、12年前と同じようなことが反復されるのではないか。つまり、この危機を――もう少し慎重に言い換えれば、この危機がきっかけとしてあからさまになった今後長く続く困難を、資本主義が生き延びようとすると、自らのアイデンティティを規定している基本的な原理を否定するような方法を採用せざるをえないだろう。しかも、それはリーマンショックのときよりもはるかに徹底したやり方になるはずである。12年前は、反資本主義的な方法が適用されたのは、金融機関や大企業に対してだけであった。その後も、貧者に対しては、剝き出しの資本主義(ネオリベラリズム)が適用されてきた。コロナ危機に対しては、このような差別的な対応は通用しない。というより、コロナ危機で反資本主義的な方法が動員されるとすれば、それは主に、貧者に対して――資本主義のシステムの中で周縁部に追いやられている者に対して――である。
2 トロッコ問題の極限
ウイルスの感染が急速に拡大しつつあるとき、「エッセンシャル・ワーカー」以外のすべての人は、自らの家の中に留まり、活動を制限していなくてはならなかった。しかし、これには耐え難い犠牲が伴う。経済を麻痺させ、多くの人の収入を縮小させたのはもちろんだが、大量の解雇者、失業者を生み、さらに多くの企業を倒産させることにもなった。健康をとるのか、経済をとるのか。今しがた述べたように、この選択は、部分的には現在も続いており、今後も反復せざるをえないだろう。最初に強調しておこう。これは、真正の「ソフィーの選択」である、と。
倫理学の領域で「トロッコ問題」と呼ばれる思考実験がある[1]。「ソフィーの選択」は、同名の小説・映画に由来するものだが、トロッコ問題の極限のケースだと解釈することができる。トロッコ問題は、倫理学者の間だけではなく、一般にもよく知られている。ブレーキが故障して暴走しているトロッコがそのまま直進すると、線路上で作業をしている五人を轢(ひ)き殺すことになる。1本だけある引き込み線の方へと進路を転じても、やはり線路上の一人を犠牲にせざるをえない。このときどうすべきか。この問題への回答は、「引き込み線へと回避する方がよりよい」ではない。この思考実験においてまず理解すべき最も重要なポイントは、「よい選択肢はない」ということにある。
この点をよりはっきりさせるために、トロッコ問題には改訂版がある。というより、ベーシックなトロッコ問題は、改訂版へと人を導くための撒き餌のようなものである。改訂版では、都合のよい引き込み線はなく、五人の作業員を救出するためには、一人の太った男を跨線橋(こせんきょう)から突き落とさなくてはならない。太った男は、トロッコに轢き殺されるが、彼に衝突したトロッコは止まる。トロッコ問題には、よりよい選択肢はない。だから、われわれは、より悪くない選択肢をとるほかない。
そして、ソフィーの選択は、その「より悪くない選択肢」すらない状況である。アラン・J・パクラ監督によって映画化された、ウイリアム・スタイロンの小説『ソフィーの選択』では、主人公のソフィーは、トロッコ問題よりもずっと困難な選択を強いられることになる。第二次世界大戦の中、ナチスに占領されていたポーランドが舞台である。反ナチス闘争にかかわったと見なされたソフィーは、幼い二人の子とともに強制収容所に送られた。アウシュヴィッツの駅で、彼女は、ナチスの将校から告げられる。「二人のうちのどちらかの子を選べ。その子は救われるが、選ばれなかった子はただちに殺されるだろう」と。もちろん、ソフィーは一人の子だけを選ぶことはできない。将校はさらに言う。「あなたがどちらも選ばなかったときには、二人の子はともに殺されることになる」と。どちらかの子だけを選ぶわけにはいかない。しかし選ばないわけにもいかない。結局ソフィーは、二人のうちの一人を、女の子ではなく男の子の方を選ばざるをえなかった。
感染の抑止か、経済活動か。これは、完全にソフィー的な選択である。両方を十分に満足させることができないことは、誰にでもわかる。あれか、これか。どちらかを選ばなくてはならない。感染の拡大速度がどの程度のときに、どの範囲の経済活動をどのくらい制限すればよいのか。そんな研究もなされている。感染が急激に拡大しているときに、強引に経済活動を再開させても、かえって経済の損失が大きくなる。ドイツのIfo(経済)研究所とヘルムホルツ感染研究センターが2020年5月に発表した共同研究によれば、実効再生産数Rt(一人の感染者が何人に感染させるか)が0.75になるレベルの経済制限が、経済的損失を最小にする。Rtが1以上であれば、経済活動を極力抑えるべきなのは当然だが、Rtをゼロにすることは不可能だし、またそれを目指したときの経済的な損失は大きすぎる。Rt=0.75程度の感染縮小になる経済活動が最適だというのだ[2]。いずれにせよ、徹底した感染の抑止と十分な経済活動が両立できないことは間違いない。感染の抑止を優先させたときには、十分な経済活動ができないために不況が長引き、失業者が街に溢れることになる。
われわれの現状は、ソフィーの選択よりは少しはましだ、と思う人もいるかもしれない。ソフィーの場合、どちらを選んでも、子の命を犠牲にするわけだが、いま私たちが直面しているのは、命か、経済的利害かの選択なのだから。となれば、多少の痛みがあっても前者をとるのは当たり前ではないか。しかし、これほどの経済活動の縮小は――すでに多くの人が主張しているように――やはり命に関わることだと言わざるをえない[3]。
パンデミックの期間中はもちろんのこと、先に示唆したような、今後おこりうる脅威――パンデミックを含む生態学的な脅威――に備えた経済活動の抑制や停止は、われわれの経済システムの破壊を意味するものになりうる。それは、とてつもなく多くの人々の生活を破綻させるだろう。
3 ソフィーの三角関係
『ソフィーの選択』で、ソフィーのアウシュヴィッツの駅でのあのおぞましい体験が語られるのは、終盤である。物語の大半は、ソフィーをめぐる奇妙な三角関係を描いている。場面は、第二次世界大戦が終わって間もない頃のニューヨークである。彼女は、二人の男から愛される。一人は、作家志望の若い男で、語り手でもある。もう一人は、非常に精神不安定でエクセントリックな男で、製薬会社で仕事をしている自称「生物学者」である。ソフィーは、どちらの男を選ぶこともできない。もう少し正確に言えば、ソフィーは、作家志望の男の自分への愛を知っているが、「生物学者」との不毛な同棲を続けている。
さまざまなことがあり、あの決定的な出来事を除くソフィーの背景も少しずつ明らかになってくる。つまり、彼女がポーランド人で、アウシュヴィッツに収容されていたこと等も次第にわかってくる。ついにソフィーは、まともな方の男、つまり作家志望の若い男とともに逃げ出す。その逃亡の最初の夜に、ホテルで、ソフィーは、アウシュヴッィツの駅でのことをこの男に打ち明ける。このとき初めて、映画を見ていたわれわれは理解する。この恋の三角関係は、ソフィーにとっては、あのアウシュヴィッツの駅での選択の反復だったということを、である。
そこまでの展開で、ソフィーの三角関係への対応があまりにも不器用なことに、見ている者は苛立ちを覚えている。どうしてソフィーはもっと決然と選ぶことができないのか。どうして彼女は、暴力的なダメ男への執着を断つことできないのか。しかし、この恋が、アウシュヴィッツの駅での選択の反復だったことがわかると、ソフィーの曖昧さには本質的な意味があったということがわかってくる。
結局、ソフィーは一夜を過ごした後、若い男から去って「生物学者」のもとに戻り、一緒に自殺してしまう。彼女は、誰が見ても明らかにより悪い方の、つまり最悪の男を選び、その男とともに死んでしまったのだ。この破滅的な結末によってしか、ソフィーは結局、一人の子を犠牲にしてしまったことによるトラウマを克服できなかったのである[4]。確かに、アウシュヴィッツの駅で彼女はああするほかなかった。誰もソフィーを責めることはできない。しかし、このことは彼女にはいささかの慰めにもならなかった。『ソフィーの選択』は、ソフィーがあの選択をどれほど後悔し、それをどうやってやり直そうとして挫折したのか、ということについての物語として解釈することができる。
ここから得られる教訓は何か。つまり一方を取って、他方を犠牲にする、という選択に満足してはならない。何としてでも、どちらにも執着し、両方をとらなくてはならないのだ。コロナ禍との関係では、それは何をすることを意味しているのだろうか。
II ベーシックインカムへ
1 さまざまな給付金
これに対する暫定的な回答は、少なくとも理屈のうえでは、それほど難しくはない。実際、日本を含む多くの国でその方向への歩みはすでに始まっている、と言ってよい。つまり、どんな政治家でも、その人がどんなイデオロギーを信奉していたとしても、右派であろうが左派であろうが、そうするほかない、というような方法がひとつだけある。それは何か。仕事を失った人、仕事を休まざるをえなかった人に、生きるうえで必要な額にあたる金額を支援すること、これである。
一方では、ときに、諸個人の自己隔離を含む感染症対策が、その個人の健康のためにも、また他の人々の健康のためにも、不可欠になる。他方で、経済に関しては、さしあたっては、通常のビジネスや労働ができなくてもよい。ただ、全員に、安全かつ安心で、そして人間らしい生活を送るに十分なだけの経済的な援助がなくてはならない。そうすれば、結局、ソフィーの選択の状況で、どちらの選択も断念せず、両方をとったことになる。
たとえば、アメリカでは、3月に成立させた「コロナウイルス救済法」に、年収7万5000ドル(約800万円)以下の労働者(無所得者を含む)一人あたり、一律1200ドル(約13万円)の直接給付が盛り込まれている[5]。しかも、子どもがいる家族には、子ども一人に対して500ドルが追加される。
イギリスでは、コロナ禍の中で休業した企業の労働者およそ900万人に対して、月額2500ポンド(約32万円)を上限に、賃金の8割を支給した。ドイツは、一方で、「操業短縮手当制度」を通じて、賃金の6割を補償することで雇用の維持をはかるとともに、他方で、自営業者やフリーランス、あるいは中小企業に対しては、最大9000〜1万5000ユーロ(約105万円~175万円)を直接支給した。
注目すべきはスペインである。失業者に対して賃金の7割に当たる額を補償しただけではなく、低所得者層を対象とした恒久的な給付制度を決定した。これは、月収230ユーロ(約2万8000円)を下回る家庭85万世帯(人口にすると5%にあたる約230万人)に対して、月額462ユーロ(約5万5000円)を支給する――ただし一家族あたりの上限が1015ユーロ――というものである。
日本政府はどうか。日本政府は、雇用調整助成金の特例とは別に、全国民に、一人当たり10万円を一律給付することを決め、実施した。これは、アメリカやヨーロッパ諸国の政策と比較したとき、決して大きな金額ではない。しかし、「一人当たり平等に10万円」は、これまでの日本政府の常識からすれば、画期的と言ってよいレベルの寛大な給付である。
2 ベーシックインカム
しかし、これらの金額は、コロナ危機の規模との関係では明らかに足りない。数ヶ月で感染症の危機がすべて除去されるのであれば、今、概観してきたような各国政府の支給額で許されるかもしれない。だが、新型コロナウイルスに対するワクチンや治療薬が開発され、全地球に普及するまでの時間は、それよりもはるかに長く、年単位で考えねばならない。さらに、今後も侵入してくる新たなウイルスや感染症、その他の脅威のことまで考慮に入れれば、最も寛大だった政府の支給額でも不十分である。支給額だけではなく、支給の範囲を広げなくてはならず、そして何よりも給付の期間が十分に長くなくてはならない。一回だけの単発的な給付では、焼け石に水である。
夥(おびただ)しい数の自殺者を出すような経済の破局を避けるためには、政府は、失職者や休業者が必要とする金額を保障し、支給していくほかない。日本政府だけではない。どこの国の政府もそうせざるをえない。リーマンショックのときには、多くの批判があっても、政府は、大企業や銀行を公的資金によって救済するしかなかった。今度は、政府は、公的資金で、零細企業や貧しい労働者・失業者をも救済しないわけにはいかない。
このやり方が長期化するとどうなるか。ほとんど恒常化したときにはどうなるのか。つまり、このやり方が向かっている先には何があるのか。すでに多くの論者によって指摘されていることだが、コロナ危機に対して各国政府がとった措置を十分に徹底させていけば、それは一般に「ベーシックインカム(基礎所得保障universal basic income)」と呼ばれている政策に近づいていくだろう。
ベーシックインカムとは、すべての個人に、いかなる条件もつけずに定期的に給付される現金である[6]。家族等ではなく個人単位で給付されることがポイントである。資力とか、労働要件(労働可能だと見なされた者に対する労働の義務)とかの条件によって制限されることもない。それゆえ給付に際して、それらのことを調査する必要もない。したがって、給付される範囲は、完全に普遍的なものに――無制限にすべての個人になる。今のところ、コロナ対策として各国の政府がやってきたことは、ベーシックインカムにはなっていない。しかし、潜在的にベーシックインカムを目指している、ということはできる。
3 財源の問題
しかし、ベーシックインカムは実現可能なのか。すぐに思いつく問題点は財源である。たとえば、日本でベーシックインカムを導入したとすると、どのくらいの財政負担になるのだろうか。まずどの程度の給付額が適当かだが、参考になるのは、現在、単身世帯に支給されている生活保護の金額だろう。地域によってばらつきがあるが、その平均は、月額平均12万円ほどである。ベーシックインカムを導入する場合、この金額が最低ラインということになる。この金額の現金を全国民に給付したとすると、どの程度の増税が必要になるだろうか。財政学者の井出英策の概算によると、173兆円の予算が必要で、これを純増税で賄うためには、消費税率を、現状よりもさらに62%引き上げなくてはならない。つまり消費税を72%としなくてはならない[7]。これは、とてつもなく非現実的な数字に思える。
ちなみに、ベーシックインカムを導入する代わりに、現存の社会保障を廃止すればよい、と主張する者がいる。社会保障費の節約のためにベーシックインカムを活用するというわけだが、これは本末転倒の論外な主張だと言わねばならない。もちろん、ベーシックインカムの金額が十分に大きければ、生活保護のように不要になる社会保障制度もあるはずだが、基本的には現状の社会保障制度を維持しておかなくては、ベーシックインカムを導入することの意味は消えてしまう。社会保障制度を縮小すれば、一人の人間がまともな生活をするのに必要なお金はますます大きくなる、つまり給付されるべきベーシックインカムの金額をより高くしなければならなくなるので、財政的な負担はかえって大きくなるはずだ。ベーシックインカムは、既存の社会保障制度を維持したうえで給付されなくてはならない[8]。
すると、結局、政府は当面、増税をせず国債を発行することを通じて、必要な資金を用意するしかない。では、国債というものは無限に発行できるものなのか。もちろん、そんなことはない……、と一般には考えられている。均衡財政(政府の支出が税収を超えない)でやっていけている国はほとんどない。どこの国の政府も借金をかかえている。だからほとんどの経済学者は、政府の財政が赤字であっても、経済が破綻することはない、と考えている。しかし、同時に、いくら借金があっても問題がない、と考えている経済学者はほとんどいない。借金には限度額のようなもの、閾値(いきち)のようなものがあると考えられているのだ。ただ、その閾値がどのくらいなのか、たとえばGDPに対してどのくらいの割合なのか知っている者は誰もいない。政府財政の赤字の許容限度を導き出す理論があるわけでもない。
ともかく、一般には、財政赤字の蓄積があるレベルを超えると、何かよからぬことが起きると考えられている。よからぬこととは何か。少なくとも国民としては、将来の増税を覚悟しなくてはならない。結局は、財源の問題は振り出しに戻る。受給者としては、ベーシックインカムのかたちで生活費が支給されたとしても、後で増税によって吸い上げられてしまうならば、結局、援助されなかったのと同じことになってしまう。
さらに、長期的には、増税よりももっと恐ろしいことが待っている。極端なインフレである。政府が借金を増やしつつ、財政支出を増大させていったときに起こりうる最も恐ろしいことは、ハイパーインフレーションである。インフレとは貨幣の価値が下がることだ。ある通貨がハイパーインフレになれば、その通貨を使用していた国民の資産が急に小さくなることを意味する。つまり、すべての国民の貯金が、ある日突然盗まれたようなものだ。これは、パンデミックに勝るとも劣らない破局である。
4 都合のよい経済理論
ところが、ここに、とてもありがたい経済理論が天啓のようにあたえられる。「現代貨幣理論MMT:Modern Money Theory」という名前の――名前の普通っぽさにはそぐわない――異端の学説である。MMTはこう説く。政府の財政には予算制約がない、と。つまり政府はいくら借金をしても大丈夫、というわけだ。主流派からはMMTは「トンデモ話」のように批判されているが、主流派だって政府の予算制約に関して説得的な理論をもっているわけではない。ならば、この際MMTを信じて、国債をどんどん発行して、最終的には高レベルのベーシックインカムを確立したらどうだろうか。そうすれば、私たちは安心して、仕事を休み、「ステイホーム」することもできるのではないか。ソフィーの選択が、突然、ごく簡単な合理的な選択に転換する。
とはいえ、異端のMMTを信じることは難しい。だから、政府は気軽には、国債を発行できない。日本政府としては、10万円の給付だけでも、清水の舞台から飛び降りるような気分だろう。だが、これもいささかこっけいなことではある。MMTの主唱者たちが、自分たちの理論の正しさを示している実例としてしばしば挙げるのが、日本である。日本政府にあれほど大きな借金があるのに、日本経済は破綻していないではないか、と。ところが、当の日本政府の方は、MMTを信じてはおらず、財政支出に尻込みしている、というわけだ。
いずれにせよ、MMTは、私たちが信じたいことを信じさせてくれる、とても都合のよい理論だ。これに賭けてみたらどうか。
* * * * *
[1] 大澤真幸『正義を考える──生きづらさと向き合う社会学』NHK出版新書、2011年。
[2] これはドイツの医療状況等を前提にして導いた数字なので、どこでも当てはまるわけではない。
[3] 私は、ここまで、目下の状況は、「真正の」ソフィーの選択である、と述べてきた。それは、真正ではないケースがあるからだ。たとえば、私は、2011年の3.11原発事故の後になっても、脱原発へと断固とした歩みを進めることができない日本人の曖昧な態度を、「偽ソフィーの選択」と見なすことができる、と論じた(大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ──3.11後の哲学』岩波新書、2012年)。
[4] 戦後のソフィーのもとには、あのときに救った男の子もいない。ソフィーはアウシュヴィッツを生き延びたが、男の子は生き残ることができなかったことがわかる。
[5] 以下のアメリカとヨーロッパの事情に関しては、次の論考による。本田活邦「可視化されたベーシックインカムの可能性」『世界』2020年9月。
[6] 山森亮『ベーシック・インカム入門──無条件給付の基本所得を考える』光文社新書、2009年。橘木俊詔・山森亮『貧困を救うのは、社会保障改革か、ベーシック・インカムか』人文書院、2009年。
[7] 井出英策「財政とベーシックインカム」、佐々木隆治・志賀信夫編著『ベーシックインカムを問いなおす──その現実と可能性』法律文化社、2019年。
[8] 井出の試算によると、仮に現在の社会保障給費121兆円を全廃したとしても、なお23%の消費税の引き上げが――つまり消費税33%にまで上げる――必要になる(つまりベーシックインカムの給付額を、現在の生活保護の水準に設定したとしても、これだけの増税が必要になる)。社会保障を廃止すれば、ベーシックインカムの財源が確保される、という議論は成り立たない。
プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年、長野県生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。個人思想誌「THINKING「O」」主宰。『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞。ほかの著書に、『身体の比較社会学』『<世界史>の哲学』『不可能性の時代』『<自由>の条件』『社会学史』など。共著に『ふしぎなキリスト教』『憲法の条件』など。
*大澤真幸さんのHPはこちら
関連書籍