大澤真幸 連載「真に新しい〈始まり〉のために──コロナ時代の連帯──」第4回 惨事便乗型アンチ資本主義〔後編〕
コロナ禍のもと、身体的接触がタブーとなるなか孤立した人々の間には亀裂が生じ、社会の分断が進行している。米中をはじめとする大国は露骨な国益を主張し、私たちは国家という枠組みに否も応もなく囚われていく。このような息苦しい時代だからこそ、階級的格差を克服する平等性の実現や、国家という枠を超えた普遍的連帯の可能性というビジョンを、私たちはいま一度真剣に追究するべきではないか――。
「コロナ時代の連帯」の可能性と、そのための思想的・実践的課題に鋭く迫る、著者渾身の論考!
※連載第1回から読む方はこちらです。
III 現代貨幣理論の盲点
1 負債としての貨幣
しかし、残念ながら、私の考えでは、MMTには、ひとつ――ひとつだけ――欠点がある。前提そのものに誤りがあるのだ。もう少し慎重に言い換えれば、公理のようになっている前提に関して、考えがあまりにも浅い。人間の心理についての理解が、著しく浅薄だと言わざるをえない。
だが、その前に現代貨幣理論には正しい洞察もある、ということをはっきりさせておかなくてはならない。それは、貨幣の本性は「負債」だという認識である。貨幣とは、流通する「債務証書」である。誰かの債務を記した書類が支払いに使えれば、それは貨幣である。貨幣に含意されている債務は、誰が負っているのか。それは、通貨を発行している者、つまりは政府――厳密にいえば統合政府(政府+中央銀行)である。国債が、政府の債務証書であることは明らかだが、それ以前に、貨幣が政府の債務証書である。これはまったく正しい。
では、その債務証書としての貨幣を政府に突き付けて、借金を返せ、と言えば、政府は何か返してくれるだろうか。何も返してはくれない。そもそも、政府は何を返せばよいのか。貨幣で返すしかないが、それこそ当の債務証書ではないか。というわけで、貨幣は、政府にとって、返す必要のない負債だということになる。政府がいくら借金をしても大丈夫である、とする理論の究極の根拠はここにある。
こうしたからくりが成り立つためには、しかし、債務証書である貨幣が流通しなくてはならない。たとえば、私が債務証書を発行しても、それを、私のことをまったく知らない人の間にも流通させることはできないだろう。私の長年の友人は、私を信頼して、私の債務証書を受け取るかもしれない。しかし、その友人が、彼または彼女の友人に――私のことを知らない第三者に――、私が出した債務証書を支払い手段として使うことができるだろうか。友人は、友人の友人から何か貴重なモノをもらったとき、「この債務証書を大澤というヤツのところにもっていけば、あなたが私に与えてくれた貴重品に匹敵する価値あるものをあなたに返してくれるはずだから、この債務証書で支払わせてくれ」と言ったら、友人の友人は、喜んで、一面識もない大澤の債務証書を受け取るだろうか。受け取るまい。その友人の友人は、私のことをまったく信用していないからだ。かくして、私が発行した債務証書は貨幣にはならない。
ところが、政府が発行した債務証書は流通する。どうして流通するのか。流通の動因になっているのは租税である。政府は、貨幣――つまり政府の債務証書――で支払われた租税だけを受け取る。人々は、政府に税を納めなくてはならない、と思っている。このことが、政府が発行した債務証書(貨幣)が流通する最終的な原因になっている。MMTによれば、租税の機能は、貨幣を流通させることにある。普通は、租税は、政府が国民のために何か役立つことをするのに必要な費用として徴収されている、と考える。しかし、MMTにとっての租税は、そうではない。租税の目的は、純粋に自己準拠的なものだ。つまり、租税の目的は、租税になること、租税として政府に回収されることのみにある。
2 税の謎
だが、これは実にふしぎなことではないか。MMTがまったく問うていない謎がここにある。われわれはどうして税を納めなくてはならない、と思うのだろうか。
MMT とはどんなものなのかを、とりわけ租税こそが貨幣を作り出しているということを説明する寓話がある。MMTの創始者とされているウォーレン・モズラーの実体験からくるものらしい。「モズラーの名刺の逸話」として知られている[1]。モズラーは、子供たちが家の手伝いをまったくしないことを不満に思い、「家の手伝いをしたらパパの名刺をあげよう」と子供たちに提案したのだそうだ。すると子供たちは喜んで、皿洗いや庭の芝刈りをするようになった……かというと、もちろんそんなことはない。子供たちは、「パパの名刺なんて欲しくない」からである。そこで、モズラーは、月末に30枚の名刺を彼に納めることを、子供たちに義務づけた。名刺を納めなければ、邸宅から追い出すぞ、と脅したのだ。すると子供たちは、名刺を得るために、必死になって手伝いをするようになった。
この名刺こそが、貨幣である。貨幣として流通させるためには、それを毎月、モズラーに納めさせることを義務化しなくてはならなかった。むろん、これが租税である。だが、どうして、子供たちは、モズラーに名刺を納めるのか。その理由は簡単である。暴力的に脅迫されているからだ。納めなければ、住む家を失ってしまう。
「モズラーの名刺の逸話」でも、子供たちは、何の理由もなしに、名刺を納めるわけではない。父モズラーによる脅しがなければ、子供たちは「納税」しなかっただろう。では、現実の租税の場合はどうなのか。モズラーの脅しに対応する要因は何なのか。「そんなことは簡単だ。要因となっていることはモズラー氏の場合とまったく同じだ。国家から脅されているのさ。納税しないと収監するぞ、と」。こんなふうに説明したくなるだろう。確かに、納税者の主観的な意識においてはそうかもしれないが、客観的にはこれはまったく因果関係を逆転させた説明である。非納税者に対する懲罰が実際に機能し、執行されるのは、人々が国家に納税することを義務として承認し、非納税者への制裁を合法的なものとして受け入れているからである。われわれが納税を義務だとして受け入れている理由は、国家による物理的暴力によっては説明できない。逆に、納税しない者への暴力が正当化されるのは、まさにわれわれが納税を義務として受け入れているからである。そうだとすると、問題はそのまま残される。
国民はどうして政府に税を納めなくてはならない、と思うのだろうか。納税の義務があると考えているということは、国民が、政府に対して借りがある、政府に返さなくてはならない、と感じている、ということを意味している。これは奇妙なことだ。どうして、人は、政府に対する負債をもつと思うのか[2]。納税は、それゆえ、とてつもなく変な現象だ。貨幣は、われわれではなく政府の方がわれわれに対して債務がある、ということを意味している。しかし、なぜか、われわれは政府に借りがあると感じ、政府の方の債務を意味する書類(貨幣)によってその借りを清算しているのである。どうして、われわれは政府に借りがあると思うのか。そのような負債感は、どのような条件のもとで成り立つのか。それは、「貨幣」なるものを可能にする条件として、説明されなくてはならないことだが、MMTは、これを自明視して、まったく考えてはいない。
3 負債のアンチノミー
いずれにせよ、MMTによると、貨幣は、政府にとっては返済の義務がない債務証書である。だから、政府は、必要なときにいくらでも貨幣を発行すればよいのだ、とMMTは説く。しかし、貨幣が支払い手段として使われるとき、つまり人が貨幣による支払いを受け入れるとき、そこで働いている心理的なメカニズムは、実に精妙なもので、それはMMTの視野には入っていない。
一方で、人は、現代の貨幣は兌換紙幣ではないし、これを政府にもっていっても、何も返済してもらえないことを知っている。しかし、他方で、支払い手段として貨幣を受け取るとき、われわれは、あたかも貨幣に価値があるかのように、すなわち自分がいま受け取った貨幣は自分に続く他者たちも受け取るに違いないと想定して、その貨幣を扱っていることになる。ということは、貨幣のうちに含意されている債務がいずれ返済されるかのように、われわれはふるまっているのだ。ここには、アンチノミー(二律背反)がある。債務は返済されないことを知っているのに、それがいつの日か返済されるかのように扱っているのだから。これこそ、貨幣なるものの秘密である。
このメカニズムは、裸の王様の寓話に喩えることができる。誰もが王様が裸であることを知っている。しかし、それでも、人々が王様が豪華な服を着ているという想定で行動していれば、そちらが現実となるのだ。MMTは、「王様は裸だ」と叫ぶ子どもの役を演じている。皆が知っていること――しかしあえて黙っていること――を頼まれもしないのに教える役である。
理論的に説明されなくてはならないことは、ほんとうはその先にある。どうして、皆が知っていることとは正反対のことが社会的現実になるのか。貨幣は無意味な記号なのに、まるで兌換紙幣のように価値あるものとして流通するのはどうしてなのか。それは、われわれの「政府」への(無根拠な)信頼に結びついた現象で、先ほど述べた国民の「納税への義務感(政府への負債感)」とも表裏の関係にあるのだが、これ以上の説明はやめておこう。
ひとつだけ大事なことを付け加えておく。いま政府の債務に関して述べたアンチノミーは、資本主義というものを一般的に特徴づける条件である。資本主義のもとで多額の資金をもつ者は、同時に、大きな債務をもつ者でもある。その負債は、返済されるという保証があるからこそ、貨幣として流通させることもできる。が、同時に、人は、すべての負債が完全に清算されることは絶対にないことも知っている。すべてが清算されるときは、資本主義が終わるときだからである。決して返済されないのに、あたかも確実に返済されるかのように扱われる負債。これが資本主義を成り立たせているのだが、この逆説が、通貨の発行主体である政府との関係においてはあからさまになる。他の経済主体は、それでも、負債を負うたびに返済しているが、政府は、ほんとうに返済しないからだ。この事実に中途半端に敏感だったのが、MMTである。
IV 惨事便乗型アンチ資本主義
1 「あれも、これも」から
まとめると、もしMMTが正しければ、そのように信じることができれば、われわれは、ソフィーの選択の苦境を回避することができる。国債をどんどん発行して、事実上のベーシックインカムを確立すればよい。しかしMMTが自明の前提としていることは、必ずしも常に成り立つことではない。MMTの主張が成り立つのは、はっきり言えば、資本主義の順調な作動を前提にできるときである。
だが、新型コロナウイルスへの対策がもたらしていること、大規模な外出制限がもたらしていることは、資本主義的な経済活動の麻痺だ。たとえば、非常に多くの人は給料を得られず、賃借料を支払うことができなくなる。そのため家主は、銀行への返済ができなくなる。……われわれは、「負債が全面的に清算され、消えてしまうことはないのに、実際には、常にそのたびにとりあえずは負債が返されることで、あたかも『負債は必ず返済される』かのようにふるまう」というゲームをやっていたわけだが、今やそのゲームは不可能になったのだ。王様が立派な服を着ていると見なそう、という「お約束」があったのに、王様がほんとうは裸であるという事実をどうしても否認できなくなった、というわけだ。したがって、MMTを信じてコロナ禍のもとで経済的に疲弊している人々への援助を続けても、いずれは挫折するだろう。
だから、休業せざるをえなかったり、失業したりした人たちへの補償や援助はやめた方がよい、と言いたいわけではない。まったく逆である。この方法はいずれ失敗し、資本主義というシステムの根幹を否定してしまうからこそ、実行すべきである。もともと、私たちの現況が、ソフィーの選択を連想させるようなジレンマになるのは、資本主義を前提にしているからだ。私たちが経済的に必要としていることの大半は、資本主義のルールからくるものだからだ。「あれか、これか」と迫られながら、どちらを取っても犠牲が大きすぎるとき、それを突破する唯一の方法は、選択肢そのものを変更してしまうことだ。ほんとうは不可能な「あれも、これも」にあえて執着すると、事前にはなかった選択肢が自然と生み出されるだろう。
2 惨事便乗型アンチ資本主義
それはどんなものか。もともとベーシックインカムは無償の贈与であって、私的所有の原理に反している。私的所有こそ、資本主義にとって最も重要な前提である。しかし、今述べたように、MMTを脱構築的に活用するとき、資本主義という枠組みそのものの放棄につながっていく。その結果、ベーシックインカムの実践に含意されていたことが、資本主義というフィルターを経ずに、そのまま剝き出しになって現れることだろう。それは、私的所有の原理の徹底した相対化である。
その結果、何が生まれるのか。MMTの理論は、われわれが国家に対してもっている不可解な負債感を、暗黙のうちに――自覚なしに――貨幣の流通の前提にしていた。しかし、MMTをあえて自己破綻するほどに活用するということは、国家に対するこうした負債感も消えるということである。言い換えれば、国家なるものへの依存や信頼も消滅に向かう。国家という媒介を消し去ったときに、何が現れるのか。国家という媒介なしに、ベーシックインカム的な実践だけが残ったとしたら、そこに現れるものは何か。
それこそ、人類が長いあいだ夢見たユートピアではないか。人はそれぞれ能力に応じて貢献し、必要に応じて取る。国家の代わりに出現するのは、要するに、このスローガンに実質を与える究極のコモンズ(共有物)である。あるいはむしろ、宇沢弘文の用いた語で、「社会的共通資本」と呼ぶほうが適当かもしれない。
社会的共通資本とは、「社会全体にとっての共通の財産」のことである。どこまでが社会的共通資本で、どこからが私的な所有物なのか、この境界線は一義的に決まっているわけではない。宇沢は、自然環境(山、土地、水、大気など)、社会的インフラストラクチャー(道路、橋、電力など)、制度資本(教育、医療、金融、司法など)を、社会的共通資本として例示している。いずれにせよ、社会的共通資本の範囲は、いくらでも拡張することができる。言い換えれば、私的所有の範囲をいくらでも狭めていくことができる。その先には何があるのか。人間の労働の条件とその産物はすべてが社会的共通資本であるとする、理念的な極限を想定することができる。このとき、人がその能力に応じて蓄積したものを、誰であれ、必要に応じて取ることが正当化される。
現在の困難に勇気をもって対決し、あえて不可能であるはずのものを選択すれば、こうしたユートピアへの長い道のりの最初の確実な一歩を踏み出すことができる。健康か、経済かと迫られれば、われわれは断じて両方をとろう。健康も、経済も。そうすれば、われわれは両方を得るだろう。ただし、その選択を通じて、経済は別の経済へと変わる。
ナオミ・クラインは、「惨事便乗型資本主義」という問題を指摘している。惨事便乗型資本主義とは、政変とか戦争とか災害とかといった大惨事に便乗して――復興の名目で――、市場原理主義が推進されることを指す[3]。こういうものがあるのだとすれば、逆に、惨事便乗型アンチ資本主義というものもありうるはずだ。大惨事を活用することで、市場原理主義の根幹の制度である私的所有権を大幅に相対化するような社会変動も起こりうるだろう。
V 脱・私的所有
1 私的所有を超えて
だが、こんな破壊的なことだけを主張されても、われわれの――すべての人の――必要を満たすだけの経済システムを維持することができるのか。このことが心配だ、と思う者もいるだろう。そういう人のために、もう少しポジティヴなことを付け加えておこう。
ベーシックインカムの手法を自己破綻に至るほど徹底して活用することで、私的所有の領域からコモンズ(あるいは社会的共通資本)を取り戻す、という趣旨のことを述べてきた。これは、資本主義の初期に起きたことを反転させる試みでもある。18世紀のイングランドで、コモンズ(共有地)から人々が締め出され、それが少数の地主の私有地として囲い込まれた。この「囲い込み」を主導し、支援したのがイングランドの議会である。ベーシックインカムは、この資本主義の初期にあった動きを逆転させ、囲い込みを破壊し、開放する試みだと見なすことができる[4]。
私的所有をコモンズや社会的共通資本へと転換したときに起きそうな問題は、ギャレット・ハーディンが「コモンズ(共有地)の悲劇」と呼んだ状況である。「能力に応じて貢献し、必要に応じてとる」というルールの場合、つまり貢献に応じた私的所有が認められないとき、人は、貢献に関しては消極的になり、取ることに対しては貪欲になるのではないか。そういう心配がある。ベーシックインカムに関して、世界各地のいくつかのコミュニティで、すでに実験がなされている。そうした実験によると、「コモンズの悲劇」のようなことは、ほとんど起こらない。だから、これは杞憂である可能性が高い。
とはいえ、ここで主張してきたことは、ただのベーシックインカムよりもラディカルだ。ベーシックインカムを徹底して活用し、脱構築してしまおう、とまで言っているのだから。そのうえで、なお活力ある経済システムがありうるのか。心配な者もいるだろう。
しかし、十分に成算がある。伝統的な私的所有の制度を全面的に否定してもなお創造的でもありうる経済システムを構築する方法を、ひとつ紹介しておこう。これが唯一の方法ということではない。しかし、可能な方法のひとつであり、うまく機能すると考える十分な根拠がある。それは、エリック・ポズナーとグレン・ワイルが提案している「共同所有自己申告税COST:Common Ownership Self-assessed Tax」というやり方だ[5]。
2 共同所有自己申告税
共同所有自己申告税COSTのエッセンスを理解するためには、まず、その基本前提をよくわかっていなければならない。
私有財産、私的に所有する富というものは、まったくないと考えてよい。すべてのモノが共同所有されている。つまりすべてが社会的共通資本であるという極限を想定しても問題がない。念のために述べておけば、一部のモノだけが共同所有である、という設定でも、その共同に所有されているモノに関して、COSTの方法は十分に適用できる。
そのうえで、モノに対しては保有者がいるわけだが、その保有者の権利は、私的所有権とどう違うのか。二つのポイントがある。使用権と排除権である。まず使用権について。使用権は保有者に属している。しかし、全面的ではない。つまり、使用権は、部分的に保有者に属している。使用権は、保有者だけではなく、公共にも属しているのだ。具体的に言えば、使用権を行使して獲得された価値の一部は、税として徴収され、公共に移転する。税率が、使用権のうちのどれだけが(保有者ではなく)公共の方に属しているかを表示している。この税率をどの程度に設定するかということが、COSTを首尾よく機能させるための技術上の鍵である。
次に排除権(排除する権利)。こちらの方が重要である。私的所有権は、一般には、完全な排除権を、要件として含んでいる。何かの財を所有しているということは、その財に対する他者の介入を完全に排除できる、ということを意味している。つまり、私がある財を所有するとは、(私の許可なく)他者がその財を使用することができない、ということを含意している。しかし、COSTにおいては、他者を排除する権利は制限される。ある条件のもとで、保有者は財を他者に譲渡しなくてはならない。次のような仕組みである。財を保有する者は、その財がどれくらいの価値があるのか、自己申告しておく。もし誰かが、その自己申告額でその財を買いたいと申し入れてきたとすると、保有者は、その価格で財を売らなくてはならない。自己申告額は、排除権の「壁の高さ」を意味しており、誰も、財に対して無際限の排除権を主張することはできない。
さて、以上のことを踏まえて、COSTがどのような仕組みなのか、具体的に説明しよう。今述べたように、Aは自分が保有している財Gの価格を自分で評価し、それを公に宣言しておかなくてはならない。その価格をpとしておこう。その価格pに対して、一定の税率tにあたる分が課税される。つまりAはp×tの税を支払わなくてはならない。
ここに、その財Gをより高い価格qで評価する者Bが現れ、財Gを買うことを申し入れたとする(q>p)。このとき、AはBに財Gを売らなくてはならない(AのGに関する他者排除権が無限ではないということがここで効いてくる)。このとき、Aには、A自身が自己申告していたGの価格pが、Bから支払われる。今度は、Bが財Gの保有者になり、同じことが繰り返される。つまりBは、q×tの税を支払う義務がある。
この仕組みがどのように働くかを想像してみるとよい。私が今、自分の土地を2000万円として申告したとする。税率を10%とすると、私は、毎年、200万円の税を納めなくてはならない。自己申告の金額が小さければ、納税額は少なくてもすむ。たとえば、私がその土地を1000万円と申告すれば、税は100万円ですむ。こう考えると、人は皆、自分の保有する財の額を少なめに申告したくなる……と言いたいところだが、これには、別の危険が待っている。他者に、安く買い叩かれてしまうのだ。もし私が、2000万円の価値があると思っている土地を、偽って1000万円と申告すれば、その土地は、それを1500万円と評価する誰かに、私自身が申告した偽りの価格1000万円で奪われてしまうだろう。
要するに、私は、土地の自己評価の金額を高く設定しても、低く設定しても損をする。私は、その土地を使って、1年間でどれだけの収益を上げられるかを予想し、それと税率との関係で土地の自己申告額を決めるのが合理的だ。私から土地を買う者は、その同じ土地を使って、私よりも高い収益をあげることができる人――それゆえより高い税を納めることができる人――である。結局、土地は、それの使用によって最も高い収益をあげることができる人に保有され、使用されることになるだろう。このように、財がそれを最も高く評価する者に使用されるように配分されている状態を、配分効率性がある、という[6]。
徴収された税はどう使うのか。これこそ、ベーシックインカムとして、全員に平等に配当すればよい。もともと、財はコモンズである、という前提から導かれたのがCOSTである。税を均等割にして直接還付することには、合理性と正当性がある。税率は、ベーシックインカムに相当する額が十分に得られるような水準で設定すればよいだろう。
3 賃借料の問題
ポズナーら提唱しているCOSTがベストのやり方だと推奨しているわけではない。ただ、資本主義の根幹にある私的所有の権利を相対化し、コモンズや社会的共通資本の領域を拡大したとしても、十分に活力がある経済を確保できる、ということを納得してもらうために、少なくともひとつは合理的な方法があることを示したのだ。
COSTの中核となる設定は、次の点にある。財は、基本的には共有されている。保有者は、財を所有する共同体からそれを賃借し、使用していることになる。税は賃借料である。COSTは、コロナ禍のような状況には非常に強い。今回のパンデミックにおいて、人々が何に最も困ったかを考えてみると、すぐにその意味がわかる。
多くの人が困ったのは家賃の支払いである。パンデミックで仕事や商売ができないのに、家主に、いつもと同額の家賃を納めなくてはならないからだ。しかし、もし経済がCOSTによって運営されていたらどうだっただろうか。こういうときには、自分が保有し、使用している土地の自己申告額を下げればよいのだ。パンデミックのときには、土地使用からくる収益が低下するのだから、当然のことである。そうすれば、納税額も、自分が支払いうる程度に下げることができる。もちろん、あまりにも自己申告額を低くしてしまうと、保有する土地を奪われる(買われてしまう)危険もあるわけだが、パンデミックのような、もともと商売ができない状況では、あえて土地を買おうとする人は多くはない(また、買いたい人が現れたとすれば、その人は、パンデミックのもとでも、その土地から利益をあげる自信があるのだから、その人に土地を買ってもらった方がよい)。
いずれにせよ、重要なことは、COSTの具体的な仕組みやその運営の仕方ではなく、その前提を確保することだ。すなわち、私有財産制を破壊し、広範な社会的共通資本(あるいはコモンズ)を確保することだ。こうした前提をもとにした経済の運営の仕方、たとえばCOSTにいかに合理性があったとしても、資本主義の現状から、そのような経済のシステムへと移行することは、通常では望めない。人々は、資本主義に、その根幹にある私的所有の権利に執着し、そこから自由になれないからだ。この執着を断つためには、コロナ禍のような惨事=破局を活用するしかない。惨事に対処するために導入される手法、たとえばベーシックインカムに連なりうる対策が、意図せざるかたちで、私的所有の絶対性を打ち破ることになるからだ。
VI 格差に抗するプロレタリアート
新型コロナウイルスのパンデミックは、現代社会にある経済的不平等(格差)を常時よりもくっきりと浮かび上がらせ、そしてさらに拡大するように作用した――いや、今でも作用しつつある。貧困層と富裕層では、感染のリスクに、そして死亡率に大きな差が出た。その原因ははっきりしている。感染の恐れがあっても労働しなければならない者が、つまり在宅で仕事をしたり休んだりすることができない者が、貧困層の方に圧倒的に多かったからである。また、極端に貧しい者は、早めに病院に行って、検査を受けたり、治療を受けたりすることもできなかったからである。
それにしても、どうして、現代社会において、格差がこれほど大きいのか。その最も大きな原因は、この章で述べてきたことをもとにして説明することができる。それは、本来、社会的共通資本であるべきものが私的に所有されている、ということにある。紹介したCOSTの仕組みでは、財を保有する者は皆、一定の率で税を支払わなくてはならない。その財は、共有物だからだ。この税は、格差を生まない。税は誰の所有物にもならず、また――ベーシックインカムとして――平等に再分配されるからだ。しかし、もし社会的共通資本が誰か特定の個人や企業に所有されていたとしたらどうか。税にあたるものが、賃借料として、その個人や企業に支払われることになる。そうなれば、とてつもなく大きな富が、その所有者に集中することになるだろう。
現在の格差にとりわけ大きな責任があるのは、社会的共通資本としての知識の私有化である。IT関連の知識や技術は、基本的には、社会的共通資本と見なすべきものの代表である。しかし、それらは、いわゆる「知的所有権」によって私的に所有され、囲い込まれている。GAFAが莫大な富を獲得できるのはどうしてなのかを考えてみるとよい。どうして、ジェフ・ベゾスが世界一の富豪なのかを考えてみるとよい。特定の企業や個人に所有されている技術や知識が「標準」となり、世界中のユーザーに使用されるとどうなるのか。われわれは、それを使用することで、実質的に、さまざまな方法で、その所有者に賃借料を払っているのと同じことになる。
標準化しているIT技術・知識に私的な所有権を設定するのは、たとえば、「日本語」とか「英語」とかを誰かの所有物とするのと、基本的には同じことである。われわれが日本語を使うたびに、誰かに――直接的にか間接的にか――賃借料が入る仕組みになっていたとすれば、それはまったくバカげたことだと思うだろう。IT関連の技術・知識の大半は、特定の個人や企業の貢献に帰することができない、集合的な営みの産物である。「日本語」を誰かの発明と見なすことができないのと同じである。
第3回と第4回で、われわれは、危機への対応を通じて、私的所有の制度を脱構築し、社会的共通資本やコモンズの広範な領域を確保することができるはずだ、と述べてきた。これは、とてつもなく大きくなっている格差(経済的不平等)への対抗策でもある。もちろん、COSTを採用したとしても、格差がゼロになるわけではない。しかし、コモンズや社会的共通資本を,私有財産として囲い込むことができなければ、ある限度を超えた格差は生まれようがない。
コモンズや社会的共通資本を誰かが私的に囲い込めば、必然的に、本来は自分に(も)所属すべきモノを奪われる者が大量に生まれることになる。囲い込まれた社会的共通資本から締め出される者たちが、である。彼らは、現代的な意味でのプロレタリアートだと見なすことができる。そうだとすれば、この回で述べてきたことは、プロレタリアートによる反撃、一種のプロレタリア革命である。
* * * * *
[1] 井上智洋『MMT──現代貨幣理論とは何か』講談社選書メチエ、2019年。
[2] 普通の答えは、政府がわれわれを保護する等、何かよいことをしてくれるからだ、というものだが、この答えはMMTでは使えない。先に述べたように、MMTの理論の中では、租税の機能は、政府が公共事業を行うことにあるのではなく、まさに租税として納めさせることにあるのだから。モズラーの名刺の例でも、モズラーは、名刺を使って何かよいことを子供たちにやってあげているわけではない。
[3] ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン──惨事便乗型資本主義の正体を暴く』上・下、幾島幸子・村上由見子訳、岩波書店、2011年。
[4] 山森、前掲『ベーシック・インカム入門』。
[5] エリック・A・ポズナー、E・グレン・ワイル『ラディカル・マーケット――脱・私有財産の世紀』安田洋祐監訳、遠藤真美訳、東洋経済新報社、2020年、第1章。
[6] 財の使用者に、それをできるだけ有効に活用しようとするインセンティヴを与える状態を投資効率性がある、という。私的所有の制度は、投資効率性は高いが、配分効率性がない。他方で、単純な、何の工夫もない共有の制度は、投資効率性に欠陥があると考えられている。COSTは、二つの効率性をともに確保する工夫である。
プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年、長野県生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。個人思想誌「THINKING「O」」主宰。『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞。ほかの著書に、『身体の比較社会学』『<世界史>の哲学』『不可能性の時代』『<自由>の条件』『社会学史』など。共著に『ふしぎなキリスト教』『憲法の条件』など。
*大澤真幸さんのHPはこちら
関連書籍