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連載「真に新しい〈始まり〉のために──コロナ時代の連帯──」第1回 普遍的連帯への歩みはどうして始まらないのか〔前編〕大澤真幸

 コロナ禍のもと、身体的接触がタブーとなるなか孤立した人々の間には亀裂が生じ、社会の分断が進行している。米中をはじめとする大国は露骨な国益を主張し、私たちは国家という枠組みに否も応もなく囚われていく。このような息苦しい時代だからこそ、階級的格差を克服する平等性の実現や、国家という枠を超えた普遍的連帯の可能性というビジョンを、私たちはいま一度真剣に追究するべきではないか――。
「コロナ時代の連帯」の可能性と、そのための思想的・実践的課題に鋭く迫る、著者渾身の論考!

Ⅰ 簡単に理解できるのに……
1 普遍的連帯の必要

 誰もが理解できるごく簡単なことなのに、なぜか実行に移されないことがある。新型コロナウイルス(COVID-19)への対抗策に関してもそれが言える。このウイルスに対処するためには、どうしても、地球的なレベルでの普遍的連帯が必要になる。たとえば、国民国家の主権を相対化するようなかたちで対策を打ち、国民国家を超えた協調体制を築き、そして医療資源をはじめとする必要な物資や人材を、人類全体を視野において効率的かつ公平に配分する機構が必要になる。あるいは、階級的差別を超えた――つまり十分に平等な――健康保険のシステムや社会保障の制度が必要になる。こうしたことは、誰でもわかることだ。しかし、実際には、普遍的連帯への動きはほとんど起きてはいない。むしろ、それに逆行することが起きている。
 どうしてだろうか。どうして、簡単にわかることとは逆のことが起きるのだろうか。私たちは今まで、ずいぶんたくさんの愚かな政治家を見てきたし、今も世界各地にそういう政治家がいるのを見てはいるわけだが、最も愚かな政治家でも、現在のコロナ対策として絶対に必要なのは、普遍的な連帯であることを理解できるだろう。だが、実際には、逆のことが起きつつあるのは、どうしてなのか。
 目下のところ、コロナ対策としてなされたこと、なされつつあること、あるいは今後もなされるだろうことの中心は、さまざまなレベルでの人間の移動の制限と封じ込めである。人々の外出を制限したり、都市をロックダウンしたり、といった手法だ。そうした封じ込めの最上位のレベルが、国境を越える移動の制限だ。外国からの渡航を制限し、さらに禁止する、という手法だ。封じ込めの最大範囲が領土国家になり、かつその他のレベルの封じ込めを決定するのも各国政府なのは、現状の政治システムを前提にしたときには、仕方がないことである。主権が最終的に国民国家に帰属しているからだ。
 しかし新型コロナウイルスの感染症の流行に関しては、ほんとうは、一国だけでは解決できないことを誰もが知っている。というより「一国だけの解決」ということ自体がナンセンスである。仮に自国の感染者の数が減少し、ゼロに近づいても、他国で感染症の流行が止まっていなければ、それは自国にとってさえも解決ではない。地球上のどこかに、感染者がいれば、ウイルスがいつ自国に再び入ってくるかわからないからだ。そもそも、他国に感染者がいる間は、十分な経済活動も移動を伴う交流も不可能で、私たちは本来の繁栄を取り戻すことはできない。要するに、「一国だけ」であれば、それは未だ解決ではないのだ。
 新型コロナへの対応を通じて、各国政府はこのことを十分に思い知ったはずだ。国家間だけではなく、国家内でも同じような問題がある。たとえば、家庭に閉じこもっていることを要請したり、強制したりしても、そんなことが不可能な貧しい労働者たちがいる。社会的な必要としても、また自らの生きる糧を得るためにも、外で働かなくてはならない労働者たち――エッセンシャル・ワーカーと呼ばれる労働者たち――がいる。仮に、裕福な者たちの外出を制限して、彼らをウイルスの感染から守っても、貧しい者たちの間に感染者がいれば、問題は解決していない。富裕層にとってさえも、問題は真に解決してはいない。ウイルスが、いつ階級の壁を破って入ってくるかわからないからだ。簡単に言えば、ウイルスのパンデミックを解決するためには、貧困のパンデミックの解決が要求される。
 新型コロナウイルスのパンデミックを通じて、私たちは皆――とりわけ各国のリーダーや政治家たちは――、こうしたことを痛感したはずだ。とすれば、次に起きることは何か。当面は、もちろん「手持ちの札」を用いた応急的な対応があったとしても、その後になされることは何か。たとえば、それは国連の改組や権限強化を通じた――あるいはその下部組織としてのWHOの改組を通じた――、世界共和国への動きであるべきではないか。あるいは、国民国家の範囲を超えた大規模で平等な健康保険システムの提案であるはずではないか。かつて、リスク社会論を唱えた社会学者ウルリヒ・ベックは、リスクが国境を越えるときこそ、国境を越えた連帯が生まれるチャンスになるだろう、と論じた。今こそまさにそのチャンスではないか。

2 実際に起きていること

 だが、私たちが実際に目の当たりにしていることは、当然予想されるこうした動きとは正反対のことである。新型コロナウイルスへの対策を通じて、もともとからあった階級間の貧富の格差が、これまでになく露骨なかたちで現れた。ウイルスによる死亡率も、また収入を減らしたり、失業したりした者の比率も貧困層の方が圧倒的に高い。つまり、コロナ禍を通じて、格差は拡大しつつある。
 あるいは、それぞれの国家の剝き出しの利己主義の方が前面に出ており、国家の間の葛藤はコロナ以前よりもはるかに深まっている。とりわけ顕著なのは、二つの大国、アメリカと中国である。たとえば、トランプ大統領は、ヨーロッパに感染症が広がり始めたとき、予告も通知もなしに、イギリスを除くヨーロッパからの渡航を禁止した。これは、アメリカが、伝統的に最も親密だった友人に対して、「もうお前と一切協力するつもりはない!」と大声で叫んだようなものだ。そして、アメリカと中国の争いはまことに露骨で、双方ともに協力への意志を微塵も見せてはいない。もともと、貿易や諜報活動などをめぐって米中の間には葛藤があったが、新型コロナウイルスの感染症が世界規模で広がったのちは、葛藤はより深刻なものになった。両国は、互いにパンデミックの発生に対して責任を押し付け合ったり、コロナ後の世界の覇権を目指して戦略的に行動したり、とまことに下劣な争いをしている。
 国を横断した協力や連帯が実現するためには、一般には、どこか少なくとも一国が、自国の利益を抑制しつつ、リーダーシップをとらないと難しい。実際、トランプ大統領の登場より前には、感染症の大規模な流行等の問題が起きたとき、それに対応する国際協力のリーダー役を担ったのは、常にアメリカだった。しかし、地球的な規模のコロナ禍の最中にWHOからの脱退を決めてしまうような現在のアメリカに、コロナ後の活躍を期待することはできない。
 中国はどうか。中国がアメリカに代わって国際的なリーダーになりうるか。確かに、中国は、アメリカよりは巧みにふるまっている。中国は新型コロナウイルス感染症の発生地ではあったが、感染の抑制に比較的早く成功した後は、いわゆる「マスク外交」によって、パンデミックの渦中にあった諸国に、医療スタッフを含む医療資源を送り、感染症の拡大を抑制するそれらの国々の活動を支援し、一定の信頼を勝ち得たからだ。とはいえ、これによって、中国を中核にした大規模な国際協力のシステムが確立されることになるかと言えば、そのように期待することはできない。むしろ逆であろう。中国のこうした行動は、覇権の獲得を目指した、それ自体「自国ファースト」的な行動と受け取られているからだ。また、中国は「権威主義的な国家」と見なされており、グローバルに支持されている「普遍的価値」に準拠しておらず、少なくとも豊かな民主主義国が中国の指導に従うことはありえないからだ。中国がいかにマスク外交に力を入れても、誰も、中国が自国の利益をときに超えて利他的にふるまうこともあるとは期待していない。中国の戦略的な利他性は、むしろ、逆に、米中の葛藤を深めるように作用している。
 述べてきたように、一国だけではパンデミックを克服できないことをすべての政府は痛感しているので、国際協調の動きもないわけではない。その中でも最も大規模なのは、欧州議会が、コロナ危機対策として、「復興基金」を含む経済再建策を決議したことであろう。この決議が画期的なのは、必要な資金を、EU共通の債務として――つまり国ごとではなくEU全体の借金として――調達したことである。これまでEUは、ユーロのような共通通貨をもちながら、財政は各国ごとだったため、豊かな国から貧しい国への支援は、前者の合意を必要とし、しばしば十分にはなされなかった。基金がEU全体の債務であるならば、諸国家間の利害の対立を超えることができる。とはいえ、これには限界がある。復興基金は、コロナ危機対策の暫定措置なので、このような財政統合が、恒久化するかどうかはわからない[1]。そして、何より、これはEUの枠内のことであって、EUを超えた世界共和国への動きとはとうてい見なしがたい。
 したがって、まとめれば、コロナ禍の中で目立っているのは、階級的な格差の拡大と利己主義を剝き出しにした国民国家の間の葛藤である。誰もが、階級的な格差を克服する平等性や国民国家の範囲を超えた普遍的連帯の必要をこれまでになくはっきりと自覚しているまさにそのとき、主として起きていることは、これとはまったく逆行することなのだ。今、実際に起きていることの先に起きるかもしれないことに関して、最悪のシナリオを描いたとしたら、何が導かれるか。アメリカと中国の対立を基軸とする第三次世界大戦であろう。新冷戦どころか、むしろ熱戦すら起こりうる。

3 連続する二つの世界大戦

 世界大戦が起きるかもしれないという予測は、悲観的に過ぎる、と言われるかもしれない。しかし、コロナ禍の経験を通じて世界共和国への歩みが始まるだろう、という予想よりは現実的である。世界共和国の必要性は、誰もが認識した。しかし、実際に起きそうなことは、世界大戦である。奇妙なことではないか。
 それにしても、嫌な予感がする。この逆説にははっきりとした前例があるからだ。第一次世界大戦を経験した後、人々は戦争そのものを悪だと考えるようになり(それ以前は、ヨーロッパでは戦争は可能な政治手段のひとつとして認められていた)、永続する平和を確立したいと願ったはずだ。そのことをよく示しているのが、戦後、国際連盟が形成されたという事実である。しかし――永続的な平和どころか――、第一次世界大戦からそれほど時をおかずして、第二次世界大戦が勃発した。しかも、第二次世界大戦の原因、ドイツが戦争に踏み切った原因のひとつは、まさに第一次世界大戦の戦後処理の失敗にあった。永続的な平和を望みつつ実行した処理が、逆に、第二次世界大戦を招いたのである。
 似たようなことが現在のパンデミックの後にも起きないだろうか。人々は、普遍的連帯の必要はしっかりと認識したはずだ。その認識のもとでなされた行動が、しかし、連帯どころか戦争や次なる破局を招くことにはならないか。これは、ヘーゲルが「理性の狡智(こうち)」と呼んだ歴史のアイロニーの一種である。人々は、破局の処理に必ず失敗する。ヘーゲル風にいえば、破局の概念化から逃れる残余がある。その残余が、次の真の破局への道を開いてしまい、あたかも理性のずる賢い罠にはまったかのようなことが起こる[2]。
 ともあれ、ここで考えてみたい。国境を越える連帯の必要性、階級的な格差を解消する平等性の必要性が理解されているまさにそのとき、逆に、世界大戦すらもまねきかねない国家間の葛藤が生じ、格差もかえって拡大してしまうのはどうしてなのか。

Ⅱ 倫理的な洗練の極と野蛮の極
1 国民国家こそが

 だが先に確認しておきたいことがある。パンデミックを通じて、人々は、国民国家の範囲を上限とするような連帯によっては、問題は解決できない、ということを深く理解したはずだ、と述べてきた。しかし、連帯の単位が国民国家にある限りは問題に対応できない、という構造は、新型コロナウイルスのパンデミックに限られたことではない。実のところ、重要な課題、つまり今後百年単位の人類の幸福や繁栄を左右するような重要な課題は、ことごとく国民国家のレベルでは解決できない。地球環境問題も、核問題も、経済的な不平等の問題も、あるいはインターネット上の知的所有権や個人情報の保護の問題も、さらにはヒトゲノムの管理などの生命倫理の問題もすべて、国民国家の力では解決できない。
 それどころか、これらの問題を深刻なものにしている原因こそ、人々にとって国民国家が第一義的な忠誠心の対象になっている、という事実である。たとえば、気候変動をめぐるパリ協定から、トランプ大統領のアメリカが離脱を通告したのは、国益を、つまりアメリカの企業の利益を優先させたからである。富の格差は、もし地球上の全人口に対して、所得や資産についての累進的な税を課すことができればまちがいなく縮小するのだが、各国が、自国への投資を有利なものになるように税制度を決定すれば、逆に格差が大きくなる。要するに、国民国家こそが、最大の障害である。
 こうなることには、つまり「国民国家の内部には強い連帯があるが、国民国家の間には競争かあるいは暫定的な利害の一致しかないという状況のもとでは、国民国家の存在が問題を深刻にするばかりのものになる」ということには、強い論理的な必然性がある。このような状況のもとでは、道徳的に最も完成されているということと、逆に最も野蛮なこととが逆説的に合致してしまうのだ。つまり道徳的に洗練されればされるほど、逆にますます暴力的で野蛮になる、という逆説が生じうるのだ。このような逆説を、17世紀の哲学者トマス・ホッブズの理論から導くことができる。

2 洗練の極=野蛮の極

 ホッブズは、社会契約論の祖のひとりであり、彼の著した『リヴァイアサン』は、現代の社会学や政治学でもしばしば引用される[3]。ホッブズはこの本の中で、国家がどのような論理で形成されるのかを論じている。ホッブズによれば、本来、人は自分自身の利益、自分自身の生存を目指している。ある個人の利益や生存は、必ずしも別の個人の利益や生存とは両立しないので、人々の間には闘争が生ずる。場合によっては相手を殺そうとするような闘争が、である。これが自然状態(最も原始的な状態)で、「万人の万人に対する闘争」として描かれる。この血で血を洗う悲惨を克服するために、人々は一致して自分の自然権(自己の生存のために何をやってもよいという権利)を放棄し、これを、「リヴァイアサン」(旧約聖書に出てくる怪物)に喩えられる国家に委ねる。こうして、社会的な秩序が生まれることになる。皆の生存、すべての人の共存のために、自己の自然権を放棄した状態が、ホッブズの観点では、道徳的に完成された状態になる。
 ホッブズの述べたことを、国民国家と国民国家が相互に国益を追求する競争状態において捉えるとどうなるのか、考えてみよう。国民国家の利益のために、私欲を捨てて献身的に努力する人物は、最もよく教育された人であり、道徳的な完成度が高いと評価されるだろう。しかし、この同じ人の行動を国民国家と国民国家の間の関係の中に置いてみたらどうなるのか。この人物の自己犠牲的な行動は、特定の国民国家の生存だけを目指す行動――他国の生存や繁栄を否定することも辞さない行動――である。つまり、特定の国家にとって最も英雄的で崇高な行動が、国家間の関係の中で見れば、ホッブズの自然状態(野蛮な状態)における闘争行動として現れる。たとえば、北朝鮮で核兵器の開発に努めた技術者を考えてみよう。この技術者は、北朝鮮にとっては英雄だが、国際関係の中では、野蛮な戦争の準備に関与していることになる。国民国家の間の競争というコンテクストの中では、最も優れた人、最も道徳的に洗練された人こそが、最も野蛮な人になる、という逆説は避けられない。

3 国民国家の争いと資本の争い

 このような逆説があるがために、今日、すべての深刻な社会問題に関して、国民国家のレベルでの連帯は、逆に、問題を悪化させるように作用する。それなのに、国民国家の枠を超えた連帯は、未だに生まれていない。未だに、人々が最も重視する大義は、国民国家のレベルでの利益や善である。どうしてなのかといえば、破局はまだ先のことだと思われているからだ。切迫しているようにも感じられてはいるが、しかし、破局はまだ訪れてはいない。たとえば、地球の温暖化によって、どこかの国が水没するのはもう少し先のことだ。そうだとすれば、破局はやってこないかもしれないではないか。そのように思う余地が残っているがために、国民国家の枠を超えた連帯はなかなか生まれない。付け加えておけば、民主主義が国民国家の範囲で営まれているとき、政治指導者は、破局の回避のために断固たる行動を起こすことができない傾向がある。そんなことをやっても、国民の人気は得られないからだ。将来、破局的なことが起きなかったとしても、それが、その政治家のとった対策のおかげなのか、それとも、もともと何もしなくても破局など生じなかったのか区別がつかないので、その政治家が後に称えられることもない。
 だが、コロナ危機に関しては、事情は異なる。破局はもう来てしまっているからだ。私たちは今まさに、パンデミックが引き起こす破局のただ中にいる。そうだとすれば、国民国家の範囲の狭い連帯を超えた、人類レベルの普遍的な連帯への歩みは、今すぐに始まるはず……なのだが、実際に起きていること、そこから予想されるありそうな展開は逆に、国民国家の利己主義の昂進である。どうしてなのか、これが私たちの疑問だった。
 本来ならば、次のようなことが起きるべきときだ。まず、具体的には、今ある国際組織、たとえばWHOとか国連とかの改組と権限強化がすぐに始まるべきだろう。そして、百年後に振り返ったとき、2020年は〈世界共和国〉への胎動の生じた年だった、と、思うことになる。……私たちが、コロナのパンデミックを通じて理解したことにすなおに応じれば、実際にはこうなるはずだ。しかし、理解に関してはこれほど簡単なことが、行動においてはまことに困難だ。行動を阻んでいる究極の原因は何であろうか。
 ところで、さらに、もうひとつ確認しておかなくてはならない大事なことがある。国民国家はなぜ争うのか。現在の国民国家は、何をめぐって競争しているのか。かつての冷戦の時代とは異なり、国家たちはイデオロギーを理由に争っているわけではない。国民国家の間の競争もまた、主として資本主義に従属している。つまり、企業だけではなく、国民国家もまた、資本主義的な競争に参加しているのだ。国民国家は主として、自国の資本にとって有利になるように、つまり自国の資本がより多くの利益を生むために戦っている。各国が、露骨に自国ファーストでふるまうのも、競争の目的が、資本主義的な衝動に基づいているからだ。もしイデオロギーの方が重要だったら、自国ファーストの利己主義に徹することはできなかっただろう。これらを再確認したうえで、考察を前に進めよう。

Ⅲ イエスの墓の前で
1 孤立による連帯?

 パンデミックに対抗するためには、際限のない連帯、普遍的連帯が必要だ、と述べてきた。そのような理想的な極点にまでいかないとしても、暫定的に短期間、感染の広がりを抑え、犠牲者の数を減らそうとするためには、あるレベルでの連帯が必要になる。コミュニティの範囲の、あるいは国民国家の範囲の連帯が、である。
 ところで、その連帯は、きわめて逆説的で、極端に人間の自然に反しているところに特徴がある。大半の人にとって――医療関係者やエッセンシャル・ワーカー以外のほとんどの人にとって――、感染症が猖獗(しょうけつ)をきわめている最も過酷なときに、共同体への連帯を示すということは、具体的な行動としては、(共同体のメンバーであり仲間でもある)他者たちから自分の身体をできるだけ隔離すること、他者たちの身体との接触を最小化することを意味しているからだ。一般には、人間は、他者へ近づくこと、その身体に触れること――触れるほどに接近すること――を通じて、その他者と親密になり、極大の利他性を発揮する。しかし、新型コロナウイルスの感染症に関しては逆である。他者から離れていること、それこそが、他者への思いやりなのであり、利他的な行動でもあるのだ。
 一般には関係を絶つための行動によってこそ、他者への連帯を示すこと。こんなことは可能なのか。とりわけ、その連帯が、極大の連帯、無際限に人類の全体にまで及ばねばならないような普遍的な連帯だとしたら。

2 「私に触れるな」

 ともかく、現在、私たちは、新型コロナウイルスへの対応策として――つまり自分の感染の予防と他者に感染させない配慮を伴った行動として――、繰り返し、他者との接触を避けよ、と言われている。他者と物理的に接触することこそが、他者に危害を及ぼす最悪の行動である、と。すると、新約聖書を読んできた者は、ほとんど条件反射のように、ひとつの句を連想せずにはいられないはずだ。「ノリ・メ・タンゲレNoli me tangere」[4]。「ヨハネによる福音書」20章17節にある、イエスの一言である(ラテン語訳)[5] 。
 イエスが十字架の上で絶命した後の週明けの初めの日、マグダラのマリアが、空っぽになったイエスの墓の前で泣いていると、白衣の御使いが現れる。その白衣の御使いとの短いやりとりの後、マリアが後ろを振り返ると、そこに一人の男がいる。彼女は最初、彼がイエスであるとは思わない。しかし、マリアは、「何を泣いているのか。誰を求めているのか」というこの男からの問いに答えた後、その男から「マリアム」と呼びかけられたときに気づいたのだろう。彼女は、「ラブニ(先生)」と応じている。そしてマリアは――聖書には明示的に記述されてはいないがおそらく――イエスにすがりつこうとした。それに対してイエスが言ったのが、「ノリ・メ・タンゲレ」である。「私に触れるな」という意味だ。この命令は、復活のイエスが最初に発した言葉として、キリスト教徒たちの間で重視されてきた。
 イエスが言ったことは、偶然にも、今日、ウイルスの感染に苦しむ人間に与えられている、基本的な注意事項と合致している。イエスのマリアへのこの命令を、他の福音書を含むコンテクストの中で、そしてまたイエスの活動の全体の中で解釈し、評価すると、そこから、普遍的連帯ということの可能性に関して、ひとつの暗示を得ることができる。ポジティヴな暗示と、逆に批判的な示唆との両方を導き出すことができる。

3 「今ここ」ではなく「ガリラヤ」へ

 なぜ、イエスはマリアにこのようなことを言ったのか。この言葉が真に意味していることは何か。この何でもない一言が、福音書の記者に、そしてまた後世のキリスト者たちに、永続的な印象を残したのはどうしてなのか。
 イエスのこの言葉を記録しているのは、四福音書の中で、「ヨハネ」だけである。共観福音書と呼ばれる他の三つの福音書の中には、「ノリ・メ・タンゲレ」は出てこない。では、これに対応する出来事は何か。マルコ、マタイ、ルカのそれぞれ微妙に異なってはいるが、骨格は以下の通りである。マグダラのマリアは、やはり墓に行くが、イエスに会うことはない。イエスの死体は不在だが、もはやイエスはマリアの前に現れない。代わりに、白い服だか、直視できないほどに輝いた服だかを着た男、あるいは天使がいて、マリアにメッセージを伝える。そのメッセージは、「マルコによる福音書」ではこうである。「彼は甦った。ここには居ない。見よ、ここが納められていた場所だ。(中略)彼は、(中略)あなた方を先立ち導いてガリラヤへと行く。そこで彼に会えるだろう」(田川建三訳、マルコ16章6節〜7節)[6]。
 このメッセージの含意は、こうである。まず、「今ここ」でのイエスの現前が否定される。そうではなくて「ガリラヤ」にいると言われるわけだが、ガリラヤという固有の土地にこだわる必要はない。ガリラヤは、「今ここ」を否定するために導入されている。したがって、このメッセージは、キリストの身体の「今ここ」での現前を否定し、それを「常にすでに別のところ(あそこ)」での存在へと転換しているのだ。それゆえ、ここで、キリストの身体の局在が、その遍在へと変換されている。
 白い服をまとった御使いまたは男がこのようなメッセージを伝えたという話が、「ヨハネによる福音書」では、イエス自身が「ノリ・メ・タンゲレ」と言ったという話に置き換わっていることになる。ということは、二つの話は、交換可能であり、それゆえ等価だということになるのではあるまいか。したがって、「ノリ・メ・タンゲレ」は、こう読むべきである。触れられうる対象という限りでのイエスの身体を否定することが、キリストの身体をより強力な存在へと、つまり遍在へと転換するのだ、と。このキリストの身体の遍在性は、キリストの唱えた隣人愛の普遍性のひとつの表現である。
 このように解釈できるとすると、これは、現在の私たちにとってよい報せである。これから私たちは、「ノリ・メ・タンゲレ」と常に言われながら生きてゆく。この禁止は、社会関係のほぼ全体を貫く基本的なルールとなる。もし、「ノリ・メ・タンゲレ」に従うことが、普遍的な意味をもつ神の存在を保証するならば、そしてこれが、普遍的な愛の実現をも準備するものであるならば、私たちは、「新しい生活様式」に希望をもつことができる。確かに、私は「今ここ」であなたに触れることはできない。あなたは、「ガリラヤ(どこか別のところ)」にいる。これこそが、私たちの間の愛のひとつの結晶した姿であるとすればどうであろうか。実際、私たちが、十分に物理的な距離をとるのは、触れ合うことが不可能なほどの距離をおくのは、互いに相手を気遣ってのことである。「ノリ・メ・タンゲレ」は、「隣人愛」への通路だとすれば、これは、その宗教的な表現が隣人愛になるような政治共同体の連帯にとっての基礎になりうるのではないか。

4 触れることによる奇蹟

 だが、ここで話は終わらない。復活したキリストの最初の一言が「私に触れるな」であることが衝撃的なのは、実のところ、それとは正反対のこと、つまり「(身体に)触れる」ということこそが、イエスの活動の根幹にあるからだ[7]。
 イエスは、神の国というユートピアはもう手に届くところにある、と言う。そのことを実感させるのは、イエスが実行する数々の奇蹟である。奇蹟の中心にあるのは病気の治癒のための活動である。治療のほとんどが、イエスが触れること、つまりイエスの身体に触れること、ただそれだけのことによって成し遂げられる。たとえば次のように。

そして彼のもとに一人の癩病人[引用者注:ハンセン病のかつての呼称]が来る。彼に頼んで、膝まづき、言う、「もしお望みなら、あなたは私を清めることがおできになります」。彼は怒って、手をさしのべてその男にさわり、言う、「望む。清められよ」。そしてすぐに、癩はその男を離れ、その男は清められた。(マルコ1章40-42節、田川建三訳)

 触れること、触れられること、触れ合うことは、イエスの実践の根幹である。そのことを通じて、神の国なるユートピアがすでにほぼ手中にあることを、人は実感する。だから、イエスはこう言う。「もしも私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、それなら、神の国はすでにあなた方のところに到来したのだ」(ルカ11章20節、田川訳)。「ノリ・メ・タンゲレ」は、こうした背景を前提にして解釈しなくてはならない。
 確かに、磔刑(たっけい)死の後の復活に際して、イエスは言う。もはや私に触れる必要はない、触れてはならない、と。触れなくても――というより触れえないことによって――、神の遍在は保証されよう。しかし、それが可能なのは、その前に、触れる体験、触れ合う体験があったからだ。「触れないこと」が絶大な効果を発揮するのは、「触れること」に先立たれ、基礎づけられているからである。
 すると今度は、私たちは、悲観的にならざるをえない。孤立し、互いに触れないということを原則にしたとき、そこから十分に包括的な連帯を導き出すことは不可能なのではあるまいか。こんな逆説はそもそも不可能なことだったのではないか。

*   *   *   *   *

[1] というより、オランダ、オーストリア等の財政規律を重んじる国々からの反対が大きいので、恒久化は困難だと見られている。
[2] ヘーゲル『歴史哲学講義』上・下、長谷川宏訳、岩波文庫、1994年。
[3] ホッブズ『リヴァイアサン』1・2・3・4。水田洋訳、岩波文庫、1992年。 
[4] スラヴォイ・ジジェクが、新型コロナウイルスのパンデミックに際して緊急出版した小著を、この語を引くことから始めている。Slavoj Žižek, Pandemic!, New York, London: OR Books, p.1.
[5] 原典ギリシア語ではΜή μου ἅπτου(mē mou haptou)。
[6] 細かいことだが、気になる人がいるかもしれないので付け加えておく。「マタイ」では、マリアたちは、墓を去るとすぐにイエスに会い、直前に御使いから伝えられたのとほぼ同じ趣旨のことをイエスから聞く。田川建三によると、これは、マタイがマルコの話を変更したために(マルコではマリアたち女は弟子たちに話を伝えなかったのに、マタイではすぐ話を伝えに行ったことにした)挿入された不自然なエピソードである。以下を参照。田川建三訳著『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書/マタイ福音書』作品社、2008年、848頁。
[7] 大澤真幸『〈世界史〉の哲学 古代篇』講談社、2011年。他者の身体に触れること、他者の身体がすぐ近くにあることが、イエスの活動にとってどれほど重要だったのか、ということについては、高橋由典の以下の考察が非常に深い。高橋由典『続・社会学者、聖書を読む』教文館、2020年、28-34頁。

連載第2回(9月4日公開予定)へ続く

プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)

1958年、長野県生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。個人思想誌「THINKING「O」」主宰。『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞。ほかの著書に、『身体の比較社会学』『<世界史>の哲学』『不可能性の時代』『<自由>の条件』『社会学史』など。共著に『ふしぎなキリスト教』『憲法の条件』など。
*大澤真幸さんのHPはこちら

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