大澤真幸 連載「真に新しい〈始まり〉のために──コロナ時代の連帯──」第2回 普遍的連帯への歩みはどうして始まらないのか〔後編〕
コロナ禍のもと、身体的接触がタブーとなるなか孤立した人々の間には亀裂が生じ、社会の分断が進行している。米中をはじめとする大国は露骨な国益を主張し、私たちは国家という枠組みに否も応もなく囚われていく。このような息苦しい時代だからこそ、階級的格差を克服する平等性の実現や、国家という枠を超えた普遍的連帯の可能性というビジョンを、私たちはいま一度真剣に追究するべきではないか――。
「コロナ時代の連帯」の可能性と、そのための思想的・実践的課題に鋭く迫る、著者渾身の論考!
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IV 動物としての人間の生
1 生への権力
以上は、宗教的なテクストの解釈から導かれる暗示である。問題を、現代の社会や政治に適用可能な社会科学的な概念で捉え直してみよう。新型コロナウイルスのパンデミックに対して各国の政府がとっている対応はさまざまだ。しかし、それらは全体として、典型的で極端な「生政治bio-politique」の一種と見なすことができる。
生政治はミシェル・フーコーが創出した概念である。もちろん、フーコーの議論の前提にあるのは、西洋の政治史である。前近代の伝統的な権力は、殺す権力、死への権力だった。つまり、支配者が従属者を殺すとき、あるいは殺す可能性を示唆するときに権力が発動された。しかし、フーコーによると、近代の権力は、逆に、生への権力、生かしめる権力である。伝統的な権力は、臣民の生には関心がなかった。臣民を、単に生きるに任せていた。それに対して、近代的な権力は、住民の生に関心を向ける。それは、住民の生や健康をこそ第一義的な配慮の対象とする。このような権力、人口の管理調整に関わるこの近代の権力のことを、フーコーは「生権力」と読んだ。生権力に基づく政治が生政治である[1]。
生政治の概念をフーコーから継承し、洗練させたのがジョルジョ・アガンベンである[2]。アガンベンは、生政治において主題化されている「生」の性格をはっきりさせた。アリストテレスは『政治学』の中で、共同体の目的に関連して、「〔人は〕生きるために生まれたが、本質的には善く生きるために存在する」と述べている。ここで二種類の「生」が暗に前提になっている。ひとつは、単に動物として生きているということを意味する生で、これはギリシア語で「ゾーエー」と呼ばれていた。ゾーエーとは要するに、単純な生としての生、剝き出しの生である。それに対して、もうひとつの人間的な様式をもった生、善き生を意味しているギリシア語は「ビオス」である。アリストテレスの一節が示しているように、ポリスの公共性、つまり政治が目標にしていたのは、本来は、「ビオス」、つまり善き生、徳をもった生であった[3]。それに対して、近代においては、住民のゾーエーとしての生を確保することを目標とする政治が確立する。それが生政治である。
このように解説すれば、感染症対策としてなされていたことが、究極の生政治である、ということの意味も明らかだろう。ウイルスに感染しないように、あるいはウイルスを感染させないように外出を制限せよ、という要請や命令は、動物としての生の確保だけを目的としている。生の質、つまりビオスはまったく問題にされてはいない。外出制限やロックダウンは、極論すれば、家畜を檻に閉じ込めるのと同じである。
2 動物としての生
アガンベンは、イタリア政府がパンデミックに対してとった、緊急事態的な措置を批判した短い文章の中で、次のような趣旨のことを述べている[4]。剝き出しの生(ゾーエー)の確保だけが目標であるような政治は、人間の関係や連帯に対しては、必然的に破壊的に作用する、と。このことは、実際にコロナ対策として実践されていることを思えば、容易に理解できる。「ノリ・メ・タンゲレ」、つまり人と人との身体的な接触を極小化するように求めることは――コミュニケーションをできるだけインターネットを媒介にしたものに限定するよう要求することは――、関係を構築したり、強化したりするようには作用しない。逆に、人間の間の関係に対して消極的であれ――可能ならば回避せよ――と訴えていることになる。
ただし、純粋に理論的に言うならば、生政治が必然的に人々を個人化したり、孤立させたりするわけではない。生政治に立脚した集団化ということはありうる。実際、生政治の中心は、住民をその集合性において――つまり「人口」という形式で――主題化することにある。また「剝き出しの生」を媒介にした共同性もありうる。実際、「自分の命だけではなく、大切なひとの命を守るため」という趣旨で、自分の身体を隔離するとき、人は、まさに「動物としての生」を根拠にして配慮し合い、団結していることになる。
Ⅱで見たホッブズの理論は、それぞれの個人が自分の動物としての生をどこまでも追求している状態を自然状態として措定するところから始めていた。このような理論は、今日振り返ってみると、生政治的な観念の初期の表現だったと見ることができる。ホッブズの社会契約論は、剝き出しの生を至高の目標とする個人たちの集合が、いかにして、秩序を形成し、一個の国家としての連帯を確保するのかを説明しようとしたものだ、と解釈することができる。
17世紀のホッブズの理論は、今日、われわれが「生命」について知っていることを思えば、素朴な前提に立っている、ということになるだろう。彼は、進化論も遺伝子のこともまったく知らずに考えていた。ここに現代の生物学の知見を導入したらどうだろうか。その場合、動物としての生とは、究極的には――個人の生ではなく――遺伝子の生ということになるだろう。そうすると――現実の生政治ということではなく――生政治という概念の中に含まれていることを、論理的に純化して理念型を作ったとすれば、そのような生政治は、遺伝子たちの存続を第一義的な目標とするものになるはずだ[5]。
もし、生政治の最終的な準拠点が「遺伝子」にあるとするならば、そこから次のことが言える。第一に、生政治は、必ずしも個人の利己性や孤立を推進するものではない。遺伝子こそが、進化における「利己的目的」の単位であるということは、つまり個人の身体が遺伝子たちの乗り物であるということは、逆に言えば、動物としての個人は必ずしも利己的ではない、ということをこそ含意しているからである[6]。しかし、第二に、厳密に生物学的な観点を加えても、アガンベンの述べたこと、つまり生政治は人間関係や連帯にとっては最終的には負の効果をもたらすという認定は正しいということになる。進化が利己的な遺伝子たちの間の競争として描きうるということは、ときに遺伝子たちの間に協調的な関係が築かれたとしても、普遍的な連帯を意味するような(個人間の)協調関係の極点にまでは決して至りえない、ということをも同時に含意しているからだ。
要するに、動物としての生を「遺伝子」の水準で理解したとき、論理的に純化された生政治は、決して、人類の普遍的連帯を基礎づけることはない。逆に、生政治は、個人の間ではないにせよ、個人の集合(人口)のどこかの範囲に利己性の単位を設定する。
さて、そうだとすると、これが回答なのか。普遍的な連帯が必要なときに、逆に、利己的な争いがよりいっそう露骨なものとして前面に現れるのはどうしてなのか、という疑問に対する、究極の回答は、現代の生政治が必然的にもたざるをえない基本的条件にこそ求められるのだろうか。私たちの集合行動が、生政治の論理に最終的には――そして無意識のうちに――規定されていることが、普遍的な連帯を不可能にしている、ということなのか。
3 生政治への民主的な支持?
もしそうだとすると、次のように言わざるをえない。それでもなお、普遍的連帯の必要を唱えるのだとすると、私たちは、生政治を超える原理や価値に依拠しなくてはならない。つまり、「動物としての生」よりももっと高い価値があるとして、それに根拠を求めることで、生政治的な政策を批判しなくてはならない。「ゾーエー」を超える「ビオス」を、つまり「剝き出しの生」に、その生そのもの以上の「善さ」を見出さなくてはならない。
実際、そのような試みによって、生政治に、とりわけ新型コロナウイルスへの生政治的な対策に反抗しようとしている者もいる。それは、次のような主張である。「ただ動物として生きていても仕方がない。私には、もっと大事なXがある。Xのために死んだとしてもかまわない」。このXの位置に、その人にとって(生そのものよりも)善い何かが入る。それは、何かの「仕事」であったり、「観劇」であったり、「ライブハウスで音楽を楽しむこと」であったり、「パチンコ」であったり、「美食」であったり……する。
しかし、現在のパンデミックを通じて、私たちは学んだ。多くの人の生命が脅かされているような危機的な状況においては、このXの位置に何が入ったとしても、ほとんど共感も賛同も得られないということを、である。通常の状況の中でならば、Xに任意のことを代入することができる。「オレにとっては音楽がすべてだ。ライブハウスで歌って踊れないのならば、生きていても意味がない」等と。しかし、ほんとうに生きることが脅かされるような例外状況の中で、同じことを主張しても、広い共感は得られない。どうやら、私たちは、ほんとうには「動物としての生」を超える価値があるとは思っていないらしい。生政治は、民主的に支持されているようだ。諸個人の「ゾーエー」は至高の権利であって、他のどんな人権も――移動の自由も営業の自由も集会の自由も等々――そのためであったらときに放棄してもかまわない、と人々は考えているようだ。
そうすると――繰り返せば――ひとつの結論が不可避になる。生(ゾーエー)が準拠点であるならば、人類の全体に拡がりをもつような普遍的連帯は不可能である、と。今日のような状況にあっても、普遍的連帯へと向かうような動きがごくわずかしか現れない最終的な原因、岩盤のような動かない原因は、私たちが生政治の枠組みの中で行動しているからだ。このように結論されるのか。
4 ダンバー数を圧倒的に超えて
だが、ほんとうにそうだろうか。以上の論理には、なお問題がある。どこにあるのか。「動物としての人間」の生を究極の目的としたときに、連帯の普遍的な拡がりは必然的に阻まれることになる、というつながりに、である。動物である限りでの人間の生が何を指向しているのかということが、すべて直接に、利己的な遺伝子の論理――遺伝子のテレオノミー[7]――から導き出されるのだとすれば、以上の推論には問題がない。しかし、動物としての人間の生には、遺伝子のテレオノミーに直接には規定されない媒介が入っている。
ここで間違ってはならない。人間は、他の動物とは異なって、動物的な遺伝子の論理では説明できない「理念」や「価値」や「精神」や「理性」をもっている、と言っているのではない。要するに、動物性とは区別された、人間的な超越性がある――ハンナ・アーレントの言うような「人間の条件」がある――、と言いたいのではない。人間の動物的な生の中に、遺伝子のテレオノミーには直接には還元できないアスペクトがある、と言いたいのだ。この点を厳密に証明するには、この場はふさわしくない。ここでは、どうしてそのように考えるのか、直観できる程度の手がかりだけを簡単に説明しておこう。
そのために、霊長類研究者たちの間で広く支持されている社会脳仮説を紹介する。霊長類は、一般に集団を形成する。ロビン・ダンバーによると、脳の大きさ(厳密には、大脳新皮質の大きさ)と社会集団の規模の間には、非常にきれいな定量的な関係が――正の相関関係が――ある。要するに、進化の一本の系列に着眼したとき、脳が大きい種ほど大きな集団を形成して暮らす傾向がある。それぞれの種に標準的な集団の規模(個体数)をダンバー数と呼ぶ。ダンバーが提案している関数を用いて計算すると、チンパンジーの集団のサイズ、つまりダンバー数はおよそ50になる。それは、実際に観察されているチンパンジーの群れの大きさとほぼ一致している。
それでは、ホモ・サピエンスのダンバー数はいくつなのか。計算すると150になる。これは、かなり納得のいく数字である。150人のスケールは、人間の社会生活の基本をなしている。たとえば、狩猟採集民のクラン(氏族)の平均規模がまさにそのくらいである。新石器時代の村落の平均規模も150人強だ。古代ローマから近代に至るまで、独立して行動する歩兵隊の平均サイズも150人。一人がクリスマスカードや年賀状を送る数も、100〜150程度になる。SNSでも、つながりの強い人の数は100〜200の間に入るという。このように、150人規模の共同性は、人間という動物にとって非常に自然なものである。それは、チンパンジーにとって、50個体程度の群れが自然であるのと同じ意味で自然だ。つまり、ダンバー数150は、遺伝子のテレオノミーから指定される人間にとって適当な集団のサイズだと考えられる。
しかし、同時に、誰でも知っているように、人間の共同体の規模については、他の動物の群れにはない性質がある。約150は、人間の共同体にとって、決して絶対的な限界ではないのだ。人間の共同体は、150人の規模を超えて拡がってきたし、現在も拡がっている。たとえば「国民(ネーション)」という共同体を考えてみよう。どんなに小さい国民でも、150人をはるかに超えており、最大の国民は、10億人よりも大きい。こうした事実から私たちが学んだことは、人間の共同体の大きさには限界がないらしい、ということである。潜在的には、どんなに大きな共同体であっても、人間は、それを「われわれ」と見なすことができる。たとえば100億を超えると、もはや「われわれ」というアイデンティティを確立できなくなる、などということはない。限界があるとすれば、それは、地表の物理的な広さであって、人間の共同性へのポテンシャルではない。
このことから、人間の社会には、特殊な問題が生ずる。一方では、共同体の規模の無限性へと至る通路が潜在的には開かれている。しかし、他方では、現実の人間の共同体、つまり互いに連帯し、秩序を形成しうる集団のサイズは、常に有限である。潜在的には無限で人類の全体を包括しうるのに、実際には、この有限な共同体が「われわれ」である。そのため、有限な「われわれ」の範囲の線引きには恣意的な特殊性、根拠のない偶有性が宿っているという感覚を、共同体のメンバーはもたざるをえない。
無限性――ということは人間の類としての普遍性――は、人間にとって不可避の(必然的な)指向目標となると同時に、現実には常に不可能である。このことが人間には、ひとつの「問題」としてたち現れることになる。それぞれの集団が帯びる特殊性(メンバーの制限やメンバーシップの条件)は、普遍性との関係で常に偶有的なものとして現れざるをえないのだ。こんなことは、他の動物、他の霊長類の種では問題にはならない。人間の集団は、普遍性との関係で、自分たちの偶有性や恣意的な特殊性を自覚しないわけにはいかない。フォイエルバッハやマルクスは、人間のことを「類的存在」と呼んだわけだが、この言葉を、ここで述べたことにパラフレーズして継承してもよいかもしれない。人間とは、「人類」という普遍性が常に問題になるような種である、と。たとえば、チンパンジーには、「チンパンジー類」という問題は存在しない。誰と誰が同じ群れのメンバーで、どこまでが自分たちの縄張り(遊動域)かということは、チンパンジーにとっても重要な問題で、正確に認知しているはずだが、他のチンパンジーの群れを含む「チンパンジー類」というアイデンティティは、彼らにとっては存在しない。チンパンジーは類的存在ではないのだ。
ここでは詳しく説明しないが、以上のごとき人間の固有性から、どのような人間集団も「習慣(ハビトゥス)」を有する理由を説明することができる。習慣とは、集団が伝統的に継承してきた恣意的な規範のことである。習慣の大半は気まぐれで、なぜそうしなくてはならないのか、当人たちにもよくわからない。習慣には常に、合理的・機能的な理由に尽くされない恣意的な余剰部分が宿っているのだ。このような意味での習慣は、他の動物の集団には存在しない[8]。結論だけ述べておけば、習慣とは、人間という類の普遍性が、人間の集団の内部に再参入したことによって生じた現象である。習慣が真に主題化しようとしていることは、人間の社会一般とその外部(社会的紐帯(ちゅうたい)の完全な崩壊、無秩序、連帯の完全な欠如)との区別である。この区別、類的な普遍性をその外部から隔てる境界線は、しかし、直接には対象化できず、それは、人間の社会の内的な差異—―ある特定の集団とその外部とを分ける差異――としてのみ顕在化され、意識的に措定される。これが習慣である。
ここで確保しておきたい論点は、以下のことだ。動物としての人間の「生」に準拠したときには、普遍的な連帯が不可能になる――常に特殊に限定された連帯だけが目標になる、というアガンベンの認定はまちがっている。動物としての人間の生には、共同体の範囲を類的な普遍性へと拡大していくポテンシャルが備わっている。そうだとすると、類的な連帯、普遍的な連帯ということが緊急に求められている現在の危機の中で、それにもかかわらず、国民国家の利己的な行動が突出し、階級の格差が拡大しているのはなぜなのか、という問題に対しては、「生政治」は答えにはならない。障害は別のところにあると考えなくてはならない。
Ⅴ 禁欲の資本主義
1 GDPと株価の矛盾
コロナ禍の中、奇妙なことが進行している。まずは当然のことから。コロナ禍によって、経済成長は止まった――というより激しくマイナス成長に転じた。2020年のGDPの成長率は、大きくマイナスになるだろう、とIMFは予想している。6月時点でIMFは、2020年のGDP成長率に関して、次のように予想している。
世界全体 -4.9%
アメリカ -8.0%
ユーロ -10.2%
日本 -5.8%
コロナ禍においては、失業率も高い。とりわけアメリカの失業率は、著しく高い。これらのことに関しては、驚きはなかろう。感染症対策として、経済活動の大半を停止したのだから、当然のことだ。奇妙なことはその先である。なぜか株価が下がっていないのだ。むしろ、上がってさえいる。
株価も、パンデミックがヨーロッパやアメリカに拡がり始めた当初の段階、つまり3月には暴落した。しかし、その後、V字回復している。現在(8月上旬)、ダウ工業株30種平均は、1年前とほぼ同じ水準にある。ナスダック指数に至っては、V字回復以上である。コロナによる株価の一時的な暴落の前よりも、すでに10%以上、高くなっているのだ(同8月上旬)。GDPは下がり、失業者も増え、多くの人が収入を減らして、消費も冷え込んでいるのだから、経済は基本的には悪化しているはずだ。しかし、その経済の状態の指標であるはずの株価が上がっている。どうしてなのか。
コロナ危機による経済の破綻は、2008年のリーマンショックのときよりもダメージが大きく、1929年の大恐慌のとき以来の、いやそれ以上の損失であったと言われている。しかし、リーマンショックのときも、また大恐慌のときも、破局はとりわけ株価の暴落というかたちで現れていた。ところが、現在のコロナ危機においては、株価は堅調以上である。業種によっては(たとえば航空関係)、株価も大きく下がってはいるが、全体としては、今述べたように、株は下がってはいない。このことは、コロナ危機が、リーマンショックや大恐慌よりはまだマシということを意味しているのだろうか。GDPは下がっても、株は上がっているのだから、少しはよかった、と考えるべきなのか。
そうではない。逆である。株価が当然下がるべきときに、株価が上がることは、単純に株価が下がるよりも悪い。これは、集合的で徹底した「否認」のメカニズムが働いていることを示している。何が否認されているのか。破局の事実が、である。何の破局か。資本主義そのものの破局である。これは、沈没することが確実になった船に乗っている者が、その事実を否認し、船の中に留まるときの心理と同じである。資本主義という船が沈みかけているように見える。しかし、ほんとうに資本主義そのものが破綻したら、そのことによる犠牲はあまりにも大きすぎる。このとき否認が生ずる。「資本主義は普通に働いている、という想定で行動しよう」と。こうして、実体経済の裏付けなしに、株が普通に売買されることになる[9]。
株が上がっているという事実、とりわけコロナ禍が最も過酷だったアメリカの株が上がっているという事実は、それゆえ、ある徹底した執着を示している。資本主義への執着である。資本主義を手放すことができない、と。
2 世俗内禁欲のメカニズム
資本主義はしばしば、貪欲と享楽のシステムだと考えられている。しかし、これは、資本主義に対する根本的な誤解である。資本主義の特徴は、むしろ禁欲であり、享受の断念だ。利益を得たとして、その分をすべて消費してしまえば、資本主義では勝者になることはできない。獲得された利益はあらためて投資されなくてはならず、十全な享受、完全な満足は、そのたびに先延ばしにされなくてはならない。資本主義は、このような行動様式を身につけた者だけが生き延びられるシステムである。
マックス・ヴェーバーは、この点に着眼し、資本主義の精神の根幹に「世俗内禁欲」を見た。ヴェーバーがこのような語彙を用いたのは、資本主義の中で求められる禁欲が、通常の活動の中で求められる一般的ながまんの域をはるかに超えているからだ。それは、宗教性を帯びている。ヴァルター・ベンヤミンは、ヴェーバーよりさらに率直に、「宗教としての資本主義」と題した短い試論の中で、同じ行動を、「礼拝」だと記している[10]。資本主義のもとでたとえば資本家は、獲得した貨幣を、自分の消費や楽しみのために、決して(すべて)使ってはならない。なぜなら、その貨幣は、さらなる投資にまわされるからである。なぜ、さらに投資しなくてはならないのか。もっと多くの貨幣を得るためである。永遠に消費や楽しみに使われることがない貨幣を無限に蓄積するために、投資を反復すること。これが資本主義に固有の行動である。
だが、これは実に奇妙で倒錯的な行動だ。何のための貨幣の蓄積なのか――永遠にそれを使い尽くす時が引き延ばされているとすれば――、まったくわからなくなってしまっているからだ。どうしてこんなことが可能なのか。なぜこんな行動様式が広く普及したのか。ヴェーバーの著名な研究は、この疑問に答えるものだったと解釈することができる[11]。その研究によれば、世俗内禁欲をもたらしているのは、プロテスタンティズム――とりわけカルヴァン派において最も純粋に姿を現す予定説――である。予定説とは、最後の審判において誰が救済され、誰が呪われるかは最初から神によって決定されており、誰もそれを変更することはできない、とする教義だ。誰が救済されるかは、そのときに――つまり終末の時に――ならないと、絶対にわからない。こうした設定の中で、信者は、自らが救済に予定されている側にある、ということを(無根拠に)前提にして行動する。その行動が結果的に、世俗内禁欲となる。
したがって、次のように言うことができる。プロテスタントの自己犠牲的な禁欲は、純粋なものとは言えない。なぜなら、現在の禁欲、現在の犠牲は、来るべき終末の日の救済によって取り戻され、報われることになっているからだ。もっとも、実際には、終末はいつまでもやってこない。したがって、結果的には、禁欲と自己犠牲は純粋なものになっている。しかし、いずれにせよ、終末において救済されるという想定なしには、現在の満足をどこまでも放棄する禁欲は生じない。
この予定説の構成を世俗に転用したものが、資本主義に固有な行動である。それは次のような意味だ。終末(の救済)に対応するのが、投資されたものが利潤を伴って回収されるときである。自らが市場に送り出した商品が売れ、利潤をもたらしたとき、その出来事は、宗教的な救済としての意味を帯びることになる。プロテスタントが、終末における救済を前提にして禁欲するように、資本家は、後にやってくる利潤のために、現在を犠牲にし、十全な満足を先送りする。
本来の予定説と異なるのは、資本主義においては、終末が無限に繰り返されることである。すなわち、利潤が獲得されるやすぐに、それは、より後にやってくる真の終末のための手段に転ずる。かくして、再び投資がなされる。予定説を信ずるプロテスタントにとって、生きている限りは、終末はやってこない。資本家にとっても、真の終末は、結局、やってこない。なぜかというと、終末が到来すること――投資を回収すること――が、そのまま、終末を、さらなる未来に措定することを意味しているからだ。結局、実際には決して到達しない終末での報酬(救済)を前提にして、現在の満足が犠牲にされ続ける、という構成は、資本家の場合も、プロテスタントの場合も同様である。禁欲と投資を継続させるためには、しかし、「終末における救済」が確実にあるという前提が、絶対的に不可欠である。
3 新商品と廃棄物のような
資本主義は、階級という格差を必要とする。以上のことから、このような命題を導くことができる。市場は競争の場なので、成功する人と失敗する人、勝つ人と負ける人がいる、という単純な事実が階級をもたらしているのではない。階級なるものをもたらす究極の原因は、資本主義がキリスト教(プロテスタンティズム)から継承した「救済」の構図にある。
資本主義というシステムに参加している者は皆、ここに述べてきたように、自らが救済されることを――具体的には利潤を得て裕福になることを――前提として先取りしつつ行動する。しかし、救済は定義上、一部の選ばれた者の救済である。全員が救済されるならば、それはもはや救済ではない。誰もが神の国に招じ入れられるならば、神の国に何の意味があろうか。
予定説的な終末論の構成が機能するためには――そうした終末論の世俗化されたヴァージョンが実効性をもつためには――、だから、資本主義というシステムは確実に、ごく一部の人が救済され、大半の人が救われていないようだ、ということを人々に得心させなくてはならない。利潤(剰余価値)をわがものにし、救済される側に入るのがブルジョワジーであり、搾取され、呪われる側に組み入れられるのがプロレタリアートである。すべての人を、未来における救済へと誘惑するためには、一部の人だけが救われる階級的な格差を維持しなくてはならない。プロレタリアートは、禁欲と自己犠牲だけを実行し、救済はされなかった人々だと言うことができるだろう。
資本主義は、「ブルジョワジー/プロレタリアート」という階級の区分に対して、物的な――つまり商品上の――対応物をもつ。「(成功した)新商品/ゴミ」という区別がそれである。資本主義は絶えず、新商品を市場にもたらさなければならない。そうしなければ、利潤を無限に生み続けることができないからだ。新商品が次々と生まれるということは、それに対応して、次々と廃棄物が出てくるということだ。古くなったり、壊れたりして、廃棄物になるわけではない。新商品が出てきたときに、既存の物は、新商品との差異によって廃棄物へと、ゴミへと転化するのだ。救済された対象が(成功した)新商品ならば、呪われた対象がゴミである。この「物」の区別が、階級の区分に対応している。
4 答え――どうして普遍的連帯への歩みは始まらないのか
さて、ここまで説明してようやく、本来の問いに答えられる地点に到達した。パンデミックの渦中にあって、誰もが全地球的な規模の普遍的連帯の必要を理解したのに、どうして、実際にはこうした理解とは逆行することが起きているのか。連帯どころか、国民国家は利己主義をあらわにしてふるまい、階級間の格差も拡大している。それはどうしてなのか。これが疑問であった。私たちが資本主義を手放すことができないからだ、というのが回答なのだが、どうして手放せないのかが重要である。
コロナ危機の最も厳しいとき、つまり「緊急事態」の中で、私たちがなさなければならなかったこと、なすように求められていたことは何であったか。それは、経済活動のほぼトータルな停止だった。のちに経済を動かすために、現在を禁欲することだ。ところで、資本主義とは、基本的には、永続的な禁欲のシステムであった。そうであるとすれば、パンデミックの危機の中で求められていたことは、まさに、資本主義の「得意技」だったことになる。
しかし、ひとつ、重要な違いがある。本来の資本主義との違いが、である。述べてきたように、禁欲、つまり現在の満足の断念がいつまでも継続するためには、来るべき救済――資本主義的には将来の利潤――の幻想が必要だった。(実際にはやってこない)救済が確実に待っているという幻想が、である。しかし、コロナ禍の緊急事態の中で求められている自粛・禁欲に対しては、そのような幻想は与えられない。
資本主義の通常の作動の中でも、世俗内禁欲の厳しい労働を求められながら、結局、自分は救済された、救済されつつあるという実感をもてない人々もいる。それが、プロレタリアートであった。そうだとすれば、緊急事態のもとでの自粛・禁欲とは、すべての人がこのプロレタリアート的な境遇に置かれるのと同じである。全員がただちに貧しくなる、と言っているのではない。そうではなく、富裕層でさえも、禁欲と救済との関係において、貧しいプロレタリアートの場合と同じ形式の境遇に置かれる、ということだ。
救済の幻想をとりはらって、端的な無期限の禁欲に服すること。これがコロナ危機の中で求められたことなのだが、こうした態勢は十分に長く機能するだろうか。もちろん、機能しない。禁欲がいつまでも続くのは、救済の約束があったからなのだから。
ここから、あの株式市場の不可解な活況において露骨に示されているような執着、「資本主義は死につつあるわけではない。今でもまったく健康だ」というあの否認が出てくる。経済活動から全面的に撤退するような禁欲は、資本主義的な救済について人々が強い確信をもっていなければ不可能だ。資本主義を(ほぼ)否定するような経済の停止は、資本主義を前提にせざるをえない。これは、むろん、端的な矛盾である。
それゆえ、結局、十分に徹底したコロナ対策は、不可能だ、ということになる。ここで「十分に徹底したコロナ対策」と言ったとき、そこには、将来的には「世界共和国」へとつながるような普遍的連帯の準備ということも含まれる。あるいは、階級の格差と分断という形式で出現する救済の幻想を放棄することもまた、含まれる。普遍的連帯の必要性は誰でも容易に理解できるのに、そうした方向への歩みが一向に生じない究極の原因は、以上の点にある。
Ⅵ 二種類の時間、そして第三の時間
時間についての代表的な表象は、二つある。直線(不可逆性)と円環(反復)である。真木悠介の『時間の比較社会学』によると、近代的な時間の意識は、この二種類の表象の合成によって生まれた[12]。後者の円環の時間の源流は、ヘレニズム(古代ギリシア)にある。前者の不可逆的な直線(線分)の時間の源流は、ヘブライズム(ユダヤ‐キリスト教)にある。直線的な時間の表象は、絶対に始点には回帰しない真の終末論から生まれた。そのような終末論は、ユダヤ教の後期に登場し、キリスト教へと継承された。
以上に見てきたように、二種類の時間の表象の合成の産物は、「近代」というより、「資本主義」の時間と解すべきであろう。資本主義は、終末論的な直線的な時間を、循環的に適用するところに生まれる。終末そのものが繰り返される、という構成である。二種類の時間のうち、基底的な契機は、終末論的な直線の時間だ。終末の循環の全体が、さらにメタレベルの終末論――最終的な救済へと向かう時間――となっているからだ。
ここで示してきたことは、困難の究極の源泉は、資本主義を成り立たせているこの時間の構成である、ということである。私たちは、この時間の枠組みの外に出ることができない。このとき、新型のウイルスへの真に徹底した対応も不可能になる。誰もがその必要性を理解している、普遍的連帯への歩みも始まらない。資本主義の時間の外部に出ることは不可能なのか。
今しがた述べたように、資本主義の時間の二種類の成分は、「西洋」という文明の二つの源流に由来する。ヘレニズムとヘブライズム。ここで、よく目を凝らして見るとよい。もうひとつ時間があることに気づく。二種類の時間のどちらにも還元できないもうひとつの時間が、である。キリストが到来した瞬間である。そう、私たちもすでに、この論考のⅢで垣間見た時間、「ノリ・メ・タンゲレ」と語ったキリストがいたときの時間だ。
キリストの到来は、ひとつの出来事であって、循環する時間という表象には適合しない。そして、キリストは「今ここ」にいるのであって、未来の救済を待望しつつ禁欲する過程としての現在にいるのでもない。つまり、キリストがいた時間は、二種類の時間のどちらでもない。キリストがかつて到来したという事実は、私たちが資本主義の二種類の時間の外へと出ることができるということを暗示している。
では、この第三の時間は何なのか。このもう一つの時間が告げていることは何なのか。それは、任意の「今」において、根本的に新しいことを始めることが可能だ、ということである。新型コロナウイルスの侵入という偶発的な事件を、この〈始まり〉のための合図として活用すること。百年後にもなお人類が繁栄しているかどうかは、これにかかっている。だが、何を始めればよいのか。
* * * * *
[1] M. フーコー『性の歴史1――知への意志』渡辺守章訳、新潮社、1986年。『生政治の誕生』慎改康之訳、筑摩書房、2008年。
[2] G. アガンベン『ホモ・サケル』高桑和巳訳、以文社、2003年。
[3] それに対して、ゾーエーを担ったのが、オイコス(私的圏域)である。
[4] G. アガンベン「根拠薄弱な緊急事態によって引き起こされた例外状態」「補足説明」ほか。アガンベンの議論については、以下の対談における、國分功一郎の解説を参照。國分功一郎・大澤真幸「哲学者からの警鐘」『Thinking「O」』16号。
[5] 現在の実際の政治において、遺伝子の継承や増殖を基準に政策が決定されている、ということではない。ここでは、生政治という概念の論理的に純化されたモデルについて述べている。ただし政治が、優生学によって汚染されているときには、実際に「遺伝子」が主題になる。この場合、しかし、優生学が関心を寄せる遺伝子は、純粋に生物学的な実体ではなく、イデオロギーによって「優劣」の判別を付与された遺伝子である。現在のコロナ禍との関係で言えば、医療崩壊の中で「命の選別」がなされたとき、無意識のうちに、遺伝子に準拠した判断が導入されていた、と見ることもできるだろう。
[6] 真木悠介『自我の起原』岩波書店、1993年。
[7] 「テレオノミー」という語は、テレオロギー(目的論)という概念の神学的な含みを消し去るためにリチャード・ドーキンスが導入した概念である(『利己的な遺伝子』日高敏隆他訳、紀伊國屋書店、2018年)。遺伝子が自らの増殖を目的として利己的にふるまっているかのように説明しても、自然科学の原則に反することはない。
[8] 動物の行動に見られる習性は、常に、(遺伝子の)環境への適応との関係で合理性がある。
[9] ヒッチコックの『サイコ』の結末で、犯人だった青年ノーマン――モーテルを経営している――について、次のような真実が判明する。ノーマンは、母親の死を、断固として拒否し続けていたのだ、と。彼は、愛人をつくって自分を裏切った母親を許せず、愛人もろとも殺害してしまったにもかかわらず、母がすでに死んでいる、という事実を否認しようとした。そこで、彼は、母親が生きているという想定で行動し始めたのだ(一人二役で、ノーマン自身と母親とを演じることで)。今、株式市場で起きていることは、これに似ている。市場は、資本主義が瀕死であることをどうしても直視することができずにいる。
[10] ヴァルター・ベンヤミン「宗教としての資本主義」『ベンヤミン・コレクション7』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、2014年。
[11] マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989年。
[12] 真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店、1981年。
プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年、長野県生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。個人思想誌「THINKING「O」」主宰。『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞。ほかの著書に、『身体の比較社会学』『<世界史>の哲学』『不可能性の時代』『<自由>の条件』『社会学史』など。共著に『ふしぎなキリスト教』『憲法の条件』など。
*大澤真幸さんのHPはこちら
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