大澤真幸 連載「真に新しい〈始まり〉のために──コロナ時代の連帯──」第5回 人新世のコロナ禍〔前編〕
コロナ禍のもと、身体的接触がタブーとなるなか孤立した人々の間には亀裂が生じ、社会の分断が進行している。米中をはじめとする大国は露骨な国益を主張し、私たちは国家という枠組みに否も応もなく囚われていく。このような息苦しい時代だからこそ、階級的格差を克服する平等性の実現や、国家という枠を超えた普遍的連帯の可能性というビジョンを、私たちはいま一度真剣に追究するべきではないか――。
「コロナ時代の連帯」の可能性と、そのための思想的・実践的課題に鋭く迫る、著者渾身の論考!
※連載第1回から読む方はこちらです。
I 人新世のコロナ禍
1 人新世
現在は、地質時代的には人新世(ひとしんせい)Anthropoceneにあたる。このように主張する自然科学者は多い。人新世とは、人間の活動が、生態系の状態を決定する最も重要な要因となった時代という意味である。この概念は、実質的には1930年代末期にはすでに現れており、「人新世」という用語も、1960年代には使用されていたようだが、今日あらためてこの概念が注目されるようになったのは、大気を研究する化学者パウル・クルッツェンが2000年に用いたことがきっかけとなっている。
いつから人新世になったのか。専門家によって判断は分かれている。人類が農耕・牧畜を始めた新石器革命以降、人新世に入ったとする見解もある。これはしかし、最も早くに人新世の端緒を見る説で、多くの学者は、産業革命から人新世が始まったと認定している。あるいは、さらに遅く、20世紀の後半、とりわけ「先進国」の多くの経済成長が著しかった1960年代からが人新世であるとする者もいる。
ここで、人新世がいつからか、という主題に関わるつもりはない。いずれにせよ、われわれは今、この概念の説得力を、日常的に、ごく一般的な生活人として実感できる時代を生きていることは確かである。始まりをどこに設定するにせよ、人新世なる概念が注目を集め普及したのは、われわれが日々の生活の中で、自らが人新世の渦中にいることを肌身で感じ、納得しているからである。われわれは異常とも言えるような多くの気象変動に立ち会っており、その原因が、自分たちの活動にあるのではないか、とほとんど確信に近いかたちで推測しているのだ。
人新世を人新世たらしめている人間の活動とは何か。少し周囲を見渡しただけでも、その活動の痕跡はいくらでも見つかる。地表の大きな部分が、農地や道路や工場やその他の建造物等々の人工物によって埋められている。海洋や河川も、人間が残したものによって変質し、汚染されている。そして何よりも地球環境に圧倒的な影響を及ぼしている要因――人間の活動に起因する要因――は、二酸化炭素である。二酸化炭素に代表される温室効果ガスは、地表から放射される熱を吸収する働きがある。だから大気中の温室効果ガスの濃度が高まると、大気が温まる。
ある程度の温室効果ガスは、人間が快適であるために必要だ。しかし、今日、二酸化炭素の濃度が著しく高くなっている。産業革命以来、人間の経済活動の中で、大量の化石燃料(石炭・石油)が使われるようになったことが原因だと考えられている。大気中の二酸化炭素の濃度は、産業革命前と比べて、現在、40%以上、高くなっている。このレベルは、400万年前――鮮新世(せんしんせい)にあたる――とほぼ同じだという。鮮新世の地球の平均気温は、現在よりも2〜3℃高い。ということは、その頃は、海面は、現在よりもずっと高かった――6〜20m高かった。
二酸化炭素濃度は、現在でも増え続けている。人新世の平均気温はさらに上昇するだろう。そうなれば、南極・北極の氷床が融け、海面が上昇することはもちろんだが、他にもさまざまな気象変動が起きるだろう。毎年のように――ときには毎月のように――更新される観測至上最大規模の記録をともなう異常気象は、こうした気象変動の一部かもしれない……と思われている。
人新世という概念は、だから、単に人間の活動が地球のあり方に影響を与えているということだけを含意しているわけではない。それは同時に、破局、地球の生態系の大規模な破局への予感を伴う概念である。気温の上昇を中心として、地球環境に急激な変化が生ずる。そうした変化に伴って、多くの生物種が絶滅するだろう――現に絶滅しつつある。それは、人類の生活にも多くの――大半はネガティヴな――影響を与える。いや、「ネガティヴ」などという表現ではたりないかもしれない。つまり、人間の、類としての人間の生存すらも脅かされるかもしれない。少なくとも、人口を激減させるような破局的な結果は十分に予想できる。
人新世は、それゆえ、人間と自然との間に――一種の「因果応報」を思わせる――ある逆説を宿らせる。まずは、人間は自然を支配しているとも言えるような状況が生まれた時代こそ人新世であった。人間は、自然の中にあって、あまりにも強力で大きい。自然の基本的な状態は、人間の活動によって決まってしまうのだから。ところが、まさに人間による自然の支配の結果として、人間は自然からの反撃を受け、逆に自らの限界――自然に対したときの自身の限界――を思い知らされることになる。今度は、人間は自然に対してあまりにも小さく弱い。こうして、人間は自然に対してあまりにも強いがゆえに逆に、自らが自然に対していかに弱いかを痛烈に自覚させられるようになった時代、これが人新世である。
2 破局の予兆として
さて、新型コロナウイルスのパンデミックもまた、人新世というコンテクストで考えるべき災禍のひとつである。たまたま運悪く、今年(2020年)パンデミックが発生したわけではない。パンデミックは、われわれが人新世の中に深く踏み入っていることのひとつの結果である。
つまり、コロナ禍は、人新世に固有な危機のひとつである。人間が自然への支配を強めたことが――自然へと深く侵出したことが――、ウイルスのパンデミックに対して人間社会を脆弱にしたと考えられる。ロンドン大学の生命科学の専門家ケイト・ジョーンズは、野生動物から人間への病の感染は、人間の経済発展の隠れたコストである、と述べている[1]。どんどん拡大していく需要に応じ、利益を得るために、人間は、たとえば森林を破壊し、農場を作ったりする。このように自然環境の奥に入れば、人間が野生動物のもつ未知のウイルスと接触する確率も高まってくる。
実際、コロナウイルスだけで、今世紀に入ってからすでに3種類も、人間社会に入ってきた。SARS (2002年11月〜2003年7月)、MERS (2012年9月〜 )、そしてCOVID-19と、あまりにも高い頻度である。これは、だから、偶然ではない。われわれが人新世を生きていることのひとつの証拠である。
地球が温暖化すれば、氷床の中に封じ込められていたウイルスが解放され、動物や人間に感染することも考えられる。専門家はこのようにも指摘している。要するに、さまざまな原因から、人新世は、人間がウイルスに感染する確率が高まる時代である。われわれは今、第二波、第三波、第n波の新型コロナウイルスの感染の拡がりを恐れているが、人間社会が備えなくてはならないウイルスは、新型コロナウイルスだけではない。今後次々と、新型の未知のウイルスや病原菌が登場し、人間社会に蔓延するかもしれない。われわれが今「百年に一度」の災厄だと思っていたことが、もっとはるかに高い頻度で生じ、やがてほとんど常態になるかもしれない。
そうなれば、われわれが現在、新型コロナに対抗すべくとった手段は、まったく通用しない。つまり、活動を停止し、互いに自らを隔離し合うという手段は、短期的にのみ有効な対策だ。新しいウイルスや病原菌が頻繁に襲ってくるような状況では、こうした手段は使えない。
さらに、コロナ禍は、意図せざる皮肉な結果をももたらしている。スタンフォード大学の地球科学者マーシャル・バークが述べていることだが、コロナのパンデミックが始まった後、中国の工場が2ヶ月間稼働を停止したおかげで、その間、空気の汚染もまた停止した。つまり、この間、地球の空気は、いつになくきれいだったのだ。そのおかげで、救われた――汚染した空気のもとでは死んでいたかもしれないのに死ななかった――命も大量にあった、とバークは推定している[2]。新型コロナウイルスで死亡した者もいるが、空気が清浄化したせいで死なずにすんだ者がいた。
こうしたことを考えれば、コロナ禍だけに対応しても不十分である。現下のウイルスの問題を、人新世の環境問題全体の中に置き、そうしたコンテクストで生ずる危機への対処の一環とみなさなくてはならない。人新世の危機とは何か。もちろん、それは、地球の生態系のトータルな破局である。人類を含む多くの生物種を絶命へと追いやることもありうる破局だ。コロナ禍は、そうした破局の予兆と解さなくてはならない。
3 キューブラー=ロスの五段階
われわれは、人新世の先に予想されている破局に対して正しく対応しているだろうか。破局に対するわれわれの態度は適切だろうか。われわれはよい準備をしてきたと言えるだろうか。
このことを測るきわめて便利な指標がある。エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』で提起した図式である[3]。これによると、末期癌など死が確実な病を得た患者が、最終的に死の事実を受け入れ、覚悟を定めるまでに、一般には五つの精神のステージを経る。
最初、患者は、その事実を単純に「否認」する。「そんなはずはない。そんなことが私の身に起こるはずがない」と。次いで、「怒り」の段階に入る。死の事実を否定できないことがわかると、人は、「どうしてまじめに生きてきた私がこんな不幸な目にあわなくてはならないのか」「あいつのせいで強いられた不摂生のせいでこんなことになってしまったのだ」等と怒る。続く第三のステージは「取引(バーゲニング)」と呼ばれる。人は運命と取り引きをするのだ。たとえば「せめてあの仕事が終わるまでは何とか生きていられないか」とか、「禁欲的な生活を送るから、何とかもう半年生きることができないか」とか、と考える。要するに、運命に少し譲歩して、何とか希望のもてる期間を引き延ばそうとしたり、小さな獲得物をもつことで、死という事実の意味をできるだけ小さくしようとする。しかし、これらがたいした効果がないあがきだとわかると、第四のステージ「抑鬱」に入る。これは、死は避けられないと知って、絶望し、意欲や活力を失ってしまう段階である。「私はどうせ死ぬんだ。何をやっても無駄だ」。
死が不可避であることを納得してしまったのだから、これでステージは尽きるように思われる。しかし、その先にもうひとつのステージ、第五のステージがある。キューブラー=ロスが「受け入れ」と呼んだこのステージにおいて、人は、死に対してはじめて前向きになる。「死には抗えない。にもかかわらず、いやだからこそ、死に備えよう」と。ここで人は、ひとつ高い精神の境地に到達し、落ち着きを取り戻す。自分の死後のことをも真摯に考え、そのための準備をするのもこの第五段階においてである。
すべての人がこれと同じステージを歩むわけではない。途中のステージで止まる者もいるし、ステージをいくつかスキップして歩む者もいる。この点を留意した上で、キューブラー=ロスは次のように述べている。この五段階の図式があてはまるのは、「死」だけではない。人生の中で人が経験する大きな破局や喪失に関して、それぞれの個人は、これと同じ形式の五段階の歩みで対応する。失業や解雇、恋愛の破綻や離婚、愛する人との離別・死別、等に対しても、同じような形式で人は対応する。
さらに、スラヴォイ・ジジェクがこの図式のさらなる応用を提案している。この五段階の図式は、個人的な破局に対してだけではなく、社会が全体として対応する破局や危機に対しても適用できるのだ、と[4]。この図式を使って、人新世の破局、生態学的危機を見たとき、われわれは、つまり現在の人類社会はどのステージにいるだろうか。
人によっては、破局を単純に「否認」する。たとえば、超大型台風が到来しても、また大規模山な火事が頻発しても、それらを、温暖化による気象変動の産物とは見なさず、通常の気象パターンの変動のひとつと見るのがこれである。しかし、このような、トランプ大統領的な態度は、少数派になりつつある。「怒り」を爆発させている人もいる。先進国の大企業が、これまでも、現在も、大量の化石燃料を使っているのがダメなのだ、等と。
生態学的破局に対する態度として、現在、主流になりつつあるのは、第三のステージの「取引(バーゲニング)」である。「持続可能な成長」を謳いながらなされている――なされようとしている――さまざまな対策は、これにあたる。小さいことでは、ゴミのリサイクルに努めるとか、あるいは、電気自動車を生産したり、できるだけ自然エネルギーに切り替えるなども、基本的にはこのステージにはいる。こうした点で譲歩するから、あとはこれまで通りの成長・発展を許してくれ、破局は先延ばしにしてくれ、というわけである。例えば、二酸化炭素の排出量を、2030年までに(2013年との比で)26%減らすから、その代わり、持続可能な成長をいただきたい、と。第四段階の「抑鬱」のステージに入ってしまう者もいる。もうダメだ、もう手遅れだ、人類は滅亡するしかない……。
というわけで、人新世の未来に予想されている破局に対しては、四つのステージのすべての態度が見られる。しかし、第五ステージだけはない。死に対する前向きな態度に比せられるステージ、破局の不可避性を一方では認めつつ、取引的な妥協を超えた抜本的な変化を提案するようなステージは、まだ現実のかたちにはなってはいない。第五ステージとは、具体的には何を実践することなのか。何を目指すことなのか。
4 終わりの必然性と偶有性
この点について説明する前に、先に確認しておくべき重要なポイントがある。第五ステージには、きわめて奇妙な性格がある。一方で、それは、死を、最終的な破局を、つまり終わりの必然性を認めている。しかし、他方で、このステージの人間は、「死」を、まるで新たな始まりのようにも見ているのである。その意味では、死はまるで、回避しうる偶有的なものであるかのように扱われてもいる。
五段階の全体の中で考えてみよう。最初の三つのステージはすべて、死(破局)の必然性を否定しようとしている。ただ、その否定の力は、だんだん弱まっており、第三ステージでは、そうとうな譲歩がなければ、否定できないというところにまで追い込まれる。そして、第四ステージで、死は避けがたい、完全な破局、完全な終わりは必然であるということが受け入れられる。そこからのシンプルな論理的な帰結として、絶望が生ずる。
第五段階はどうなのか。確かに、それは第四段階を引き継ぎ、死(終わり)の必然性を認めている。第五段階は、第三段階までのステージへの後退ではない。しかし、それは、第四段階とは違って、死に対して積極的である。終わりが同時に始まりとしても現れているからである。その意味では、終わりは偶有的でもある。第五のステージにおいて、死(破局)は必然的であり、同時に偶有的でもある。このような総合は、矛盾したものの合致は、いかにして可能なのか。
II 「脱成長コミュニズム」という回答
1 脱成長コミュニズムという回答
人新世の破局的な危機に抗するかたちで、どのような対策、どのような社会構想を対置したらよいのか。もしわれわれが、キューブラー=ロスの第五の最終ステージに到達したとしたら、何を提案すべきなのか。破局が、ちょっとした「取引」によっては回避できないことを知った後で、そして抑鬱的な絶望を超えて積極的に、何を提起すべきなのか。それは、当然、われわれの生活様式の根底からの改変をともなうもののはずだが、それは何か。
実のところ、これに対する答えはすでに与えられている。斎藤幸平が『人新世の「資本論」』で提起していること、「脱成長コミュニズム」がその答えだ。脱成長コミュニズムとは、私的所有を超えたコモンを軸とした社会、生産手段はもちろんのこと地球そのものさえもコモン(共有地)として管理する社会である。しかも、その社会は、「脱成長」、つまり経済成長の呪縛から解放されている。
後にもう少し詳しく内容を紹介するが、これだけでも明らかだろう。この脱成長コミュニズムは、われわれが前回で述べたこと、コロナという惨事に真に有効に対応するための構想として提案したオルタナティヴな経済と、基本的には同じ方を向いているということが、である。われわれは、現在のコロナ禍への対抗策の延長線上に、資本主義の根幹となっている私的所有の制度を相対化し、物が――極限においてはすべての物が――コモン(あるいは社会的共通資本)であるような社会を提案した。それは、脱成長コミュニズムと同じものではないか。少なくとも、同じものを目指していないか。
まずは、斎藤自身の論述を参考にしながら、脱成長コミュニズムとは何か、それがどのような意味において人新世の破局への効果的な対抗策でありうるのかを見ておこう[5]。
2 外部化社会
環境負荷の最も大きな原因となっているグローバル・ノース(いわゆる先進国)のライフスタイルを「帝国的生活様式」(ウルリッヒ・ブラント、マルクス・ヴィッセン)と呼ぶ。帝国的生活様式とは、要するに、先進国の豊かな生活であり、大量生産と大量消費にもとづく社会でのみ可能な生活だ。これが「帝国的」とされるのは、この生活様式が、グローバル・サウス(発展途上国)からの資源とエネルギーと労働力の搾取に基づいているからである。
先進国の豊かさには、さまざまな代償が必要になる。その代償は、遠くに――グローバル・サウスに――転嫁され、先進国から見えなくなっている。そのような先進国社会を、社会学者のシュテファン・レーセニッヒは「外部化社会」と呼ぶ。そのような外部化の最もはっきりした形態は、世界システム論(ウォーラーステイン)が指摘してきたこと、つまり労働力の不等価交換だ。周辺国の廉価な労働力を使って生産した商品を買い叩くことで、先進国は利益を得ている。搾取の対象となっているのは、労働力だけではない。その他のさまざまな資源が、ほとんど掠奪に近いかたちで、周辺国から中心国へと移転する。
このことは、環境負荷も不平等に分配されている、ということである。中心国での豊かで快適な生活のために、主として周辺国の生態系が破壊される。「オランダの誤謬」と呼ばれる「錯覚」が、1970年代から知られている。オランダのような先進国は、大気汚染も水質汚染の程度もかなり低いので、経済成長を果たしながら、それとともにもたらされた技術進歩のおかげで、環境汚染も克服できた、と考えてしまう。しかし、オランダの環境改善は、資源採掘やゴミ処理などにともなう否定的影響のかなりの部分をグローバル・サウスに転嫁したことのおかげでもある。つまり、因果関係の全体を見たときには、環境汚染は改善されていないのに、先進国で可視化されている部分だけを捉えて、問題を克服したと思ってしまうのが、オランダの誤謬である。
しかし、人類の経済活動が全地球をほぼ満遍なく覆ってしまったために、収奪したり、転嫁したりするための外部がもはやほとんど残ってはいない。これが、人新世という時代だというのが、斎藤幸平の認定である。搾取できる安価な労働力も、収奪できる安価な自然もほとんどなくなった。すると、どうなるか。気候変動が先進国でも可視化されるのだ。たとえば、記録的な台風とか、頻発する山火事といったかたちで、である。
3 脱成長と脱資本主義
経済成長は、すべての国にとって実現されなくてはならない必須の目標とされている。そこで、経済成長を果たしつつ、生態系の破綻をも避けるという「緑の経済成長」が目指されることになる。この緑の経済成長のために、大型の財政出動や公共投資がなされれば、たとえば再生可能エネルギーや電気自動車の開発と普及のために公的資金が投入されれば、それは、気候ケインズ主義ということになる。
普通は、経済成長すればするほど、環境負荷は増大する。とりわけ経済成長とともに、二酸化炭素の排出量も増加する。しかし気候ケインズ主義を支える緑の経済成長が可能なためには、経済成長の伸び率と二酸化炭素排出量の伸び率との間の相関関係を断ち切る「デカップリング」が実現しなくてはならない。特に排出量の絶対量を減らしつつ、経済成長を実現する絶対的デカップリングが必須だ。
しかし、斎藤は、理論的にも、またデータによって示されている経験的な事実から判断しても、絶対的デカップリングは不可能だということを説得的に示してみせる。たとえば、19世紀の段階で、「ジェヴォンズのパラドクス」と呼ばれる皮肉な因果関係が知られていた。新技術が開発されて効率性が向上すれば、その分、二酸化炭素の排出量も減ることが期待されるのだが、実際には、そうならない。なぜなら、その分商品が低廉化したせいで、かえってその商品の消費量が増加してしまうからだ。
大気中から二酸化炭素を除去する技術(NETs)を開発しよう、という提案もある。しかし、この夢の技術は、学者たちの「知的お遊び」の域を超えない。資本主義の「脱物質化」(より少ない資源でより多くのことを請け合うこと)という傾向も、またICT(情報通信技術)を駆使した認知資本主義も、デカップリングにはほど遠い。
緑の経済成長という発想は、結局、破局へと向かう厳しい現実からの逃避でしかない。キューブラー=ロスの図式をあてはめれば、これは、典型的な取引である。成長という生命線だけは残して、その他の多くを犠牲にしようと、運命と交渉するわけだが、まったく取引は成り立たない。結局、「脱成長」の道を選ぶほかない、というのが斎藤の結論だ。
もっとも、脱成長や定常型経済への移行を唱えているのは、斎藤だけではない。しかし、そのような論者もほとんど、資本主義を手放すことはない。資本主義の枠内での脱成長を主張しているのだ。しかし、斎藤によれば、それは矛盾した要求だ。経済システムにとって成長が死活的に重要なのは、そのシステムが資本主義だからだ。経済成長は制度でもないし、法律や憲法によって命じられているわけでもない。それでも経済成長が絶対的に要請されるのは、資本主義だからだ。資本主義とは、資本蓄積(価値増殖)が無限になるシステムだ。どこまでも資本蓄積をめぐって競争しない限り、このシステムでは、敗者として退出せざるをえなくなる。資本主義を維持する限り、経済成長への指向は持続する。
たとえば、ジョセフ・E・スティグリッツは「プログレッシヴ・キャピタリズム(進歩的資本主義)」ということを唱えている。労働者の賃上げや富裕層・大企業への課税、独占の禁止の強化、民主的な投票の強化、社会保障費の拡充などがなされて、公正な資本主義が実現すれば、さまざまな社会問題は解決するだろう、と。だが、法人税の増税や社会保障費の拡充が可能ならば、それらはとうの昔に実現されていたはずではないか。1970年代に利潤率が低下したとき、資本主義は、規制を撤廃し、法人税を引き下げることによってのみ生き延びることができたのだ[6]。スティグリッツが資本主義に求める公正性は、資本主義が持続するためには捨て去るほかなかったものである。
4 持続可能性と社会的平等
したがって、破局を回避するためには、資本主義の死を受け入れなくてはならない。つまり、コミュニズム――脱成長コミュニズム――しかない。地球そのものも「コモン」のひとつとして管理するような、コモンを中核にした社会システムだ。このように、斎藤は議論を展開する。
さらに、斎藤は、晩期マルクス(『資本論』第1巻を執筆したあとのマルクス)についての研究を手掛かりにしながら、コミュニズムの内容をより明晰なものとしようとする。残されたマルクスの研究ノートや書簡から、晩年のマルクスは、二つの分野の研究に熱中していたことがわかる。ひとつは、エコロジーに関係する自然科学。もうひとつは、ゲルマン民族の「マルク共同体」など前近代の共同体の研究。それらから、マルクスはひとつのことを発見した――と斎藤は推測する。「持続可能性」(経済成長しない定常型社会)と「社会的平等」(私的所有を否定するコモン)とは密接に連関している、と。そこから、西欧資本主義が目指すべきコミュニズムの構想も出てくる。それは、経済成長しない――経済成長をあえて拒否する――循環型の定常型経済をもつシステムである。
脱成長コミュニズムに向けて、具体的には何をなすべきなのか。それが五つのテーゼとして提起される。
第一に、経済の重心を、「価値」から「使用価値」へと転換すること。「価値/使用価値」はマルクスの用語である。価値(≒交換価値)は、貨幣の量によって測られる。使用価値は、人の欲求を満たすその物の性質である。「価値」から「使用価値」への転換によって、大量生産・大量消費から脱却できる。
第二に、労働時間を削減すること。このことによって生活の質が向上する。第三に、分業を廃止すること。その目的は、労働の画一性を廃して、労働に創造性を回復させることにある。第四に、生産過程を民主化すること。その効果は、経済の減速として現れると想定されている。第五に、労働集約型のエッセンシャル・ワーク(≒ケア労働)を重視すること。これは、コロナ禍を通じて、われわれが学んだことでもある。
III 悪い報せとよい報せ
1 第五段階は遠い
斎藤幸平による「脱成長コミュニズム」の構想を概観してきた。以上に見てきたように、人新世の危機に対してはこの構想しかない、という主張には非常に説得力がある。この結論には、われわれも賛成だ。
だが、まだ考えるべきことが残っている。この結論に到達するためには、人はまず、資本主義の死を受け入れなくてはならない。この結論は――先にも述べたように――キューブラー=ロスのあの図式を用いるならば、第五のステージに到達した者のみが選択できるような、圧倒的な大胆さを含んでいる。だが、そもそも、われわれは第五のステージに行くことができるだろうか。どうしたら、その精神的な境地に到達することができるのだろうか。
資本主義の死を受け入れることは、著しく困難だ。そのことを、われわれは連載の第2回目ですでに確認している。普遍的連帯への動きがどうして生じないのか、ということを探究する中で、人々の資本主義への執着がいかに強烈なのかを見たのだった。新型コロナウイルスのパンデミックによって、資本主義はいったん死んだ……と言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも、一瞬、仮死状態になった。1929年の大恐慌のときよりも、また2008年のリーマンショックのときよりも死に近づいた。このことはあまりにもあからさまだったから、人は皆、不安を抱いたはずだ。資本主義はほんとうに死んだのではないか、と。にもかかわらず、株式市場は、この死を否認したのだった。
さすがの株式市場も一瞬だけ怯んだが――つまり株価は一時的には暴落したが――、その後、すさまじいまでの徹底ぶりで、資本主義の死を否認した。これは、キューブラー=ロスの第一段階の態度である。第五段階どころではない。第五段階にまで行くことなど、そもそも可能なのか。
2 加速主義の躁と鬱
だが、よい報せ、よい兆候を見出し得ないわけではない。一見、最も悪い報せの中にこそ、よい報せが隠れている。よい報せとは、左派加速主義者として知られている一群の人々である。
(左派)加速主義は、脱成長コミュニズムとは正反対のコミュニズムだ。資本主義に内在している経済成長へのポテンシャルをますます加速させることによって、逆説的にコミュニズムを実現させようというわけだ。資本主義は、もともと経済成長を煽るシステムであり、その意味で、最初から加速主義的である。その資本主義の加速主義的側面をさらに強化しよう、そうすれば資本主義はコミュニズムに脱皮する、というわけである。
環境破壊が人類的な危機であることは加速主義者もよく自覚している。イギリスのジャーナリストでこの立場の主唱者のひとりアーロン・バスターニは、グローバル・サウスの人口増加と地球規模の気候変動が、文明の存否を決めるような課題だと述べている[7]。グローバル・サウスの人口増加と経済発展は不可避だし、それを積極的に許容しなくてはならないが、そのことが、耕作地の面積を増大させる等、気候危機の原因となる。人口増加や経済発展は不可避かつ必要だが、不可逆的な気候変動もまた困る。どうしたらよいのか。
だがだいじょうぶだ、とバスターニは述べる。すべては技術革新が助けてくれる、と。たとえば、工場で人工肉が生産されればどうか。畜牛のための膨大な土地が不要になる。遺伝子工学が発達すれば、人は大半の病から解放されるし、オートメーション化が進めば、労働からも解放される。そして、電力は、太陽光によって確保すれば、無尽蔵でありかつ、クリーンでもある。生産性が高まれば、あらゆる物が低廉化して、入手しやすくなる。こうして各人が欲しいものが必要な分だけ得られる豊かな社会がやってくる……というわけである。
このように、加速主義は、脱成長コミュニズムとは真っ向から対立している。脱成長コミュニズムは減速主義である。斎藤幸平は、加速主義を、極端な現実逃避であり、ただの開き直りだとして、嘲笑的に斥けている。生産力を加速度的に発展させれば、ごく普通に予想されることが起きるだろう。すなわち、環境汚染そのものの加速化である。ジェヴォンズのパラドクスのことを思い返しておこう。生産力の発展、つまり生産性の向上によって物の価格が低下すれば、その物への需要は大きくなり、生産も拡大する。その結果、ますます二酸化炭素の排出量は増えるだろう。
加速主義へのこうした批判はすべて正しい。加速主義のようなものが登場することは、脱成長コミュニズムに加担する者にとっては悪い兆候だということになる。しかし、ここで、加速主義の流行を精神分析的に解釈してみたらどうか。加速主義の論理は、政治的・社会的な主張としてそもそも成り立ってはいない。なぜなら、彼らが究極の決め手としているのは、未だ存在しない空想的な技術なのだから。そういうものがあればいい。なるほどそうだとしても、そういうものがなければどうしようもない。なぜ、彼らは、実現するかどうかもわからない――少なくとも当分は実現しそうもない――空想的な技術に頼るのか。
それは、彼らの目から見て、生態系の破綻へのトレンドが、そうした技術によって対抗しなければ止めることができないほどに強いものになっている、ということではないか。そのトレンドは、われわれが現在有している技術によっては、とうてい押しとどめようがないことを、彼らも知っているのだ。とするならば、加速主義者は、現在の成長指向が継続すれば、資本主義そのものが破綻することをわかっていることになる。
キューブラー=ロスの図式の第三のステージ「取引」が、限界を超えようとしている、と思えばよい。破局へと向かう運命と取り引きしようとして、人はまず、現存の技術を提供する。だが、それだけでは全然足りない。そこで、人は信用取引のようなことを始めたのだ。まだ実現していない技術の対価として、破局への動きを止めてはくれないか、と。だから、加速主義の躁的な楽天性は、第四段階の「抑鬱」の反面である。非現実的な技術や装置についての夢にでも埋没しなければ、鬱に陥ってしまうのだ。
キューブラー=ロスの第五段階にまで至らなければ、脱成長コミュニズムは賛同を得られないだろう。加速主義の(一部の論客の間での)流行は、少なくとも、第四段階にまでは人類が来ていることのひとつの証拠である。ならば、あと一ステップである。こう考えれば、加速主義のような、もうすこしで「トンデモ」になりそうな思潮もまた、朗報のひとつである。
3 余れば余るほど足りなくもなる
だが、脱成長コミュニズムは、いかに正しくても、なお問題がある。はっきり言えば、それは魅力に欠ける。人を惹きつけるものがない。どんなに正しくても、最終的には、人の自然な衝動と順接しなくては、その思想は、抑圧的なイデオロギーに転化してしまう。脱成長コミュニズムには何が欠けているのか。
「脱成長」「反成長」「定常型経済」などを掲げると、人は清貧の思想のようなものを思ってしまう。豊かさを犠牲にしなくてはならないのか、貧乏に耐えなくてはいけないのか、と。だが、それは誤解である。
資本主義は人を全般的に豊かにするもの、経済的に富ませるものだと思われている。しかし、それは間違っている。貧困・欠乏は、本質的に資本主義に内在している。資本主義がなければ、貧困もない。斎藤は、この点もまた、説得的に論じている[8]。資本主義には逆説がある。余れば余るほど足りなくなる、とでも言うほかないような逆説が、である。一方には、物の過剰があり、他方には、物の欠乏がある。両者を均せば問題は解決しそうに見えるのだが、それができないのが、資本主義である。資本主義の根幹でもある価値増殖が前提としている「搾取」、その搾取のために必要な差異が、この「過剰/欠乏」として現れているからだ。
マルクスは、資本主義的な搾取の前提となる差異の創出を、「資本の原始蓄積」と呼んだ。原始蓄積は、資本主義の始まりにおいて、一回だけ生ずるわけではない。資本主義が存続している限り、常に原始蓄積は反復されている。こうして資本主義は、「階級」という差異を必然的に伴うことになる[9]。長い間、「外部化」のおかげで、つまり収奪の主要な現場をグローバル・サウスに転嫁したせいで、先進国では、階級の厳しい格差が不可視化していた。今や、外部化にも限界が来ている。階級の格差は先進国に逆輸入されてきたのだ。
資本主義を捨てれば貧しくなるわけではない。逆に、資本主義の中にいるからこそ、大半の人は貧しいのだ。だから、脱成長コミュニズムの魅力の欠落は、それが清貧の思想のようなタイプの禁欲を強いるからではない。問題は別のところにある。
4 自由の制限?
脱成長コミュニズムに暗い影が入るのは、それがどうしても、自由の制限を含意しているからだ。
資本主義の最大の魅力は、「自由」にある。今、自由についての最もシンプルな概念に依拠しよう。つまり、「積極的自由」とか、(アマルティア・センのいう)「潜在的能力(ケイパビリティ)」とかといった複雑な概念に依拠せず、消極的自由を基準にとってみよう。消極的自由とは、他者からの強制がない状態を指す[10]。そのような意味での「自由」に関してならば、資本主義は、人類がこれまで構築してきた社会システムの中で最も大きな自由を個人に配分するシステムである。
もちろん、資本主義が与える自由は欺瞞だという論は成り立つ。たとえば、労働者は実質的には奴隷である――労働時間の間だけ資本家にレンタルされた奴隷である――とする認定には十分に根拠がある。とはいえ、それでも、労働者は、形式的には自由な契約のもとで雇用されている。が、そうした契約も、実質的には強いられたものだとする論がまた成り立ちうる。
このように何重にも留保が付くわけだが、それでもなお、資本主義は、個人の消極的自由を最大化したシステムである、という命題は、基本的なレベルでは妥当である。脱成長コミュニズムは、この自由に制限を加える。それが、脱成長コミュニズムが息苦しさを与える理由である。この場合、自由を制限する他者、消極的自由の範囲を狭める他者は誰なのか。未来の他者、未だ生まれてもいない将来世代だ。持続可能性を考慮にいれて、脱成長型の社会を選択するということは、未来の他者の要求に応じること、未来の他者の呼びかけに応えることを意味している。
それは、正しいことだろう。われわれは未来の他者の利害を損ねることがないように、化石燃料を使いすぎてはならず、二酸化炭素の排出量を抑制しなくてはならない。これが文句なしに正しかったとしても、資本主義においてすでに享受していた自由の放棄を伴うとすれば、脱成長コミュニズムを実行に移す上での障害となるだろう。単に正しい思想として唱えるだけではなく、それを社会的に実効性のあるものとして実現しようとするならば、消極的自由の制限を伴わなくてはならないという事実は、大きな躓きの石となる。
20世紀の経験が政治思想に与えた教訓を思い起こさねばならない。20世紀は冷戦の時代だった。冷戦とその決着の仕方から得られることを、思想的に最も高い水準で解釈するならば、それは、結局「自由の優越」として要約されるだろう。自由を上回る理念をもとうとするシステム、自由そのもの以外の理由によって自由を抑制しようとするシステムは結局、敗者にならざるをえない。20世紀において、結局、その種のシステムは、「熱戦」を経ずして解体し、自滅したのであった。
だから、脱成長コミュニズムが社会的な実質をもつためには、この問題を克服しなくてはならない。
5 サマリア人のように
目の前の他者の呼びかけに応えることすら、難しい。まして、まだ存在しない未来の他者の呼びかけを受け取り、それに応えることなどできるのだろうか。
順を追って考え直してみよう。今、目の前にいる他者に応ずることも難しいと述べたばかりだが、逆も言える。目の前の他者が切実に助けを求めてきているとき、それにまったく応えないこと、それを完全に無視することもまた難しい。確かに、困っている人を見たとき、誰もがその人を助けようとするわけではない。本気になって助ける人の方が少ないかもしれない。しかし、それでも、助けを求める他者の声を聞いてしまったとき、それを無視して素通りすれば、ほとんどの人は、そのことに罪や恥の感覚を覚えずにはいられない。他者の切迫した呼びかけは、人を動かす力がある。
イエス・キリストが語った「善きサマリア人の譬え」を思い起こしてみよう(「ルカによる福音書」10章25-37節)。エリコに下る道で、強盗に襲われ瀕死の状態で倒れていた旅人を、祭司とレビ人は、あえて避けて通って行ってしまった。サマリア人だけが、旅人を介抱し、宿に連れて行ってやり、旅人の代わりに宿賃まで支払った。この譬え話は、サマリア人のような真の「隣人」は稀であることを示唆している。
ここで、次のように問うてみよう。旅人の求めを察知して、旅人を助けたとき、サマリア人の(消極的)自由は奪われたことになるのか。このとき、サマリア人の自由が制限されたと見なすべきではない。彼は嫌々旅人を助けているわけではないからだ。サマリア人は、そうしないではいられなかったのだ。彼は、もちろん、楽しかったわけではあるまい。彼がもともと意図していたことが阻害されたり、計画が変更されたりしたことは明らかだ。しかし、倒れている旅人を助けることは、このときサマリア人の自然な衝動に合致していたことだ。旅人の無言の呼びかけに応ずることは、サマリア人にとって自由の制限どころか、逆に、彼の自由の行使そのものである。
このように、他者の呼びかけや要求に応ずることが、常に自由の制限を意味するわけではない。逆に、他者の呼びかけを通じて、自由が構成されることさえある。だが、他者の呼びかけにこうした効果があるのは、他者が、この私にたいして、そのなまの姿を現前させているからではないか。見えない他者には、そのような効果はないのではあるまいか。述べてきたように、先進国(グローバル・ノース)は、搾取や略奪をグローバル・サウスへと外部化してきた。おかげで、搾取に苦しむ他者たちは、先進国の中で暮らしている人には不可視である。先進国の人々は、祭司やレビ人と同じようにふるまっているのだが、良心の呵責に苦しむことはなく、「オランダの誤謬」のようなかたちで自分を誇ることさえできる。
未来の他者が、現在のわれわれに、エリコへの道で倒れていた旅人のように呼びかけてきているのだとしたらどうだろうか。われわれが、善きサマリア人のように、未来の他者の呼びかけを感受できたとしたらどうだろうか。このとき、未来の他者の呼びかけに応じたとしても、われわれの自由は奪われたことにはならない。むしろ、われわれの自由のひとつの実現として、脱成長コミュニズムを実行したことになる。
だが、未来の他者は、われわれにとって、グローバル・サウス以上の外部である。グローバル・サウスは、確かに空間的には外部だが、われわれと同時に共存している。未来の他者は、時間的な外部であって、(まだ)存在してすらいないのだ。とはいえ、希望がないわけではない。同じように(いま)存在しない他者でも、死者(過去の他者)には、われわれはしばしば縛られるからである。われわれは死者の呼びかけや期待に応じようとする。たとえば、死んだ父の願っていたことだから……等と。死者を裏切ることは、生きている者を裏切るよりも、ときに難しいほどだ。過去の他者の呼びかけに応えられるのだから、未来の他者の呼びかけに応えることもできるのではあるまいか。
未来の他者を――現前する他者と同じように――リアルに実感できれば、われわれは自らの自由な選択として、その呼びかけに応ずることができる。しかし、そんなふうに未来の他者と出会うことは可能なのか。未だ存在していない他者、つまりグローバル・サウスよりも、死者(かつて存在していた他者)よりもはるかに隔たった外部の他者。そのような他者の呼びかけを、切迫したものとして聞き取ることは可能なのか。
問題が一巡してきたことがわかる。ここでいう〈未来の他者〉とは、このままではやがて確実に到来する破局に苦しむ他者のことである。とすれば、結局、いかにしてキューブラー=ロスの第五のステージに到達することができるのか、いかにして終末の破局を直視し、かつ前向きにこれに対抗することができるのかという問いと、〈未来の他者〉といかにして出会うことができるのかという問いは、まったく同じものになる。
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[1] https://www.theguardian.com/environment/2020/mar/18/tip-of-the-iceberg-is-our-destruction-of-nature-responsible-for-covid-19-aoe
[2] https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-8121515/Global-air-pollution-levels-plummet-amid-coronavirus-pandemic.html
[3] エリザベス・キューブラー=ロス『死ぬ瞬間──死とその過程について』鈴木晶訳、中公文庫、2020年。
[4] スラヴォイ・ジジェク『パンデミック──世界をゆるがした新型コロナウイルス』中林敦子訳、斎藤幸平監修・解説、ele-king books, 2020年、41-45頁。
[5] 斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年。
[6] ヴォルフガング・シュトレーク『時間かせぎの資本主義――いつまで危機を先送りできるか』鈴木直訳、みすず書房、2016年。
[7] Aaron Bastani, Fully Automated Luxury Communism: A Manifesto, London: VersoBooks, 2019. 斎藤、前掲書、207-210頁。
[8] 同書、234-276頁。
[9] 連載第2回目のV-3参照。
[10] アイザィア・バーリン『自由論(新装版)』小川晃一他訳、みすず書房、2018年。
連載第6回へ続く
プロフィール
大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年、長野県生まれ。社会学者。専攻は理論社会学。個人思想誌「THINKING「O」」主宰。『ナショナリズムの由来』で毎日出版文化賞を受賞。『自由という牢獄』で河合隼雄学芸賞を受賞。ほかの著書に、『身体の比較社会学』『<世界史>の哲学』『不可能性の時代』『<自由>の条件』『社会学史』など。共著に『ふしぎなキリスト教』『憲法の条件』など。
*大澤真幸さんのHPはこちら
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