インバウンド消費と治安維持の両立は?――『総理になった男』中山七里/第3回
「もしあなたが、突然総理になったら……」
そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。長らく続く景気低迷の活路に見出したインバウンド消費の向上。しかしそこには表裏一体の関係で「治安対策」問題が立ちはだかる――
*第1回から読む方はこちらです。
3
三人寄れば派閥ができると言うが、それは国会議員も同様だ。
実際、与党に限らずどこの党にも派閥が存在する。党内で自分の意思を通すためには数が必要であり、数が必要だから徒党を組む。考えてみれば当然の帰結なのだが、派閥政治を嫌う者には受け容れがたい理屈かもしれない。慎策自身が、未だその現実に慣れないでいる。
「いずれにしても根回しは必要かと存じます」
円谷は眉根に皺を寄せて言う。円谷は真垣と同じく相沢派であり、最大派閥である須郷派の閣僚には苦手意識があるらしい。
「総理が平田さんに強く命令するのも不可能ではありませんが、相沢派と須郷派の間にしこりが残るようなことは避けた方がよろしいかと」
執務室で慎策と策を練っているだけなのに、何故か円谷は声を低くする。
「総理が指示をするのに派閥に配慮しなくてはいけませんか」
「あまりわたしを苛めないでください。閣僚の三割は須郷派で占められています。無理を通せば今後の政権運営に支障が出ないとも限りません」
円谷の心配は慎策にも理解できる。国民党は寄り合い所帯であり、保守中道や右派、それに左派までがひと通り揃っている。安保法制や外国人参政権などの協議では意見が分かれるものを、半世紀以上に亘って政権を握ってこられたのは偏に党が派閥の集合体であることが大きく寄与している。一つの党に反対勢力が同居しているため、仮に派閥間の力関係が変わって総裁が交代したとしても、それで政権が他党に渡る訳ではない。要するに党内で政権交代を繰り返しているようなものだ。野党にはこうした度量が欠けている。
一方、寄り合い所帯である弊害もあり、各派閥への配慮なしでは政策を進められない。殊に第四派閥相沢派である真垣統一郎が総理に指名されたのは須郷派の後押しがあってのことなので、彼らの意向を無視する訳にもいかないのだ。
「とにかく平田法務大臣に直接話す前に、須郷さんと会ってください」
円谷が真垣政権の安定を第一優先に考えてくれているのは承知している。彼の提案を無下にするのも気が引ける。
「では須郷総務会長と会合できるよう、スケジュールを調整してください」
「実は、もう組んであるんです」
つくづく有能な男だと思ったが、これくらいでなければ官房長官は務まらないのかもしれない。
「急な呼び出しでいささか面食らった」
執務室に現れるなり、須郷毅は挨拶も抜きで慎策の正面に座った。総理総裁を目の前にしてずいぶん傲慢な態度ではあるが、須郷にはそれが許されてしまう貫禄が備わっている。最大派閥須郷派の領袖にして総務会長、悪人顔であるものの意外な人情家で面倒見もいい。派閥の中堅や若手が慕うのも当然だろうと慎策も思う。
「ご相談したいことがあります」
「大体の見当はついている。消費税増税に対する批判を、どうやって躱すかだろう」
須郷は心得ているとばかりにこくこくと頷いてみせる。
「あれは財務省の勇み足だった。本来なら財務官僚の言いなりになった岡部が先頭に立って国民に説明すべきだが、あの男め、なんやかやと理由をつけて逃げ回っておる。どうせあいつが表に立ったところで国民の怒りが収まるとは思えないが、ある程度のガス抜きにはなる」
自派閥出身の閣僚が責任逃れをしているのが恥ずかしくてならないという風情がありありと出ている。初対面の頃から感じていたことだが、きっと誤魔化しや噓が下手なのだろう。ただでさえ悪人顔をしているので、余計に国民から反感を買うといった寸法だ。
慎策は居住まいを正して須郷に向き直る。
「総務会長、お呼び立てしたのは消費税増税についてではありません。別の問題です」
慎策の目を見て、須郷は即座に表情を引き締めた。
「聞こうか」
「景気対策に関して、平田法務大臣のご協力を賜りたい」
「法務大臣と景気対策に、いったいどんな関係があるんだ」
慎策は、急激な内需拡大が見込めない現状ではインバウンドに活路を見出すべきだと持論を展開した。さすがに須郷は吞み込みが早く、慎策の言わんとすることをたちどころに理解した。
「短期滞在ビザの発給規制を緩和しろということか」
「その通りです」
すると須郷は腕組みをして天井を仰いだ。
「個人的には、そのアイデアに賛同する。わが国には観光資源が豊富にあり、これを活かして観光立国を目指すというのは着眼点として悪くない」
「個人的には賛同できても、派閥としては難しいという意味ですか」
「派閥というより法務省、ならびに国家公安委員会の抵抗が激しいだろうな。景気と治安とどっちが大事なんだと、必ず言ってくる。無論、総理がトップダウンで命令すれば拒否はしないだろうが、後々問題が発生した場合に総理の責任を問うことになる」
「平田法務大臣と鹿内国家公安委員長のタッグですか」
「いや、もう一人いる。警察庁長官の香山健吉がそれに加わる。そもそもビザの発給規制は鹿内と香山が協同して発案したものを平田が進めたという経緯がある。総理が党内に波風を立てたくないのなら、この三人を説得せにゃならん」
慎策は香山の顔を思い浮かべる。彼も鹿内と同様に冷厳で口数の少ない男で、慎策が苦手とするタイプだった。
「三人全員というのは、いささか荷が重いですね」
「平田だけを説得すれば他の二人が納得するかと言えば、そうでもない。国家公安委員長と警察庁長官が口を揃えて外国人の流入を少なくしろと言い出したのには相応の理由がある。私利私欲ではなく、やはり市民生活の安寧が大前提にあるからだ」
「それは重々、承知しています」
「仲間褒めする訳じゃないが平田も鹿内も国益を考えている。信念があるからこそ行動している。他人の信念を覆すのは容易ではないし、無理を通せば遺恨になる」
須郷の弁はもっともであり反論の余地がない。どちらかが歪んだ私欲で事を進めているのなら説諭すれば済む話だ。それぞれが正しいと信じることの衝突だから厄介になる。
「無論、わたしの方から二人に根回しをしておくのは吝かではないが、ここは拙速を避けた方が党にとっても無難だろう。総理には熟慮を求めたいところだ」
ところが、いままで厳めしかった須郷の口調が若干和らいだ。
「と、ここまでは派閥を束ねる者としての建前だ」
「別のご意見をお聞かせ願えますか」
「いち政治家として総理に申し上げるとしたら、派閥の力関係なんぞに右顧左眄せず、思うがままに進めばいい。あなたにはその権限が与えられている」
他の誰でもなく、総務会長須郷毅に面と向かって言われると、背筋の伸びる思いがする。
だが思いは思いとして胸の裡に留めておくべきだろう。数年も総理の椅子に座らされていると、議員個人の思いがどれほど脆弱なものであるかを知るようになる。もちろん政策を進める上で熱意は必要だが、それは党なり閣僚なりの総意としての熱意であり、決して個人のそれではない。
慎策が良かれと信じて独断専行したとしても、それが原因で倒閣に傾いてしまえば自爆テロと変わることはない。面倒であっても異論を持つ者を一人一人説得して自身の考えを総意にしなければ、早晩真垣政権は瓦解してしまうに相違ない。
「総務会長のお言葉、しかと胸に刻んでおきます。では平田法務大臣と鹿内国家公安委員長へは後日、わたしが話をします」
「よしなに頼む」
須郷は軽く一礼して執務室を出ていった。
「最後のひと言は、さすがに須郷先生でしたね。あんな風に言われれば単純で真っ直ぐな人間は独善に走りがちですが、総理がそんな矮小な器ではないことを承知の上で鼓舞してみせる。相変わらず煮ても焼いても食えないお人です」
「わたしは、その単純な人間の一人ですよ」
自嘲気味に呟きながら、円谷の須郷に対する人物評に賛同する。最後にちらりと本音を洩らせば好人物としての印象が強まるのは確かだが、前段において党内宥和を重視せよと強く諭しているので慎策は身動きが取りづらくなっている。交渉相手が反旗を翻さないようにしながら抑え込んでいるのだ。
「事実上、トップダウンが困難になりましたね」
円谷は口惜しそうに言う。言外に、トップダウンもできない一国の総理を不甲斐ないと伝えているのかもしれない。
それがどうした。
元より自分は、ただの売れない役者だ。今更総理としての執務能力や度量を疑われたところで痛くも痒くもない。
「最初からトップダウンにするつもりはありませんでした」
「かなり手間を食うことになりますけど」
手間を食うのが民主主義だと、盟友は教えてくれた。今はその教えを愚直に守っていくだけだ。
「平田さんと鹿内さんを呼んでください」
執務室に二人を呼んで正面に座らせる。向こうは法務大臣と国家公安委員長、こちらは総理大臣と官房長官。序列では優位のはずなのに、相手方が揃いも揃って強面なので威圧されている感が強い。
話を持ち出されると、真っ先に嚙みついてきたのは鹿内だった。
「インバウンドのためにビザの発給規制を緩和せよ、ですか。いくら景気低迷が続いているからとはいえ、いささか方向性が違うような気がしますね。これは閣僚会議で決定されたことですか」
「いえ。現時点ではわたしの腹案に過ぎません」
「国家公安委員会としては賛成致しかねます。法務大臣はいかがですか」
鹿内に振られた平田は不快そうに彼と目を合わせる。
「法務大臣に景気浮揚を手伝えというのも妙な感じがする。総理の前だが、いささかお門違いな印象が否めない」
続けて慎策は日本を観光立国にしたい旨を説明するが、これにも二人の反応は鈍い。
「総理の仰ることは理解できるが」
平田は難しい顔で首を傾げる。
「外国人観光客が増えたくらいで景気が上向くとは思えませんな。メリットはそれほど期待できない。それに対するデメリットの方が大きいでしょう」
「法務大臣の仰る通りです」
平田の弁を得た鹿内は、強気の姿勢で反駁し始める。
「我が国がビザの発給に制限をかけたのは篠原内閣の頃でした。総理には釈迦に説法ですが、かの経緯はご承知ですよね」
「平成初期から増加傾向にあった来日外国人犯罪を抑制する目的でしたね」
「チャイニーズマフィアですよ」
二〇〇〇年前後、「蛇頭」と呼ばれる密入国斡旋組織によって大量の密入国者が日本に流れ込んできた。彼らには碌な仕事がなく、当初は大久保のガード下などで違法薬物などを扱っていたが、やがて徒党を組んでマフィアを形成していく。新宿・池袋といった繁華街を根城に地元の反社会的勢力と抗争を繰り広げ、少なからぬ市民が巻き添えを食う。チャイニーズマフィアはその後も勢力を拡大し続け、夜の繁華街は彼らのために無法地帯になった時期さえあるという。
「チャイニーズマフィアの組織は首都圏だけでなく、次第に大阪・福岡などの地方都市にまで伸張します。暴力沙汰は日常茶飯事、甚だしい時には拳銃が用いられ発砲事件も発生しました」
その頃を思い出したのか、鹿内は露骨に顔を顰めてみせた。二〇〇〇年当時ならまだ鹿内が警視庁にいた頃だから、嫌な思い出もあったのだろう。
「チャイニーズマフィアは日本のヤクザよりもタチが悪く、数万円のはした金で殺人を犯すような手合いでした。そういうヤツらなので傷害や窃盗なんてものの数じゃありません。同じ窃盗でもATMごと強奪していくような荒っぽいやり口の犯罪が横行したのですよ」
チャイニーズマフィアがいかに悪辣で粗暴であったのか、鹿内の説明がひとしきり続く。要は、それだけ苦しめられた事実があってこそのビザ発給規制と言いたいのだろう。
「しかし公安委員長」
長々と聞かされてそろそろ痺れを切らした様子の円谷が割って入る。
「来日する外国人の全員が全員、チャイニーズマフィアという訳でもないでしょう」
これには平田が答える。
「最新の法務省の犯罪統計をご覧になったか、官房長官。総人口に占める一般刑法犯検挙人員数は〇・二パーセント。ところが国内に滞在する外国籍者に不法残留者を足した人数のそれは〇・四パーセント。つまり倍だ。外国人の全員が犯罪者ではないが、この割合は無視できる数字ではない」
人は噓を吐くが数字は噓を吐かない。統計を突きつけられた円谷はあえなく撃沈される。
「二〇〇五年の時点で来日外国人の検挙件数は四万七千件を、検挙された人数は二万千人を超えていた。ところが翌年、短期滞在ビザの発給に制限を加えてからは件数・人数ともに減少に転じている。効果が覿面であったのは数字が証明している。しかし総理、あなたの提案には夢があっても実効性が見えん。そりゃあ統計局あたりに命じれば、インバウンドの予想値やら期待値やらは簡単に弾き出してくるだろうが、既に効果が証明された数値の前ではいかにも旗色が悪い」
平田の言葉には有無を言わさぬ説得力があり、しかも鹿内のように感情的にもなっていないので反論するのが難しい。
「これは総理、ハイリスク・ローリターンなんだ。仮に外国人観光客が多くなってインバウンドが増加したとしても、一方で彼らの中から犯罪者が出てきた時、国民はどう感じるか。どんな経済政策を打っても、その効果が実感できるまでには相当のタイムラグが生じる。ところが外国人による犯罪は即座に報じられて国民の反感を買いやすい。結果として、犯罪率が増加したのはビザ発給規制を緩和させたためだと国民から批判が噴出した時、その矛先は当然政府に向けられる。発案者が総理と知れたら野党側が国会で問題にしてくる可能性は大だ」
意図的なのかどうか、平田はデメリットをこれでもかと連ねてくる。
慎策は黙り込むしかない。そもそも今の内閣は真垣人気に支えられている。政権奪還に成功したとはいえ、国民党の支持率は低迷し以前ほど盤石とは言えない。もしインバウンドによる弊害で真垣人気に水を差すようなことになれば、内閣の基盤が揺らいでしまいかねない。
「嘆かわしい話だが、どこの国にも外国人を嫌悪、あるいは警戒する層が一定数存在する。それは日本も例外ではない。欧米ほど露骨ではないにしても、外国人を排斥しようとする輩がいる」
新大久保辺りでヘイトスピーチを堂々と繰り返している政治団体がある。日頃から慎策も苦々しく思っているが、悩ましいのはこうした人物でも都知事選に出馬すれば十万程度の票を集めることだ。言い換えれば都民の実に十万人以上がヘイトを容認、もしくは推奨しているという現実がある。
「外国人による犯罪が多くなれば極右政党や政治団体が気勢を上げる。局地的な出来事ならまだしも、批判が全国的なものに発展すれば党内のパワーバランスにも変化が生じる。次の選挙まで影響が残れば、当然選対も新たな対策を迫られる」
平田の警告が終わると、後を鹿内が継ぐ。
「大変に失礼な物言いに聞こえるかもしれませんが、ビザ発給規制の緩和は景気浮揚と治安維持を秤にかけるようなものです」
さすがに円谷が顔色を変えた。
「本当に失礼ですよ、公安委員長」
鹿内は慎策に向かって深く頭を下げて、言葉を続ける。
「失礼をお詫び申し上げます、総理。しかし国の公安に関わる立場としては、景気よりも国民の生命と財産を護ることが重要と考えます」
カネよりも生命が大事なのは当たり前だ。その言わずもがなを敢えて口にすることで、慎策の提案を一蹴しようとしているのだ。
「懐が多少温まったところで、強盗に遭えばお終いです。総理におかれましては何卒ご再考いただきたいと存じます」
「総理、ここは思案のしどころですよ」
鹿内と平田に正面から見据えられると、退路を断たれたような焦燥感に囚われる。
「お二人とも、貴重な時間をいただきありがとうございました」
そう告げるのがやっとだった。
「あの場で二人に礼を言う必要があったのでしょうか」
鹿内と平田が退室すると、円谷は慎策をやんわりと責めた。
「総理レクで閣僚が馳せ参じるのは当然ですし、再考を促すのは総理の側だったのではありませんか」
女房役として総理の尻を叩いているのは分かるが、残念ながら今の自分の器量ではあの二人の威圧感に拮抗できない。慎策は自己嫌悪で腹の辺りが重くなる。
「総務会長からは党内宥和を重視するように釘を刺されています。ここでわたしが高圧的に出たら総務会長との約束を反故にするかたちとなります」
「総理は約束した訳じゃありません。あれはあくまでも総務会長の要望です」
焦れた口ぶりを聞いていると、自分が円谷の期待を裏切っているような申し訳なさを感じる。
いかん。
もっと強気にならなければ。
「では、今度は香山さんを呼んでください」
「ビザ発給規制の緩和などもってのほかですよ」
香山警察庁長官は慎策が説明を終わらぬうちに、そう答えた。
「失礼ながら、総理は二〇〇〇年代に入ってからのチャイニーズマフィアの悪行をご存じないようですね」
「蛇頭によって大量の密入国者が日本に流れ込んできた経緯は鹿内公安委員長からレクを受けています」
「人伝の話では、あの非道さの一割も実感できないでしょう」
以前、鹿内と香山は上司と部下の間柄だったと聞く。香山の物言いが鹿内と酷似しているのはそのせいかもしれない。
「当時、鹿内公安委員長が命令を下し、わたしが現場で指揮を執る立場でした」
「その頃、お二人とも警視庁にお勤めと聞いております」
「組織犯罪対策部です。蛇頭のせいで外国人犯罪が急激に増えてしまい、組織犯罪対策部もそれに伴って増員に次ぐ増員をしなければなりませんでした。本来は現場に出ることのない課長や課長補佐まで駆り出されたことがありましたから」
「当時の大変さも公安委員長から聞き及んでいます」
「命が安い国から来た連中はヤクザに対しても一般市民に対しても、そして警察官に対しても容赦ありませんでした。本当に荒っぽい仕事で、現場をひと目見るだけでヤツらの仕事と判断できるくらいです。強奪された現金、破壊された器物、流された血は以前の数倍になった印象があります」
熱中して喋っていると自分の声に興奮するタチなのか、香山の弁はますます熱を帯びていく。
「国の公安に関わる立場として、総理のご発案には疑義を申し上げる所存であります」
やれやれ、言い種まで鹿内と同じか。
「『懐が多少温まったところで、強盗に遭えばお終いです』、か」
「ええ、まさしく仰る通りです。しかし、総理もわたしと同じ思いをお持ちであれば、ビザ発給規制の緩和がいかに無謀な」
「無謀というのは総理に対して礼を失していますよ、長官」
「度々失礼いたしました。しかし、わたしの立場としては諫言であっても言わねばならないことがあります」
一応詫びてはいるものの、口調に変化はない。面従腹背の見本のようなものだった。
「総理。景気というのは一種の気分です。他国と比べて、他の景気のいい職業と比べて、過去と比べて。現状を何かと比較するから意気消沈してしまうのです。言ってみれば気分の問題でしょう。何も飢え死にする訳ではありません。しかし犯罪被害者となれば話は違います。現状の財産、今ある生命と安全が脅かされてしまう。何卒、ご再考いただきたい所存です」
これ以上続けさせても鹿内の弁を再生するようなものだ。
「香山長官のお気持ちはよく分かりました。貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
香山が退出すると、円谷は聞こえよがしに溜息を吐いた。
「鹿内さんと香山さんは二卵性双生児かと思いましたよ。部下が上司に似るのか、それとも上司が部下に感化されるのか。いずれにしても三人ともビザ発給規制の緩和には大反対でしたね」
「お三方の立場を考えれば当然の回答だったでしょう」
この段になって、ようやく気づいた。須郷が党内宥和を重視しろと自分に釘を刺したのは、平田法務大臣たちからビザ発給規制の緩和に猛反対されて慎策が諦めるのを期待していたからに相違ない。慎策には根回しをしておくと言いながら、平田たちには徹底抗議するように唆していた可能性すらある。須郷毅とは、そういう議員だった。
「これからどうされますか、総理。あの様子では三人を説得するのは大変な困難が予想されます。それよりは、やはりトップダウンで決めてしまわれた方がよろしいのではありませんか」
「いや、それでは須郷総務会長の言った通り、内閣の中に禍根を残すことになりかねません。民主主義は拙速よりも巧遅で進めなければなりません」
「至言ですね。総理の座右の銘ですか」
「友人からの受け売りですよ」
不意に風間と樽見の顔が浮かぶ。
風間さえいてくれれば、慎策の考えるインバウンドよりももっと効果的な経済政策を打ち出してくれるに違いない。
樽見さえ生きていてくれれば、平田をはじめとした閣僚たちをあっという間に懐柔してくれるに違いない。二人にはそれだけの知見と人間力があった。今の自分と円谷には持ち得ないものだった。
慎策は思いを払うように首を振る。
やめよう。
ここにいない者を当てにしてどうする。手元にある人材と資産でやりくりするのが運営ではないか。
慎策の思考は円谷の声で中断した。
「総理、どうかされましたか」
「いえ、少し考えごとをしていました」
「これからどうしますか。総理のお考えに賛同する閣僚を集めて多数派工作をしますか」
「もう少し総理レクを続けたいと思います」
「次は閣僚の誰を」
「閣僚ではありません。円谷さん、首都圏で外国人犯罪が多発しているのはどこですか」
「少しお待ちを」
どうやら統計局のデータを検索しているらしく、すぐに回答が却ってきた。
「全体では千葉が最も多く、調査対象者の約二割を占めていますね。次いで東京、大阪、愛知、神奈川の順です」
「呼んでほしいのは、現場で外国人犯罪と対峙している警察官です。千葉県警で外国人犯罪に精通している刑事さんから話を聞きたいと思います」
「現場の刑事ですか、それはまた何とも」
想定外の申し出だったらしく、円谷は困惑顔をしていた。
「もう一つ。このヒヤリングの聞き手がわたしであることは伏せておいてください。わたしが相手と知れば、現場に立たない階級の人を寄越すかもしれませんので」
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
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