国難の時こそ、党を越えた団結が国を動かす――『総理になった男』中山七里/第8回
「もしあなたが、突然総理になったら……」
そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。海外赴任先から帰国した慎策の親友であり盟友の風間歴彦の助言によって、慎策は内閣改造を考え始める。重要なのは、思惑がバラバラの党内の派閥に有無を言わせないような、内閣官房長官の人事。慎策は思い当たった唯一の人物と対峙する――
*第1回から読む方はこちらです。
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赤坂にある某高級料亭は政治家御用達で、時短要請があっても客を招き入れている。ただし女将をはじめ従業員は全員マスク姿で最低限の感染症対策をしている。
慎策は一人で客を待っていた。二人のSPをつけているが円谷も風間も同席していない。これから相手を口説き落とすためには一対一で向かい合うのが最適だと判断したからだ。
約束の時間を三分過ぎて、彼が襖を開けて座敷に入ってきた。
「やあ、真垣総理」
マスクをしていても左頰の傷跡が覗いている。大隈はマスクを外すと、衝立越しの正面にどっかと座る。
「最近ではどこに行ってもアクリル板だ。喋って唾が飛んでも気にならなくなったのはいいとして、差しつ差されつで酌み交わせないのが辛いな」
大隈は文句を言いながら、やってきた仲居に〈八海山〉を注文する。以前樽見から聞いた話では、大隈の地元の酒らしい。
大隈泰治は元々国民党で権勢を振るっていたが、ある時党を割って民生党を旗揚げした。新党創立時のメンバーであるにもかかわらず、現在は主流派から外れて党内に不協和音を奏でている。亡き樽見とは同期であり、党を超えた親交があったという。
「まずは乾杯。コロナになってから、こういう席で吞むのは久しぶりだ」
衝立越しに乾杯は味気ないが、それでも盃の酒を吞み干した大隈は旨そうに息を吐く。
「いい店だが、ここも休業要請が出れば閉めなきゃならん。それまで俺みたいな酒吞みはどこに繰り出せばいいのか」
「コロナ以降は宅飲みが主流だそうですよ」
「家には嫁しかいないからな。嫁相手では愚痴を言っても言い返されるのがオチだ。若手を引き連れて飲み歩いていたのが、ひどく昔に思える」
文句を言いながら大隈は突き出しを口に入れる。
「若い連中は敬遠したがるが、酒が入ると人間は本性が出る。本性を見たくて酒に誘っている側面もある」
「怖いですね。わたしも本性を探られるんですかね」
「あなたは別だよ、総理。あなたは酒が入らなくても人となりが窺える」
「それは誉め言葉ですか」
「一般人なら誉め言葉だが、政治家では違ってくるな。政治家は腹に一物あるのが普通だし、深謀遠慮のできないヤツはなかなか生き残れない。裏表があって人間には厚みが出る。裏のないヤツは薄っぺらい」
独断じみた言説だが、大隈の口から出ると不思議に納得できてしまう。
「じゃあ、わたしは薄っぺらいのですかね」
「裏がなくても表の側が分厚ければ、それでいい。無論、総理にも含むところはあるのだろうが、それを気取られないだけでも大したものだ。樽見があなたを担いだのも、今となっては十二分に納得できる」
「光栄です」
「あなたは表だけで充分だ。大使館突入事件後の信任演説はよかった。近年、あれだけ熱のこもった演説はなかった。口幅ったい言い方になるが、憲政史上記録に残る名演説だった。あれで国民の多くは胸を鷲摑みされた。口惜しいが、国民党がよほどのヘマをしでかさない限り、我が党に政権が転がり込むことはないだろうな」
「ご謙遜を。いつも国会では民生党さんからの鋭い質問に苦しめられていますよ」
すると大隈はじろりとこちらを睨んだ。
「総理、それはあまり出来のいい皮肉じゃない。もしウチの質問が正鵠を射、国民の不満を代弁するものだったのなら、こんなにも支持率は落ちていない」
最近の世論調査によればコロナ対策が後手に回った煽りで国民党は支持率を五ポイント下げたが、野党第一党の民生党は七ポイントも下げていた。
「普通、与党の支持率が下がれば、その分野党に流れるものだが、情けないことに民意の受け皿にもなっていない。国会で見聞きする民生党議員の発言は揚げ足取りに終始して、ただ反対のための反対をしているようにしか見えない。いくら本人に溢れる思いがあったとしても、それを相手や聞き手に伝えられなければ単なる言葉足らずに終わってしまう」
仲間に対する文句に話が及ぶと、大隈の舌は実に滑らかだった。以前より党に不満を抱いている気配はあったが、この分では再び党を割ることにも躊躇がなくなっているのではないか。
「政権への批判は辛辣だが、その多くがブーメランとして返っている。批判している本人たちも馬鹿ではないから、己の言葉が天に唾するものと知っていても、批判でしか存在をアピールできないようになっている。そういう姿勢が国民から疎まれて更に支持を減らす。何とか歯止めをかけようとして政権批判を繰り返し、更に支持率を下げる。悪循環だ」
大隈は顔を顰めて盃を呷る。
「そもそも選挙が下手だ。小選挙区制では幅広く支持を集めなければ勝てないのに、党が左に偏り過ぎていて中道左派ですら支持しにくい体質になっている。取り上げる争点もジェンダーなどの新しいものだが、ピントがズレていて興味を示すのは若年層の一部だけだ。多くの有権者が求めているのは経済政策なのに、それを主軸に争わずして何が選挙戦だと思う」
語るに従って大隈のボルテージは上がっていく。よほど憤懣遣る方ないのだろうと想像するが、敵対する党の総裁にこうまで明け透けに喋ってしまう大隈は、案外根が素直なのかもしれなかった。
「国会で経済政策を討論したいというのはわたしも同じ気持ちですよ」
「真正面から討論すると分が悪い。それを自覚しているからガチンコで勝負しようと思っていない」
大隈は皮肉に笑ってみせた。
「ウチの左派が高らかに主張しているのは相も変わらず所得の再分配だ。財源を法人税と高額所得者の所得税引き上げに求め、低所得者層の所得税を時限的に免除した上で現金を給付せよと言い続けている。つまり経済に悪影響を与えかねない社会主義政策だが、その一方で消費税率を引き下げろと保守的な主張も同時にしている。全方位にいい顔をしようとして、結局は一貫性のない場当たり的な政策に堕している。本人たちもそこは理解しているから論戦にまで持ち込もうとしていない。そもそも所得格差は二〇一〇年代から縮小傾向にある。問題にするべきは日本全体の収入の底上げであり、そのための成長戦略なのに、悲しいかな政権批判に忙殺されて提案するにも至っていない」
言葉の端々には、単に野党第一党の憤懣よりも日本の将来に対する危機感が聞き取れる。この相手になら胸襟を開いてもいいと思わせる。
「大隈先生は、コロナ禍以後の経済政策をどのようにお考えですか」
「今は雌伏の時でしょう。先日も感染症の専門家からレクチャーを受けたが、まだコロナウイルスは海のものとも山のものとも知れない。ワクチンは未だ開発中だし、治療薬に至っては目処すら立たない。こうした病原菌が死滅するには長期間のスパンが必要で、政策にゼロコロナを打ち出している国もあるが、社会主義国以外では困難が伴う。現実的には病原菌が弱毒化するのを横目で見ながら、徐々に経済活動を復活させていくのが順当だろう。そのためにも、今は経済活動を抑制して感染症拡大を防止することが先決だ。従って、経済活動再開となった際に事業者と従業員が精神的にも経済的にも困窮しないよう、手厚く補償する政策が望まれる」
一席ぶった後、大隈は首を横に振ってまた一杯呷る。
「だがそのカネはどこから出る。企業は軒並み減収するだろうし、赤字国債の発行は財務省が難色を示す。総理もさぞ心痛とお察しする」
「お気持ち、痛み入ります。実は財源の当てがない訳ではないのです」
「ほう、打ち出の小槌でも見つかりましたか」
「打ち出の小槌ほど無尽蔵ではありませんが、半年程度は事業者と従業員の生活を最低限補償できる予算です。その半年で極力行動制限をし、短期決戦で感染拡大を抑え込もうと考えています」
矢庭に大隈は身を乗り出した。
「興味深い。是非聞かせてほしい」
「その施策を実行に移すには閣内の意見を纏めなければなりませんが、樽見さんを失った今、残念ながら調整役の登用に苦慮している次第です」
「まあ、樽見のような人材がそこら中にいれば苦労はしない」
「本題に入ります。わたしは近々内閣改造に踏み切る所存ですが、新内閣の官房長官は大隈先生に務めていただきたいと考えています」
一瞬、大隈は盃を掲げたまま動きを止めた。次に真意を確かめるように慎策の目を覗き込んだ。
「どうやら冗談ではないらしい」
「本気ですよ」
「本気だとしたら正気の沙汰ではない。いったい敵対する野党第一党の人間を官房長官に任命するなど聞いたこともない」
「前例がなければ作ればいい。それに、敵対する者を閣内に取り込んで反対行動を封じるのも組閣の目的でしょう」
「それはあくまで与党内での話だろう」
「わたしはコロナ禍を国難だと捉えています」
「同意しよう」
「国難ならば挙国一致するべきです。幸いにもわたしと大隈先生とは、危急の際の経済対策に共有できる部分が多い。大隈先生が閣内に入ってもらえれば民生党の協力も得られます」
「前にも閣僚入りを仄めかせられたことがあったな。あの時はこちらで一蹴させてもらったが」
「あの時とは事情が大きく異なります」
慎策は居住まいを正した。ここで大隈一人説得できなければ、ない袖を何とかすることなど到底不可能だ。
「世界規模の災疫に対し、我が国はあまりに無防備で脆弱です。感染拡大防止だけで膨大な人員と予算を削られ、更に時短と休業要請で国民経済は疲弊しています。早急に補償策を講じなければコロナ禍が終息しても、経済的理由で息の根を止められる者が出るでしょう。今は国民が信頼できる、盤石な政府が必要なのです」
「挙国一致、あるいはコロナ大連立内閣か」
束の間、大隈は黙り込む。己の政治信念と民生党内の反応を秤にかけているのだろう。
「わたしが閣僚入りすると、当然ながら国民党の党員から反発が生じることになる」
「そんな些事にかかずらっている暇はありません。第一、強行策を断行したいがために官房長官になっていただくのです。大隈先生を相手に正面切って物申す党員がいれば逆に天晴れと褒めてあげたいくらいですよ」
「しかし」
「この真垣統一郎、是非とも大隈先生のお力を借りたく存じます」
慎策は畳に両手をつき、深く低頭した。いかにも芝居がかっているが、この場面ではやり過ぎくらいでちょうどいい。慌てたのは大隈だ。
「総理。共通する思いはともかく、俺は敵対する党の前代表だ。総理総裁はそんな相手に軽々しく頭を下げていい立場じゃない」
「国民の安寧を得るためであれば、わたしの頭なんていくらでも下げます」
「頭を上げてくれ」
「では承知していただけますか」
しばらく大隈は慎策を睨み続けていたが、やがてふっと視線を和らげた。
「改めて樽見があなたを担いだ理由を思い知った。演説だけでなく、あなたは憲政史上に名を残す宰相になるかもしれんな」
翌日、閣僚会議で慎策が内閣改造の考えを打ち明けても大臣たちの顔にさほどの驚きは認められなかった。コロナ禍で行政への不信が芽生えている昨今、内閣改造は一種のカンフル剤となり政権基盤の強化となり得るからだ。岡部や免崎の扱いに手をこまねいていた円谷も、内閣改造にはひと言も疑義を差し挟まなかった。
マスコミ発表の後、国務大臣全員の辞表を取りまとめる。これは新たに大臣を任命するための手続きであり、新内閣に閣僚として残る者には後ほど辞表を返還する手筈となっている。
内閣改造の当日、慎策は官邸四階の閣議室に党三役と円谷を招集し、組閣本部を設置した。本来はこの本部で新たな国務大臣を決定する訳だが、既に草案は出来上がっている。後は党三役の確認を取ってしまえばセレモニーは終了する。
だが草案を見た党三役、中でも総務会長須郷毅は青天の霹靂という顔で驚愕していた。
「官房長官に大隈泰治だと。総理、これはいったい」
政務調査会長の国松勉も半ば啞然としながら、須郷に続く。
「何かの間違いじゃありませんか」
最大派閥の領袖と芝崎派の古参が揃って息巻く中、就任して間もない吹田幹事長は慎策の出方を窺うかのように押し黙っている。
須郷は生来の悪人顔を更に凶悪に歪ませて慎策に詰め寄る。
「野党の、しかも壊し屋の異名を持つ大隈だぞ。本気か」
「今回のコロナ禍は国難と、わたしは捉えています。非常時には非常時の人事があって然るべきではないでしょうか」
「その理屈は分かる。だがこれは非常なんて代物じゃない。時限爆弾を抱えて突っ走るようなものだぞ」
「党内には中道左派や中道右派も存在します」
慎策は須郷の威圧感に気圧されながらも、必死に冷静さを繕う。
「反目し合う派閥があり、それらを纏めて一本化するには時間も手間もかかります」
「承知している。その時間と手間をかけることによって国民党は一枚岩になれるんだ」
「しかしパンデミックが起ころうとしている今は時間も手間もかけている余裕がありません。政策に対する異論を蹴散らすような突破力が必要なのです」
「突破力じゃない。ヤツのは破壊力だ。かつては同じ釜の飯を食った仲だからよく知っている。自分の考えが一番正しいと信じ、目的のためなら手段を選ばん。昨日までの党員に平気で矢を向けるような男だぞ」
「お言葉ですが、政策実行と党員同士の友情を天秤に掛けろと言われたら、総務会長はどちらを選びますか」
須郷が返事に窮していると、不意にドアを開けて現れた闖入者が追い打ちをかけた。
「忘れたのか、須郷。あれは衆院選で公民党と選挙協力をするかしないかで揉めた時、俺はあんな宗教団体と手を結んだら将来の禍根になると思った。ところがお前さんはあいつらの票が欲しくてすり寄っていった。目的のためなら手段を選ばんのは貴様の方だろう」
不意に出現した大隈を前に、須郷は言葉を失っていた。これは風間の提案による演出だったが効果覿面だったようだ。
一同が呆気に取られている中、大隈はつかつかと慎策の前に進み出る。まるで総理の盾になるといった体で、居並ぶ党三役は息を吞んで仁王と対峙させられた格好だった。
「部屋の外にまで壊し屋との声が洩れていたが、その通り。ただしわたしが壊したいのは旧弊な体制と国民の不安だ。真垣総理の政治信念はわたしのそれに非常に近しい」
大見得を切る姿は千両役者そのものだ。慎策も演技をする場合が少なくないが、大隈はそれ以上に芝居がかっている。
「不肖、この大隈泰治、日本と真垣内閣のため身命を賭して内閣の一員を務めさせていただく所存。以後、よろしく」
党三役も円谷も大隈を眺めているしかなかった。
その後がまた見ものだった。記者会見室に大隈が姿を現すと居並ぶ記者たちから大きなざわめきが起きた。早速、質問の手があちこちから上がったが、大隈は応えずただ閣僚名簿を読み上げていく。
発表された十五人の閣僚で今回新たに任命されたのは大隈官房長官と村雲財務大臣と野平外務大臣、そして円谷コロナ対策大臣の四人だ。前官房長官だった円谷が横滑りで特命担当大臣に任命されたのも驚きだったが、やはり一番のサプライズは大隈の官房長官就任だろう。全閣僚の名前を読み上げた大隈が壇上から降りると、政治記者たちは一斉に内閣広報室に殺到したらしい。
続いて予定者を含む全閣僚が就任会見で抱負を述べたが、大隈の時には最もフラッシュが焚かれた。記者からの質問も延々と続いたが、さすがにベテラン議員の風格で大隈は必要最低限のことしか話さず揚げ足を取られるような発言は一切しない。
会見の様子を執務室のモニターで見ていた風間は感心しきりだった。
「大したものだな、新官房長官は。就任直後にもかかわらず、もうあの貫禄だ」
慎策も同意を示して頷いてみせる。
「インタビュー慣れしているからな。いつもは攻撃的にマイクを向けている左派系新聞の政治記者がおっかなびっくりだから、少し痛快だ」
痛快なのはその通りだが、正直不安もある。野党から閣僚に招き入れるのは憲政史上初めてとのことだが、どういう反応が返ってくるのか現時点では予想もつかない。
「お前が心配しているほど世間受けは悪くない」
風間はこちらの心中を見透かしたように言う。
「ただの内閣改造じゃなく、コロナ禍を乗り切るための特別感が出ている。自粛生活に倦み飽きた国民の目には斬新に映るだろうし、大隈さんを官房長官に抜擢したことで、この内閣が挙国一致を本気で考えているのがアピールできている。その証拠に就任会見の視聴率は過去最高らしいぞ」
人事の草案は慎策と風間で練った。岡部や免崎を更迭したかたちだが、双方の派閥から反発が出ないように調整している。
「円谷さんも大層喜んでいたじゃないか」
「前任の免崎さんの動きを歯痒く思っていたからな。今最も注目を浴び、成果を期待されるポストだからやる気満々だった」
「お前にとって目の上のたんこぶだった二人も交替させられた。これなら思い切った政策が打ち出せる。それも官房長官の席に大隈さんが座ってくれるからだ」
大隈官房長官の就任は国民党にも民生党にも大きな衝撃を与えた。大き過ぎて現状は懐疑だけが取り沙汰され、批判らしい批判も出ていない。むしろ風間の指摘通り、挙国一致の意志が両党に伝わって好意的な感想さえ洩れ聞こえてくるほどだ。
「いくら主流派を外れているとは言っても党の重鎮であることに変わりはないから、民生党も表立っては文句も言えない。お前にしてはウルトラCの発想だった」
「発想も何も、樽見さんに匹敵する議員は大隈さん以外に思いつかなかっただけだ」
「お前らしい素人考えだな。与党と野党の垣根なんざ何も考えていない。今回はその突拍子のなさが功を奏している。非常時にはこれくらい突飛な方が好意的に迎えられる」
「別に受けを狙った訳じゃない」
慎策は久しぶりに真情を吐露できる安心感に浸る。円谷は真摯な男で好感が持てるが、全てを打ち明ける相手ではなかった。
「大隈さんを誘おうとしたのはただの勘だ。あの人ならこの国の危機を一緒に救ってくれそうな気がした」
すると風間は意外そうにこちらを見た。
「俺の顔に何かついているか」
「地位は人を創る、という諺を思い出した」
「皮肉か」
「城都大にいた頃は年功序列を正当化するくだらん諺だと思っていたが、存外に真実を突いているものだな。ちょっと驚いた」
「今更だな」
「ああ今更だ。帰国するまでは、速やかにフェイドアウトするよう助言するつもりだったが気が変わった」
風間はモニターに映る大隈のアップを指して言う。
「お前の人を見る目に免じて、もうしばらく付き合ってやる。この経済危機を乗り切れたら、論文の一つも書けそうだしな」
風間の物言いはいつも皮肉めいているが、はっきりしたことが一つある。
ここに新たなトロイカ体制が誕生したのだ。
就任会見の翌日、一回目の閣僚会議が行われた。ここでも閣僚の注目の的は新官房長官で、大隈は濃密な視線をものともせず話を進める。
新閣僚の紹介が終わると、大隈は早速本題に入った。
「新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、総理は明日にも緊急事態宣言の延長をお考えです」
延長自体は既定路線であり、後の問題は期間だけだったので皆に驚きの顔はない。
「延長に伴い、各事業者には休業補償を支給する運びですが、そのための補正予算を組みます。既に予算案はできていますので、まずはご覧ください」
閣僚たちに草案のプリントが配られる。これは事前に事務官が提出してきたものに、風間が徹底的に手を入れた代物だった。
「総理、これはどういうことですか」
予想通り、本多真樹夫防衛大臣から声が挙がった。
「防衛関係費が三兆三四二二億円になっている。昨年暮れに発表された予算案から二兆円以上も削減されている」
「総理の代わりにわたしが説明しよう」
大隈はじろりと本多を睨めつける。現場叩き上げの本多も相応に押しが強いものの、大隈には比すべくもない。
「現状の予算では到底休業補償に充てる財源が見込めない。加えてこれ以上の赤字国債の発行は財政の硬直化を招く。窮余の一策で防衛予算の一部を流用して財源に充てる。これなら予算の組み換えだけでどこにも負担はかからない。年中行事のごとく防衛予算について文句を言い立てる野党も黙るしかない」
防衛費からの大幅な流用はもちろん風間の発案だったが、予てより防衛予算の増大に難色を示していた大隈がこれに乗ったかたちだ。従って防衛省からの反発もそれに対する想定問答も事前にできている。
「しかし大隈官房長官、在アルジェリア日本大使館突入事件を受けて、近隣諸国では我が国への警戒感が強まっている。昨年度予算から五百億円も増額されたのは、そうした背景を念頭に置いてのことだ」
「防衛関係費には防衛力整備や自衛隊の維持運営、基地周辺対策などのための経費として、隊員の給与や食事のための『人件・糧食費』と装備品の修理・整備、油の購入、隊員の教育訓練、装備品の調達のための『物件費』が含まれている。少なくともこの二項目は据え置きになっている。削減しているのは沖縄に関する特別行動委員会関係経費と米軍再編関係経費、そして戦闘機などを購入する費用だけだ」
「現況の国防を何だと思っている」
俄に本多の言葉が荒くなる。
「日本列島は我々民主主義国家とは異なる政治体制の、しかも核保有国に包囲されている。この状況は憂慮すべき事実であって、今後如何なる事態が発生するかを詳細にシミュレートしなきゃならん」
「しかし本多防衛大臣、日本国憲法は自衛隊の役割を専守防衛と位置づけている」
「専守防衛は政治用語に過ぎない。そもそも専守防衛というのは冷戦時の発想であって、昨今の世界情勢にはおよそそぐわない。国際法慣習における自衛権よりも更に抑制的な防衛思想で軍事的には極めて困難だ。厳しい国際状況の中で尚それを維持するというのは軍事的合理性には合致しない。軍事力保有に憲法上の問題がないことは、あなたも承知のはずではないか」
「防衛省が中ロと北朝鮮に対して警戒心を抱くのは理解できる。だが、大臣もお聞きだろうが、新型コロナウイルスの感染拡大によって、それら周辺諸国の軍隊事情に変化が生じている。例によって当該国から発表される話を鵜吞みにする訳にはいかず洩れ聞こえる情報に頼るのみだが、中国と関わりの強い国ほどコロナウイルスの感染状況がひどい。軍隊というのは三密(密閉・密集・密接)を許さない環境なので感染が拡大しやすいのだろう。重篤患者と死者の数が毎日過去最高を更新しているらしい」
同じ情報を入手しているのか、本多は反論しようとしない。
「お分かりだろう、本多防衛大臣。中国、ロシア、北朝鮮の軍隊は新型コロナウイルスの猛威に対抗するのに精一杯で、他国に侵攻するような余力はない。何しろ見えない敵だから余計にタチが悪い。ならばこちらも徒に不測の事態に怯える必要はないのではないか」
「しかし」
大隈はようやく反駁を試みる本多を抑え込む。
「取りあえず一年だけ我慢してくれ。無論、当該国の監視は怠らないというのが条件になる」
「備えあれば患いなしと言う」
「今、備えるべきは軍備以外だ」
結局、大隈が押しきるかたちで補正予算案は閣僚の承認を得た。
防衛費から二兆円の流用を得て、事業者と個人に対して一定程度の補償をする予算が捻出できた。これならすんなり衆参両院を通過するだろう。
補正予算成立の目処も立ち、慎策は執務室の椅子で脱力する。だが、不意に現れた風間はいっときの安堵さえ許してくれなかった。
「これで終わりじゃないぞ」
学生時代、散々風間に脅された記憶が甦った。
「ショータイムはこれからだ」
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
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