自然災害の多い日本で被害を最小限に食い止めるには――『総理になった男』中山七里/第9回
「もしあなたが、突然総理になったら……」
そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。野党の大物議員・大隈を官房長官として迎え入れることで、党の垣根を越えて国難に向き合った慎策。コロナ対策を乗り切ったかと思った矢先に、今度は「自然災害」という日本では避けられない大きな壁が立ちはだかる――
*第1回から読む方はこちらです。
三 VS災害
1
岸まで達した涅色の激流が地盤を削り続け、やがて家屋を吞み込んでいく。基礎を失った家は屋根から崩壊し、濁流の中に引き摺り込まれる。
何てことだ。
官邸四階の大会議室でモニターに見入っていた慎策は声にならない叫びを上げた。
安佐北区を流れるあの川は、慎策自身が子どもの頃に遊泳場所に指定されていたところだ。いつも穏やかな川面を見せ、夏の匂いを運んでくれていた。
その川が今は獰猛に変貌している。住んでいる者の記憶も感情も引き裂き、海へ向かって流れていく。
頼む。
もうやめてくれ。
閣僚たちが息を吞んでモニター画面に見入る中、慎策は心で悲鳴を上げ続ける。
俺が生まれ育った場所、両親と地元に残った幼馴染みが住んでいる町。
慎策の実家は川沿いに建っていた。安佐北区の被災は秘書官につい先ほど知らされたばかりで、まだ両親の安否確認を取っていない。皆の目さえなければ一刻も早く連絡したいところだった。
「あの家の家族、避難済みならいいんだが」
背後にいた国交大臣の山添が独り言のように呟くが、おそらくはこの場にいる者全員の気持ちを代弁していた。
「現在、報告されている分だけでも八戸もの家屋が流失しています。明日以降の捜索が進めば、最悪激甚災害になる可能性もでてくる」
相米防災特命担当大臣は呻くように言う。緊急に設置された非常災害対策本部では相米が部長になる。予想される被害の大きさに、今から腰が引けているようだ。
だが、今の慎策に相米の弱腰を窘める余裕はない。実家がどんな被害を受けているのか、果たして両親は避難済みなのか。
総理として被災地の救助と復興を考え始める一方、身内の安否が気にかかる。真垣統一郎と加納慎策が一人の中に交互に現れ、精神が危うく崩壊しそうになる。それを留めているのは一にも二にも使命感のなせる業だった。
「自衛隊の災害派遣を用意してください」
「直ちに」
慎策の要請に本多防衛大臣が応える。周到な本多のことだから、既に被災地最寄りの駐屯地の動きは把握しているに違いない。
ともあれ現時点では被害状況も明らかではなく、対応が予備的なものになるのは仕方がなかった。まず激甚災害に指定した後、地方公共団体が行う災害復旧事業等への国庫補助の嵩上げや中小企業に対する支援など特別助成措置を決める。そのためには早急に被害状況を明らかにする必要があった。
必要な指示をした途端、眩暈に見舞われた。座っていたからいいようなものの、立っていたら腰から崩れ落ちたところだ。
「総理、少し休んだらどうだ」
横にいた大隈が声をかけてくれた。この場は少しだけ厚意に甘えるとしよう。
「十分ほど中座します」
五階にある執務室に飛び込むと、慎策はスマートフォンで母親の携帯番号を呼び出してみる。
『ただいま電話が込み合ってかかりにくくなっています。しばらく経ってからおかけ直しください』
何度かけ直しても不通のメッセージが繰り返される。ならばと固定電話にかけてみるが、こちらはコールが続くだけだ。
母ちゃん、父ちゃん、出てくれ。
頼むから無事でいてくれ。
だが願いも空しく誰も出る気配はない。それでも慎策はスマートフォンを耳に当て続けていた。
七月中旬、日本海に停滞する前線に暖かく湿った空気が流れ込み、大雨が降りやすい天候が続いていた。そこに二つの台風が日本列島に上陸し、広島でも二十日夜から二十一日にかけ集中豪雨が襲い掛かったのだ。
普段であれば短時間での降雨で済むところが、今回は次々に発生した積乱雲が一列に並んで延々と雨を降らせるバックビルディング現象が発生、線状降水帯を形成し、なかなか止むことがなかった。集中豪雨は安佐北区において、一時間最大百二十一ミリ、二十四時間累積最大二百八十七ミリという観測史上最大の雨量をもたらした。元より土石流や崖崩れの発生しやすい地形も災いし、川沿いの集落は特に被害が甚大だった。
二十三日になると雨も止み、本格的な救助活動が開始された。救助活動が始まれば自ずと被害状況も明らかになってくる。まず建物等の被害は全壊百三十三棟、半壊百二十二棟、一部損壊百七十五棟、床上浸水千三百一棟、床下浸水二千八百二十八棟だった。死者は二名、負傷者は三名。だが、現時点で行方不明者が七十人以上もいる。これから死傷者の数が更新されていくのは時間の問題だった。
救助活動が開始されるとともに、慎策は現地に臨場した。海田市駐屯地から派遣された自衛隊、警察、地元消防団の面々に挨拶した後、被害状況をこの目で確認する。
台風一過で七月の暑さが戻っていた。水が引き、泥まみれとなった瓦礫は猛烈な異臭を放っている。
「総理、できるだけ近寄らないでください。この臭いは何かが腐り始める時の臭いです」
指揮隊長が小声で忠告してくれた。マスクをしていても臭いが不織布を通して鼻腔に侵入してくる。泥と草、そして動物性たんぱく質の腐敗する臭いは紛れもない刺激臭だった。
だが、臭いを気にしている場合ではなかった。
「ご忠告、ありがとうございます。しかし目を背けるつもりも距離を置くつもりもありません。感染症対策はしているので安心してください」
一刻も早く実家の被害状況を確認したい気持ちから出た言葉だったが、指揮隊長は別の意味で捉えたらしく、ぴんと背筋を伸ばして敬礼する。
浸水は言うに及ばず、家屋の倒壊や流失の惨状は言葉を失うほどだった。下流に向かうほど被害は甚大で、中には二軒が繫がったまま濁流に吞み込まれた箇所もある。
街中から離れているためか再開発されたこともなく、この辺一帯は慎策にとって懐かしい風景だ。懐かしい風景の中で建物だけが消失しているのは却って異様だった。
「被災地の住民には最悪のタイミングだったのです」
随行していた警察署長は痛恨の面持ちだった。
「集中豪雨のピークが午前零時から午前四時の真っ暗闇の時間帯と重なり、住民が事態に対応できませんでした。市から避難勧告が発令されるのも遅れてしまいました」
署長が最後に指摘したのは行政側の不手際だ。いずれ問題化するのは必至であり、今のうちに報告しておこうという意図だろう。
「ただし根本的な原因は治水にあります。上流の第一安佐ダムさえ完成していたら、被害もここまで拡大はしなかったはずなのです」
署長の声は悔しさに滲んでいる。
川の上流では十年前から治水ダムの建設が始まっていた。計画が順調に進んでいれば七年で完成するはずだったが、途中で思いがけない障害が立ちはだかった。民生党が政権を奪取した際、公約の目玉として挙げていたのが公共事業の削減、取り分けダム建設計画の見直しだった。政府は八十三か所のダムについて都道府県などに検証を指示し、うち十五のダム建設を中止とした。その一つにここの第一安佐ダムが含まれていたのだ。
かくして民生党政権の三年間、第一安佐ダムはずっと手つかずのまま放置されてきた。国民党が政権を奪還した直後に工事は再開されたものの、完成するより先に豪雨に見舞われた次第だった。
溢れ出た泥ですっかりアスファルトが隠れている。作業用の長靴を履いていても足を取られる。川沿いの倒壊した家屋には自衛官とレスキュー隊員が瓦礫を撤去しながら生存者に呼び掛けている。
思い出の場所で展開する見慣れぬ光景に胸が引き裂かれる。
「総理」
横に並んでいた署長が切なそうに言う。
「総理がそこまで住民の安否を気遣われているとは。誠にありがとうございます」
どうやら心配されるほど深刻な顔をしていたらしい。
ようやく一行は慎策の実家付近に辿り着いた。
慎策はあまりの変貌に立ち尽くす。家は基礎さえ残さず姿を消していた。
ご丁寧なことに両隣の家もない。右隣佐々木家の親子、左隣樋口家の夫婦の記憶が一瞬だけ頭を過る。
慎策の両親は二人とも七十を過ぎていた。瞬時に状況を判断して独自に避難するような判断力も行動力もずいぶん衰えている。
『ずっと連絡なかったねえ。ちゃんと食べてるのかい』
『劇団に入ってしばらく経つけど、そろそろ主役になれたの』
『今年の暮れには帰ってこれるのかい』
最近は両親からの連絡も途絶えがちになっていた。慎策は慎策で総理の仕事に忙殺され、メール一本送信しない日が続いていた。
どうして十秒も要しない連絡を怠ったのか、今となっては己を罵倒したくなる怠惰だった。
母ちゃん。
父ちゃん。
それまで張り詰めていた糸が切れ、身体中から力が抜けた。まさかその場に座り込むこともできず、慎策は頭を垂れて合掌するより他なかった。
被災地をひと通り巡ると、改めて被害の甚大さを思い知らされる。流されたのは家屋だけではない。人命も記憶も歴史も流されている。出動以来、救助隊は昼夜を問わずに働き続け、瓦礫の中から救い出した被災者も少なくなかった。だが救助活動開始から数時間を過ぎた頃から、発見されるのは遺体の方が多くなってきたと言う。
「遺体安置所に案内してください」
慎策がそう言い出すと、署長はさすがに驚いた。
「そこまでされなくても」
「そこを見ずに視察とは言えないでしょう」
小学校の体育館の一角を借りた遺体安置所には、簡素な造りの棺桶が並んでいた。既に身元が判明しているものには遺族らしき人々が寄り添い、そうでないものは外見の特徴や推定年齢と性別、着衣と発見場所が記されている。
おそらく防腐処理を施し蓋も閉まっているが、はや腐敗臭がうっすらと漂っている。先刻、指揮隊長が言及した臭いだった。
慎策は一体ずつ身元不明者の特徴を確認して、両親に該当する遺体を探す。それと思しきものは見つからなかったが、安堵とは程遠い。遺体が見つからなければ不安だし、見つかれば絶望するに決まっている。
現時点で両親は行方不明者に分類される。消防庁の見解によれば、「行方不明者」とは、当該災害が原因で所在不明となり、かつ死亡の疑いのある者だ。しかし実際には「遺体の行方が不明な者」という意味に他ならない。慎策はいつしか己が両親の遺体を探している現実に気づき、愕然とした。
再び無力感に打ちのめされて遺体安置所を出る。何やら報道陣がフラッシュを焚いていたようだが、顔を背ける気にもならなかった。
翌日になると被災地の役所は判明している死者と行方不明者の氏名を公表した。その中には慎策の両親とともに幼馴染みの名前もある。慎策はその名簿を一人執務室で眺めていた。
名前を見ているだけで彼らとの思い出、交わした言葉の数々が記憶の底から甦ってくる。
夏休みになると誰が声を掛けるでもなく集まって川遊びをした。空き地で戦隊ごっこに興じ、廃屋を肝試しの場所に選んだ。遊んでいて怪我をすると母親のお目玉を食らい、後で父親から慰められた。父親から怒られた時は母親が慰めてくれた。きっと二人でそういう取り決めをしていたのだろう。
ああ、駄目だ。
払っても払っても情景と、匂いと、手触りが甦ってくる。あの人たちも場所も消えてしまったというのに。
自分以外には誰もいない執務室で、慎策は両手で顔を覆って嗚咽する。声を上げた途端に自制心が弾け飛びそうな恐怖があった。
しばらくして落ち着きを取り戻した頃、ドアをノックする者がいた。現れたのは風間だった。
「被災地の視察、ご苦労だったな」
風間はこちらに近づくと、鼻をひくつかせた。
「少し臭うな」
「ちゃんと防災服から着替えている」
「何だ、シャワーを浴びていないのか」
「暇がなかった。それより何の用だ」
「最新の世論アンケートの結果が出た」
「ふん。どうせ大幅にダウンしているに決まっている。今回の豪雨被害の責任の一端は行政側にあるからな」
「行政の責任を問う声は確かに少なくない。だが真垣政権の支持率は四ポイントも上昇している」
「噓吐け」
風間流の冗談と一笑しようとしたが、風間はくすりともしない。
「テレビを観てないのか」
「シャワーを浴びる暇もないのにテレビなんか観られるものか」
「どのニュース番組も今回の豪雨被害をトップに持ってきている。中でもお前の表情に関心が集まっている。見ろ」
風間は差し出したスマートフォンにニュースサイトを表示する。言った通り、ニュースサイトは慎策の顔をアップにしていた。
流失した家屋の跡地で合掌する顔、遺体安置所で泣きそうになるのを堪えているシーンが次々と映し出される。
「総理が被災地を視察するのは恒例行事みたいなものだ。だが、これほどまでに国民の生命と財産を慈しみ、遺体や瓦礫に感情を露わにした者はいなかった。サイトのコメント欄には真垣総理に対する感激と感謝の言葉が溢れている。『被災者のために、こんな沈痛な顔を見せる為政者はいない』『他人の痛みを我が事のように思ってくれる首相の国に生まれてよかった』『自分の思想信条には合わない総理だけど、こういう顔を見せられると嫌いになれない』。本来なら政府不信を招くようなアクシデントを逆手に取って好感度を上げやがった」
慎策は二の句が継げなかった。
まさかそんな解釈をされていたとは。こちらは私情の吐露を堪えていただけなのに、好意的に捉えられたなど皮肉以外の何物でもない。
風間は蔑むような笑みを浮かべた。
「いつの間にそんな手管を覚えた、総理大臣殿。樽見さんの薫陶を得たか。それとも俺のいない三年の間に演技を極めでもしたのか」
「あれは演技じゃない」
「それだけ集中してたって意味か」
「被災地は俺の生まれ故郷だ」
風間の顔から皮肉の色が消えた。
「手を合わせていたのは、ふた親が家ごと流されたからだ。遺体安置所を出る時に悲愴な顔をしていたのは、そこで親の遺体を見つけられなかったからだ」
束の間無言でいた風間は神妙に頭を下げた。
「悪かった。それから、ご愁傷様だった」
途轍もない違和感で理解した。この男が謝罪する姿を見たのは、これが初めてだったのだ。
「もういい。似合わないからやめろ」
「ご両親が流されたのは確認したのか」
「市の公表した行方不明者の中に名前があった。家ごと流されたら、後は瀬戸内海だ。遺体を見つけるのはほぼ不可能だ」
最後の言葉は自分を言い聞かせるためでもある。遺体の捜索活動は必要だが、長引けばそれだけ復興事業も遅れてしまう。
「付き合っている女がいたな。彼女はこのことを知っているのか」
「広島生まれなのは言ってあるけど、正確な住所は教えていないし、今回のことも話していない」
「地元に知り合いは多かったのか」
「幼馴染みが何人かいたが、ほとんどの家が被災していた。どうして、そんなことを訊く」
「地元の知り合いと、ばったり出くわしたりしなかったか」
その質問で風間の真意が分かった。
「俺が身バレするかどうか心配だったか」
「心配じゃなくて期待していた」
「どうして」
「バレたら、もうお前がこんな三文芝居を続けなくて済むからな」
「俺のためを思ってくれているのか、それともこの国の政治を混乱に陥れたいのか」
「どっちも違う。身の丈に合わないことを続ければ続けるほど発覚した時の反動が大きい。倒閣運動で済めばいいくらいだ。前にも言ったが引き際を考えておけ」
慎策は返事に窮する。実は風間が渡英してからというもの、舞台から降りることは一度も頭になかったからだ。
総理としての仕事に追われていたせいでもあるが、このまま真垣統一郎を演じ続けてくれと言い残した樽見に報いたい気持ちの方が大きかった。生来、あまり使命感の強い性格でもなければ人の上に立つような器量の持ち主でもない。そんな男が総理の影武者を続けているのは役者ならではのクソ度胸と演技力、そしていつしか根付いてしまった愛国心ゆえだった。
「ちゃんと考えているさ。でも、今はまだその時じゃない」
「どうだかな。やはり権力の座が心地よくなったか」
「身内に不幸があっても舞台に穴をあける訳にはいかない」
「それは歌舞伎役者の心得じゃなかったのか」
「演劇人全ての心得だ」
「ふん、まだ総理を演じているという意識があるならマシな方か。いずれにしても今回の豪雨被害でその時期は遠のいた。一、真垣総理人気はますます高まり退陣する機会を失った。二、ご両親を含めて加納慎策を知る人間がずいぶん減り、身バレする危険性も小さくなった。まさに怪我の功名だ」
「その言い方には悪意が感じられるぞ」
「悪意のつもりで言っているんだ。そう感じるのは当たり前だろう」
風間は不機嫌そうに蓬髪を搔く。
「不機嫌そうだな」
「俺が内閣の参与を命じられて喜色満面でいると思うか」
「不機嫌ついでに考えてくれないか」
慎策は向かいの椅子に風間を誘う。長話になるのを予想したのか、風間の表情がいくぶん固くなる。
「この国を災害に強くしたい」
「以前、石巻の被災地を視察した際にも同じことを言っていたな」
「あの時は復興予算の流用を止めるだけで精一杯だった。災害に強い国づくりを本格的に進めたい」
「それは親や知り合いを亡くした口惜しさからの復讐心か」
嫌な男だ。
いつでもこちらの本心を見透かしている。
両親と故郷を奪った災害に一矢報いたいという気持ちは否定しがたい。親しかった者たちを無慈悲に奪っていった存在に一泡吹かせてやりたかったのも本当だ。
だが人がみすみす死んでいくのを、指を咥えて見ているのが耐えられなかった。在アルジェリア日本大使館の占拠事件で次々と人質が殺害された時、まるで自分の一部が奪われるような絶望を味わった。
もうあんな思いをするのは二度とご免だ。
「親だろうが赤の他人だろうが関係あるか」
つい声が大きくなった。
「皆、同じ国民だ。生命と財産を護る努力をして何が悪い。政治家はそのために選ばれている。違うか」
風間は意表を突かれたように眉を顰める。
「お前は選挙で選ばれた人間じゃないだろ」
「ああ。だけど樽見さんに選ばれた」
「そういう言い回しを覚えたか」
風間はまた頭を搔く。ただし今度は悔しそうな仕草だった。
「地位が人を創るというのは本当かもしれんな。それで、国土強靱化計画の具体案でもあるのか」
「今回のような豪雨被害を最小限に食い止めたい」
「初手から困難な話をするんだな」
「そんなに難しい話なのか」
「いいか、日本列島というのは台風の通り道に位置している。春の台風は北半球の低緯度地方で発生する。東から西に風が吹いているから台風も西のフィリピン方面に進む。一方、夏の台風はそれより高い緯度で発生する。初めは西に流されるがそのうち北上して、西から東に流れる偏西風に乗る。すると台風は高気圧の周りを回って日本列島に向かってくるという寸法だ。小学校の授業で習っただろ」
「たった今、習った。お前から」
「まさか政治経済以外に気象学まで教える羽目になるとはな。地震を除けば、この国で発生する激甚災害の大部分は台風被害だ。言い換えれば、台風被害さえ抑え込んだら人的被害も物的被害も最小限にできる」
「困難どころか、すごく有用な話じゃないか」
「馬鹿。地震と同様、自然を相手にするんだぞ。第一、空に命令できるのは八代亜紀くらいのものだ」
「雨の慕情」か。
風間が定番のオヤジギャグを発する時は、大抵投げやりになっている証拠だ。
「別に台風の発生を食い止めるとか、進行方向を曲げるとか大それたことを考えている訳じゃない。実は地元の警察署長から気になる話を聞いた。『根本的な原因は治水にあります。上流のダムさえ完成していたら、被害もここまで拡大はしなかったはずなのです』とな。俺の故郷だけじゃない。広島県内の河川はほぼ例外なく氾濫して各地に多大な被害をもたらした。台風に直撃される寸前、各地に設けられたダムがちゃんと機能さえしていれば、これほど多くの損害を出さずに済んだはずだ」
「つまりダム行政から着手しようって肚か」
「行政は人間がするものだ。台風を相手にするよりはずっと楽だろう」
「台風なんかと比べるな」
風間は意味ありげにこちらを睨む。
「復興予算流用の件で官僚を敵に回したことをもう忘れたのか。行政を司る役人たちを動かすのも大概難儀だった。其の徐かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如しだ」
「風林火山か。風が抜けてるぞ」
「役人は風みたいに疾く動かない」
「そういうのを相手にするから、お前の力を借りたいんだ」
「俺は政治経済が専門なんだ」
「政治も経済も人の営みだろ」
「人を動かす手管も覚えたか」
風間は大袈裟に溜息を吐いてみせた。これは渋々ながら承諾する気になっている証拠だ。
「闘う相手が行政なら、それなりに攻め方もある。ただしトップダウンでどうにかなる問題じゃない」
早くも解決の糸口を見つけたような口ぶりだった。
「お前が総理の影武者をさせられるずっと以前から、彼らは役人人生を歩んできた。面従腹背はお手のものだし、既得権益を手放す気なんてさらさらない。そういう連中を動かすには真垣統一郎のカリスマ性だけでは到底足りない」
「カリスマ性で足りなきゃどうするんだ」
「単純だ」
風間は不敵に笑う。
「恫喝するのさ」
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
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