自粛要請に見合う休業補償とは?――『総理になった男』中山七里/第7回
「もしあなたが、突然総理になったら……」
そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。緊急事態宣言を発出したものの、企業や個人への補償は未だ定まらないまま。赤字国債も消費税の増税も手詰まりで、財源の確保も難航するなか、慎策はある人物たちに助言を求めて――
*第1回から読む方はこちらです。
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「お呼びでしょうか、総理」
執務室に入ってくるなり免崎コロナ対策大臣はこちらを上目遣いに睨んできた。閣僚入りしてから一か月以上経つというのに、慎策は未だにこの視線に慣れない。不本意に従っているのだと言わんばかりに敵意と服従の色が同居している。
コロナ対策大臣を含む特命担当大臣は、中央省庁再編に伴う内閣府設置法の施行により二〇〇一年一月六日に法制化された。
内閣法第二条二項によれば、総理大臣に任命される国務大臣は十四人以内、ただし特別に必要がある場合は三人を増加して十七人以内とすることができる。喫緊に解決すべき問題が生じて十四人では手が回らないと判断された時、特命担当大臣が任命されるという次第だ。
従って特命担当大臣には相応の専門性と或る種の剛腕さが求められて然るべきなのだが、免崎にそうした才がないのは衆目の一致するところだ。そもそも彼は厚労族でもなければ感染症の知識も人並みにしか持っていない。
「感染症対応休業支援金の件でしたら、先日次官より答申を出したはずです。中小法人は上限六十万円、個人事業者は上限三十万円。それが予算内でできる精一杯です。もっとも予算案が通ればの話ですが」
コロナ禍によって事業者も一般家庭も経済的な打撃を被っている。政府・与党は五月中の支給を目指しているものの支援金関連で必要な財源は約三倍に膨らみ、長期戦を見据えて更なる対応を迫られた際の余力が心配される。免崎の弁は一応もっともらしく聞こえる。
だが補正予算が決定したとしてもその資金を調達するのは財務省理財局の四課だ。何も免崎が汗を搔く訳ではない。それにもかかわらず、免崎が財務大臣と折衝したという話も理財局に出向いたという話も聞いていない。要は財務省の事務次官からの回答を受け売りしているだけなのだ。
そもそも免崎を特命担当大臣に任命したのは慎策の本意ではない。第二派閥芝崎派の露骨なゴリ押しがあり、渋々ながら承諾したに過ぎない。国民から絶大な支持を得てきたものの、弱小派閥出身の真垣が政権を安定させるためには派閥の論理を吞むより他になかったのだ。
「大企業もコロナ禍の影響で減収を余儀なくされ、来年度の税収は大幅な減少が予想されます。岡部財務大臣の仰る消費税増税を断行しない限り、財源は確保できませんよ」
これもまた理財局四課からの受け売りだ。円谷が同じ回答を当の四課から聴取している。
「言うまでもありませんが、これ以上の国債の発行は財務省が嫌うでしょうね。ない袖は振れぬ、というのは一般市民も政府も同じですよ」
「まるで他人事のように言うんですね」
見かねたように円谷が口を差し挟んだ。
「本来、コロナ対策大臣であるあなたが時短や休業に応じてくれた事業者へのケアを万全に構築しなければならないと思いますが」
「万全ですよ」
免崎は恬として恥じるところがない。
「簟笥の隅を突いて予算を充てているんです。これ以上は逆さに振っても出やしません」
「一度きりの補正予算では足りないかもしれません」
「消費税増税をしないのであれば、岡部財務大臣ならびに財務省を説得して赤字国債を発行するより他ありませんねえ」
円谷に窘められたにもかかわらず、免崎はまだ他人事の口ぶりを改めようとしない。慎策は人事をゴリ押しした芝崎派を恨みたくなった。
「他にご用がなければ」
「ああ、ご苦労様でした。免崎さん」
慎策からの労いの言葉を合図にして、免崎はさっさと執務室を出ていった。
「あれで本当に特命担当大臣の自覚があるんでしょうか」
閉められたドアを睨みながら円谷が愚痴る。
「国民の生活を何だと思っているんだろう」
「彼なりに一生懸命なんですよ、きっと」
「ええ、在任中にミスをしたり閣僚からダメ出しされたりしないように」
こちらに向けた顔は憤懣遣る方ないという表情をしていた。
「ウチの議員にもよくいるタイプですよ、ああいう事なかれ主義は」
大きな問題を起こさず任期を全うすれば議員としての経歴に箔がつき、党の中での存在感が増していく。派閥にあって発言力が増し、やがては権勢を握るようになる。前例にないことをする必要はなく、ただ失敗しなければいい。
それは役人の考え方ではないか。感染症の拡大によって不安と疑心暗鬼に陥っている国民を救おうとする政治家にはまるで相応しくない。
「党内にはもっと相応しい人材が残っていると思います」
円谷が愚痴りたくなる気持ちも分かるし思わず頷きたくなるが、慎策はすんでのところで思い留まる。現状で何らミスを犯していない免崎を罷免するのは難しい。「前向きでないこと」は辞めさせる理由にならないからだ。
大臣の任免権は総理にあるが、かといって特段の理由がないにもかかわらず交替させてしまっては、閣内および党内の混乱と猜疑を招きかねない。総理大臣は内閣の最高責任者であるとともに与党の総裁でもある。権力を持っているからといって好き勝手に行使できるものではない。
「円谷さん。どこで誰が聞き耳を立てているかもしれない。あまり大声でそういうことを言わない方がいいです」
「大変、失礼しました」
円谷は慌てた様子で低頭する。
慌てたのは慎策も同様だった。そもそも自分は官房長官を𠮟責できるような偉い人間ではない。閣僚や議員たちから頭を下げられる度に居たたまれなくなる。
「しかし総理、免崎さんは中小事業者の、もっと言えば庶民の生活を知らな過ぎるのではありませんか。財務省から上がってきた数字をただ公表するだけじゃありませんか」
庶民という言葉が耳に引っ掛かる。傲岸不遜な言葉だが、政治は庶民の暮らしを安定させてこその存在だ。では政治家という人種はどこまで庶民の暮らしを知っているというのか。
総理の影武者を務め始めてしばらく経つ。自分に残っている庶民感覚は時代遅れになっていないだろうか。
「明日の午後七時以降は誰とも会う予定はありませんでしたよね」
「ええ」
「そのままスケジュールは空けておいてください」
翌日の夜、慎策は下落合を訪れた。秘書官一人と最低限のSPだけつけた、言わばお忍びの外出だ。本来、この時間帯の目白通りは行き来する人で埋まっているはずだが、時短と休業要請が下りた夜の街はネオンも人通りも消えていた。
まるでゴーストタウンだ。
見慣れていたはずの下落合が別世界のそれに見える。たかが数日経済活動を停止しただけで、街はこんなにも死に体になってしまうのか。
通り沿いの一角にあるイタリアンレストランだけは闇の中にあって煌々と明かりが灯っている。慎策はドアを開けて一人で入店する。
店内のライトは半分がた消えており、中央のテーブルに照明が集中している。
テーブルには先に安峰珠緒が座っていた。
「お待たせ」
「構わないよ。何と言っても日本中で一番忙しい人なんだもの」
「皮肉を言うなよ。こうして一緒に食べるのは久しぶりだろ」
「久しぶりの食事にこんなレストランを、それも貸し切りだなんて。さすが総理大臣」
「他人に見られたくないから特別に開けてもらって貸し切りにした。どうせ貸し切りにするなら、なるべく大勢のスタッフを雇っている店にした方が売り上げに貢献できる」
「でも選りにも選って、この店は」
「決死のプロポーズを断られた店だ。だけどここら辺りで上等だと思える店を他に知らない」
「断ったんじゃなくて、しばらく返事は保留させてくれって言ったの」
「似たようなものだ」
「結婚したとして、わたしは加納珠緒を名乗ればいいのか、真垣珠緒になればいいのか」
「夫婦別姓にすれば安峰珠緒のままでいいじゃないか」
「そういうことを言ってるんじゃないの」
付き合いが長いから、珠緒の言わんとすることは理解できる。長々と話せば喧嘩になりそうなので、結婚の話はここまでにしておく。ちょうど皿も運ばれてきた。
「ひょっとしてデートのために執務時間を削ってくれたの」
「悪いけど総理としての仕事込みだ。庶民の生活状況を直接知りたかった」
「何よ、庶民って。慎ちゃんだって庶民じゃない。第一、総理だったら視察の名目でいくらでも来れるはずでしょ」
「大名行列では見えてこない景色がある」
慎策にとっては切実な問題だった。家賃滞納でアパートを追い出され、1DKの部屋で同棲していた頃はハムカツ定食さえご馳走だった。ところが総理官邸に住まうようになってからは飽食が続いた。舌に合わないが赤坂の料亭の味にも慣れてしまった。今の自分が国民の平均的な暮らしを知っているかと問われれば自信がない。コロナ禍の影響下にあっては尚更だ。
「珠緒の仕事、医療事務だったよな。どんな具合なんだ」
「最悪」
珠緒はテリーヌを不味そうに口に運ぶ。
「PCR検査とコロナ感染者の受け容れだけで現場は野戦病院状態。そっちに手が掛かって他の患者さんを診ていられない。ああ医療崩壊ってこういうことかと思う。わたしは医療事務だからまだ余裕があるけど、医師や看護師は明日誰が辞めても不思議じゃないくらい」
慎策は自然に頷く。医療現場からそろそろ退職者が出始めているらしいのは厚労省からも報告を受けている。
「やっぱり感染症のリスクが一番高いからかな」
「それもあるけど、リスクが高い割に給料が少ないのも一因。文字通り命がけの仕事なのに看護師の給料なんてずっと据え置きなのよ。せめて感染症が拡大しているうちは特別な支給がないとキツいと思う」
その通りだと思う。戦争中なら前線の兵士を厚遇するべきだ。慎策は貴重なアドバイスを頭の中に放り込む。
「医療従事者もキツいけど、飲食店に勤めている人はもっと切迫しているよ」
この界隈だけでも飲食店は軒並みシャッターを下ろしているので、何となく想像はつく。
「時短や休業が出だした頃から、お店の従業員さんが半減してるの。知った顔の人がいないから別のシフトかと思ったら辞めていた。そういう例が、わたしの身の回りで立て続けに起こっている」
「時短や休業が長引けば従業員を雇っていても経費が負担になるばかりだからな」
「あのね、飲食店とかコンビニとかの従業員って何げに慎ちゃんと同世代の人が多いよね」
「ああ、就職氷河期世代だよ」
「だったら分かるでしょ。安い時給で正社員並みに酷使されて、コロナになったらなったでいとも簡単にクビを切られるの。その人たちは国に対して恨み骨髄よ。政府がどんな対策を立てたところで斜に構えるし、この国の未来のために何かしようなんて金輪際考えない。政府が何を言おうが信用しないし、協力しようなんてあまり考えないと思う」
慎策自身、大学の同期たちがどれだけ就職活動に苦しんできたかをこの目で見てきた。だから珠緒の言葉がただの脅し文句でないことは承知している。
「政府は時短や休業要請に応じた事業者に補償を考えているんでしょ」
「ニュースを見たのか」
以前の珠緒からは考えられない質問だった。
「意外そうに言わないでよ。ファースト・レディになってくれって言ったのは慎ちゃんじゃないの」
その理由で意識的に政治絡みのニュースを見てくれているのなら嬉しい。
「一時金として中小法人は六十万、個人事業者には三十万円、だったよね」
「あくまで予定だけどな」
「感染症が終息するまで何か月かかるか分からないから一時金というのは分かるけど、それじゃあとても足りない」
「分かっている。でも補正予算を組んだとしても限度ってものがある。赤字国債の発行を死ぬほど嫌っている省庁があるんだ」
「事業者だけじゃ不充分なのよ」
珠緒はじれったそうに言う。
「時短や休業で苦しいのは一般家庭も同じなんだから。クビになったり給料が激減したりした人が大勢いる訳でしょ。だったらその人たちへの補償もしてあげないと」
「事業者への補償は従業員への手当も含まれている」
「辞めた従業員には支払う義務はない。わたしが切羽詰まった経営者なら、きっとそう考える」
慎策は反論できない。個人に対して補償を出す案については閣内でも議論があり、とにかく該当者全員に一律支給すべしという性善説を採る派と仔細に吟味してから支給すべしという性悪説派に分かれたのだ。
「詰まるところはカネの問題か」
「政府の方から営業を控えてくれと要請したんだから、おカネで補償するよりしょうがない」
「国の金庫番は、ない袖は振れないと言っている」
「それ、お役所の回答。ない袖を何とかするのが政治じゃないの」
棘のないひと言が胸を刺した。
珠緒と話していて危うく加納慎策に戻りかけていた。自分は影武者ながら内閣総理大臣、真垣統一郎なのだ。誰かに決められたことをマニュアル通りに粛々と行うだけなら責任者は不要ではないか。
「肝に銘じる」
「銘じるだけじゃダメ。慎ちゃんには大勢の人の不安を取り除く力が与えられているんだから。折角、与えられた力を行使しないのは与えてくれた人たちに対する裏切りだよ」
権力を持っているのではなく、与えられたという言い方で珠緒に惚れ直した。
「やっぱりファースト・レディが傍にいてくれないとな」
「保留」
珠緒はけらけら笑いながら、プリモ・ピアットのリゾットに手を付けた。
官邸に帰着したのは午後十時を過ぎていた。腹もくちくなり、そろそろ睡魔が襲い掛かってきた頃だった。
ところが留守を任せていた秘書官が冷徹な言葉を投げて寄越した。
「面会希望の方がお待ちです」
「午後七時以降はスケジュールを空けておくように伝えているはずですが」
「申し訳ありません。急なご訪問でしたので」
「急な訪問だったら、尚更断るべきでしょう」
「何しろ参与でいらっしゃいましたから」
訪問者の名前を聞いて、まさかと思った。
急いで五階の総理応接室に向かう。同じフロアには官房長官室が隣接しているが、円谷は理財局からのヒヤリングで外出中のはずだった。
ドアを開けると懐かしい顔がそこにあった。
「風間」
「よう、内閣総理大臣殿」
久しぶりに見る風間歴彦は、相も変わらぬ蓬髪と無精髭だった。
風間は慎策の大学の同期で、以前は城都大政治経済学部の准教授として教鞭を振るっていた。経済に疎い慎策のたっての頼みで参与として迎えられたが、彼の口から総理の替え玉の件が露見するのを恐れた樽見が強引に渡英させてしまったのだ。
挨拶も忘れて慎策は駆け寄る。
「どうしたんだ、いきなり」
「どうしたもこうしたもあるか。俺をイギリスに飛ばしたのはそっちだろうが」
「あれは樽見さんの一存でやったことで、俺には事後報告だった。でも、どうして今頃」
「もう忘れたのかニワトリ頭。ケンブリッジ大学での客員教授は三年の約束だったろう。任期が終わってもすぐ帰国できなかったのは、三月にイギリスがロックダウンに踏み切ったからだ。お蔭で手続きが一か月近く遅れた」
「よく帰国できたな。現在もイギリスじゃあ出入国が厳しく制限されているはずだぞ」
「まだ参与の身分が残っていたから利用した」
風間は忌々しそうに吐き捨てる。
「樽見さんは残念だった」
「ああ」
「遺影はどこかに掲げているのか」
「執務室にある」
「後で手を合わさせろ」
「帰国はそれが目的か」
「第一の目的はお前に文句を言うためだ」
風間はこちらに歩み寄り、互いの鼻がくっつきそうになるほど顔を近づけた。
「早々にフェイドアウトしろとアドバイスしたのに、未だに総理の椅子にしがみつきやがって。権力を振りかざす味を覚えたのか」
「違う。途中退場できなくなったんだ」
あの頃、ちょうど在アルジェリア日本大使館占拠事件が発生し、引き際を失った側面が確かにある。だが、引き際を失くした本来の理由は慎策の心に根付いた責任感ゆえであることの方が大きかった。だが、それを風間に説明するのは気恥ずかしく、慎策は多くを語れない。
「樽見さんの件も大使館突入の件もケンブリッジで聞いた。その時点で途中退場できなかったというのは、まあ理解してやらんこともない。だが以降もお前は真垣総理の真似を続け、挙句の果てに新型コロナウイルスが感染拡大中の今になっても官邸でふんぞり返っている。いったい、どういう了見だ。まさかブレーンもなしにこの難局をお前一人で乗り切るつもりだったのか」
「風間。ひょっとして俺を助けに来てくれたのか」
「イギリスは大変だった」
風間はこちらの質問には答えずに話を続ける。
「当初、ただのインフルエンザだと高を括っていた政府は完全に出遅れた。緊急対応の策が何もないにもかかわらず、ロックダウンは荒唐無稽な発想だと決めつけていた。感染者が爆発的に増えて医療危機が叫ばれても、思い切った対策を打ち出そうとしなかった。感染の速さについて、政府の予測が大きく間違っていたからだ。三月半ばになって、ようやく政府は本腰を入れたが、その時には官邸スタッフが次々に感染し、とうとうジョンソン首相までが罹患してICU(集中治療室)送りになった。国の最高指導者が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたんだ。イギリスはな、とんでもない恐怖に陥ったのさ。日本はどうだった」
手をこまねいているうちに感染者が拡大したのは日本も同様だったので、慎策は黙っているより他にない。
「俺が知る限り、現内閣に感染症の専門家はいないし、生産活動の縮小がサプライチェーンにどう影響するかを的確に予想して対策を打てる閣僚はいない」
「悪いが、サプライチェーンというのは何だ」
「お前、サプライチェーンも知らんのか。商品や製品が消費者の手元に届くまでの調達、製造、在庫管理、配送、販売、消費といった一連の流れのことだ。政府が事業者に時短や休業を要請するのなら、そこまで予想しなきゃ解除後に上手く対応できなくなる」
「緊急事態宣言を発出して間もないが、未だ解除後のことはシミュレーションしか聞いていない」
「シミュレーションはどこ発なんだ」
「総務省統計局」
「統計局だけか」
「それで充分じゃないのか」
「信頼できる民間のシンクタンクにも声を掛けておけ。政府内部だけの予測に頼るのは危険だ。イギリスはそれでしくじった」
どうやら参与として復帰してくれる心づもりらしい。取りあえず慎策は彼の指示を残らず記憶することに決めた。
「何か財源を発掘するアイデアがあるみたいだな」
「あるにはあるが、内閣の反発を買うのは必至だ。閣僚はお前の思い通りに動いてくれているか」
「なかなか難しい」
慎策は派閥の弊害も手伝い、岡部や免崎のように扱いづらい閣僚がいる旨を伝える。案の定、風間は厳しい思案顔になる。
「選りに選って財務大臣とコロナ対策大臣かよ。この時期、一番奔走しなきゃならない人間が地蔵様を決め込んでいたらどうしようもないぞ」
腕組みをして数十秒、沈思黙考していた風間が告げた言葉は慎策を大いに驚かせるものだった。
「内閣改造をやってみろ」
内閣改造について慎策が持っているのは最低限の知識ととっつきにくさだった。
総理大臣は在任中、常に任免権を行使することができる。内閣改造はその最たるものだが、あまり頻繁に行うと総理の人選能力に疑問が持たれるので歴代の総理も控え目な改造に留まっている。それでも特段の理由で大臣を交替させたい場合は当該大臣を罷免し、新たな大臣を任命するようにしている。政治経済学部の准教授がそうした事情を知らないはずがない。
ところが風間は敢えて内閣改造をしろと提案する。
「財務大臣とコロナ対策大臣二人だけを更迭したら、それぞれの派閥から抵抗があるだろう。だが全取り換えの内閣改造なら文句はつけられない。幸か不幸か真垣内閣は発足以来一度も改造していないから、リーダーシップの棄損は考慮しなくていい。コロナ禍に対応するための布陣とでも表明しておけば世間やマスコミも納得せざるを得ない」
災い転じて福となす。確かにこの緊急時であれば組閣し直しても道理が通る。
「派閥間の調整は必要だろうが、一番に気を遣うのは官房長官人事だ。内閣のナンバー2だから、誰を任命するかで各派閥の反応も変わってくる」
「お前がやればいいじゃないか」
「馬鹿言うな。俺は絶対やらん」
風間は言下に否定する。
「以前も民間人が特命担当大臣に登用された例があるが、あれは専門分野が評価されての話だ。一介の准教授である俺が官房長官に指名されたら、その日から倒閣運動が始まるぞ。そもそも俺には人望がないから、そんな重責は務まらん。もっと真面目に考えろ」
「俺なりに真面目に提案したつもりだったが」
「よおく考えてみろ。当選回数そこそこのベテランで党内に睨みが利き、他の議員たちの長短を知悉し、お前が最も信頼を置ける議員はいないのか」
慎策は思い浮かんだ議員たちにそれぞれ条件を当て嵌めていく。すると最終的に彼が残った。
「一人だけいる」
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
関連書籍