泣きたいときに泣く大切さ――「不安を味方にして生きる」清水研 #11 [悲しみという感情の役割①]
不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
*第1回からお読みになる方はこちらです。
#11 悲しみという感情の役割①
第9回、第10回に登場された室田隆さん(仮名・38歳男性)は、がん告知後に激しい怒りの感情が起こったといいます。室田さんは進行したすい臓がんに罹患していることを1か月前に主治医から告げられ、精神的に大変混乱されていました。
多くの人は、「自分は真面目に生きているのだから、相応に報われるべきだ」と思いながら生きています。室田さんも無意識のうちにそう期待していました。
「自分は報われる」という期待には、「健康で長生きする」ことも含まれていたのでしょう。38歳ですい臓がんになるという事実はその期待に反したことから、「なんで自分がこんな目にあわなければならないんだ」という怒りが湧いたのです。
室田さんは怒りの感情と向き合い、徐々にそれまで持っていた期待を手放しました。そして「人生は理不尽だ」という現実を認めて、怒りはだんだんやわらいでいきました。
怒りの感情が収まったあと、今度はどのような感情が起こったでしょうか? それは、「悲しみ」でした。室田さんは起業し、大変な状況を乗り越えてようやく事業が軌道に乗ったところでした。海外の大企業との共同プロジェクトも決まって、今までの努力が実を結びつつあり、5年後にはその果実を収穫できる未来がやってくると確信していました。その未来を見ることができない。そう思うと、涙があふれてきたのです。
その後しばらく、室田さんは私の外来に来るたびに自分の状況を嘆き悲しむようになりました。最初は悲しみの感情が強く、話しているあいだ、ずっと涙を流していました。けれど1か月ほどかけて、徐々に冷静になっていきました。そしてある日、「今の状況は自分にとってとても厳しいものですが、嘆いていても現実は変わらない。残された時間をどう生きるか。これからはそのことを考えていきたいと思っています」とおっしゃったのです。
悲しみはこころの傷を癒やす
ところで、みなさんは悲しみという感情の役割について考えたことがあるでしょうか?どんなときに人は悲しむのでしょうか?
家族や友人など身近な人が亡くなったら誰もが悲しみに暮れるでしょう。受験に失敗したと思ったとき、一生懸命取り組んだプロジェクトがうまくいかなかったとき、愛する人に別れを告げられたときなど、人生には悲しさを感じることが多くあります。
悲しみの感情が現れるときに共通するのは、「大切なものを失った」という感覚があることで、これを専門用語で喪失体験といいます。喪失体験との向き合い方は第9回と第10回でお伝えしましたので、ご参考にしてください。
室田さんの場合は、「手に入るはずの輝かしい未来を失った」と感じたので、悲しみの感情が湧いたのです。
悲しみについて、皆様にぜひお伝えしたい事実があります。前回取り上げた「怒り」と同様に、「悲しみ」という感情には、こころの傷を癒やす力があるということです。きちんと悲しむことで、人はその出来事を受け止め、受け入れるプロセスを進むことができるのです。悲しむことの効用については、大切な人と死別した遺族の苦しみに対するカウンセリングなどの分野で、科学的にも実証されています。
一般論では、人生においてもっとも大きな喪失は自分にとって大切な人との死別だと言われています。人生のあらゆる部分を長年共有していたパートナーを失ったら、こころにぽっかり大きな穴が開いてしまったような痛みを感じるでしょう。今まで大切な人と共有してきた会話、食事、旅行……すべてがなくなってしまうわけですから。
死別に伴う苦しみが長引く場合に有効性が示されているカウンセリングがあります。それは、考えを切り替えて明るく振る舞おうとするのではなく、あえてそのことと向き合い、泣くなどして積極的に悲しむことです。その行動はエネルギーがいるものですが、ほかの方法に比べて、早くこころの回復をもたらすとわかっています[※]。
生理学的見地からは、悲しんで涙を流すことによって、張りつめていた気持ちが副交感神経優位のリラックスした状態に切り替わると言われています。私自身も、なんらかのきっかけで涙を流したあと、気持ちが軽くなる体験をしたことがあります。
世の中にはせつない映画を見たり朗読を聴いたりして意識的に涙を流すようにしている人もいるくらいですが、そこまでする必要はないと思います。ただ、悲しいのに泣くことを我慢したり、無理に明るく振る舞おうとしたりすることは、こころの回復のブレーキになります。感情に蓋をせず、泣きたいときは泣くことが大切なのです。
私のもとにカウンセリングを受けにくる方からしばしば、「気持ちを前向きにするにはどうしたらよいのでしょうか?」という質問をいただきます。そういうとき私は、「今の悲しい気持ちを十分大切にしてください。悲しみにはこころの傷を癒やす力があり、前を向けるようになるために必要なプロセスなのです」とお答えします。
そうすると、多くの方は驚くとともに、無理に気持ちを変えようとしなくていいこと、悲しいときは悲しんでいいと知り、ほっとするのです。
これを読まれている方のなかにも、悲しむことはよくないと思っている人がいるかもしれません。プラス思考が推奨される環境にいたのであれば、そう誤解するのも無理はないでしょう。私も子供のころ、泣くのは弱い人間がすることだと言われ、そう思い込んでいました。
悲しみは幸せの裏返し
私がカウンセリングを担当した原田洋子さん(仮名・58歳女性)は、とても家族を大切にされる方でした。根治することが難しいがんになったのですが、家族とすごす時間を延ばしたいと、化学療法を受けていました。ご本人の希望とは裏腹に、化学療法の効果はあまり認められず、がんは進行していきました。
主治医から化学療法の効果がなかったという結果を告げられるたびに、原田さんはカウンセリング中に大いに悲しみ、涙を流します。話を聞いている私もせつない気持ちになり、「つらいですね」と声をかけたら、原田さんの答えは意外なものでした。「つらくはないのです。ただ悲しいだけです」と。
原田さんは次のように言葉を続けました。「若いころからわかっていました。幸せな時間には必ず終わりがあると。人は必ず死ぬので、大切な人との別れはいつかやってきます。幸せを味わうぶん、悲しみがやってくることを理解していました。だから私のなかで悲しいという感情は幸せの裏返しで、ただ悲しいだけ。死が訪れるのが、予想していたよりあまりに早いですが」。私はそのとき、原田さんから人生の真実のひとつを教えてもらったような気持ちになりました。
仏教に「愛別離苦」という言葉があります。愛する人やペット、そのほか愛着を持ったものとの別れは必ず来るということです。愛する気持ちや、失いたくないという想いが大きければ、いざ別れの日が来たときに悲しみが大きくなります。
私の理解では、仏教は愛する対象を失いたくないという執着を手放すことを説いています。永遠のものはないと認識することが大切だと。
けれど、私は別の考え方もできるのではないかと思います。執着というと、負の意味を感じる表現ですが、そうではなく、それだけ自分には愛してやまない人が存在する(した)と考えるのです。原田さんの言葉のように悲しみは幸せの裏返しで、それだけ愛していたからこそ悲しみが深いということだと。そして、悲しみをしっかりと味わうのです。
私はカウンセリングのとき、大切な人との別れがつらいと嘆いている方に対して、「それは愛する人が存在するからこそ生じる苦しみという見方もできるのではないでしょうか。幸せな人生をすごしているという証しなのです」と伝えます。
悲しみの感情をただ苦しいものとしてとらえるのではなく、「ああ、私はとても幸せだったから、その裏返しでこれほどまでに悲しいんだ」と視野を広げることができると、その感情を少し異なる視点からとらえられるかもしれません。
私の言葉の受け取り方も人によってさまざまで、ピンとこない方もいれば、今ある幸せに目を向ける方もいます。また、悲しみの真っただ中だと、その人の気持ちを否定するように伝わることもあるので、相手がこの言葉を受け止める準備があるかを考えてお伝えするようにしています。
原田さんはまた、次のことも教えてくれました。原田さんは病気になるまえから、幸せを感じると、いずれ悲しみがやってくることを覚悟していたそうです。これは、日本に古来ある無常観(人の命やこの世界の物事はすべて移り変わっていく、諸行無常であるとする)にも通じる考えでしょう。
無常観を持つことは、人生の真実を知る意味合いもあり、人生の経験を積むなかで自然と無常観が芽生えることがあります。それは、次のようなプロセスです。
若いころ、右肩上がりに成長する実感があると、自分は努力すればなんでもできるという万能感を持つことがあります。しかし中年期を過ぎると、さまざまな能力がピークを越えたと実感するとともに大切な人との別れなどを経験し、万能感は打ち砕かれ、人間には限界があると思い知ります。
万能感は快感をもたらすかもしれませんし、新しいものを生み出す原動力にもなるでしょう。それを手放すのは寂しさが伴うかもしれません。それでも、人間に限界があることは真実であり、それを自覚すると人生が味わい深いものになります。
いずれこの幸せな時間は失われることをこころの片隅に意識しておくと、出会いや体験を十分味わい、大切にしようという気持ちが生まれるのです。
今受け入れがたい現実と向き合っている方には届かないかもしれませんが、私は負の感情について次のように考えます。
ポジティブな感情のひとつである「喜び」は、「このままでよい」ことを伝えるメッセージと言われています。けれど、楽しく喜ばしいだけの人生は、薄っぺらく味気ないかもしれません。
今まで書いてきたように、不安、怒り、悲しみなど負の感情にも大切な役割があり、これらがあってこそ人生に深みが出るのではないでしょうか。料理にたとえれば、苦み、渋みといったスパイスが大切なアクセントになるように、人生のスパイスもいろいろあってこそ奥行が出るのです。
ここまで、悲しみという感情が持つ役割についてお話ししてきました。次回は悲しみの先に待っているもの、喪失体験後のこころの回復ステップをお伝えしましょう。
[※]Shear, Katherine & Frank, Ellen & R Houck, Patricia & F Reynolds 3rd, Charles, ‘Treatment of complicated grief: a randomized controlled trial’, JAMA, 2005 Jun, 1;293(21):2601-8.doi: 10.1001/jama.293.21.2601.
清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。