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エッセイ「日比谷で本を売っている。」 〔赤いスカートと緑のエプロン〕新井見枝香

日比谷で働く書店員のリアルな日常、日比谷の情景、そして、本の話(第4回)。 ※最初から読む方はこちらです。

 以前勤めていた書店では、制服を着て働いていた。ワイシャツだけはなぜかピンクと水色と黄色から選べたが、紺色のベストとスカートを貸与されれば、自分らしさを出す気にもならない。今日は何色のシャツを着ようかと悩んだところで、どのみち同じ色を着ている人はいるし、時には全員、店内が黄色で揃ってしまうこともある。シャツを第二ボタンまで開ければ、ただの「だらしない」人だし、ガーターベルトで網タイツを吊ったら「コスプレ」みたいだし、高校生の時みたいにスカートを短くしたら、納品作業で「パンツ丸見え」だ。そもそも伸縮性のない生地のスカートは、書店員仕事に向いていない。私とは感覚の合わない人が考えたのだろう。
 ところが、転職したいまの制服は、グリーンのエプロンだけであった。それも、わかりやすく「店員さん」なダサ色ではなく、落ち着いたモスグリーンで、どんな服にもマッチする。
 初めて訪れたとき、店長がその洒落たエプロンに、外国の子供みたいな、ざっくりとした毛糸の帽子を合わせていて、ここで働きたい、と確かに私は思ったのだった。
 しかし先日、その店長から服装を注意され、私は自分の感覚を疑うことになる。
 いくつかのルールはあるが、店の雰囲気を壊さないことが大事で、基本的に服装は自由だ。それは全員の共通認識としてあるから、注意を受けている人は、見たことがない。
 その日私は、黒いタートルネックのリブニットに、鋲とフリルと十字架のアップリケが付いた赤いタータンチェックのミニスカート、黒いタイツに黒い厚底ロングブーツを履いて家を出た。バックヤードでグリーンのエプロンを付けた時には「とても合う」とすら思った。だが、店の雰囲気には合っていないらしかった。確かにまわりを見れば、私のような格好をしている人はいない。
 そこで抱いたのは、不服でも不満でもなく、不安だった。私はまたいつか、間違えてしまうのではないか。こういう感覚のズレがあるから、校則や社則というのは、冗談みたいに具体的で、読むのもうんざりするような文章量になるのだろう。靴は黒い革靴でヒールは3センチ以下、スカートは膝下5センチより長いものであるべし、鋲などの危険な飾りは厳禁。このように細かく指定しないと、私のような非常識な人間は、枠からはみ出てしまうのだ。高校時代、金髪は駄目と言われてピンクや水色に染めたのはわざとだが、今回の服装に関しては、本当に、素(す)で間違えてしまった。自分が怖ろしい。
 たとえば今後、忘年会の幹事になって「あぶらっこい」ものというリクエストを受けたとする。それで、噛むと油がじゅわっと染み出る唐揚げが名物の居酒屋を予約したら、「あぶらっぽい」と嫌がられ、イタリアンでクリームパスタとか食べたかったのに、とガッカリされることがあるかもしれない。それらはテクスチャー用語と呼ばれ、「パリパリ」や「カリカリ」など、感覚的に使っているが、微妙な違いがあって曖昧である。そこに明確な共通認識があれば、いらぬ衝突を避けることができるだろう。
 テクスチャー用語を大まじめに研究し、論文にしたのが、食品の研究者である早川さんだ。衝突というより、自身の研究を適切に行えるようにするには、まずそれが必要不可欠と考えたのである。
 『奇跡の論文図鑑 ありえないネタを、クリエイティブに!』は、そういった「そんなことを、おおまじめに?」というような論文を集め、研究者の“知の結晶”だけでなく、苦労や裏話まで読める一冊だ。
 あぶらを感じるときの食感表現は26通りもあるらしい。だからどうした、と思うかもしれないが、研究し論文にまとめることは、食の環境を整えることにつながっていく。猫に思い出があるかどうかの論文では、猫と人との関係性を向上させることにつながり、ラーメンの残り汁でエンジンが動くかの論文では、持続可能な社会の実現につながる。
 昔ほど、職場や学校における身だしなみについて厳しくなくなってきたからこそ、その服装がアリかナシかの基準を調査し、論文にしたらどうか。年代や性別によっても感覚が異なるだろうし、渋谷店だったらアリだけど日比谷店だったらナシ、もあるだろう。論文は問いを立てるところから始まる。尊敬する作家で工学博士の森博嗣さんは、著書『道なき未知』で、《写真を撮るという仕事は、実は写真を撮る動作を起こす以前にすべて終っているのである。》と綴っている。何をどう写すかを決めるのが、最大の仕事なのだ。つまり私は「職場の服装のアリナシ」という論文におけるほとんどの仕事をしたので、あとは誰か、アンケートを取ったり、資料をあたったりして、立派な論文にしてくれると助かる。その、一見ありえないテーマの論文が思わぬことにつながり、何かに役立ってくれることもあるだろう。少なくとも、私の服装選びに役立つことは間違いない。

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プロフィール

新井見枝香(あらい・みえか)
書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。

*新井見枝香さんのTwitterはこちら



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