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エッセイ「日比谷で本を売っている。」第1回 〔土の香りとレトルトのパスタソース〕 新井見枝香

日比谷で働く書店員のリアルな日常、日比谷の情景、そして、本の話。

 私は都内でひとり暮らしをする、39歳の会社員だ。こうして物を書くこともあるが、基本的には、書店に立って本を売っている。
 3年前に台東区の実家を出て、ひとり暮らしを始めた。縁もゆかりもない東久留米を選んだのは、単に不動産屋に勧められたからである。その頃、新しい書店のオープンに携わっていて、ハムスターのカラカラみたいに、働いても働いても、終わりがなかった。毎日終電で帰っては、這うように出勤する日々。なぜそんな時に家を出ようなどと思い立ったのだろう。回転を止められないなら、いっそ吹っ飛ばされてしまいたかったのかもしれない。

 私の通っていた小学校は、校庭にクッション素材が敷き詰められていて、メダカが死んでも、ゴミ箱に捨てるしかなかった。中学と高校には校庭すらなく、土とは無縁の人生だった。そんな超都会っ子の私が、土の香りを毎日嗅ぐことになる。アパートの前が畑だったのだ。近所にあるのはコンビニではなく、グーグルマップには表示されない、野菜の無人販売所。葉をフサフサさせた泥大根や、半分に切っていない丸ごとの白菜が、道端の台に放置されている。書店ですら、私服警備員が巡回しているこのご時世に、ぽつんと木製の箱が置いてあるだけだ。穴に百円玉ひとつ落とせば、どれでもひとつ野菜を持ち帰ることができるらしい。泥のついたキャベツを抱いて帰り、鍋で茹でたら毛虫が浮いた。朝起きて部屋のドアを開けると、必ずカメムシがいて、帰ってくると、ドアに蛾が張り付いていた。眠れない夜は黒目川沿いを歩き、せせらぎに耳を澄ませた。
 物珍しいから、こんなにもワクワクするのだろうか。しかし、1年経っても2年経っても、駅前のスーパーにはほとんど足が向かず、無人販売所で季節の野菜を買った。どれも丸ごとだから、食べきるために工夫を凝らし、みるみる料理が上手くなる。そうして自分の意識が生活に向くと、仕事がつらくなくなっていた。らっきょうを一粒ずつ剥いて塩漬けするのに忙しいから、残業している場合ではない。よく考えたら、残業をしろなんて、誰にも言われていないのだった。季節はぐんぐん移ろうから、山椒の実をバラバラにするのも、せりの根に絡まった泥を歯ブラシで落とすのも、今しかできないのである。

 仕事こそが人生と思って、しゃかりきに働いてきた。しかし、なんか違う気がする。

 《終電間近の満員電車に揺られ、窓に映る疲れきった自分の顔に驚き、家に帰ってレトルトソースのパスタを食べるような毎日。これでいいのだろうか。いや、なんか違う気がする》

 まるで引っ越す直前の自分が書いたみたいだが、これはテレビ番組「やまと尼寺精進日記」のディレクターが、同名書籍の「はじめに」でつづっていた言葉である。
 住職と副住職と、お手伝いのまっちゃんとで暮らす奈良の尼寺へ、4年間通って制作された同番組は、大きな反響を呼んだらしい。番組制作班による本が、2冊も出版されたのだから、よっぽどだ。家にテレビがない私は番組を見ていないが、3人の笑顔と、なんでもない日のエピソードから伝わるキャラクターと、四季折々の自然や食事の魅力に、紙の上ですっかり魅了されてしまった。

 《そのときご住職は38歳。縁もゆかりもないこの山奥のお寺に一人で……》

 ほぼ今の私と同年齢の女性が、何かに導かれるようにして、自分の居場所を決めていた。東久留米のアパートに観音様はいないし、最寄りのバス停から急勾配を50分も登らなければならないほど、不便な場所でもない。ひとり暮らしは、自分以外の誰かを救う行為でもない。それでも、私にとっては特別な場所だった。
 日比谷にある書店に転職して、都心に引っ越した今、また少しずつ、パスタにレトルトソースをかける生活に戻りつつある。そんなタイミングでこの本を手に取ったのは、何かに導かれたとしか思えない。

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プロフィール

新井見枝香(あらい・みえか)
書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。

*新井見枝香さんのTwitterはこちら