エッセイ「日比谷で本を売っている。」 〔「#ジブン追い越す」と〇〇嫌い〕新井見枝香
日比谷で働く書店員のリアルな日常、日比谷の情景、そして、本の話(第3回)。 ※最初から読む方はこちらです。
「オイコス」というヨーグルトをご存じだろうか。最近どこのスーパーやコンビニでも並んでいる人気商品だ。タンパク質が摂れて、脂肪ゼロ、1カップ100Kcal未満のカラダにうれしいヨーグルトである。しかもコクがあって美味しい。つい回し者みたいに絶賛してしまったが、インドア派かつ運動不足なイメージの書店員には、どれだけ待っても、メーカーからオイコス1年分が送られてくることはないだろう。
しかし、それでいいのだ。日比谷のセブンイレブンで、毎日「オイコス」をさりげなく買う私がかっこいいのだから。「こう見えてこの女性、たんぱく質を意識的に摂取しようとしている。きっと、日常的に運動をしているのだろう」。レジの人は私のことを、そう見直すはずだ。ホイップクリームがたっぷりのったプリンを食べる女性がかわいい時代から、スタイリッシュなデザインの「オイコス」を選ぶ女性がイケてる、という時代に変わりつつある、と私は思うのだ。なんてったって、公式インスタグラムがすごい。「#ジブン追い越す」というハッシュタグが必ず付いている。そういう意味だったのか、オイコス!
現在、自宅の冷蔵庫には、近所のスーパーで買ったストロベリー味が1つ、冷えている。これをいつ食べるかが問題だ。通っているホットヨガスタジオが、新型コロナウイルスの影響で、営業を停止してしまったのである。家でゴロゴロしながらたんぱく質を摂るのは、どうも気が引ける。行き場をなくした「オイコス」に賞味期限が迫る。
ホットヨガに行かないと足が浮腫(むく)むので、両国にある温浴施設「江戸遊」でスチームサウナに入り、併設の「湯ワーク」というコワーキングスペースで、ソファに寝っ転がりながらこれを書いている。冷えた「オイコス」が食べたい。しかし残念ながら、ここは飲食物の持ち込みができない。小腹がすいたら、飲食スペースで親子丼や鴨南蛮を食べるのだ。そして今度はジェットバスに浸かり、またコワーキングスペースでゴロゴロしたらいよいよ帰りたくなくなって、明日はここから出勤しようか、などと画策している。そうして私の「オイコス」は、ますますデッドラインに近付いていく。私はいつタンパク質を摂ればいいのだ。そもそも、ジェットバスに浸かって尻や腹をブルブルさせることを運動とは呼ばない。
フィジカルトレーナーの中野ジェームズ修一さん曰く、ホットヨガも運動ではないそうだ。運動嫌いの人たちとの対話を収録した『中野ジェームズ修一×運動嫌い ~わかっちゃいるけど、できません、続きません。』では、なるべく意識してタンパク質をとって欲しい、と再三繰り返していた。1日に必要な量は多くない。体重1㎏に対して、たった1グラム。過剰にとると体脂肪になるらしいから、食べてゴロゴロするだけでは、全く意味がない。
編集者や地方都市の営業マン、看護師や農家など、様々な業界の運動嫌いと会話をする様子は、なかなかに平行線だった。中野さんは運動が好きである。なおかつ、そういう仕事をされている。しかし、ただでさえ忙しく体を動かしている繁忙期の農家の人には、とてもじゃないが運動をしようなどと考える余裕はない。
「時間がない」「面倒くさい」「疲れている」「やりたいとは思っている」
あれ、これどこかで聞いたことがあるセリフだな。読書と同じだ。本を読まない人は、たいていこういうことを言う。「時間があれば読みたい本はある」「読み始めたら眠くなる」「テレビばかりじゃいけないとは思っている」。
そう言われても、ちっとも共感できない。それは、私が本を読むことが好きであり、そういう仕事をしているからだ。なんだ、私は読書界の新井ジェームズ見枝香だったのか。
中野さんは「地道に運動を続けるなんて無理」という人に対して、こうしたらどうですか、これだけでも大分違いますよ、と根気よく提案し続ける。そこが私に足りないところだ。読書人口を増やそう、もっと楽しさを知ってもらおう。そういう気持ちで、地道に活動を続けていけば、いずれ『新井見枝香×読書嫌い』という本が書けるかもしれない。
先日、某メディアのインタビューを受けた。本や書店に詳しくないが、直前に私のエッセイを読んだという記者の方が得意気に取り出したのは、『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』。確かにそれは、私の最新刊である。だが、あえて本や書店のことを書かないというコンセプトの超脱力エッセイ集なのである。それじゃ何の参考にもなりゃしない。案の定、彼は私の書店員としての取り組みや姿勢を全くご存じなく、途中からもう「その辺はウィキペディアに詳しく書いてありますんで」と放り投げてしまった。しかし、それでは駄目なのだ。中野さんのように、丁寧に根気強く伝えなければ。わかっていて当たり前、好きで当然という考えを捨てないと、いつまでも平行線になってしまう。
中野さんがいくら運動の大切さを伝えても、筋金入りの運動嫌いが、翌日から毎日タンパク質を摂って筋トレをするようになるとは思えない。だが、とりあえずはそれでもいいのだ。中野さんは運動が好きだが、運動が嫌いな人のことを嫌いなわけではない。運動嫌いの人のために、運動の大切さを啓蒙する本に見えて、実は中野さんご本人がいちばん楽しく、運動に対する様々な意見をインプットしているということに気付く。するともう、この本に好感しか覚えないのである。運動が好きな人って、ずいぶん楽しそうだなぁ。冷蔵庫の「オイコス」を食べて、運動をしたくなってきた。
プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)
書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。