エッセイ「日比谷で本を売っている。」 〔ビュッフェと地球〕新井見枝香
日比谷で働く書店員のリアルな日常、日比谷の情景、そして、本の話(第5回)。※最初から読む方はこちらです。
私は「ビュッフェ」が好きだ。いろいろなものをちょっとずつ食べるという行為に、お腹を満たすこととは別の幸福を感じる。ひとり暮らしで自炊するようになってからは、そこにありがたみも加わった。ひじきと、切り干し大根と、おからと、春雨サラダと、ポテトサラダと、おひたしと、だし巻き玉子と、肉じゃがを、一度の食事で一口ずつ食べられるなんて、夢のようではないか!
職場近くの某居酒屋は、ランチで提供していた定食を、和食ビュッフェに切り替えた。私が三日にあげず通い始めた頃は、まだ集客に苦戦しているようだったが、先に並べた和総菜に加え、揚げ物や焼き魚も並んで1000円である。当然のように口コミが広がった。お客が増えれば、唐揚げは常に揚げたてだし、焼き魚もジューシーだ。ますますビュッフェ台は魅力を増していく。満席で座れない日も珍しくなくなった。しかし、吹く風が変われば、あっという間に閑古鳥が鳴く。
新型コロナウイルス対策として、政府から「ビュッフェ形式での会食自粛」が発表されたことを覚えているだろうか。今思えば、なんて平和な頃だったのだろう。どうもビュッフェは良くないらしい、という空気が生まれ、その居酒屋はそれから間もなく、小さな貼り紙を残して、ランチどころか、お店の営業そのものをやめてしまった。
なるべく安い料金で、最大限美味しいものを、できれば飽きないようにと献立を変えて、「ありがとうございました、またお願いします!」と客を見送った人たちに、何か落ち度はあっただろうか。定食をビュッフェに切り替えたのが間違いだったのか。しかしある時点では、それは成功していたのだ。そもそも、居酒屋の成功とは何だろう。そんなことを考えているうちに、事態は深刻化し、休業を余儀なくされるのは、ビュッフェだけではなくなった。このままでは潰れてしまう、と多くの飲食店が悲鳴を上げている。その理由は簡単だ。お客が食べに行かなかったからである。そして、そのことを誰も責められない。
だが、世界が元に戻れば、また飲食店は必要とされ、営業を自粛していた書店やホットヨガスタジオにも、人が集まってくる。これにて一件落着だ。だから今は「早く世界が元に戻りますように」と願うしかない。
実際、私の思考は、しばらくそこで止まっていた。どんなに願ってもどうにもならないことなんて今までに死ぬほどあったのだが、考えても答えが見つからないと、お月様を見上げて手を組みたくなるのだ。
だが『地球に住めなくなる日』を読んで、目が覚めた。お祈りごっこの時間はもう終わりだ。仕事もできず、遊びにも行けないこの状況を、ただ待つだけの無駄な時間にはしたくない。
ウイルスで当たり前の日常を失った人間のパニックと、「気候崩壊」を食い止められなかった未来に想定されるそれは、規模は違えど、同種のものに思えた。常識など簡単に覆ることを思い知った今なら、「最悪の事態」が全く大げさな話ではないと分かる。思考を掘り下げるには絶好のタイミングだ。世界が元に戻れば、またそれが永遠に続くと思い込んでしまうのだろうから。
地球を擬人化せず、人類を美化しない本に、情けや美談が入り込む余地はない。何億何十億の人が命を失うことについて、納得できる落としどころが用意されているわけでもない。実際、そんなものはないのだろう。
ただ、地球規模という壮大な「絶望的真実」を突きつけられた後でも、あのビュッフェを提供していた居酒屋が試行錯誤したことを、取るに足らないことだとは思わなかった。「どうか繁盛しますように」と願っただけでは、一時とて満席になることはなかっただろう。
よりよく生きたい人間が、このままでは「地球に住めなくなる」という危機感を持った上で、なおもよりよく生きていくことを目指して、この本は書かれたのだと私は思うのだ。あの「グレタさん」が、自ら行動することで、それを示したのと同じように。
願うだけではなく、考えて、行動しなければ。
プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)
書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
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