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mustの先にあるもの――「不安を味方にして生きる」清水研 #17 [中年期に生き方が変わる理由①]

不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
第1回からお読みになる方はこちらです



#17 中年期に生き方が変わる理由①

 今回は、人生の中盤を迎えると、なぜmustを手放すようになるのか。あるいはmustを手放す必要性が生じるのかについてお話ししたいと思います。
 理由のひとつは、mustに縛られた生き方を続けるにはエネルギーが必要で、中年期になるとそのエネルギーが枯渇して苦しくなるからです。けれど、もっと大きな理由があります。「死と向き合う」ことが、世界観の変化をもたらすのです。

 あらかじめお断りしますが、これからお伝えするのは、現在大きな病気を持っていないであろう50代の私が向き合う「死」についてです。
 いまがんや大きな病気で闘病中の方や老年期の方からすれば、私などまだ「死」との向き合い方は経験が浅いでしょう。それでも誰かに何か伝わることもあると期待して、話を進めます。

人生前半の目標

 第15回で私自身の生い立ちについて書きましたが、もう少し自分の話を続けさせてください。
 私の両親は厳しく、ほめられるよりもだめ出しされる機会のほうが多くありました。その両親のもと、「自分はなまけ者だから、気を抜くとだめになる。だからがんばらねばならない」という強いmustの潜在意識が、子供の頃からできあがったのです。
 これに加えて、私にはもうひとつ強いmustがありました。父親から「社会に役立つような大きな仕事をしなければいけない」と、事あるごとに言われており、その意識に縛られていたのです。

 ふたつのmustを合わせると、「本来なまけ者の自分は努力して、社会に貢献する大きな仕事をしなければならない」ことになります。大人になってからの将来にはそのようにとてつもなく高いハードルが待ちうけていて、それを超えなければならない感覚がありました。
 いま思えば、父自身も強いmustに縛られていて、苦しかったのではないかと想像します。どういう経緯でそうなったかは知りませんが、父親が生まれて間もなく祖母が亡くなったそうです。母親がいない幼少期を生きた父自身も、あるがままの自分を認めてもらうことができなかったのかもしれません。そこには、さまざまな苦労があったのでしょう。

 私の父は弁護士で、若い頃に公害事件の弁護団に参加していたのを誇りにしていました。その後も父なりに努力しながら、「社会に役立つような大きな仕事をしなければならない」というmustと闘いながら、生きていたのでしょう。もしかしたら、ずっと自分自身に満足できていなかったのかもしれません。
 父親が40代の頃、「人生まだまだ折り返し地点、これからがんばるぞ」と、晩酌をしながら独り言のように話していました。いま思えば、あれは父親にとっていわゆるミドルエイジ・クライシス(中年の危機)だったのでしょう。必死に自分を奮い立たせようとしていたのと、その気持ちがいまはわかるような気がします。一方で、そんな父親のmustが、私に受け継がれてしまったのです。

 強いmustに縛られ、「将来どうすれば、社会に役立つような大きな仕事ができるのだろう」との疑問が、子供の頃から潜在意識にありました。中学生ぐらいまでは、「そのうち考えればいいさ」と問題を先送りできていましたが、高校生になると最初の危機を迎えました。大学への進学は職業選択にもつながる側面があり、その問題と真剣に向き合わなければならなくなったのです。
 悩んだ末に出した答えは、精神科医になるというものでした。仕事の内容を理解していたわけではありませんが、当時生きづらさを感じていたこともあり、こころの苦しみをやわらげる医師になれば、自分の抱えている悩みの元もわかるのではないかと考えたからです。
 また、自分と同じように生きづらさを抱えている人を助けられるなら、やりがいのある仕事だとも感じました。精神科医は「社会に役立つような大きな仕事」ではない気もしましたが、おそるおそる父親に話したところ、「まあ、いいじゃないか」と医学部を目指すことを許してもらいました。

 その後、実際に精神科医になったわけですが、簡単には悩みの元はわからず、苦しいままでした。「社会に役立つような大きな仕事をしなければならない」というmustに依然として縛られていたのでしょう。
 31歳のとき、いろいろなめぐりあわせもあり、「がん患者および家族の苦しみを軽減する」という社会的な使命を持つ組織に所属することになりました。その使命の正しさに疑いの余地はなく、組織の一員として邁進すれば、ようやく父親の期待にこたえ、自分を認められるのではないかと思ったのです。
 そして、働き方改革のはるか前ですが、一時期は労働時間外や週末も関係なくほとんどの時間を仕事に捧げる生活を送りました。周囲の昭和世代の人たちからすればまだまだ甘いと映っていたかもしれませんが、私としてはそれまでにはなかったほどの努力をしたのです。
 社会的な使命のために貢献していることに対して、たとえつかの間でもmustの自分が「まあまあ、がんばっているじゃないか」と、そのときの自分を認めてくれるときもありました。

価値観の転換

 そのようにmustに縛られてなんとかがんばっていた自分も、40歳を超えると、生き方に根本的な疑問を感じるようになりました。
 心身ともにエネルギーが落ちて限界や衰えを実感し、「いままでのようにはがんばれない、このような仕事の仕方を続けたら破綻してしまう」と思うようになったのです。どうあがいても、自分のmustを満足させるのは不可能でした。私にもミドルエイジ・クライシスがやってきたのです。
 それ以降はとても苦しくなりましたが、さいわい私はその状態が袋小路ではないと、こころのどこかでわかっていました。自分が出会ったがん患者さんたちが、その先の道があることを教えてくれていたからです。
 中年期になって心身の衰えを実感するなかで、それまで見て見ぬふりをしていた真実に、はっきり気づきました。それは、がんなど大きな病気を経験した多くの方がより鮮明に意識しているであろう、「人は必ず老い、いつ病気になるかわからない存在であり、そしてどこかで必ず死を迎える」ということです。

 その気づきを得てから、自分と世界に対する見え方が大きく変わりました。自分自身が、あるいは人間ひとりひとりが、あるいは自分が影響を与えようと思った社会が、とてもはかないものに思えました。
 それまでは、「社会に役立つような大きな仕事をしている人」は、とてつもなく大きな存在に感じました。けれど、彼らも老いや病気、死という現実からは逃れられない。「自分にはかなわない」と尊敬して恐れてきた人もみなこの現実と向き合い、もがきながら同じ地平を生きているのだと、等身大の存在に思えるようになったのです。

 『平家物語』の冒頭に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」という有名な一節があります。現代に生きる自分にも、「あらゆる現象は絶えず変化し、この世は必ず終わりが来る」というこの節の意味がこころに響くようになったのです。
 価値観の転換がどうして起きるのか説明するのは難しいですが、私にとって最近の印象深いエピソードを通して次回お伝えしたいと思います。


第16回を読む 第18回に続く

清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。

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