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「日記の本番」7月 くどうれいん

小説、エッセイ、短歌、俳句とさまざまな文芸ジャンルで活躍する作家、くどうれいんさん。くどうさんの7月の「日記の練習」をもとにしたエッセイ、「日記の本番」です。


染野太朗の『初恋』という歌集を読みながら身をよじる。ページを捲るほどにたまらない歌ばかりあるので、もう、たすけてくれよという気持ちで鉛筆が欲しいと思った。溺れそうなときのささやかな浮き輪のように、きつい上り坂に使う杖のように、この歌集を読むときはこれぞという短歌の頭にちいさく○とつけることで息をつこうと考えたのだ。いい短歌に頭がぽやんとする。ページを開いたまま歌集を伏せてペン立てを漁る。ボールペン、水性ペン、油性ペン、ボールペン、ボールペン、筆ペン、ボールペン……(取り返しのつかないペンしかないじゃん)と思って(え、わたし鉛筆のこと「取り返しのつくペン」だと思ってたの?)とびっくりした。うろたえつつ何度も探したがどこにもない。しぶしぶ、ピンク色の細い付箋を持って本の前に戻った。取り返しのつかないペンしか持っていないのか、わたし。下書きなし、ぶっつけ本番の人生。丁寧に修正することを知らず、間違えたらその都度黒く黒く塗りつぶすか、紙ごと捨ててしまうか。そういう人生なんじゃないかって気がしてきて暗くなる。暗くなっても染野太朗『初恋』がすごい。夢中で読む。

今月の関西出張では染野さんと二度会った。一度はサイン会に来てくれて、どうしてももっと話したくて仕方がなくなったから、無理を言って翌日のモーニングを共にした。わたしは染野さんのことが学生の時からとても好きで、もちろん短歌を好きなのだけれど、それ以上に染野さんというひとのことが好きだ。染野さんみたいなひとは染野さんしかいないなあ、といつも思う。憧れる。やけに奥に広い喫茶店。わたしがミックスジュースを頼むと、染野さんも同じものにした。細長いグラスで、真っ赤なさくらんぼがのっていた。染野さんと来た喫茶店でミックスジュースを頼み、そのてっぺんに真っ赤なさくらんぼがのっている。その事実がちょっとうそみたいで、うれしすぎて何度も椅子に座りなおした。染野さんとふたりでゆっくり話すのはこれがはじめてで、これが、こわいくらい本音をするすると話してしまった。大きな水晶玉みたいな人だと思った。いくらでもからだが透き通り、いくらでも短歌が書けそうな気持ちになった。そんなのは本当に、ここのところ、ぜんぜん来ていなかった気持ち。ありがたい。

岩手に帰って、取り返しのつかないボールペンで婚姻届にサインした。受理されるまでの間ふかふかの椅子にミドリと腰かけて「やー」「いやー」「ねー」「やー」などと意味のない言葉をむにゃむにゃ言い合った。ふたりともしたことのない種類の緊張をしているのだ。提出すると役所の窓口の職員は「お手続きは以上です」と言う。ぶっきらぼうで構わないから「おめでとう」くらい言ってくれるものかと思っていたので大変さみしかったけれど、これはきっと「おめでとう」と言ってはいけないマニュアルがあるのだろうと思って、(無愛想!)と思いそうな自分の脳を(守ることがたくさんあって大変なお仕事おつかれさまです)と思うように仕向けた。
戸籍の書類のために別の窓口に案内され、30分かかりますと言われた手続きは24分で終わって、たったそれだけの時間で、わたしはもう工藤ではない苗字で呼ばれるのだった。ゆっくりと用意を進めていたからすっかり心は決まっていたつもりだったのに、本当に苗字が変わったのだと思ったらとても取り返しのつかない状況であるような気がした。結婚はおめでたいことで、うれしいことで、そうなのかもしれない、それはわかっているんだけど。わたしはとにかく決断をするのが嫌いで、責任をとるのが嫌いで、できるだけ「なんかわかんないけどこうなっちゃいました」と言い続けていたいと思っているので、ものすごい決断をしたっぽいぞこれはという感じにしばらくぼーっとしていた。免許証の名義変更へ行くと県警には<“夜道はアブナイ”おばあちゃん物語>と書かれたチラシがあり、動画らしきものへ誘導されている。一度は開こうかと思ったが、すぐにどうでもよくなった。開いたところでその動画が<“夜道はアブナイ”おばあちゃん物語>というタイトルよりおもしろいことはないだろうと思ったのだ。開いたところでその動画がおもしろいわけがない、だから開かない。そういう感じで、もっとあっさり残酷に、わたしが選ばなかった人生のことも諦めたいのに、わたしは欲張りだから、独身でいた自分にはもう戻ることができないと思ってしまって、でも、結婚した自分のことも気に入っていて。へんなかおになる。


8月の「日記の練習」は9月はじめに公開予定です。

タイトルデザイン:ナカムラグラフ

「日記の練習」序文

プロフィール
くどうれいん

作家。1994年生まれ。著書にエッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)、『虎のたましい人魚の涙』(講談社)、絵本『あんまりすてきだったから』(ほるぷ出版)など。初の中編小説『氷柱の声』で第165回芥川賞候補に。現在講談社「群像」にてエッセイ「日日是目分量」、小説新潮にてエッセイ「くどうのいどう」連載中。2作目の食エッセイ集『桃を煮るひと』が発売中

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